眠くて、それに空腹だった。
着なれない上等のコートは、腕も肩も動かしづらく首のところがちくちくした。
ほぼ垂直になるほどつられた右腕が痛かった。手を繋いだ女の香水の匂いでこめかみがうずいていた。
外は時間がとまったように静まりかえり、闇のなかを絡み合った雪の結晶がゆっくりと舞っている。
私はそれを窓の内側から見ていた。その場所はひどく薄暗く、暖かかった。ところどころに置かれた骨董品めいた、たくさんの種類のランプが狭い空間を照らしている。麝香の匂いが立ちこめていた。
「汽車が来るまで待たせてもらいましょうね」
香水女はそう言うとその場に私を残し、部屋の奥に入って行った。
腕を下ろせたのにほっとして、私はあたりを見回した。板張りの床は人ひとり通れるだけの空間を保ったまま、いたるところ、雑多なアンティークで埋め尽くされていた。
薄汚れたランプや煤けたフランス人形、足のところに豪奢な細工が施された机に重ねられた大きさの揃わない本。自分の背丈ほどもある金箔の額縁に入った絵画からは、今塗られたばかりのような油絵の具の匂いがしていた。
部屋の奥から、香水女ともうひとり、かすれた老人の声が聞こえている。何が面白いのか、甲高い笑い声がときどき混じる。
記憶の中で、良家のお坊ちゃん然とした半ズボンから突き出た二本の足は、ひどくか細くて、生白く、そして頼りない。
恐る恐る一歩、二歩と部屋の中を進むと、まるでその部屋のひとつの家具のように動かず椅子に座っていた女と目が合った。
真っ黒な服を着ているせいか、ひどく輪郭が曖昧だった。色白の顔だけが印象的で、髪も、腕も、足も、ほかの部分は薄暗い部屋に見事に同化している。蝋人形のような白い顔の中で、くっきりとひかれた赤だけが際立っていて、そこから目が離せなかった。
女は静かに笑って頷くと、私に向かいの椅子に座るよう手で示した。横にあった小さなスタンドの上に乗った銀のポットから、注ぎ入れたばかりのココアを私に差し出す。
女は戸惑う私になんの頓着もなく、静かに自分のカップを持ち上げ、自分の飲み物を飲んでいる。
おっかなびっくり口をつけると、ココアは舌に痺れるほど熱く、甘かった。自然と緊張がほどけ、私は妙にリラックスした気分で椅子にもたれ部屋の中を見回していた。
悪くない場所だった。
おそらく骨董品や絵画を主に扱う、何と形容したらよいかよく分からない、多分に店主の趣味が反映された雑貨屋なのだろう。
とても高価そうなものもあれば、子供のおもちゃのおまけのような商品も、同等の価値を与えられ、不思議な均衡を保ったままそこに置かれていた。
「この店が気にいった?」
目の前の女が不意に口を開いた。思ったよりずっと若い声だった。
驚いて何も言えない私に、女は気にせず続けた。
「ここは父が趣味でやってる店なの。変なものばかりあるけど、不思議とあたしは落ち着くわ」
私はゆっくりと頷いた。この女の、周りにいっさい気を使わない話し方を、好ましいと思った。
「これを見て」
女は腕を伸ばし、がらくたの中から、鎖のついたペンダントを差し出した。手にとるとずっしりと重い。美しい細工の入った少し大きめの金色のペンダントに、同じく金の鎖がついていた。
女は少し身を乗り出し、コンパクトを開いた。
私は促されるまま、その中を覗き込んだ。
中には小さな絵画が入っていた。
おそらく、ヨーロッパのどこかの国の、かなり高貴な身分だと思われる、まだ少女と言ってもいいくらいの若い女性が描かれていた。
薄水色のドレスをまとい、ウエストは過剰に絞り込まれ、深く開いた胸元はまだ薄く、首は白鳥のようにほっそりと長い。小さな顔を少し傾け、遠くをぼんやりと見るように立っている。高く結いあげた豊かな金色の髪が後ろに流れるように落ちていく。
ペンダントに入るほど小さな絵なのに、驚くほど精巧に描かれていた。
「王女さま?」
私は無意識に呟いていた。
「そう。王女さまね」
彼女の青い瞳は遠くの景色を見ているようで何も映していない。静かな諦観の表情が見て取れた。
「とても悲しそう」
ペンダントから目を離すと、女と目が合った。
「昔のイタリアの王女よ。大人になる前に両親を亡くして、信頼できる後見人がいなかった。城を乗っ取ろうとする大人たちと、彼女はたったひとりで戦わなくてはいけなかったの」
「どうやって?」
「狂人のふりをしたの」
「きょうじん?」
「常軌を逸脱している人のこと」
女の言った言葉の意味は分からなかったが、私は頷いた。意味は分からなくても言いたいことは分かった気がしたからだ。
「でも、本当に狂った人間は理性を失った人間のことじゃないわ。狂人っていうのは、理性以外の全部を失くした人間のことよ」
女はひとりごとのように呟くと、私の手からペンダントを受け取り、そっと目を閉じた。店の奥から老人のしゃがれた声がする。話の内容まで聞き取れないが、それが私の話をしていることが直感的に分かった。嫌な感じだった。
女は目を開けて、また私を見つめた。
「あなたは誰のふりをするつもり?」
雪はまだ降り積もっていた。
漆黒に埋め尽くされた夜を切るように、汽車が入ってきた。汽車のライトに照らされた部分だけ、羽毛のような雪の結晶が、ゆっくりとダンスを踊るのが見えた。店の奥からは香水女の笑い声がまだしている。話はまだ終わりそうもない。
この汽車には乗らないのだろうか。方向が違うのだろうか。
「もうすぐ雪がやむわ」
女は音もなく立ちあがり、冷気が入らないように店の入口をそっと開けた。
外は真っ白な新雪が積もっていた。
女を見上げると、彼女はまたゆっくりと笑った。その笑い方が明らかに先ほどのものと違って、私は嬉しくなった。
彼女は膝を折って屈みこみ、先ほどからずっと手に持っていたペンダントを私の首に掛けた。今朝、私の襟足を通ったばかりのハサミの冷たい感触が思い出された。
目で、いいの、と訊いた。女は私のコートのフードを頭にかぶせた。彼女の冷たい手が私の頬をかすった。
「あなたが女の子だってこと、本当はちゃんと知ってるわ」
細く開かれた扉からするりと外に出た。雪をぎゅっと踏んだ感触を確かめると、もう一度も振り返らなかった。彼女がまだ私の背中を見つめていてくれることに、ちゃんと気づいていた。了