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実存主義の新たな形式:蜜江田初朗

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■読んでもらう前に

 はじめに、何故このような哲学めいた文章をわざわざ文芸作品の中に投稿したかについて、蛇足でも説明しなければならない。

 

 本来なら、この文章はエッセイの形として書き直されるべきだった。それができてないのは一つは時間が足りなかったというのもあるが、私にとって論文形式からエッセイ口調へ変えることへの中々の困難さ、それと私の未熟さが大きい。

 良くも悪くも、「実存主義の新たな形式」は私のささやかな哲学である。それは誰か特定の思想家について注釈を与えたというシロモノでもない。もっとも、少しでも読んで頂ければ、嗜みのある方なら現代思想家の(もう亡くなっているわけだが)ジル・ドゥルーズの多大な影響によって本作品が書かれていることはかなり見抜きやすいと思う。私はもともとドゥルーズから哲学に入ったのであり、彼の地平なしには私の思考もありえない。

 「実存主義」を書いたのは1年以上前だが、当初は現代思想をはじめとする哲学者たちの注釈も加えつつの学術論文として書きあげる予定だった。しかし、完成してみれば、それは注が少ないということ以上に、私が哲学を学んでからどのような思想観を短い期間でもつくってきたかの、私なりの体系的な説明になってしまったという経緯がある。しかし、今さら文体を変えようとしても全くだめである。どちらにせよ、これは学術論文たりうるものでなく、せいぜい私の考えを押し込んだ哲学思想の類ということになる。

 

 今ブログで「複数の生の原理」というエッセイを書いている。これは「実存主義」の後続編というべきものである。「実存主義」では難解めいた文体を変えられなかったけれども、それは決してエッセイで扱える範囲ではないということを少しも意味しない。

 できれば、このうさんくさい文体に付き合っていただいて、意味を噛み砕きながら、続くエッセイへの橋渡しとして理解して頂ければ、それ以上の幸いはない。

 

 

 

   思想 実存主義の新たな形式について

 

蜜江田初郎

 

非―目的と非―方法

 生きる目的とは何か。

 あの、晴れやかではつらつとした瞬間、瞬間にして永遠、はつらつとしていて無限の心地よさ、それらを何度も味わうために、そのために人は生きているに違いない。その目的は、分かっていてもまたそうしてしまうのだ。また、極限の悦び――そう名付けよう――を味わう方法はいくつかあり、人間においては徹底して不可視的である。不可視的方法、まさに非―方法と呼びうるしかない。方法という方法なくして、しかし時にはあっという間に、時には思いがけずして、私たちは極限の悦びを手にしている。手にしているというより、思わず手に入っている。何と恩寵という概念と近似していることか。

 目的を手にするための方法など存在しない。いわば、非―方法だけがある。方法と目的は人が同時に設定するものである。非―方法には非―目的が対応している。極限の悦びは非―目的である。それは獲得されるべくしてされるものではない。生を線形化して考えてみよう。私たちは線を沿って生きている。直進の線、傾斜する線、だ円を描く線。しかしその中には、方法という方法を受けつけないある特異点が存在する。それが極限の悦びだ。同じやり方をたどっても獲得されるとは限らない。決して方法化されえない、説明することを受けつけないある飛翔。そうして特異点にたどりつくことができる。しかし長くそこにとどまることは許されない。一瞬である。その一瞬のうちに無限が含まれる。無限とは一瞬なのだ。前と後ろには、日常での時間の流れ方がある。それらは無限ではない、厳密な意味において。極限の悦びを感じる一瞬が、そうした時間を無限ではないものとして、すなわち有限として分かつ。こうして見ると、時間とは一瞬時間と有限時間の二種類があることが分かる。一瞬時間(瞬間)とは、時間の感覚が引き伸ばされた状態である。有限時間は、見かけ上は一瞬時間に従属しているといえそうである。すなわち、極限の悦びを味わう一瞬のために、他の有限時間は使われるといった具合である。しかしそれは厳密には間違っている。というのは、新たな論点となるのは、一瞬時間と有限時間は性質を異にする(全く別の)ものなのか、それとも一瞬時間とは有限時間の中から生まれたものなのであろうかということである。むしろ時間とは〈一つ〉なのではないか。もともとは〈一つ〉だったものが、何らかの契機、すなわち人間が「生きる」という重々しい宣言の下に、極限の悦びを味わう一瞬の時間と、それ以外の時間という風に間違って区分けされてしまっているのだろうか。こうしてみると、一瞬時間と有限時間の区別は偽装のものであることが分かる。

 

毛糸状の線と特異点

 ただ〈一つ〉の時間、それを〈時間〉と名付けよう。この〈時間〉は、〈一つ〉であるのに、とらえどころがない。マグマのように、どくどくと、常に形を変える。あるいは日常という名前でもいいかもしれない。私たちが目にするのはとにかく日常であるのだから。ともあれ、そうした〈時間〉の中では、とにかく一つの同じ時間が流れ方をしている、と考えるのは間違っている。直進的な時間が実際に同じ方向に流れているわけではない。そうではなくて、およそ線形的とは無縁の、ぐじゃぐじゃの、波乱に満ちて生き生きとした毛糸状の線がある。上にもしたにも左にも右にも伸びる。一つとして同じはないのだ。すべての瞬間が違う。昨日と今日と明日は別物なのだ。しかしそれでも毛糸状の線からできあがっている。毛糸状の線という概念に深くこだわる必要はない。というのも、昨日/今日/明日という区別は、一定の時間(二十四時間)を等量的に区切っているのだから、一つの毛糸がそれぞれ違ったふうに見えるのは当たり前だからである。

 そこに、あの極限の悦びがあらわれる。それらは偶然に、その瞬間と偽装されるにすぎない。偽装された特異点、それこそが瞬間時間にほかならないのだ。あるいはこうもいえるかもしれない。〈時間〉とは、特異点の宝庫であると。私たちは普段それを知らない。そして有限時間を限りなく続く無限時間(この地獄のように退屈な毎日が続くのか……)と勘違いし、〈時間〉の概念は百八十度ひっくりかえる。これこそ、悪しき無限時間(地獄の毎日)によってのみ構成された、最悪の結論である。しかし、私たちは非―方法にょり特異点、すなわち極限の悦びを味わい、そうしてさらに、それまでの時間(日々)が決して無駄でも徒労でもなかったと知る。“いい遠回りだった……。”むしろ真の方法(非―方法)とは遠回りのことなのだ。

 

有限時間、瞬間時間

 瞬間時間以外の時間は対象化される。もちろん、瞬間時間自身も対象化され、好きなだけ反復される(“あの時は最高だった……”)。対象化もしくは反復される時間そのものはまた、別の時間である。対象化される有限時間は、いわば任意に切り取り選び出されるという形で、生の目的に関連させられる。あの時ああしていたから今の自分があるのだ、とか、あの時も今となってはいい思い出だ、とかが例だ。

 

 

 

 有限時間は、〈時間〉を愛しいとみなした時に現れる。〈時間〉の中には特異点が隠されていたのであり、そこへ至る道(非―方法)も特異なものだと気づかされる。有限時間とは特異点の宝庫である。ここから〈時間〉とは特異点の凝縮なのだと結論づけることもできよう。有限時間は瞬間時間ほどの高まりはないものの、特異点へと至る道が決して無駄ではなかったと知ることによって高められる時間である。

 

3つの設定

 悪しき無限時間と対立するのは、良き無限時間である。良き無限時間とは、いつまでもそこにひたりたいという時間、すなわち特異点のことである。瞬間時間とは良き無限時間である。ここにおいては、時間は有限にして無限なのだ。

 生きる目的、それは非―目的であると一つ設定する。無目的とは、目的がそもそも存在しないということである。目的は、主体が作り上げる。非―目的はそもそも主体がたちあげることができないものであるのだが、しかし実在する。

 

 

 無目的的な生と、目的的な生とは、実質的には違うのだろうか。無目的的な生とは、生物学的な生の概念、ひいては科学一般における人間の生である。この生物学的生は、繁殖というプログラムをうちに含んでいる。目的とプログラムは違う。目的とは主体が設定するものである限りで実存的なものであるからである。プログラムは機械的である。

 

裸の時間論

 ところで、生ける現在しかないということはどういうことだろうか。これを以上の時間論に接合すると次のようになる。今しかないというのは、毛糸の型を持つ〈時間〉の方向は定まっておらず、予測不可能ということである。未来は何にも縛られていない。現在と未来は何らかのつながりはあるが、それは現在の時点では何も予見しえない(逆に言えば、その未来に進んだ時点で過去化した時点をふりかえってのみ現在と未来は関連しうる)。

 生きる現在しかないということは、履歴さえも消し飛んでしまうということだ。ここに私たちは生ける現在と毛糸状の時間構造の違いを見る。現時点が遡及されることで、線形化され、過去となる。それでは過去は不変のものなのだろうか。従属させられた時間が過去なのだろうか。絶対的過去。それは江國香織の小説に出てくるテーマである。“宝物としての過去……それは逃げもしないし、私たちはいつでも取り出せる”。この論点はさしあたりおいておこう……。

 

 

 上に述べたことは、裸の時間論である。目的思考を抜きにして時間を語っているわけで、有機的に先ほどまでの議論と接続するためには、ステージをワンランク上にあげる必要がある。

 

時間論と方法論の接合

 なぜ裸の時間論(純粋〈時間〉論)がそこまで有効でないかというと、結局、特異点の連続によって構成される〈時間〉とは、モデル形式たる無目的的生にほかならないからだ。〈時間〉、確かにそれを第四の生の形式、究極の生ということにしてしまってもいいのかもしれない。ただしそこで、第一の形式である無目的的生と究極的生を分かつ相違はよくわからないことになってしまう。この意味において、〈時間〉、裸の時間は、観念上のものにすぎない。観念上では正当性が保証されるものの、水を抜いた金魚鉢の中の金魚のように、目的思考を合流させない時間概念のみを突き詰めても仕方がない。

 時間論と方法論を接続する共通の前提思考は何か。それは、人はある時間を使って生きる目的(特異点)を果たす(たどり着く)というものである。目的思考が、時間概念と結びついてくことの現れ。先ほどの裸の時間論を擁護する人がいるだろうか。すなわち、時間は目的思考にあまりに従属しすぎだろうか。私たちは、実存主義の生の新たな展開を模索しているのだ。実存主義に足りなかったものを見つけ、すなわち構造主義の諸批判によって明らかにされた諸点を反省し、よりよい実存主義へと変わっていくために。

 

4つの生の形式

 

 生きる目的(なぜ生きるのか?)を設定・不設定問わずそれと何らかの関連を持ちながら生きることを、実存主義的生と呼ぼう。それは、「なぜ生きるのか?」を問う哲学的考察ゆえのことである。

 議論を深化させよう。実存主義的生に対立するのは無目的的生と、超目的的生かと思われる。というのも、実存主義的生は、目的を設定するというダイナミズムを求める。無目的的生は静的であり、変化がない。実存主義はいつ誤るのだろうか。過剰になった時だろうか、過剰になるとはどういうことだろうか。おそらく、この実存主義におけるダイナミスムは、一種の生のエネルギーであり、ほかに影響を与えずにはいられないのだろう。煮えたぎったマグマ。ほかへの影響とは何か。変化なきものへの影響である。ダイナミスムは波及するから、変化なき静止物(物体だけではなく、精神、出来事もこれに含まれる)は静的状態をおびやかされる。ここであの例の文句が出てくるのだ……。 “おまえの勝手な一存でほかの人々を巻き込むな‥・”。人は多様だから、何かを設定するには、ほかの何かを巻き込まざるを得ないのである。世界同時革命[1]とはこのようなものではなかったか。だから全体化に向かうのだ。本当は、巻き込みに対して寛容の精神を突き詰めるのが良のだろう。何と人は、自分の人生を充実させるにも他人を巻き込まざるを得ないのか。

 

 

 

 ダイナミスムと静的状態は相容れないのだろうか。それらを和解させるには、〈時間〉論に即したリゾーム型の無方向の生から構成すべきである。私はここで説明しかしない。したがって、例えば他人が人生を控えめに生きていて、つまり消極的生に分類されるような生き方をして、何か悲しい、そこから離してあげたいと思っても、暴力としてのダイナミスムに帰結してしまうのではないかということ以上のことは思考できない。ただもう一つ付言できる。それは、無目的生は究極的生と似て非なるものだということだ。無目的生とは悪しき無限時間を生きる。そこには喜びも悲しみもない。それは志向の生の形式ではないのだ。それなのに、人はえてして無目的生と究極的生とを取り違える。

 

究極的生

 究極的生は、連続する特異点からなる。ニーチェのいう超人とは、この常なる特異点にも耐えられる人のことではないだろうか。仏教の涅槃の境地とは、この究極的生の形式を指す。常に悦びに満ち溢れている永遠不変の無限。大事なのは、仏教は無目的的生から究極的生への飛躍を説いているということだ。しかし私の考えでは、無目的的生と究極的生にはつながりはない。究極的生を人はあまりに勘違いしている。究極的生においては、ブッダは何事にも慎ましく行動しているわけではない。彼は自分のせいに案ずるどころか、解脱のあとも人々の生の反省に尽力を注いだのだ。仏教のひとつのパラドックスはここに存在する。このパラドックスの解こそは私たちの求める解である。すなわち、解脱によってすべて救われたはずの釈尊は、なぜそのあと(布教というプロセスの中で)なおも現実に苦しんだのか? 解脱はあくまで自分の人生のための目的である。解脱はいわば第一段階なのだ(そのあと第二段階が待ち受けていると性急に結論づけてはならない)。

 解脱は一つの目的である。個人における解脱を目指す仏教は、実存主義的生なのだ。反対に言えば、実存主義的生とは個人の範囲であるべきである。個人を社会、そして国家と接続させたヘーゲルの方法は、魅力的なものだったが、何か欠点があった。国家を充実させるためには社会を充実させねばならない。そして社会を充実させるためには個人を充実させねばならないのだ。その反対方向の運動は、私たちの考案からすると暴力とかしか名付けられない。あまりにも多くの物事を巻き込みすぎるのだ。個人の充実としての実存主義的生。こうした概念は、実存主義の批判を反省する新しい契機にもなるだろう。

 究極的生は、言わ絶えることのない涅槃、無限の連続する特異点を生きることであって、ここにおいて〈死〉とも同値である。この〈死〉についてはまた後で触れる。こうした究極的生は、よき無限ゆえに無目的的生と間違われやすい。だが両者には今のべた幾つもの隔たりがある。

 

第一 無目的的生

 第一の生の形式。無目的的生(消極的生)。悪しき無限時間たる牢屋への引力は、ほとんど悪魔的と言えるほど、絶大である。第一の生の形式に接続されるのは、第二の生の形式と第三の生の形式であるが、こうした移行は気がつくとすぐ無効化されてしまうのである。

 第一の生の形式がもう悪魔的引力は絶大で、ほとんど人はそれと闘っているといっても過言ではない。おそらくこの引力も人の精神作用である。しかしそれはあまり望まれるべきでない。私たちは善と生と充実の闘いのために思考しているのだ。悪魔への対処法も私たちは知ることになるだろう。

 

第二 目的的生

 第二の生の形式。目的的生、実存主義的生。目的(任意)を設定し、それを達成するために時間を使う生。正義、平等、公正などいろいろな目的があるが、自己が設定するということが大切である。

 第一の形式から第二の形式へ移ることを説明してみよう。目的を設定することが第二の形式へのステップになる。この際、無目的とは目的(なぜ生きるのか?)が分からないことも含む。第三の生の形式でも人は極限の悦びを忘れうるが、あの追想作用(過去を整理し対象化すること)によって目的は準的に補完される。第二の形式ではどうだろうか。目的は自己がそれに興味を持ち、力を傾ける限りにおいて任意である。目的を達成するプロセスは美しい。ダイナミスムが生まれ、人は文字通り飛翔する。

 目的が一度達成されると、それ以上努力する必要はなくなる。この努力過程を、しかし、無根拠に上段階にあげていくことは、先の私たちの考察で、暴力を生み出すことになるのだった。なぜなら、目的の性質は任意だからである。次々と目的を達成していくことには大きな快感が伴うのだろう。ここで私たちは、次のように問わなければならないのではなかろうか。すなわち、ある目的を達成することは、確かに前進ではあるが、小さな前進にすぎないのではないか、と。大きな前進だと思うのは、感傷であり、もっと言ってしまえば自己に対する思い上がりに過ぎない。ヘーゲル的段階論に沿って個人から社会へ、社会から国家へと観念上進むとき、前者より後者のほうが大きい(したがって解決はそこで求めるべきだ)と考えるのは誤ちである。実は、階層レヴェルにおいては個人が一番大きく国家が一番小さいのだ。だから進めばあたいが大きくなるというわけではない。前進を疑うこと、これである。世界には単純なステップアップなど存在しない。

 

第一の形式と第二の形式

 前進を疑うことができれば、第一の形式と第二の形式がかなり近いことが理解できる。第二の形式から第一の形式への移行はすぐだ。それは第一のせいの形式が持つ悪魔的な引力にもよるのだろうが、というよりそれは構造上の事情によって説明できるだろう。目的は達成されてしまえばその達成状態に長くとどまり続けることはなく、ダイナミスムから静的状態への移行が起こる。目的の設定と消滅は必然的である。

 目的はなぜ上の更なる設定へのステップアップにならずに消滅するのだろうか。ここでは仏教的な「無常」の概念をさらに洗練させてみよう。目的は設定されることで確かに位相を異にするが、それは一時的なダイナミスムの働きである。一時的なダイナミスムは必ず等化する働きによって相殺されるのだ。無というわけではない、なぜなら人は目的を達成することにより達成状態に一時的でさえ映るのだから。第二の形式はここにおいても第一の形式から区別される。無常は無のアスペクトより、ある動作Aを反動作A’によって相殺するアスペクトによって説明される。これを無常の完全相殺律と呼ぼう。

 それならば、私たちは次の議論をどう進めたらいいのかがわかる。この無常の完全律から抜け出すことはあるのだろうか。第三の生の式に移ろう。

 

 

第三の形式 非―目的的生

 悪しき無限時間と、第三の生の形式が持つ〈時間〉との違いはなんだろうか。極限の悦びたる特異点は決して有限時間の最中には認識することができない。忘却と不安。生きる目的が不可視的であることは、必ずしも目的がわからないことと同値でない。しかしそれはどれだけ不安なことだろう。こう考えただけでも、いかに第一の生の形式の引力が絶大かがわかる。不安を払拭するものは、追憶によって対象化された有限時間と瞬間時間の確実さである。ただ、過去があったからといって自身oneselfが保証されるわけではない。遺産でもないし、人は過去の奴隷でもないからだ。

 生ける現在の教えは、ここにおいて現れる。生ける現在とは必ずしも結論ではないが、しかし発点だ。どういうことか。現在の中に、特異点は隠されているのだ。これが全ての始まりである。特異点は隠されたものとしてある。

 有限時間と瞬間時間は、性質を異にするものではない。ただ追憶作用のグラデーションが異なるのみである。対象化はこの意味で偽装なのである。ともあれ、特異点は〈時間〉の線から生まれるものだったのだ。特異点は隠されていて、その隠し場所を探す方法も皆目ないが、しかし常に発見されうるのだ。やはり〈時間〉とは特異点の宝庫だったのだ。

 ここでさらに付け加えておくべきことがらは、〈時間〉とはほかでもない、第三の生の形式のあの毛糸状の線と同じ構造なのだ。〈時間〉はリゾーム的な時間であり、第三の生の形式とはリゾーム的空間である。時間も空間も意味(=生の目的)で満たされていることに注意しなくてはならない。ここで弁証法を使うのはやめておこう。かわりに、矛盾律を受け入れるのだ。すなわち、人は時間も生きているし、空間にも生きている。時空は他ファイに内容を異にするものではない。カントから発した時間と空間の俊別[2]は、厳密すぎるとという意味においてやはり誤りだったのである。

 

リゾーム的時間、リゾーム的空間

 リゾーム的時間とリゾーム的空間が同じ境地にたどり着くためには、あと一歩でよい。というのは、第三の生の形式は、第一の生の形式と第二の生の形式の融合にほかならないからである。第三の生の形式における自由奔放に動く毛糸状の線は、どれだけ乱暴な動きに見えても、微分していけば必ずあることがわかる。自由奔放で、無目的も消滅=相殺すrつ目的も避けるこのリゾーム的線は、実はモデル化した第一の形式における線(傾き0)と第二の形式(傾き0、0∧X∧∞、∞)の繰り返しにほかならない。第三の生の形式にはすべて含まれていたのだ。ここにおいて第三の生の形式が創造され、それは私たちがはじめのほうに見た〈時間〉、すなわちリゾーム的時間の動きと同じであることが確認されるわけである。

 リゾーム的空間を考えてみよう。空間とはとりもなおさず身体性のことである[3]。人の身体は人の身体は自由自在に膨張・収縮する。コミック『バガボンド』[4]の沢庵和尚が“木を見て森を見ず”と武蔵に注意を諭すとき、または武蔵が孤高の戦いの中満天の星空を見上げるとき、彼らの身体は最高度に膨張している。彼らの心的世界はどうなっているだろうか。「心もとめず」とは心なしに見えて、限りなく広く続く世界のことである。この意味で区間は身体なのである。

 

 

 目的の生に対応する身体は、器官のある身体といえる。彼らの身体の内側、心臓や肝臓、上腕二頭筋は、一つの機能的目的(呼吸を続けること)のために動いている。人間お身体のつくりは実に素晴らしいものだ。器官ある身体においては、内部の諸器官は目的のために統合させられ有機的な働きをする。秩序だてられた世界。内部だけではない。身体の外においては、彼の握っている鉛筆やテレビ、その他興味・関心・選好・経験的判断などによって整理された物体と自己の身体が、関連づけられる。“今日も家から出て、缶コーヒーを買い、最寄りの駅についてから学校へ向かった‥・”。ベルクソンが非難する等質的空間を排除するのは難しい。しかし、そうやって有機的に身体に関係(秩序)づけられた空間は偏重的なものである。目的志向によって空間は自在に形を変えていくのだ。そこには目的に向かう統一性の矢印が見られる。全ての物体はあなたのために、所有をどうぞ。

 これに対して非―目的の生における身体(空間)はどうだろうか。そこには狂気じみた(しかし活力に満ちた)無方向性のみが存在する。空間は形を留めることがない。悲しみの後には喜びが、喜びのあとには怒りが。リゾームを圧倒的な無方向性と捉えるのもまた違う。そこには対象化される程度の、ほどよさがなければならない。縦横無尽に走る好む方向性を、ただ爽快に走り抜けるのだ。ただ、駆け抜ける。第三の生の形式の本質はこれである。

 こうして、リゾーム的空間とリゾーム的時間とが同じ構造に基づくものであることが理解できる。第三の生の形式は以上のようなものである。何が第二の形式とこれを分かつかというと、非―目的の生においては「とらわれるな」ということである。毛糸状の線はよくも悪くも勝手に進むのだから、とらわれるな、駆け抜けろ。第一の形式との相違は言うまでもない。第三の生の形式とは、あの“充実せらる身体”のことにほかならないのだから。

 

第四の生の形式、結論

 最後に、第四の生の形式。究極の生。私たちはあまりここで説明を必要とはしないだろう。なぜなら、先にも述べたように、究極の生は絶対的死を意味するからだ。安易に良き死といったが、私たちにはこの良き死と第三の生の形式の優劣関係が本当に正しいのかわからない。第三の生の形式は躍動に満ちた生だが、第四の形式においては一切のものが停止してしまっているからだ――。ほとんど無限に極限の悦びが反復され、しかも異なったふうに生起され、それゆえにばかばかしいと言えるほどまでに無表情となる。死の表情。主体は、これに耐えうるのか分からない。

 そのため、第四の生の形式は観念論上のものに置き換えられる。私たちは言葉でこの純粋な状態を記述することに困難を覚える。ところで究極の生を観念論から救うためには、第三の形式から第四の形式への出口を開いてやりさえすればよい。第三の形式から第四の形式への移行あるいはその逆は、速い仕方でなされる。ある意味においては、第三の形式が極まったものが究極の生であるから。いずれにしても、私たちは第三の形式と第四の形式を峻別する必要はそこまでないように思われる。

 

 私たちは、第一の生のから第四の生の形式まで概観した。

いずれからいずれへの移行においても、単純な対立や移行などはないことが理解されるだろう。四つの生の形式はそれぞれに独立の内容を持ち、有機的な仕方で関係し合っている。私たちは、第三の形式が最も満足したやり方だと思えるだろう。そこにおいては、生は有限時間と瞬間時間(特異点)に分かたれ、特別な仕方において関連し合っている。人は決して極限の悦びに従属するのではない、しかし人はそれのために生きる。そこで有限とも無限ともつかぬあの境地に入り、空間と時間と自己とが一体になるのを感じるのだ。生は無方向的=無規定的であり、奥底からほとばしる生命のかたまりの動きと並行しているのが分かるだろう。

 

(了)

 

 

主な参考文献

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』

――『千のプラトー』

柄谷行人『世界史の構造』

――『トランスクリティーク』

――『世界共和国へ』

中沢新一『カイエ・ソバージュ』

東浩紀『動物化するポストモダン』

――『存在論的、郵便的』

アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられるものについての試論』

手塚治虫『ブッダ』全八巻



[1] 柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』(2006、岩波書店)終章、そして『世界史の構造』(2010,岩波書店)pp378-82,442-65などにおいて詳しく述べられている。

[2] イマヌエル・カント『純粋理性批判 上』()、或いはそのカントの議論の簡単な説明書として、

[3] 鷲田清一『悲鳴をあげる身体』(1998,PHP研究所)の中では、次のような議論がなされる。人々が市井の図書館を利用していて、ある人が使ういつもの場所が他人に先取りされてしまっている場合、その人は何となく気まずい思いをする。この時鷲田は、お互いの身体領域がいわば皮膚をかこう部分から、相互侵食して、テーブルの領域まで伸び、そこでテリトリーを奪い合うように火花を散らしている、といった議論である。この意味において、身体は皮膚を超え、伸びうる。

[4] 井上雄彦『バガボンド』(1999-,講談社)20132月現在全34