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感じれば、自然に言葉は:新嶋樹

 

 ちっとも集中しない読者である。

 本を開くとしよう。一行、二行と読むだけでもう本を閉じようかな、という気分になっている。二ページ、三ページと読み進めていくと、本が重たく感じられてくる。腕が疲れる、肩がこる、腹減った、水飲みたい、など理由をつけて、本を閉じたくなっている。仕事の悩みが思い出されてきて、まったく活字が追えなくなってしまうこともある。あー、上司むかつく。というか、なんだってこんなややこしいものを読まにゃならんのだ。ええい、早く終われと思っている。ごめんなさい。

 でも読んでいる最中は、たぶん夢中で読んでいる。集中はしていないが、夢中ではある。これは本来の使い方とは違うかもしれないのだけれど、読書しているときの気分にぴったりくる言葉なのだ。「夢中」は「夢の中」と書く。本を開いている時間、外側ではなく、内側に意識は向かっていて、これは夢の中にいる状態に似ていると思うのである。その本によって与えられる、自分との対話の時間。意識はどんどん拡散していく。わがままなそいつらに次々引っ張られ、ゆっくり向き合うことを求められる時間。面倒くさいけれど、次の行に向かえるようになるまで、そうしていなければならない。やれやれ、読書を終えるといつも疲れきっている。

 

 たまにとんでもない一行に出会うことがある。

 そういうとき、今まで頭の中にあった細かい邪念、雑念はすべて吹っ飛ばされて、その一行でたっぷり満たされる。そこから次第に記憶がほどけて、言葉にならないイメージが次々にあらわれてくる。

 たとえば最近では、この一行にぶったまげた。

 

『なにも感じなきゃ言葉は要らないよ、感じれば、自然に言葉はあるもんだ』

 

 小川国夫の『アポロンの島』所収の「海の声」という短編の一節である。青年とバーの主人らしき老人が会話している。老人は昔語りをしながら、この言葉をつぶやくのだ。

 老人は少年だった頃、一時世話になったマダムからフランス語の本をもらって、言葉に興味をもった。あるときテラスで本を読んでいると、近くの海から灰色の雲がやってくる。

 

『俺が書物のページを風にとばされて、驚いて顔を上げたら、マダムは笑いたそうな顔で、俺を見ていた。俺はいった。

 ――マダム、雨が降る……“激しく”といおうと思ったが、この感じをなんといっていいか知らなかった。俺は

 ――マダム、雨が降る、ザーッ、といったんだ。マダムは笑い出した。彼女はドアを閉めるのも忘れて笑っていて、

 ――あんたは、本当の言葉を習ったわね、といったっけよ

 老人はこう語ったことがあった。そして彼は

 なにも感じなきゃ言葉は要らないよ、感じれば、自然に言葉はあるもんだ、といった。』(小川国夫『アポロンの島』角川文庫,194頁)

 

 引用した最後の一行を読んだ瞬間、立ち止まってしまった。老人の言葉は前段を見事に受けているような気がしたけれど、意味はすっと入っていかなかった。頭の中に長細いブロックのような異物が置かれた気分だった。けれどもこの文章は、入れ換えのきかないものとして完成しているような気がした。

 風呂で読んでいた。足を伸ばせない浴槽に浸って一時間半、ぬるくなってきたお湯を全身に感じていて、そろそろ上がりたいな、と思いながら読んでいたところだった。まずお湯の温度を忘れた。腕の疲れを忘れた。頭の中に置きっぱなしにされてしまった一行を、前段を読み返しながらなんとか理解しようと試みていた。

 少年はマダムに言わせると、そのとき本当の言葉を知ったのだ。「激しく」を言いかねて、「ザーッ」という月並な言い方をした。少年の身ぶりまで浮かぶようだった。自然の中に立っている少年の姿と、言葉とが絡まり合って、きちんとイメージを伝えてくるようだった。少年は感じたことをそのまま言葉にしたのだと思った。そんなことを考えていると、今度は自分のことに意識が拡がっていく。これが「夢中」というやつで、まるで夢の中にいるように、もう本から離れてしまって、意識の向かうままに寄り道している。

 考えたのはこんなことだった。自分は、感じたことを自然に言葉にしたことがあるか?

 答えは、まあ……ある。けれども最近はあまりない。たとえばすばらしい小説のアイデアを思いついたとする。うわあ、自分最高やん、これ書いたら受賞間違いないね、うんうんと思いながら、パソコンに向かって書き始める。すると一時間後にはもういやになっている。言葉のひとつひとつが死んだ目をしているのが分かるのだ。文は修飾過剰で、ちょんまげに帯刀した仏頂面の日本人が、カラコンしてハワイアンの格好をしているというような、ちぐはぐで表面的な、幼い感覚に支配されている。ちっとも最初のイメージに向かっていかない気がする。難しげな熟語ならいくつ連ねられても、ちっとも「感じ」を通り過ぎておらず的外れ。自分がなかなか小説を書けないのってそういうことか。浴槽で本を両手に握りしめているのも忘れてそんなことを思いながら、一方で、中学生の頃のことを思い出し始めている。

 中学生の頃、学校の課題で書かされた自己紹介の文章に、趣味を「空を見ること」と書いた。これは本当のことだ。空を見るのが好きだったのだ。

 振り向いた女の子が、

「えっ?」

 とおどろいたような声を上げたので、

「ほんとだよ、空ってきれいじゃん」と言った。

「へえ、変わってるね」

 見て見て、と周りの子を巻きこんで、ちょっとした話題になった。ひとりが、

「詩人だね!」

 と言った。詩人の意味は分からなかった。

 あのときのことを思い出す。自分はあのとき、やけに確信をもっていた。曇り空も、雨を降らす空も、夕焼け空も、しずかな昼間の空も、「きれいだ」と言葉にしないまでも感じていたんだろう。だから「空ってきれいじゃん」と言えたんだろう。それにしても「きれい」という言葉の月並なこと! きれいだ、と疑いもなく感じ、発声したあのときの自分。

 その「感じ」をマダムのように汲み取ってくれる人はいなかったけれど、あの「きれい」という言葉の確信的なつよさは、十数年経って未だに頭の中に反響しているらしい。中学生の頃の自分の口調や、クラスメイトの反応まで、すべて思い出されていた。

 それから「言葉を失う」という表現に意識は向かっていった。感動で言葉を失うって、よく言うよな。本当にすばらしい景色を前にしたとき、「すごい」とか「きれい」とかってこと以外、何も言えなくなる、あれ。オリンピックで金メダルをとった水泳選手がつぶやいた「なんも言えねえ」は、確かにある。トルコで気球に乗り、カッパドキアの奇岩を照らす初日の出を前にした瞬間が思い出される。あのときほとんど何も言っていなかった。うめきみたいなことだけで、主語があり述語があるというような、文章らしいことは何も言わなかった。飾り立てた表現などはひとつも浮かばなかった。これには困った。それまで小説を書く者らしく気球の上の風景を小説にしようと思っていたのに、日の出を目にした瞬間に、書くことなんて何もないと思ってしまったのだ。ここに自然があるんだから、「うめき」以上の言葉は余分だろうと。

 ひょっとして、と思う。小説や詩は、少年の「ザーッ」や、中学生の自分の「きれいだ」という言葉にこそ宿っているんじゃないか? 月並でタブー視される言葉が「感じる」ことを通したとき、どんな言葉よりもかがやいて見える瞬間があるのは確かだ……。

 そこまで夢中で考えたところで元の一行に戻った。異物がずいぶん溶けて、ああ確かにその通りだと思っている自分がいた。

 

 こんな体験はめったにない。すばらしい一行を読ませてくれる作家はすぐに好きになってしまう。自分はあの一行を書いてくれた小川国夫を尊敬し、愛している。氏の作品をどれほど読んだわけでもないが、そう言ってもいいだろう? ここまで書いてきて、自分はもしかするとこういう体験を求めて本を読んでいるのかもしれないと思ったのだけれど、ここで断言するのはやめておこう。読書はいつも断言の壁をやすやすとこえてくる。

 どうしてわざわざ読みづらく面倒な「文学」を相手にせずにいられないのか。その根を突きとめることはできないけれど、今日も、ちっとも集中しないくせに本を読んでいる。それは事実で、それでいいと思っている。【了】

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