そこにスイッチがあれば押してみたくなるのが人情というものだ。
だがひとことにスイッチと言っても色々ある。
例えば身近にある物理的なものであれば、
照明のスイッチ
テレビのスイッチ
パソコンのスイッチ
エアコンのスイッチ
ラジコンのスイッチ
ラジオのスイッチ
掃除機のスイッチ
洗濯機のスイッチ
ガスコンロのスイッチ
……等々。
日常生活はスイッチで溢れている。
外に出てみよう。
例えば、デパートに足を踏み入れる。
センサーが感知して自動ドアの開閉スイッチが入る。
エスカレーターも開店前は動いていないのだから、起動するためにはスイッチを押さなければならない。その店における担当の誰かがその役目を果たす。
同じようにエレベーターの起動スイッチというのもあるだろう。
ショーウィンドウの電飾を発光させるためにもスイッチを入れる。
館内放送をする時には、マイクのスイッチをオンにする。
スピーカーのスイッチを入れる。
プレイヤーのスイッチを入れる。
再生のスイッチを押す。
そして音楽が流れ出す……
それぞれに入れたスイッチは、時が来ればいずれオフに切り替えられる。
それはスイッチの必然であり、スイッチがスイッチたる所以でもある。
入りっ放しでオフに出来ないスイッチや、そもそもオンにする事すら出来ないスイッチは、もはやスイッチとは呼ばない。
それは故障した箇所と言う。
修理する事で生計を立てている人以外には、何の価値もない代物となる。
さて以上に挙げたものは、主に物理的にオンとオフの状態を切り替えるという単純なスイッチの例だ。
オンとオフが切り替わると言うのは、状態が変化するという事。
すなわち、スイッチは変化の転換点であり、ある状態を別の状態に切り換える装置なのだ。
これを概念として考えると、言葉を応用する範囲が広がって、また違う例が考えられるようになる。
簡単に言ってしまえば、スイッチは目に見えるものばかりではない。
ある種の行動や現象が精神活動に変化を与える場合もある。
例えば朝。
目覚ましが鳴り、緩やかに、あるいは即座に眠りから覚める。
個人差はあるだろうが、一度まぶたが開かれれば、時を経てその精神は睡眠の状態から覚醒の状態へと移行する。
それは目覚めのスイッチと言える。
熱いシャワーなどを浴びれば、その流れはさらに加速されるだろう。
自分の中で、ゆっくりと、スイッチが切り替わっていく。
やあ、おはよう。
食事を済ませ、服を着がえ、家を出て、職場へ向かう。
満員電車の中で人を押しやり押しやられ、スターバックスに立ち寄って一杯のコーヒーを口にする間に、気分や思考が仕事モードへと変化する。
プライベートな人格を離れ、社会や組織の一員としての性質が、彼の行動の規範として優先的に選択されるようになる。
世耕亜夢の場合、地下鉄の階段を登りきり、地上の空気を一息吸い込んだ瞬間に、はっきりとそのスイッチが入る。
彼はいつもその場で一度、ほんの一瞬、軽く立ち止まる。
足を止める。
もちろん彼のあとにも後から後から休みなく人が階段を上がってくるので、出口を塞ぐ事のないように少しだけ前に出て、ピタリと止まり、すぐ歩き出す。そのピタリ、でスイッチが入る。
いつからその習慣が身に付いたのか、もはや覚えてはいない。
気付いたらそうなっていた。
やがて彼はその動作を朝のサイクルに取り入れる。
自覚的に足を止め、スイッチを入れる。
ピタリ。カチリ。
そのように働く回路を、彼は自分の中に作り上げる事ができたのだ。
意識的にスイッチを操作して、自分をコントロールする術としている。
しかし彼には天の邪鬼なところがある。
何をどうやってもスイッチが入らない日がある。
それは突然にやって来る。
朝、ベッドの中で目が覚めても、まぶたも口も半開きで、「さあ、起きよう」とも「ああ、起きなきゃ」とも思わない。
視界は焦点が定まらず、体もだるくて、手足をぴくりとも動かす意思が働かない。
時計だけが過ぎていく。
彼の時間は止まっている。
スイッチが云々言う前に、何者にもなれないちっぽけな有機体のかたまり、と言うしかない状態だ。
(ああ、まただ)
ぼんやりと彼はそう思う。
二年の間に一回くらいの割合で、彼はそんな風になる。
原因はよくわからない。
今まで取り立ててその後に悪影響を及ぼした例は無いので、さして重大事とも言えないだろう。
そんな日もあるさ。
普段の彼は、まあ良くも悪くも普通、と言うのが彼自身の自己評価である。
普通に働いて、普通に遊んで、普通に恋をして。
イベントを楽しんだり、酒を飲んだり、たまには旅行したり。
極めて平均的な人生をこれまで送ってきたし、これからもそうだろうと何となく思っている。
なんとなく。
何となく生きてるなあ、と彼自身も思っている。
身に降りかかる出来事に都度対処していけば、人生はそれなりに流れ、展開していくのだ。
大きな目的を達成するための人生もあるだろうし、とにかく快楽的に生きるという人生もあるだろう。
そういうのもいいと思う。
だが同時に、自分の人生だって悪くない、と彼は思う。
何かのために生きる人生とは、スイッチを押しまくる人生だ。
一度始めたら、それこそひっきりなしに休み無く、スイッチを押しまくらねばならないような事が多々あるだろう。
目に見えるスイッチも、目に見えないスイッチも。
そういう事には、莫大なエネルギーが必要だ。
スイッチを操作しまくってエネルギーを消費して、消費した分を補給して、また大量に消費する。その繰り返し。
世耕亜夢はあまりそういう事が好きではない。
のんびりとか、ゆっくりとか、そういうので良いと思っている。
そんな彼ではあるが、選択を避けられない事態がいつかやって来るだろう、という事は一応理解している。
そういう時には意を決して様々なスイッチをバタバタといじくる羽目になるのだと、おぼろげな覚悟のようなものもある。
しかし、それはそれでその時が来たらの話だ。
なべて世はこともなし。
それが基本姿勢。
それで特に不自由な思いをしたこともない。
あえてスイッチを押さない人生。
もちろん例外はある。
彼だって健全な普通の男性なので、女性のエロスのスイッチの事は毎日積極的に考えている。
それが一目で見分けのつくものならば、いつでもすぐにでも押し込んでしまいたい、と思っている。
一度で良いから派手に羽目を外してみたい、と思うこともある。
相手のスイッチを押して、自分のスイッチを押されて、イヤンバカンほれほれえへへ、そういう風に組んず解れつ。
体にはいろんなスイッチがある。
人によってスイッチの場所や機能が違っていたりする。
それを探すのは面白い。楽しい。
だからこそ、試してみたくなる。
さて、世耕亜夢はここまでに述べてきたような事をおよそ〇・五秒くらいの間にざっくりと考えた。半ば無意識的な思考。突発的な夢想。
(スイッチだ)
その言葉が彼の脳裡に浮かんだ時、彼は様々な他愛の無い徒然事を想起したのだ。
彼にはスイッチが見えている。
それは突然現れたのだ。
彼に背中を向ける彼女の首筋に。
何らかの変化があって突然そこに出現したのか、それともずっとそこにあったものが急に見えるようになったのか、彼には判断がつかない。いや、そのような可能性を思いつきもしない。
おかしな事だ。
普通はこんな場所にスイッチなんか無い。
首筋に現れたスイッチ。
壁に取り付けられた照明のスイッチのような形をしている。
彼は今、そのスイッチに魅入られている。
そこを押せば何かが起きるという事が、彼には分かる。
ただの勘だが、確信を持ってそうだと言える。
そういう瞬間が、どんな人生にも一度や二度くらいはあるものだ。
それが今、彼に巡ってきただけの事。
そこにスイッチがあれば押してみたくなるのが人情というものだ。
反射的に、彼は押してみたくなる。
だが次の瞬間、彼は躊躇する。
(これ、ホントに押しちゃっていいのか?)
彼が今目の前にしているのは、迂闊に勢いや欲望願望にまかせて押せるような類のスイッチではないような、妙な勘が働いた。
それはスイッチ以前と以後を、物理的な意味でも精神的な意味でも、はっきりと切り分けてしまうもので、一度前に進めばもう戻れない。
彼女とはまだ一度もしてないし、男女としてはまだ微妙な距離感にあると彼は思い込んでいた。
しかし彼女は会話の途中でおもむろに、彼に背中を向けたのだ。
そして両肩の向こうに隠れた髪の隙間から覗く首筋に、彼はスイッチを見つけてしまう。
見た目には、それはあまりにも甘美である。
彼に推測できるのは、恐らくこれはエロスと連動しているだろうということだ。
だがあまりにも唐突すぎた。
流れとしては不自然だ。
発見した、と言うより、見せつけられた、と言う風に思えてきたのだ。
そもそもこれは一体どういうスイッチなのか。
彼女とスイッチの関連性はどのようなものなのか。
可能性を考える。
① スイッチの効果が彼女の自我よりも優位に立つ場合。
これは彼女の精神状態を変化させることを可能にするスイッチであると仮定できる。つまり、このスイッチを押せば彼女の意思とは関係なく効果が発揮されるということだ。
② あるいは彼女自身が押されたいと思う事によって具現化したスイッチなのか。
これはある種の信頼、親近感、彼に対する好意などが含まれ、受け止めやすいし、彼にとっては最も理想的なものになる。
③ または、さあ押せ、という罠なのか。
最もデンジャラスなのがこのパターンだ。
この場合、最悪美人局の可能性もアリだ。快楽をエサにして、もっと大きなものを吸い上げようという魂胆が隠れている。
質が悪いことに、どの場合を考えてもエロスなイメージが頭をよぎるので、正常な理性が働かない。
彼はごくごく普通の正常な、アホで単純なひとりの男なのである。
やりたいやりたいたまんねえ
無防備な背中を見せつけられて、香しいばかりの誘惑に打ち勝てる男がこの世にどれほどいるだろうか……
いやいや、そもそも③の可能性を疑うような兆しがあったか?
いやありはしない。
彼はズルズルと楽観的な予測が示す方に引き寄せられていく。
彼女には、彼を受け入れる心の準備が既に整えられているのだ、と考える。
致し方ない。それが凡庸であるということだ。彼は普通の男なのだ。
世耕亜夢はスイッチを入れた。
予想通り、めくるめくエロスの渦に飲み込まれる。
渦の吸引力は凄まじい。
彼は抗うことなく、流れに従う。
ひたすらに、肉欲の虜となる。
まるで初めからそう望んでいたように。
意識を失うまで、彼は流れの中で溺れ続けた。
その後、彼女との連絡は途絶えた。
彼は自分が何のスイッチを押したのか、まったく分かっていない。