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流言飛語:うさぎ

このエッセイを書いているのは三月九日の深夜二時四十九分。規則的に飲んでいる精神安定剤も切れて躁転した状態で書いている。

 

 私は「マルチクリエイター」という言葉に弱い。本業以外のことを本業同様にしている人がうらやましいし、自分がそうなりたいと思っている。自分は会社に勤めて小説も書いているが、小説を本業にして小説以外の分野にも手を出して成功をおさめたいと思っている。

 「マルチクリエイター」といってみなさんはだれを想像するでしょうか? 私はいとうせいこうをはじめに想像する。私の場合小説家としてのいとうせいこうから入ってはいない。いとうせいこうが台本を提供した自分の好きな劇団のナイロン100℃の公演『絶望居士のためのコント』を友人から借りたビデオでみたのが最初である。

 ナイロン100℃という劇団の脚本演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチという人もマルチな人で、八十年代のインディーズバンド全盛のときにナゴムレーベルを立ち上げ、大槻ケンヂの筋肉少女帯やピエール瀧と石野卓球の電気グルーヴなど、今でも有名な人たちが所属していた。もちろん、ケラリーノ・サンドロヴィッチもケラという名前を使い有頂天や空手バカボンというバンドを結成してボーカルをしていた。そして、そのころにナイロン100℃の前身である劇団健康で脚本演出をしていた。ケラ(もうここでは普段自分が使う名前に変える)の作風はナンセンスコメディ(ケラ曰く「シリアスコメディ」)で、たとえていうならカフカやベケットのような不条理なお芝居であった。(どんどん頭の中が加速していく)私はケラの書くコントの様な不条理な世界が好きだった。そして、ビデオの話に戻るが、そのナイロンの公演にいとうせいこうの昔に書いた『幻覚カプセル』の中のコントを上演した。このときの公演で他に脚本を提供したのは別役実とブルースカイだった。全員がナンセンスや不条理といわれる人たちでシュール(あんまりお笑いの言葉でこういうことをいうのは好きではないが)でわけがわからなく、それが逆におもしろいこともあった。

 「ナンセンスなコントを書く人、いとうせいこう」が私の出会いであった。そして、十年くらい前に深夜番組でやっていた「虎ノ門」(たぶん、東京ローカル)でMCをしていたいとうせいこうをみることになる。司会がうまい。コメントやツッコミが的確で大笑いするときもあった。そして、そのときはまだ小説を断筆していることは知らなかった。それから、シティボーイズのコントを何本かみた。シティボーイズのことはもう説明を省きたい。大竹まこと、斉木しげる、きたろうの三人組。そして、公演によってはいとうせいこうや中村有志が参加したし、近年では戌井昭人も参加していた。そのときも鋭いツッコミやアドリブなんかもかましてこの人はすごいなと思った。

 そして、二年前の『文藝』で『想像ラジオ』を書いた時のインタビューを読んでこの人は小説家だったんだとわかった。どうせいとうせいこうなら小説も書けるだろうと思っていたけど、小説を書くことを本業(といっていいのだろうか)だったのかと驚いた。それから私はいとうせいこうの小説を読み、サイン会や奥泉光とやっている文芸漫談にも足を運んだ。ファンというより、ストーカーに近いかもしれないが、いとうせいこうのなにが好きかといえば、マルチなところだ。舞台、小説にヒップホップ(日本語ラップの第一人者らしい)など本当になんでもできる。もう、できないことを探すのが難しいんではないかと思ってしまう。

 私はそういう万能型の人間になりたいし、そういう人に憧れる。

 本谷有希子もそうだ。本谷は脚本家と演出家でありながら、小説を書いている。正直、世間の評価は低い方だと思うし、最近の作品を私は評価していない。でも、現代の文学からは逸脱したなにかを感じる。それの根源を調べるとある劇作家にたどりつく。松尾スズキ。劇団大人計画の主宰であり、俳優であり、映画監督であり、小説家だ。松尾スズキはマイノリティな人たちをフューチャーしながらもそれを罵倒し、貶めることもする。それはだれもがもっている野蛮な本心だ。自分と他人の差別化をすることを大きくとらえているだけのことである。本谷有希子は演劇学校の松尾スズキのゼミにいてそこで脚本を書き、松尾チルドレンと呼ばれることがある。本谷の小説や舞台でのテーマが一貫しているのは自意識ということである。自分は他人とは違う、自分だけは特別だから。そういうだれもが思う気持ちをあざ笑うような物語を書く人だ。その一貫していること、自意識というテーマに関しては私は強く惹かれる。そういう気持ちを昔も(今も?)抱いている。マルチクリエイターになりたいということが自意識過剰な部分なのかもしれない。本谷はそれを引いたところからみている。そういう冷めた視線で人間を観察していることがすごいと思うところだ。

 

 こう書いてみて自分は欲張りな人間なのだと思い知らされる。自分は小説も成功していないのに、それに以外のことにも手を出そうとしていることがものすごく反省したくなる。

 小説という表現の手段をとったのは自分から選んだことだ。戯曲を書くには劇団が必要だったり、シナリオを書くとただの台本としての機能になってしまう。自分の作りたいものを作っていきたいと思って小説を書いている。「差別化をする」という言葉をだしたが、どこかで自分は特別だからなんて思い上がったことを考えているんだと思う。今回このエッセイを書くことで自分の根源になる「万能感」が強く想いを抱いている感じがする。

 最後になるが、小説を書きたいのは自分の基礎となるものだし、自分の好きな作家はほかの分野にも優れている人間である。自分のあこがれがそこにはあって自分にできないからあこがれるのであって、そこに早くたどりつきたいと思ってしまう。そもそもこれは自分の好きな作家へのエッセイだったのに、自分を顧みるものになってしまった。でも、現在の時点で好きに文章を書けることが楽しいと思っている。

 

 

 現在、深夜三時四十七分。一時間におよぶ深夜のつぶやきみたいなことをここで終わりにしようと思う。

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