選んだ作家:佐藤亜紀
佐藤亜紀の小説は、一般に難解だと言われる。
それは、本人があえて、その作品の時代設定や場所を、明確な記号や名称で説明しないからだ。加えて登場人物の内面描写もあまり行わないので、おのずと読者は襟を正して読むことになる。
一切の無駄を省いた、それでもディテールに凝った文体から、私たちは、これが、いつ、どこで起こった話なのか、自分の知識をフル動員して読み進めることになる。
ぼんやり読んだら置いていかれる。振り落とされる。ついていけなくなる。
進学塾の授業のような厳しさで、この作家は、私たちをとびきり上等な遊技場へ連れて行く。ぬるいことは言ってられない。冗談ではなく、この作家の本を読むと、ほんのり体が熱くなり、汗ばんでくるのだ。
こちらが真剣に読まなくては、と思うのは、書き手の本気度が伝わるからだ。最初から誰にも分かるようには書かれていない。それだったら、日本に溢れる他の作家の本を読めば事足りるからだ。彼女は彼女の方法で、私たちに真っ向勝負を挑んでいる。もちろん反論の余地はあるだろう。しかし、分からない、と手を上げれば、ここに書いてあるだろう、と逆に反論される可能性は多分にある。実際、書いてあるのだから。
あまりメジャーな作家ではないので、ここでこの作家の経歴と作品を簡単に紹介する。
佐藤亜紀は一九六二年新潟県生まれ。成城大学大学院修士課程(西洋美術史専攻)修了。九一年、『バルタザールの遍歴』で第三回ファンタジーノベル大賞受賞デビュー。『天使』で芸術選奨新人賞を、『ミノタウロス』で吉川英治新人賞を受賞している。
経歴から分かる通り、西洋史に精通している作家である。よって、この人の小説を読もうと思ったら、世界史の知識はある程度必要になってくるのは大前提だ。それでも必要最低限のことが分かっていればそれで十分に読める。中学校や高校で習う程度の世界史の知識でこと足りるが、第一次世界大戦でどことどこが組んだかが分からなかったり、どの帝国が倒れたかが分からなかったりすると、あっさり置いていかれることになる。もちろん、書いてはくれないからだ。
私がこの作家の出世作『天使』を初めて読んだのは、高校生の頃だったが、一度目はさっぱり分からなかった。
どうやらヨーロッパのどこかの国で、貴族に拾われた孤児の少年が、ひとりの貴公子に成長していく様子を描いているのだが、まず年代が分からないので、時代背景が分からない。現代ではないのだが、それほど昔ではない。
加えてこの作品に出てくる、ある「感覚」を持った人間の描き方が、非常に独特で回りくどい。単純に一種の超能力を持った人間たちの諜報活動を軸に話は進んでいるのだが、よくあるSF小説のように、たとえばテレパシーの部分をかぎかっこにして話したり、分かりやすく瞬間移動したりはしてくれない。彼らが何を守りたくて、何のために働いているのかが非常に見えづらいのだ。
分からない、もう少しで分かりそうだけど見えづらい。すりガラス一枚を隔てて映画を見ているような欲求不満が募る中、不意に一文が目に入ってくる。
「サラエボで皇太子が暗殺される」
一度公式の使い方を覚えると数学ががぜん楽しくなるように、この作家の作品は一度分かるととことん楽しい。特にこの『天使』という作品は、主人公のキャラクターが非常に少女漫画的ツボに入った設定なので、もうこの美少年である主人公(ちなみに作品中で主人公が美少年である、という記述は一文もない。しかし読んでいる人は十中八九で美少年設定で読んでるはず)が何をしてても楽しくなってしまうのである。
佐藤亜紀の小説は、まだ幼さの残る若い青年と、世慣れて、床上手で聞き上手の年増女、つまりいい女との情事はお約束のように盛り込まれているのだが、特にこの「天使」という作品は諜報活動の合間に女と情事しまくりである。
しかもそれがいちいちかっこよく、色気満載。ジェルジュが舞踏会に出ればため息、美女とアバンチュールを繰り返してため息、硬質で潔癖な性格を持ち、ある種の孤独を背負った主人公は、少女漫画でいけば定石で、その青年の成長記を読んでいると思えば、もう時代背景や歴史考察なんて二の次、三の次である。
プロットやキャラクタライゼーション、そしてスタイルと呼ばれる文体は、よくふたつの車輪に例えられる。つまりふたつ揃って初めて車が動くのであって、どちらか一方だけが優れていても意味をなさない。しかし、このふたつを最後まで両立させるのは、やってみると分かると思うが、実はすごく難しいことなのだ。
佐藤亜紀という作家は、非常に難しく普段馴染みのない設定をするのだが、その設定に負けないだけの強固な文体を持っている。これだけ仰々しい舞台を設定しているのだから、文体が疎かになっては途端に子供じみて貧乏くさく見えてしまうのだが、その文体のテンションや作品のトーンが最後まで一定で途切れなく進むのだ。
これだけキャラクターが立って、プロットも破たんなく進むのに、純文学誌でもお目にかかれないような洗練された文体。
硬質で歪まない、高価な宝石のような文体だが、同時にその描写の細やかさにため息をつくような女性らしい繊細な文章。ねっとりした感じはしないのにとても色気のある文体。なにより一切の無駄を削いでいるのに、一文に詰め込まれている情報量は驚くほど多い。
たとえば、「天使」と対をなす姉妹本「雲雀」よりこんな文章。
「愛し合った後、よく馴れた獣のように傍らに身を横たえているジェルジュが、彼女は好きだった。半ば閉ざされてどこにも向けられていない眼差しは、林檎の木陰のざわめきや、太陽を吸って黄色く熟したまだ熱い麦の穂や、低く飛び交う小鳥の気配を捉えている。真夏の小鳥は木漏日のように輝くのだとジェルジュは言った。囀る度に、或いは林檎の木の枝から重力に身を任せて落下しながら小さな翼を開き、羽毛に包まれた体の重みを受け止める度に、小さく、それでも見紛いようがないほど強く、瞬くのだ、と。うねりに乗るように空気の抵抗に身を任せて低く飛ぶ彼らの羽音が聞えた。ギゼラの手を取るようにして、薔薇のうっすらと埃をかぶった葉や、指を近づけただけで弾かれそうなほど青い蕾や、半ば開きかけたまま眠りにつこうとしている花に触れさせることもあった。花が息づいていることを、ギゼラははじめて知った。先端を窄めた蕾はきつく巻いた花弁の底に香を蓄えて、穏やかに呼吸していた。」
どうだろう。
温かい日の光や、林檎の匂い、小枝から飛び去った小鳥のそのはかない重さまで、読んでいるほうは感じられそうになる。落下しながら再び浮上する、野生の雲雀の一瞬の儚いほどの力強さも。
もちろんこれだけ洗練された文体を裏付けるのには、時代背景や心理描写を行わないという一種の選択も一役買っている。
おそらくモデル読者を自分の同等に設定しているのだろう。
読めない人間はそれで結構。読んでくれなくて構いません、というこの作家の姿勢が潔い。こんなに面白いのに、そこに入るにはチケットがいりますよ、と言われているようなもんである。
佐藤亜紀が、自身の本でこんなことを言っている。
「フィクションとは、作者と読者が互いの手の内をうかがいながら丁々発止とわたりあう、遊技場的戦闘の場である。」
この作家の設定しているモデル読者に、まだ自分はなりえているだろうか。
この遊技場に足を踏み入れる資格はあるか。
了