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書かれなかった寓話 第二回:日居月諸

紗江からリプライが送られてきた時、陸山はどう応対したものか迷った。紗江は同じタイミングで『抱擁家族』を読んでおり、その偶然に驚いているという。それ自体はただの報告である。報告に対して返答の義務があるかといえば、ないと言わざるをえない。一番ホームに電車が来ます、というアナウンスが流れる。電車に乗る義務はあるにせよ、そのアナウンスに対して返答する義務はない。今日は雨が降ります。傘を持っていく義務はあるにせよ、天気予報士に対して返答する義務はない。『抱擁家族』を読んでいます。引き続き本をひもといていく義務はあるにせよ、その報告に対して返答する義務はない。

この女とてそれはわかっているだろう、それを踏まえた上で、あえて自分に声を掛けてきた。『抱擁家族』を読んでいるという報告のほかに、自分に対して伝えたい事があるから声を掛けてきた。『抱擁家族』はあくまできっかけに過ぎない。我々がコミュニケーションを取るためのつなぎ目に過ぎない。では、この女の伝えたい事とは一体なんだというのだろう。

陸山はしばらくツイートを眺めつつ思案を続けていた。この間のスカイプでのやり取り以来姿を見せなかったくせに、今頃になって馴れ馴れしく話しかけてくる女の魂胆を明らかにしようとした。

スカイプが密室の会話ならばツイッターは街での会話のようなものである。誰もこちらに気に留める者はないとはいえ、おおっぴらに刺々しいやり取りをしていたら目についてしまう。ゆえに、周りから身を隠すためにある程度密室で話しているような馴れ馴れしさを装う必要がある。陸山にもそれは理解できたが、従いきれるかどうかはまた別の問題だった。スカイプでの「密室」ではトゲを見せてきたのに、ツイッターでの「密室」では馴れつくような様子を見せてくるというのは、明らかに白々しい。

『抱擁家族』のツイートをしたことで陸山は自らの思考過程をさらけ出した。そこにはあけすけさがあるはずだ。一方で紗江のツイートにはそれがない。『抱擁家族』を読んでいるという報告からは、こちらからは透けて見えない裏が覗けてしまう。そうした非対称性に陸山は軽く憤りを覚えた。

しかし、ここで憤りをそのままに無視してしまっては、こちらが子供であることを証明するようなものだ。どのみち何らかの応対はしなければいけない。こうしてまた自分は紗江に釣りだされてしまう……なにかうまい手はないかと陸山は考えた。この非対称性に反撃しつつ、応答の責任は果たしているとの結果が残せる方法はないか。

陸山はスカイプを開いて状態をオンラインにした。本を読んでいる間は誰かに声を掛けられると妨げになるから、状態はいつもオフラインか、あるいは取り込み中にしている。それをオンラインにすることで、対話の窓は開いておいたとのアリバイを作り、後はそちらが話しかけてくれるかどうか決断するだけなのだと知らせておく。これならばこの女の掌に踊らされることはない。もっとも、これが紗江に見られていなければ何の意味もないのだが、その時はその時でまた別の策を講じるしかない。

まだ紗江はオンラインになっていない。果たしてツイッターのみならずスカイプにも姿を見せるのだろうか。陸山は『抱擁家族』をひもときつつ、彼女を待つことにした。部員を始めとした知人の姿もいくつか見えるが、今日は面会を断ることにする。会話が出来る状態にしているのにそれは無理筋ではないかと思われるが、目的は別にあるのだから仕方がない。

『抱擁家族』をめくる手は書籍の中程に来ている。とはいえ、まだ小島信夫独特のリズムに慣れたとは言いがたい。むしろ、作中の家族が困難を抱えるたびに、それと比例するように読解を進めるためのペダルが鈍くなっていく気がする。

外側から見ればこの家族が抱えている困難はおおまかに捉えられる。しかし、それでは取りこぼしているものがあるから内側に入ってみなくてはわからない。第一、家庭の問題が外側からわかるものだろうか。外側からのアドバイスによって家庭の問題がクリアされたとしたら、きっとそこには嘘が存在しているだろう。家庭の問題を一番理解しているのが、外側からアドバイスをくれた人であるというのはおかしなものだ。トルストイが話していた、それぞれの家族がそれぞれの不幸を有しているというのは、そういう話なのだ。

となれば、このねじれた文章を理解しなければならない。作者がこのねじれた家族を描くためにねじれた文章を選んだのと同じように、鈍さに身を置きながらページをめくらなくてはいけない。登場人物それぞれが有している気難しさをそのままに受け止めなければならない。そのすべてを外側の視線から理解してはいけない。受け止めなければいけない。それこそがきっと「抱擁」ということなのだろう。

十ページほどめくったところで、紗江がオンラインになった。

――こんばんは、お久しぶりです。

ディスプレイに映し出された文章から表情などうかがえるはずもないのだろうが、ツイッターで見せたような外面の良さが続いているように思えた。

――こちらこそ。申し訳ありませんが、あれから進展はありません。新田さんとコンタクトが取れなくて、対応に困っているという状況です。

――今日は『抱擁家族』について話したかったので大丈夫ですよ。実は、あれからマイクも用意したんです。もし良ければ通話しませんか?

体裁の良い文章の中にあけすけさが混じったのを感じた。向こうから正体を明かしてくれるらしい。大瀬良とのやりとりではもしかしたら新田のいたずらではないか、との懸念も挙がっていたので、思いの外話が簡単に進むのに拍子抜けしつつ、少しのためらいも感じたが、申し出を受けることにした。

――いいですよ、ではこちらから掛けます。

電子の呼び出し音が響いて、それが止まったかと思うと、空気が擦れる音の中から落ち着いた女性の声が聞こえてきた。

「こんばんは。こちらでは初めまして、ですね」

「そうですね。随分と落ち着いてらっしゃいますね。同年代とは思えない」

いえいえ、と軽く笑いつつ紗江は返答したが、陸山は別に御世辞を使ったつもりはない。文章から醸し出される雰囲気と、声から醸し出される雰囲気の間には少なからず違いが生まれるのが当然のはずなのだが、紗江からはそうした隔たりが全く感じ取れなかった。自分の意図するところをしっかりと言葉に込められるように、一つ一つの音を力強く発声している。すべての音が耳触りでなく、くっきりとしていて滑らかに聞き取れる。落ち着いているというのは、そういう意味も込められている。

「じゃあ早速、『抱擁家族』についてですが……」

「びっくりしたのは本当ですよ。読書だけでなく、自分の関心の持っている物を、誰かが同じタイミングで興味を示しているというのは、初めてと言っていいくらいのものでしたから」

声を聞きながら、自分は初めからこの女が本当に現実に存在する人間であると見積もっていたのに、大瀬良のせいで無駄な疑念を覚えるようになったのでは、という都合の良い考えが浮かんできた。それくらい滑舌も発音もしっかりしていて、通りの良い、自分の存在を明確に主張する声だった。

「実は僕はまだ半分ほどしか読んでいないんですよ」

「そうでしたか。では話は程々に、ということで」

「いえ、別に構いませんよ。それに、いわゆるネタバレを気にする小説ではありませんから」

気兼ねなく話してくれるように頼んだのには、相手の文学観を明らかにしておきたいという意図が含まれている。前回のチャットからは文学に対して造詣を持っていることがうかがえた。今回は、その造詣がどのような思想へと結びついているかを押さえておきたいのだ。

「けれど、どこまで話していいものか……陸山さんは冒頭の文章に目を留めていらっしゃいましたね。あれはなかなか気付かないことでした。確かに違和感はあったけれど、鈍いものですから、あそこまで結び付けていくところまでは考えなかった」

「あれは今考えると他人の考えが頭にあったという感じがしていますけどね」

「日本語のねじれが単なるねじれではなく作者固有のねじれである、それはひいては作中世界、つまり家庭の固有の問題を書くための手段となっていく、と」

「僕が小説の世界に片足を突っ込みながら思うのは、いつしか小説家は他人のために物語を書くようになってしまう、ということです。他人に説明しやすいように登場人物を行動させる。僕達は時々自分でもわけのわからない行動を取ることがあるのに、小説の登場人物は基本的に読者にとってわかりやすい行動を取り続けなければいけません」

「その点、小島信夫の登場人物の行動原理は今一つわかりづらいものですね」

「主人公の三輪俊介からしてそうです。不倫が明らかになってから、居候であるジョージと、原因をつくったようなものである家政婦を追いだしたところまでは良い。けれど、妻の時子に対する態度は複雑です。断罪するんだか、許してやるんだか、はっきりしない」

「俊介にとっては家が大事なものですからね。ひとまず家のためになることはする。だから不穏分子は取り除くし、家を塀で囲ってしまおうともする。ただ、おおまかに見ればそう取れるのだけれど、別にそれは俊介の意図ではない。家に動かされているに過ぎません。細部で見て行くと、家に従うか、俊介個人の意思で動くか、そのギャップに苦しんでいる節があります」

相手の話を受け取りながら自分なりの考えを述べ、それがしっかりと理解できるものである上に小説のエッセンスを正しく汲み上げている。謙遜はしてみせるが確かな眼力に基づいて小説を読んでいるし、ディベートの訓練も受けているようだ。ひとまずこの点に関しては信頼を置く事にして、陸山は手元の文庫本を開いた。

「だから妙なことを口走ったりする。読みますね。『どうしてもっと、時子とジョージを放っておいてもっと続けさせてやらなかったのだろう。どうせ一度やりかけたものなら、続けたっておんなじことではないか。もっと続けていたらどうであったろう。そのとき彼女は自分でも口走ったように自分から離れて行ってしまったであろう。そのときは、その一回一回は、どんなであっただろうか。そのときこれまた彼女が口走ったようにもっと、完璧な楽しみを得たにちがいない。ああ、あんな不機嫌な舌足らずな自分との交渉ではなしに、十分に味わわせてやればよかった』」

朗読しながら、改めてねじれた文章だと陸山は思った。文意は確かに理解できるが、それこそ登場人物が自身の信条をつかみかねているような文章だ。「そのときは、その一回一回は、どんなであっただろうか」、ここが特におかしい。おそらく、ジョージと時子の交わりを想像しているのだろう。だが、そんな想像が追いつくはずもなく、空想が具体的にならない限りは文章も言葉足らずになってしまう。

「一度起こってしまった不倫はもう取り返しがつかないから、破綻は逃れようがない。妻は不倫した時点で個人です、だから、いっそ個人のままに放逐してしまった方が自然だと言える」

紗江はそこで一呼吸を置いて、すこしだけ語気を強めた。

「でも妻にとってはそうではないのです、ジョージと交わってはいたけれど、本当は俊介と交わっていたつもりだった。時子は俊介を愛していたけれど、俊介が見てくれなかったから、彼女はジョージと交わらなければいけなかった」

「けれどもそれは言い訳になってしまうんでしょうね。愛していたなら、他人と交わるのは明らかにおかしい。けれど、そのおかしい行為の原因を作っていたのが俊介だから、さらに話がややこしくなる」

「その埋め合わせをするように、俊介は時子が死んでから、後妻を求める時にも、時子に似た女性を求めようとする。まあ、時子と作り上げるはずだった、理想的な家庭が作れるような女性を改めて求めるようになった、と言ったほうが正しいのですけれど」

少しばかり声が突き放すような色を帯びて、陸山には話がつかめなくなった。どうやら、ページを追いこされてしまったらしい。しかし、意見を述べあう分にはまだまだ些細なズレだった。

「最後まで俊介はギャップに苦しむんですね、家を取るか、目の前の女を取るか」

「ええ。でも、こうして語り合う分にはわかりやすい小説であるように思えるけれど、それは読み終わっているからこその話です。読んでいる間は、これはこうだ、とはハッキリと定義できない。私達が回想を通じて、あれはこういうことだった、と思うようになる認識の過程をこの小説は明らかにしてくれる。現場にあっては正しい認識なんて出来ないのだと示してくれる」

「誠実な小説ですね」

「誠実」と紗江は繰り返した。「確かに、誠実な小説ですね」

二度同じ言葉を繰り返したところには含みがあるように感じて、その含みがどこにあるか、陸山は勘づいた気になった。

「ああ、女性に対しては誠実でないかもしれません。妻を殴ったりもしますしね」

いえ、そういうことではなく、と呟いて、一呼吸が置かれた。その一呼吸の間、陸山は今更のように一通りのことを語り終えてしまったのを感じた。先日刺々しいやり取りをしたばかりなのに、今日は文学について気兼ねなく意見を交換し合えている。

「この小説は姦通を描いたものですが、その実姦通小説を批評している小説でもあります。実際、夫が姦通を前にオロオロとしているのは、それまで平然と女性へ罪悪感を訴えかけながら姦通小説を書いてきた、男性小説家へのしっぺ返しにほかなりません」

にわかに声が低くなったのを感じて、陸山は思わず身構えてしまった。問い返す声は、自ずと警戒を帯びるようになる。

「……それはどういう点で?」

「たとえば陸山さんが先程挙げた、妻がジョージともっと関係を深くしていればよかった、と思う場面。あれは一見敗北を認めて妻の自由を認めているようにも見えますが、結局のところ、責任の放棄ですね。それまで自分が妻を愛していたということの実績の放棄。その時点で彼は妻という一個の個人、つまり自分の思い通りにならない他人と対峙することを逃れようとしています。

この作品ではどこまでも妻と対峙しなければならないわけですし、だからこそ誠実だと言えるわけですが、『抱擁家族』以前の姦通小説では最初からそれを放棄しています。まず視点は大抵妻の側から描かれる。妻の罪悪感に訴えることで、なぜそうした経緯に至ってしまうのか、もしかしたら夫に責任はないのか、という問題を消去してしまう。次に大抵妻は死んでしまい、多少のエピローグが付せられる程度で、間もなく小説は終わってしまう。姦通を犯したことが罪であるかのように、そして罪が罰せられれば後は取り上げる問題はないというかのように、それこそ夫の問題は瑣末なことであると言うかのように。

『アンナ・カレーニナ』、『ボヴァリー夫人』、『或る女』、『武蔵野夫人』、自明ですよね。『抱擁家族』はその点男性である小島信夫が、それら姦通小説の類型を脱臼して、夫側に問題があるかのように書いたからこそ、ひいては男性小説家に問題があるかのように書いたからこそ、誠実と言えるのです」

陸山は挙げられた作品をすべて読み通しているわけではない。しかし、いずれも梗概を知っているくらいには有名だから、紗江の意見も理解出来た。しかし、完全に心を許して相槌を打つことは出来なかった。この女はまたあの態度を示してきた、初めてスカイプで話した時に新田の「罪状」を並べ立てたような、確かな怒りを表明しているが、その怒りがどこから来ているかわからない、恐れと言うよりも不気味さを覚えざるを得ないような、あの態度を示してきた――そんな思いが口を挟むのをためらわせ、紗江の饒舌を手助けした。

「実際小島は、『抱擁家族』執筆以前に大岡昇平の『武蔵野夫人』に対して違和感を表明しています。姦通した女の死は事故であり、責任は二〇世紀にあるとした大岡に対して、責任は作者が取るべきではないか、と提言している。要するに、作品が独自に必然性をもってしまって起こしてしまった避けられぬ事態ではなく、明らかに作者が悪意を持って女を姦通に向かわしめたのだから投げっぱなしにするなと告発したのです。もちろん、『抱擁家族』はおおっぴらなものではなく、隠された形で、あくまでも普通の姦通小説という体裁を取って為された告発でしたが。

そして、読者は普通の姦通小説として読んでしまうでしょう。時子の死は姦通を犯してしまったことに対する罰だと読んでしまうでしょう。アメリカ人が不倫相手だということ自体、罠に他なりません。敗戦という文脈を通せば、これは日本人がアメリカ人に負けて妻まで奪われるようになったのだ、という解釈をしてしまうけれど、それは妻を資産であるかのように、道具であるかのように見ている、男の視点に過ぎない。家を守るためには女は貞淑であらねばいけないのだ、貞淑でなくなってしまったら最早日本の資産ではないのだ、という家父長的な視点から見ているに過ぎない。妻が姦通したせいで家庭が何もかもダメになってしまうというのは、妻にすべての責任を被らせたい父権的な解釈に他ならないんですよ」

紗江の『抱擁家族』に対する解釈がどこまで妥当性を帯びているか、陸山には判じかねた。話は理解できるが、小説とはそのように読むようなものであるかという疑念が拭いきれないのだ。仮に妥当性があるにしても、おそらくこの女はその解釈の先にあるものを見つめている。(紗江の目を通した)小島信夫が『抱擁家族』を書くにあたって敵としたらしい何かを、彼女は見つめている。

「『抱擁家族』が発表された当初、評論家はこぞって主人公の三輪俊介を非難しました。家庭の不和の問題はすべてこの男のだらしなさにある、こんな魅力に乏しい主人公もいない、と言った具合に。けれど、それこそ読者もまた姦通小説の類型の製造に加担していたという事実の炙り出しに他ならないのです。姦通されてオロオロとしている主人公を見ることで、夫が妻を家庭に抑え込んでいるのだと告発されてしまった。妻を抑え込みきれなくなったら、ただただ孤独に震えるほかない弱い存在だと告発されてしまった。だから、非難を向けなければいけなかった。こんなものは俺ではない、と俊介という自分のネガを排除するために」

「……僕は男だから文脈からいって迂闊には口出しできないけれど、とても興味深い話だな、それは」

陸山がようやく言葉を発すると、それまで一気呵成にまくしたてていた口調が嘘のように、配慮に満ちた落ち着いた声が聞こえてきた。

「失礼しました、口を滑らせ過ぎたようです」

「いえ、とても参考になりました。小説の世界に片足を突っ込んでいる者として、肝に銘じておくべき話です。そこまで話していただけて、こちらとしては糧になることです」

実際、これだけ話してくれたことで、相手の全容がわずかばかりでも覗けてくるような気がした。同時に、これまで小説を読む中で自分にとって都合の良い部分しか読んでこなかったのではないかという疑念も出てきた。紗江が『抱擁家族』をダシにするような読み方をしているというのなら、こちらは小説が純粋なものであるかのように扱っているのではないか。小説は純粋なものであってこちらの望み通りに読んではまずいのだ、と思うことで、小説と自分の間に距離を置く。そうすれば確かに客観的に読めるようになるのだろう。しかし、客観的な態度というのは、他人事と決めつける傍観的な態度に近しくもある。自分はあくまで作品の世界で起こる事件とは無関係であって、そこに関与することはない。小説に脅かされることもなければ、小説に価値観を揺るがされることもない。

いや、そうではなく本来小説は我々の心に食い込んでくるべきものなのだ、と紗江は主張したいのだろう。そのスタンスが多少過激になっている節はあるにせよ、その声には耳を傾けなくてはならない。小説を読んで感動したという時、人は心を動かされている。自分にとって心地の良い揺り動かしを肯定するなら、自分にとって不愉快な揺り動かしをも肯定しなくてはならない。

そしてその肯定はきっと、紗江が新田に向ける怒りを理解することともつながってくるのだろう。

「一度小説の登場人物になった経験のある人の言葉は含蓄があるな」

「本人の意図とは別に、ですけれど」

と紗江は笑いながら言った。先程までの苛烈な態度は影を潜めている。これからまた苛烈な方向へと踏み込んで行くつもりだった陸山にとって、その態度は不穏さえ感じさせるものだった。顔の見えない、声だけのやり取りが、嫌な予感が作り出されるのを手助けした。

「そういえば、あれから新田さんとは会っていないのだけど、少し気になる情報は手に入れました。他の部員が新田さんの学生時代の小説を読ませてもらったそうです」

「ああ、やっぱり書いてはいたのですね」

「少し露骨な設定の小説ではあるんですが、ひとまず聞いてください。

主人公の通う高校には、見境なしに異性と関係を持とうとする女子がいました。他の男子と同じように声をかけられた主人公は、一度誘いを断るんですが、口の上手さに載せられて連絡先を交換してしまいます。とはいえ、友達くらいにはなってもいいんじゃないかと思って、主人公は彼女と交流を深めていくことになる……そんな小説なんですが、どう思いますかね?」

言い終わってから、どう思いますか、とは随分と投げやりな言葉だなと思った。陸山はこの小説を読んではおらず、あらすじを他人に聞いただけに過ぎない。実際、あらすじを聞いた段階では陸山の過去とは何ら関係のないものだと思っていた。そんな情報を差し出そうとしているのだから、尚更投げやりである。

しかし、事態がこうなったからには、この作品には何かしら作者の過去も盛り込まれているのではないか、と思えるようになった。だからこそ紗江に話してみる気になった。作者の過去を知っている紗江なら、きっと何かしらの新しい考えを引きだしてくれると期待を託す気になったのだ。

「……その小説は手元にありますか?」

「いえ、もうだいぶ前の話なので、小説が書かれたファイルは消してしまったそうです」

そうですか、と言って少し間が置かれた。

「おそらく、それは実話に基づかれた小説だと思います。事実、似たような話を私は知っています。というより、体験した、と言うべきか……」

少し留保を置くような、言い淀む口調で話されたかと思うと、いえ、きっとそう、という確信に基づいた声が聞こえてきた。

「その女子生徒は私です。と言っても、男子にひっきりなしに声をかけたなんて真似はしなかったけれど。ただ、家系が家系ですからね、噂をバラまかれた時期がありまして」

一瞬、自分の見立てが間違っていなかったと思いかけたが、陸山はまもなく現実に引き戻された。大瀬良から話を聞いた時、陸山は女子生徒を紗江に重ねて想像していた。そこにはいくらか、小説の登場人物の特権を紗江が持っているとの思いこみがあった。小説の人物は何にでもなれる。

「ああ、悪評を流されたんだね」

「けれど、噂は噂ですしね。正直、どこか得意な気になっていたところもあります。自分の容姿に慢心を抱くのを許されるわけですし、何より大伯母をなぞるような生き方をしていたわけですから」

事もなげに過去を振り返る声を、陸山は少し唖然としながら聞いていた。しかし、声だけだからこそ立ち直りも早かった。

「じゃあ、噂を新田さんも知っていたわけだ」

「知っていたというより……いえ、憶測はやめましょうか」陸山の言葉を待たずに紗江は何かを自制して、言葉をつないだ。「高校で私と新田はずっと別のクラスに割り振られていました。もうすでに、以前話したような幼馴染であることの面映ゆさは二人の間にあって、お互いを避け合いながら学校生活を送っていた。ところが、その噂が流れている頃、新田が声をかけてきたのです。こんな噂があるけど、それは本当か、と……」

そう言うと紗江は突然黙ってしまった。どうしました、と訊ねても、いえ、すこし状況を思い出しているだけで、と答えるだけで、妙に間を置いてくる。思い出すだけなら、特に苦労はないようなものだが、と思いつつ、助け船になればと思って大瀬良から聞いた話を繰り返した。

「小説では二人は妙に仲良くなっていったそうです。一触即発と言わんばかりに出会った二人が、なぜか和やかになってしまう。目を通した方は、緊張を保たないのは文学的にいかがなものか、と言っていました」

そうですか、と気のない返事をして、紗江はまた沈黙へと戻ってしまった。こうなったからには陸山は相手を好きなようにさせて、自分の疑問に取り組むことにした。女子生徒は紗江であるとわかった。ならば、新田はこの小説に出てくるのだろうか。小説では女子生徒にたぶらかされても拒み続ける男子生徒が主人公となっている。彼は童貞をそんなもので捨てるのは勘弁願いたいとしている。どうせなら童貞なりの逆襲、娼婦を娼婦にさせずアイデンティティを奪うという逆襲を目論んでいる。それが新田なのか。それとも大瀬良からは聞き取れなかった誰かが他にいるのか。それとも、「横を向いたまま」のようにまたも新田は姿を消しているのか。

空想が行き止まりに差し掛かったところで、すいません、という紗江の声が聞こえてきた。

「ここからの話はあくまで憶測と受け取ってください。私はあの噂を流したのが、新田であるとしか思えない」

衝撃的な言葉ではあったが、先程見せたような苛烈な色はなく、むしろ落ち着いている。それに誘われて、陸山も今度は温和に訊ねる事が出来た。

「それはどういう点で?」

「もちろん過去の話を現在から振り返るわけですから、無意識な脚色は混じると思ってください。私に声をかけてきた時の新田は妙に事情に通じていた。私の許に聞こえてきた噂の断片をほとんど踏まえていたし、私の知らない話も告げてきた。でも、先程話した通り、私は噂に対して自尊心をもって、むしろ受けとめようとさえしていた。彼の話す噂の数々を、それはそれで面白い、という風に笑いながら聞いていた。彼も彼で私の出自を知っていたから、いっそ噂を凌駕するほどに娼婦じみた女になったらどうだ、と笑い飛ばしていた」

その光景が浮かんでくる気がした。新田に高校の時からフィクションに対する興味があったのなら、小説家としての嗅覚があったのなら、面白がりそうな話ではある。というよりそれは、ここ一年の交流を通じて、何度か陸山に見せたような態度でもあった。

「あの時は慢心があって、噂を嫌悪していなかったけれども、客観的になってみると私のもとにやってくる話の断片には、手掛かりがあったように思います。たとえば私の出自が時に詳しく語られていたり……とはいえ、もう掘り返すには遅いでしょうが」

やけに留保を置くな、と陸山はひっかかりを感じた。たとえば初めて話した時には断言するような口調で新田の罪を詰っていた。にもかかわらず、何故今回は口ごもるように、自分にも罪があるような後ろめたさを見せながら語るのか。

「それにしても、またこれで新田さんの罪が浮かび上がってしまったな」

言葉だけを取り出してみれば藪に入った蛇をつついてしまったという悔いの色が滲んでいる。しかし、それをあえて声にしてしまったからには、相手に向かって事実を突きつけるような色を帯びてしまう。気付けば紗江に味方をして、共に陸山をなじっているような流れさえ感じ取れる。そんな陸山に対して、紗江は相槌を打たずに言葉を返し始めた。

「今回は私も迂闊でした。あの男の掌で踊らされているとも気がつかず、自尊心などとうぬぼれていたなんて」

そういうことか、と今更ながらに相手の心中を慮った。

「新田さんは、またなんでそんなことを……」そう言いかけて、陸山は無意味な問いを投げかけていることに気付いた。「いや、わかっていたら苦労はないよね」

「いえ、薄々ではありますが推測はついています。過去の原稿を掘り返すことでまた証拠が増えた気分です」

ふたたび苛烈な方向へ差し掛かっていく様子を見せたので、あえて口を挟んだ。心中は確かに察するが、かといってそれはこちらに託すべき問題ではなく、当事者同士で解決するべき問題だというのが、陸山にとって不変のスタンスだった。

「とはいっても、原稿がないからにはなんとも言いようがない。これはこちらで探しておきます。部員の手元から原稿が失われてしまったからには、もう新田さん本人に声をかけるしかないだろうから、前々からの課題にもう一つ新しい要素が積み重なったというところかな」

そう言ってから陸山は、年少の部員である雨野に原稿を見せてくれるよう頼んだ時に、新田が原稿を見せてくれないから他の部員を頼らざるを得ない、と言ったことを思い出した。もし本当に新田が原稿を見せてくれなかったら、その時は疑惑が高まってくるだろうという予感がした。

もっとも、何に対する疑惑かはわからない。新田が小説の中で自分の姿を消したと言って紗江は主張している。今回も新田の掌の上で踊らされてしまった事を悔いている。その怒りを呑みこんだとしよう。そして仮に新田が悪意をもってそれらの行為をやっていたとする。そうだとして自分には関係があるのだろうか。以前思いめぐらせたような問いをまたも陸山は繰り返していた。

「ありがとうございます。今日は一人で喋り通してしまって、申し訳ありませんでした」

「大丈夫ですよ。文芸部に所属していればいつものように繰り返しているやり取りですから」

「私は普段こんな話は出来ないから、つい……」

落ち着きを取り戻した声が聞こえてきた。もし、紗江からダイレクトメッセージが届いた時に抱いた期待が、そのままに成し遂げられていたらと陸山は思う。これだけ文学に対してこだわりを持っている人が近くにいたら、少なからぬ影響を与えてもらっていただろう……そう思いかけて、今はそうではないのか、とたしなめる声が聞こえてきた。

「では、また機会がございましたら」

と紗江が話を切り上げにかかったので、陸山もそれに応えることにした。

「ええ、また」

通話を切る電子音が聞こえてきて、ヘッドギアからは何も聞こえてこなくなった。陸山は改めて冷静になって今の状況を整理した。

確かに今、こうして新田をカスガイにしながら『抱擁家族』を語っていることでも、陸山は紗江から十分に影響を受けているだろう。たとえ彼女がtwitter文芸部に入部しなかったところで、なんら問題はない。仲間に引き入れなくても文学の話は出来るのだ。

結局のところ、自分は文学を気安く語りたいだけで、緊張感を持ちたくないのかもしれない、と我が身を振り返った。建前では緊張感を持って文学に臨むべきだと思っている。ただ、頭ではなく肉体レベルで、自分はそこまでの覚悟を出来ていないのではないか。そんな疑念が紗江によって炙り出されてしまった。ひょっとしたら、新田を守ろうとする行為も、気安く文学を語れる相手を減らしてほしくないという思いに基づいているのかもしれない。新田が腹に一物あるような人間で、いざとなったら裏切ってくるような人間であると認めたくないのかもしれない。もし認めてしまったら、そんな相手を信用していたのだと自分の情けなさが明らかにされてしまう。

ひとまず頭だけでも疑念を受け入れた時、新田は学生時代の小説においてもやはり自分を消去しているのではないか、という観念が現れてきた。噂を作った張本人が新田であるという憶測を否定するにしても、自分が多少なりとも関わった事件について、まるで他人事のように書いてしまったことに変わりはない。噂を否定せずに、馴染みのある人物を貶めるような書き方をしておいて、自分はそこに関与していないかのような態度を取る。そこまで自分の影を消そうとする理由は、最早パーソナルな部分に踏み込んでいかなければ明らかにならないのだろうか。勇気を出して真実を知る必要があるのだろうか。

突然降りかかった災難とも言える話ではあるが、ここまで進展してしまったからには事は自分の文学に対する姿勢とも関わってくる問題なのかもしれない。そうとなったら、新田が姿を現すのを待っているわけにはいかない。とにかく新田自身の口から全てを明かしてもらわなければいけない。

陸山はTwitterのサイトを開き、新田に宛ててDMを送った。

 

新田さん、少し込み入った話をしたいので、スカイプでお会いできませんか? お忙しいようでしたら、そちらから都合の良い時間を指定してください。こちらでも調整しますので。

 

〈次号に続く〉