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出来そこないのマリア:る

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 久々の登校に遅刻した十月の眩い陽光から隠れて、校門のそばの楡の木の下、途方に暮れながら煙草に火をつけた。赤というよりも薔薇のような深紅、遠くを見つめながら茫然としている俺をまるで居ないかのように通り過ぎた髪の色が、彼女から受けた最初の印象。

 教師の声は耳を通り抜けてまだ温かい大気の中に霧散し、何事にも折り合いをつけることを知らないまだけつの青いガキは周りの視線にうんざりしながら居眠りを決め込む。あれはだれだ?と聞く友人も知らないで、またぞろ昂ぶってくるいつものあの嫌な気分、今ここに自分が居ることの違和感と嫌悪とが折り重なった感情が頂点に達した時、誰にも聞こえないように立ちあがり、教室のドアまで数歩、開ける時は軽やかに、閉める時は思いきり、教師の怒号、聞こえないふり。

 ただ白っぽい廊下を数分間ぶらつきまわり、何となく気になったのはあの楡の木の下、紅い髪が気になることをもう隠しもしない、一体誰に隠すってんだ、無駄足を知って恥ずかしくなったらそれを散らすために煙草を一本取り出す。のどかに雲が風に流されてゆく。執着というものがあるとしたら、それはあの雲のようなものだと感じた、そのくせ俺は多分今日あと三度はここを訪れるだろう。

 結局再会は保健室で果たされた、味気ない筋書き、彼女が養護教諭のとなりで真っ白な紙に奇妙な木の絵を書いているのを横目に、継ぎ足したのは何気ない世間話。

 「煙草で一週間だったよ。」

 「また?というか木下君、煙草なんて吸ってるからそんな不健康な顔してるのよ。もうやめなさいよ。」

 何事にも物怖じしないことが周りの人間を俺から遠ざけていた、その異端視は心地よいものでもあったし、まるで汚物を見るような目で見られるのは羽毛で胸をくすぐられるような快感だった。

 「髪赤いね。」

 彼女は俺に一瞥くれて、にっこり笑った。

  

   2

 後になって判ったことだが、どうやら俺は彼女にどうしようもなく身分不相応なのらしい、というのも彼女の背丈は俺より六センチも高かったし、顔の作りも薔薇とペンペン草と言った具合。一本ちょうだい、と口にした矢先に黙り込んでしまう、雲が流れていくのをただぼんやりと眺めていた、お互いに特に話すべきことなど何も無い、と俺は感じていたんだろう、刑務所にいる父親、アル中の母親、背負うには幼すぎた傷や痣、暗い寝室で見つからないようにと隠した吐瀉物、毎週病院で処方される死ぬためには決定的に足りない薬剤の量、或いは何かを補うために捲り散らした書物の数々、悲劇の物語、ほんとありきたりな悲劇の物語。そんなものと引き換えに受け取る好奇の目がすぐに色あせて固くなってしまうことくらいはもう知りつくしていた、それは自分に注がれる視線よりもむしろ自分が注ぎ込む好奇の視線がすぐに失望に変わるということを嫌と言うほど、知っていたから、話すべき事柄など何もなかった。彼女も同じように考えていたのだろうか、時に物悲しい表情を浮かべるその人は俺にライトニン・ホプキンスとジョン・リー・フッカーを教えてくれた、英語で歌われたその言葉の意味は分からなかったけれど、物悲しいブルースを歌う折々に、彼女は屈託のない笑顔を綻ばせた。もう冬枯れの季節、冷たい風が枯葉をさらい二人の間を吹き抜けた。

 

   3

 それから彼女が高校を卒業するまでの数カ月は波風も立てずに過ぎ去って行った。一度沈黙の会話を長いこと交わした後は、賽の河原の積み木遊びのように二人はロックンロールとブルースについて他愛のないことを喋り続けた、俺は最後の最後にクリームが唯一白人でも立派なブルースをやっている奴等だということを彼女に認めさせた、彼女はクリームのホワイトルームを歌ってくれた、俺はギターを弾いた、普段は不感症な心臓がどこぞのアイドルの追っかけみたいに高鳴った、紅のセミロングの髪を靡かせながら、彼女はいっとうにっこりと笑った、恐ろしくきれいだった、やせ細った太陽の光の下でも、どんなに温かく大気が微笑んだだろうか、露出した首筋を優しくくすぐっただろうか、ふたりは差し詰め、二つに割れた湯のみの欠片みたいに、お互いにぴったりとはまりあった、とは言え、割れた湯のみに、もう何も注ぎ込むことはできないのだけれども。

 

   4

 風の強い日だった、体育館では卒業式が執り行われて、冷たい冬に凍りついた木々が音を立てながら新芽を拵え、大地は再びの夜明けに身を持ち上げ始めている、二人は最後の最後にへまをやらかした間抜けな奴等の財布の中身を集金した。合わせて十四万四千円それがゲームだってことは二人とも知っていた、そのくらいの金高なら彼女のからだ二回分で事足りたわけだ、そのあと音楽室のカギをこじ開けてセックスした、まず彼女は裸でピアノを弾く、ビリー・ホリデーのナンバー、それから狂ったように笑う、これはゲームだよっていう合図、そして窓から吸いこまれるようにおびき出された風が戸惑いの中でカーテンをかき揺らし、行き場を失くした陽光が窓ガラスに屈折しながらいくつもの影絵を二人の身体の表面に投げかける、その反り切った身体の絶巓に思いっきり拳を叩きつける、彼女は合計三回吐いた、俺は二回気を失った。

 するときはいつでも「縊り猫さん」と彼女を呼ぶ。その手は俺の手より大きくて、両手で簡単に俺の首をひと廻りした、しなやかな人差し指が頸動脈を遮断する、水槽の中で酸素を失った熱帯魚のように身体が自然と水面に上がって行く感覚、あと少しで、彼女に触れることが出来る、そう確信した途端に、また血液が脳内に送り込まれる、そう、彼女が手を緩めるのだ、その微妙なタイミングを彼女は一回も間違ったことは無かった、俺はもしかしたら彼女が「間違う」事を望んでいたのかもしれない。半分気を失いながら辺りを見回すと、粗大ごみかと思われるほど乱雑に、ギターやベース、スネアドラムや割れたレコードが氾濫していた、八畳一間のアパート、それが彼女の居場所だった。

 彼女は三十路を過ぎた男と暮らしていた、もちろん父親なんかでは無かった、俺はそいつが居ない隙を見計らっては、彼女とこの暴力を楽しんだ。元気が無い時はリタリンをやった、これも彼女のパトロンが彼女のために用意したものだった。二人は深い闇の中で音の無い暴力を互いに吐き出しては眠った。

 ある夜、彼女が料理をして、二人で食べている間に一度だけ「二人で暮らそう」と言いかけたことがあった。彼女はもう高校を卒業して、ファッション雑誌のモデルをしながら貯金をしていた、彼女が男と住む理由なんて一つも無いように思われた、けれどもずっと押し黙ったまま、それはもう夏も近いというのに気の抜けるほど涼しい夜に、俺は十八歳になっていて、近くの工場に個人的なコネで就職を決めて、二日に一回は高校に行って、二日に一回は彼女と楽器を弾いたりセックスをしたり。二人とも知っていた、過去や未来の話をすることになんの意味も無いことくらい、だから将来のことが頭に浮かんでも黙るしかなかった。この時初めて彼女が何故貯金をしているのか気になった。だけどそんな問いをした途端に、彼女の存在が果てしなく遠くなってしまうことを知っていた。もし彼女の方から問いかけられたらどうだろうか、俺はきっと信じられないくらいあっさりと彼女を軽蔑するのではないか。

 

   5

 彼女の怯えた声が電話機の通して伝わった、雨の中を走った、彼女の「居場所」には救急車が止まっていた、雨は激しく降って、俺は彼女が救急車に急ぎ足で乗り込むところを見つめていた、声はかけられなかった、どんなに叫んでもこの激しい雨とサイレンにかき消されて俺の声は届かなかっただろう。

 次の日、彼女はいつも通り部屋にいた、いつもと同じように振る舞っていた、だけども表情は明らかに憔悴していた。この時初めて、俺は彼女に本当の意味で干渉した。俺は初めて彼女に本当の意味で触れようとした、初めての会話がなされた。それは昨夜、彼女が同居する男の首をいつもより少しだけ強く、そして長く絞めてしまったこと、彼はしばらく入院する必要があること、もう彼女には居場所が無いこと。

 二人はいつもよりも静かに体を重ねた、彼女の重さを感じた、彼女の涙が体につたった、静かに、静かに。そして、彼女の手をとって、自らの首にかけさせる、目を見つめる、彼女は戸惑いながら力を入れる。水面に浮かび上がるからだ、けれども彼女はすぐに手を離してしまった。俺の頬にも涙が伝った。

 そのまま二人は折り重なって、俺は彼女の呼吸を耳元で感じながら何度呪っただろうか、彼女がどうして俺に「間違い」を起こしてくれなかったのか、過去と未来とその両方を奪い去ってくれなかったのか、そして俺が彼女を愛していることを、愛されたいと望んでいることを、呪った。

 

   6

 「生まれつき、喉に棘が刺さった子供たちがいるの。」

 「それで?」

 「それでね、その子供たちは声が出せないの。」

 「可哀そうだね。」

 「しかも痛いだなんて思うことすらできないの。」

 「うん。」

 「痛みには慣れてしまえると思う?」

 「思わないけど。」

 「じゃぁどうすればいいの?」

 「誰かが棘を抜いてしまえばいいよ。」

 「そんなことしたらきっと痛いよ。」

 「じゃあどうしようもないな。」

 「そう、どうしようもないの。」

 「けど、痛くないんだったら普通と変わらないよ。」

 「なんでそう思うの?」

 「なぞなぞかなんか?」

 「違うよ。」

 「わからないよ。」

 「そう。」

 「生まれつき、喉に棘が刺さった子供が焼け野原で二人きり。」

 「ほったて小屋でも建てようか?」

 「遺骨のスープを温めようよ。」

 「そしたらたくさん雨が降るわ、言葉と嘘の雨が降るわ、私たちは壊されるわ。ねえ、その子供たちが大欠伸をしたらどうなると思う?。」

 「わからないよ。」

 「きっと世界は終わってしまうわ。」

 「ねえマリア、俺は君を愛している、それだけじゃ駄目なの?」

 「私も君を愛しているよ。」

 「それなら。」

 「でもそれはまやかしだから。」

 

   7

 灰色の季節に、彼女が出会った頃のような笑顔を見せて俺に語った言葉をもう余り覚えてはいない。ただひとつだけ印象に残っているのは彼女がいたずらっぽい笑顔を見せて、「君はきっと浮気するだろうな」とつぶやいたことだった、もちろんそれはいつものゲームのことだと思った、最後のゲーム、俺は彼女の心の奥底を見透かしたようにせせら笑って、「多分ね」と。空港まで送ることはしなかった、自分だけの感傷に浸りたかった、そしてそんな感傷はまやかしに過ぎないと言った彼女をひとしきり罵った挙句に、彼女の言っていたことは正しかったと急に笑いがこみ上げて来て、狂ったみたいに転げ回った。

 

   8

 働いていた工場を一カ月でやめた俺に残されたものなど何もなかった、何もないことが俺を心の平安へと誘い、毎日土偶のように眠り、カバのように色の無い食物を摂取して、糞尿を排泄した、そうだな、まだ生まれていない幼児のように。ただ横になっているだけで、皮膚と服の生地がこすれるのが心地よく、まるで幸福のオレンジ色の液体にひたされているみたいに夢の中で幾つもの夜を、目覚めることのない夢のその闇の中を泳ぎつづけた。俺が隣に寝ている女の手をとって首に回させ、そいつはうろたえながら、力を入れる術をしらないのは当然のことで、その無意識の行為に気付いた時、この終わりのない夜に終止符が打たれなかったことが俺を震撼させ、喜ばせ、よりいっそう深い眠りの中に墜落した、

 そのまま靄のなかで、数年が経ち、もうこのまま朽ちてゆくことの安堵、まやかしの生の中で、何者にもなれないことを肯いながら、嘲笑を浮かべ、古い城壁のように風にばらばらにされるのを待つばかりというのも悪くは無い。さすがに退屈したのだろうか、俺はいつの間にか大学に通っていて、講義室ではランボーやボードレール等の偉大な詩人を随分と卑屈な態度で褒めあげていたものだ、そういうのも悪くは無いなと思った。湿っぽい話はこれくらいにしようじゃないか。悪くは無い、大きく間違ってはいたけど。

 

   9

 オリオンが午前零時に空高く舞い上がる季節に、俺は君の姿を認めたんだ、どことなくやせ細った腕を大袈裟に揺らしながら銀杏並木を横切って行く君の姿に昔の朗らかに笑うあの笑顔の欠片すら見つけることは出来なかったよ、マリア、夢遊病者のように虚ろな目は果てしのない遠くを見つめて、手に持った赤い布切れが言い得ぬほどむなしく何度も山から吹き下ろす冷気にはためいた。君を呼びとめて何かを言いたかった、出来ることならば殴ってやりたかった、それ以上に殴られたかった。あの頃二人きり、全てが燃え尽くされた焦土で交わされた千の守られることのない約束が雨になり、今になってようやく降り注ぐこの灰に埋もれた視界に、永遠なんてなかった、君が消えていった病棟はとてつもなく巨大で俺を圧倒してみせた。

 「生まれつき喉に棘が刺さった子供たちが大欠伸をする時、きっと世界は終わってしまう」と、あの時君は言ったんだった、どんな気持ちで君がそう言ったかなんて俺には全く想像できなかった、だから帰りに寄り道して剃刀の刃を買った。真夜中に流し台の前で恐怖に震えながらその刃を頸部にあてた、少しためらった、血が滲んだ、剃刀を落とした、鏡の前で、嘘っぽい色の血を首に滴らせた男が、視線を失くして立ちつくしていた。それが君の間違いでは無く、俺の間違いだったと言うことだけが痛いくらいに喉を絞めつけていた。