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ソメイヨシノ:小野寺那仁

 会社をやめたばかりの人間にとって桜並木を歩むという行為は、業苦の薫りをむりやりかがされるに等しい。満開のソメイヨシノなんてまったくどうでもよく思えた。むしろ花弁が目に入らぬように顔をそむけていたくらいだ。匂いが気になったのはそれが理由だったのかもしれない。 

 あのムズムズした花粉は嫌でも何かを反省せよと迫ってくる。

そういう気持ちで改めて眺めてみると川面に浮かぶ花びらも枝に咲き誇る花びらも過去に見たものとはまるで違っているのだ。春になれば新しい生活が始まりスケジュールで手帳は真っ黒になる。それが去年まで浪人したことも就職に失敗したこともなかった私には当たり前のことだった。たとえ志望した高校や大学や会社でなかったにしても気分を切り替えて新しい生活に順応していったものだ。そして桜はなんとなく人に希望を与えると勝手に思い込んでいた。

吉野山から移植された古木の根元には大小さまざまなブルーシートや茣蓙(ゴザ)が据えられていた。昼間だというのに酒の匂いがぷんぷんとして携帯のカラオケマイクからきこえてくる音が味噌や醤油の匂いと入りまじって充満していた。呑んで歌う人々は莫迦(バカ)らしくもあったが懐かしくもあった。ぽかぽかしはじめた陽気はそのまま私の気分だった。失業は必ずしも苦痛や不安であるばかりでなく弛緩であり脱力であった。そうしてぬるい気分に浸ることが失業の醍醐味であるとともにそこから抜け出せなくなる落とし穴でもあるのだが。

散歩道は由緒のある庭園から続いていた。流れに沿ったなんともいえないいい感じのカーブを形つくり、大論理学者や瞑想にふけることで乱世を忘れた高僧や数々の賢人たちもこの小川の彎曲やさらさらした水の流れを視界にとらえていたに違いなかった。この舗装されていない剥き出しになった小道を歩くのは、いつも白っぽい軽装だった翔子と一緒であったような気がする。それ以外にも用事で歩いたことはあるかもしれないが、しっかりと川筋を見ながら歩いたのは、肩を並べた翔子と一緒の時で、その後もたびたびそこを歩むと、決まって記憶とともに翔子が現われる。それはそうだ。そもそもこの道は或る大論理学者のエッセイから彼女が発掘した道であったからだ。いろいろと古代からの文献を翔子が調べているうちに、その道は各時代にわたってさまざまなエッセイに現れた。とはいえ平安朝や室町などはいにしえの言葉で綴られていてわたしなどはすぐに倦んで投げ出してしまうのだが翔子は図書館に吸い寄せられて文献をひもといていた。それが昂じて卒業論文も小道と川にまつわるものになったようであった。見せてはくれたのだが私はろくろく読みもしなかったのだった。そして「随分とまた平和な論文を書いたものだな」と嫌味とも受け取られかねない言葉を無造作に彼女に投げかける始末だった。彼女はある意味で私の悪しき性格をも理解していたからさほど気にも留めずに笑っていた。ひとつにはサークル内において私は彼女の先輩であったということが大きな要因でもある。もし同級生だったら彼女も反発していたに違いない。翔子とはもう何年も逢っていない。就職活動をするようになってからどんどん疎遠になっていった。もともと翔子と私とは淡い関係でしかなかったから強いて逢わなければならないということもなかった。それに図書館に行けば彼女は毎回同じ塔状の、ステンドグラスが嵌め込まれた喫煙室脇に座っていたから逢いたくなったらそこへ行けばいいだろうぐらいにしか私は思ってはいなかった。私はヘビースモーカーだったので必ず喫煙室に入った。混んでいるときはそこで読むこともあった。喫煙室脇の座席は副流煙が流れてきたり匂ったりするので空いていることが多かったのである。いつの季節でも翔子は決まって桜の色の服を纏っていることが多かった。年中、春めいていた。それでも同じセーターやシャツを何着も持っているのか、いつでも洗い立ての匂いに包まれていた。彼女から清潔を差し引いたら何も残らないほどに。私たちはたいていは図書館で落ち合ってろくろく本も読まずにレストランに行くことが多かった。仮に調べものをしていたとしても中途で終わらせてしまっていた。私が手持ちの金の有る時の話ではあるが。そうして月末になると私は急に金がなくなって下宿代や教科書代に困るようになると翔子から金を借りることにしていた。

翔子はうっすらと困惑した笑みを浮かべて頬を赤らめながら数万円の札を渡してくれた。

私は頭を掻きながら彼女から受け取る。もちろん数日後にはきちんと返していたのだがそういったことができる関係の女性は他にはいなくて、性的な匂いが私たちには全くないとは言い切れないものだった。

 

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ソメイヨシノ:小野寺那仁.pdf
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