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劣情に惑う剣:常磐 誠

 この俺が一目惚れなど、するわけがない。そう思っていた。

 一目惚れという論理性の欠片もない行為、それは俗に言うバカどもがするようなものであって、それが自身に関わってくるなどとは、一切、それこそ微塵も思っていなかった。

 そんな自分が、一目惚れを実際にしてしまったこと。ただそのことだけに剱人は驚きを隠せなかった。そんな論理性のない行為に身を窶してしまった自分自身に対して。

 

 水を飲むついでに頭から水を被る。今日は暑い。陽射しも、道場も蒸し暑くて敵わない。そして、それ以上にどうにも上手くいかない。焦りというのか、苛立つ気持ちに任せ、髪に纏わり付く水滴を払い除ける。

「……くそっ!」

 一人毒づきながら手拭いを頭に巻き付ける。打ち込みが遅すぎるか、それとも単純であるとでもいうのか。傍で見ていた真彦の奴は何も言わない。それは当然のことだ。あんなバカに、俺の剣の何がわかるというのか。

 剱人はただただ腹立たしかった。悠も含め三人で順繰りに行う乱取りに、上手く勝ちを拾えない。今日一日だけなら、それはそれで良い。今日は調子が悪い。その一言でごまかしがきく。現に、自分の不調を実感し始めたその一日目にはその言葉が自分の口から出ていた。

「調子が悪い? そんなことはないよ。剱人、お前が弱くなっただけのことだよ」

 そう静かに呟かれた悠の声が、頭の中でグルグル廻る。あぁ、イラつく。

 剱人の中で廻る言葉、自分を打つ悠の竹刀。防具越しとはいえ、体を斬りつけられるような、打ち据えられる一撃の重み。痛み。

 盲目。体格も自分に劣る。そんな体から、でも確かな精神から繰り出される、寸分の狂いもない一太刀。

 

 自分もそうだと思っていた。確かに思っていたのだ。斬り結ぶ姿勢は違えども、自分も悠と――そしてあのバカも含め――同じで、寸分も狂うことのない太刀筋と、精神を持っていると。……信じていたのだ。確かに。

 だがそのところ実際、自分はこうして情けなく打ち据えられ、こうして休憩に入ってすぐに水浴びする羽目になっている。何が高尚な精神か。何が狂いのない太刀筋か。馬鹿馬鹿しい。実に馬鹿馬鹿しいことだ。……何より、そうして叶わない目標を前に、あの葡萄は酸っぱい、と心の中でくだを巻く自分が、一番馬鹿馬鹿しいのだ。……わかっていた。そこに気が付いていない訳じゃない。気づかずに他を卑下するほど、自分は愚かじゃないし、ガキでもない。剱人は、そんな風に思いながら踵を返し、そこにいた真彦と目が合ってしまう。そして口をつく言葉は、何だよ。何か言いたいことでもあんのかよ。腹立たしい気持ちをそのまま、真彦にぶつけるようにした荒く、幼い言葉だった。

 だが、真彦の返事は剱人にとっては意外だった。

「まだ何も言ってねえだろうがよ。それに、俺は何も言うつもりはねえ。……俺は、そういうことに口は出さないって決めてんだ」

 意外、と思っておきながら、剱人はその発言を自然だとも思った。当たり前のことだと思った。それは最初からそうであるはずなのに、そんな風に思うこと自体が、自分を思う以上に焦らせた。

「悠は……いや、何でもねえや」

 そう口を濁す真彦に対して、剱人は自分でも口汚いと思うほど露骨に舌打ちをして、そして「言うんだったら最後まで言えよ」そんな風に、またしても荒く幼い言葉を吐いていた。明らかに激しているのは自分の方だと、剱人はそれを自覚できてすらいなかった。

「目が見えない、ってのは辛いことも多いが、楽な部分もあるな。とか、そういうことを思っただけだよ。……それは目が見えないことなのか、それともそれが悠だからなのか、そこらへんはわかんねぇけどよ」

 真彦は手拭いを頭から外し、剱人が先程までそうしていたように頭から水を被っている。

 剱人からすれば、真彦がそういう風な、頭を使って考えたようなことを口にすることがいかにも不自然に思えたのだが、「はぁ? 意味わかんねぇよ」一応はそう言っておいた。

 ……当たり前のことだ。クラスどころか学校中でバカの代名詞とまで呼ばれ――日本史の授業で清水寺のことをしみずでらと大声で答えてクラス中の大爆笑を誘ったのは記憶に新しい――指を指される男が、学年で理系科目において1、2を争う自分にそんな難しいことを話す、その落差は理解しがたいものがある。

 だがそれと同時に剱人は真彦の言いたいことも瞬時に理解していた。そうだ。俺たちは目に見えるものにばかり惑わされ過ぎている。……他の心配事に、脳も、心も奪われ過ぎている。

 ただの一度も光を見たことのない悠に、俺の見たものの何がわかる。

 杖を突き歩く不自由な女子のその姿に、一週間というただそれだけの短い期間の内に、自由に歩くことすらも叶わなくなったその痛々しい姿を知っても、気にも留めない歯牙にもかけない悠のその態度は、明らかにその姿を見ることができなかったことに起因する。剱人はそう思わずにいられなかった。でも、その後考え直してみた時に思いなおした。そして剱人がそこに思い至った時、それ以上に思える要素はないと思った。

「悠は、……あいつ、高潔すぎんだよ」

 思わず、静かに呟いてしまっていた。それは昔からわかりきっていた。師匠の言うことも、周りの人の言うことの全てを素直に受け入れ行動できる、そんな力が、自分にも備わっていれば、良かったのに。心配事を背負っても、その剣だけを必死に振れる人間であれれば、良かったのに。

 言うつもりはなかった。……これを心の外に、口に、態度に出してしまう気持ちなんて、これっぽっちもなかったはずなのに。しまった。そう思った。

「忘れてくれ。今の」

 剱人は即座にそう口にした。だが真彦は、

「俺はそういうのに興味はない。というか、言ったろ? 俺はそういうことに口は出さないって決めてんだって」

 口をすすぎ終わり、水を止めると即座に道場へと足を向けて歩き出したのだ。「んじゃ、行ってるぞ」それだけを口にして。

 

 剱人の気持ちは収まりようがなかった。気の静めどころを剱人は持ってなどいなかった。

 高潔な悠への一方的なジェラシーだとか、真彦のバカなりの一本気だとか、そういうものとの比較などでは決してないはずなのだ。劣等感などない。

 わかってしまった。……わかってしまったのだ。結局自分はそうなのだ。明らかになったのは、自分の卑屈。己の卑怯。

 真彦が閉めた蛇口を再び開ける。叫びたい気持ちに任せ出る絶叫を、口に水を含ませ強引にごまかす。あぁ、それさえ卑怯だ。その態度こそ卑怯と何が違う。

 怒りとも憤りとも違う、鬱々とした、それでいて爆発せんとするような熱く激しい感情が剱人の胸中によぎる。

 水道の蛇口を力一杯に閉め切り、道場へと向かうしかない。逃げることを良しとする事は、できない。

 自分には。自分には。剱人はただただ自分にそう言い聞かせて、道場へと歩き出した。さぁ、仕切り直しだ。稽古だと、歩き出す。

 目から涙が一粒だけ零れ落ちたのを感じて、でも、一回立ち止まって拭ってからは、それきりだった。

 なかったことにした。打ち込まれた今までの乱取り稽古も、今の一粒零れ落ちた何かも、全部なかったことにすると決めた。

 

 弓を番え、構えるその姿が美しいと感じた。剱人がその女子生徒、田中香織に一目惚れするきっかけなどただそれだけで十分だった。

 弓道部のエース。番えているその時の凛々しい瞳。目に栄える、束ねられた長い髪の毛。美しさに惹き込まれて、そして気づいた時には呆けたようにしてじっと見詰めてしまっていた。

 それからは毎日意識してしまう。同じクラスで、席が近いのも大いに災いした。今まで教室で見ていても何とも無かったはずだというのに、その姿が目に入る度剱人の鼓動は高鳴った。

 それが自分にとって何を意味するのか、それは誰に相談するでもなく剱人自身悟ることができた。

 クラスの中ではあまり喋ることが無く、また表情も豊かと呼ぶには遠い香織は、元々の美貌と相まってミステリアスな印象を暮らすの人間達に与えており、それがまた剱人にとって非常に好感が持てる要素だった。

 うるさくて口が軽い、それこそ頭の悪く見える女性が嫌いな剱人は、己が抱くこの感情を悟った当初には自分が惚れるに相応しい女性じゃないか、などと相当な思い込みに舞い上がってすらもいた。

 ところが、その香織が突然夏の大会を前に一週間も続けて学校を休んだのだ。勿論、弓道も。担任は体調不良だ、をHRで繰り返すのみ。特別今まで親しくしていた訳でもない剱人がそれ以上踏み込んでゆくことなど到底できるはずがなかった。

 そんな一週間が過ぎた後、香織は学校には来た。右腕に杖を装着し、不自由な足を重たそうに引き摺りながら。

 初め、周囲はそれこそ心配もしたし手助けだってした。だが、元々物静かで友人もまともにいない。香織とはそんな生徒だ。口で感謝していても、本当に手助けがいるのかどうか一切わからない。その様子に堪りかねてか、一日、二日経つ頃には香織のことを気にかけ手助けするような者は消え失せた。

 剱人も当然香織の様子に心を痛めていた。本当は手助けだってしたいし、優しく声をかけ続けたい。そう思った。しかし、自分がそうし続けることを彼女が望むかどうかはわからないし、そうしているのを周囲が穿った物の見方をして――まぁ実際事実だとも言えばそうではあるが――頭の悪い言いがかりをつけられるのは不愉快だった。

 そして剱人にとって最大の関心事。杖なしに自力で立ち上がることも、その姿勢を維持することもできなくなった香織が、もうあんなにも美しい姿勢で、美しく綺麗な瞳をして弓を番えることは二度とない、というその事実を剱人は確認したくなかったし、そしてそれを香織の耳に、頭に入れさせたくなかったのだ。

 だが剱人は見てしまった。香織が本屋で手に取っていた本のタイトルを。

 弓道の本ではなかったし、たまに休み時間に読んでいた文学作品でもなかった。勿論自分がやっている剣道に関する本でもない。

 自殺の指南書だった。

 田中香織は死にたがっている。その事実だけで、剱人は面白いように普段保っていた集中も、冷静さも、全てを失ったように感じた。

 三人で順繰りに行う乱取りに、上手く勝ちを拾えない。数学の小テストでしくじったのは高校に入って初めてではなかろうか。英単語が笑えてくるほどにザルになっていた。小さな事例を挙げればキリがない。剱人はただ見ただけなのだ。偶々、高校の近くの本屋で田中香織が持っていた本を見てしまっただけなのだ。結局彼女がその本を購入するところまでは見ていない。だから買ったかどうかまではわからない。

 ただ、脇に抱えて持っていたその姿だけを見ただけなのに。

 

「何で、こんなにうまくいかねぇんだよ……」

 剱人はただただ憮然と呟いていた。

 師匠が外出している道場で行われる三人の稽古。それが終わる時刻を迎え、清掃を終えた後でも、剱人はそんなことを呟き続けていた。

「そうだね。こっちとしてはいい加減にしてほしいところだよ。正直」

 悠はそう冷静に、文字通り、冷たく、静かに言い放った。「どういう意味だよ」剱人は即座に悠の方を向いて答える。

「どういう意味も何も、そのままさ。攻めてるつもりなの? あんなにバカみたいに、何の布石も無く竹刀を大振りに振って。カウンター下さいって言っているようにしか感じられなかったし、それにそれをもう何日続けてるの? 進歩がなさすぎるんじゃない」

 悠の顔は穏やかだった。盲目だからなのか、相手の表情などを見て顔が変わることのない、そんな顔が剱人には激しく愚弄されているように感じられた。

「うっせぇな! 何様のつもりなんだよさっきから黙って聞いていれば! お前みたいに感覚だけで竹刀振ってるような奴に何がわかるってんだよ!」

 悠の穏やかな笑顔から発せられる冷静な指摘の声が、その薄く開いた、光を感じられない目が、実際には軽く見上げる形になるはずなのに、剱人には遥か高みから見下されているような感覚にさせられ、そしてそれに伴って声は激しく、大きくなっていく。なのに、

「その感覚だけで振られてる竹刀に飽きもせずここ数日ずっとボカスカ打たれまくってるバカはどこの誰なの?」

 悠の態度は微塵も変わることがない。剱人が、いや、剱人以上に図体のでかい真彦が睨み付けたとしても、大声で怒鳴り、叫んでも、悠は揺るがない。その途方も無いような芯の強さが、今の剱人には恨めしくてしょうがない。感情のまま悠の胸倉を力任せに掴む。

「おい」

 今まで傍観を続けていた真彦が二人に、主に冷静な状態でいる悠に呼びかける。それに反応した悠に対して、

「あ、あの……。お疲れ様でした……」

 そうやって師匠の孫である嶌(しま)が声を遠慮がちにかけた。嶌の声に気付いた剱人は悠に伸ばしていた手を乱暴に離す。それを見た嶌が安心した様子で、

「お茶の準備をしますね。シャワー終わったら、用意しますから」

 そう笑顔で言った。

「よーやるよなぁ。嶌、お前高校受験あんだろ? 俺達の茶の準備なんざしなくても良いのになぁ」

 真彦の言葉に嶌はいいえー、気にしないで下さい。私は大丈夫ですから。と笑顔で言った。

「頑張るねぇ。嶌は。オラ、お前らも行くぞ」

 真彦が単純な感想と道場の中央で未だに睨み続けている二人への誘いを口にした直後、

「ごめん。真彦、先にシャワーとお茶休憩しててよ」

 悠は笑顔で真彦の顔を見て――見えてはいないが――言った。その後すぐに剱人を見て、

「ちょっとこのバカに教えなくちゃいけないことがあるから。……大丈夫。すぐ終わるから」

 そう口にする悠に最早笑顔は浮かんでいなかった。

 

 二人きりになった道場、剱人は悠に聞く。悠の発言の直後、嶌が分かりやすく動揺して、すぐにでも二人の間に入ろうとしたが真彦がそれを許さなかった。そのまま真彦に連れて行かれる格好で嶌は道場を後にした。

「わかんない? ……へぇ。剱人は弱くなった上に頭も悪くなったの?」

 悠はまた先ほどのように目を薄く開いた癪に障る笑顔で言ってのけてくる。不愉快な笑みだと、剱人は何度でも思う。悠のいつもの手口だと分かっていても、癪に障る。

「何なんだよ! 何が言いてぇんだよ! さっきからお前の言ってること、ワケわかんねぇんだよ!」

 頭をかきながら剱人は返す。汗はもう既にひいてしまったか、飛び散ることも無いように見えた。

「お前はいつもそう。昔からそうだったね。自分はあいつらとは違う。あんな愚かな人間とは違う。そんな思い込みだけで自分を特別だと思い込み続けて、楽しい?」

「……何?」

 悠の言葉に剱人の眉間に一気にしわが寄る。

「良いよね。そうやって高みに登って人を見下していれば、色々と楽だもんね。それで、田中さんのこともバッチリ見下して、気持ち良いんだろうね」

 何が言いたいんだよ! おい! 剱人がまた悠の胸倉を掴む。今度は、先ほどよりも力強く。

「この前の試験、お前は田中さんに国語と社会で負けてたね。よっぽど悔しかったろ? でも良かったじゃない。田中さんしばらくは勉強どころじゃないよ? 何てったって……」

「ふざけんじゃねぇ! お前にあの人の何が分かる!」

 剱人は悠に最後まで言葉を言わせなかった。その次にくる言葉はすぐに察しがつく。心の拠り所になっていたはずの弓がもう続けられないのだ。それがいかに苦しいことか、辛いことか。わからないはずは無いと思った。なのに悠は、平気な顔で、平気な声で、こんなことを言うのだ。剱人には目の前の友人が、到底許せない敵のように思えた。

「二度と同じようなこと言ってみろ……。ぶん殴るぞ……この、クソが……」

「…………」

 剱人の言葉の前に悠は一時無言だった。だが、

「やっぱりお前は田中さんのことをバカにしてる。見下してるよ」

 また同じ顔をして、あの、人の気持ちを見透かすような、癪に障る薄開きの目をして、悠は続けてきた。剱人はもう我慢の限界だった。これは自分ひとりを愚弄しているのではない。香織のことまでをも、愚弄している。お前の方こそ、よっぽど人をバカにしているじゃないか! その気持ちについに歯止めがきかなくなって、剱人は悠を殴るために右腕を振り上げていた。

 

 が、悠は見た目以上にケンカ慣れしている。悠は剱人の左手――ずっと胸倉を力任せに掴んでいた手――を捻りあっさりとそこから開放されると、殴りに来た剱人の右腕をかがむようにしてかわし、そして逆にその腕を取って背負い投げる。感情に絡め取られていた剱人は全くそれらに対応することができず、面白いように道場に背中から叩きつけられていた。

 その後はマウントポジション、馬乗りから顔面に数発入れられて、更には逃れようと必死にもがいたところをチョークスリーパーで気管を絞められた。

「もう止めてください! どうしてそんな殴り合ったりするんですか!」

 そう叫んで、泣きながら悠を止める嶌がいなければ、剱人は本当に絞め落とされていたかもしれなかった。

 げほっ! ……グゥエッ! 呼吸ができるようになってしばらくしても、息苦しい。涙目になっているのが自分でもわかっている剱人だったが、それでも、

「お前、何なんだよ。悠。お前は、良いよな。見えねぇもんな。だからさ、お前は知らなくてすむんだよ。田中が普段からどんだけ辛そうな顔してるか、お前目ぇ見えねぇから、知らなくてすむもんな」

 腹立たしい気持ちだけは消えず、悠に突っ掛かっていく。

「見えなくても知ってる。そしてお前が田中さんを好きだってことも。わかってる」

 悠は剱人の間に入っている嶌の向う側から、静かに答え、そして続ける。

「けどね、お前はずっと一人で延々考え込むだけ考え込んで、誰にも相談しないし愚痴も言わないし何も行動してないでしょ。それで挙句毎日気持ちの籠っていない竹刀の大振り。僕がイラつくのも少しはわかってくれた?」

 分かるかよ……。嶌を挟んで反対側、剱人の正直な気持ちだった。さっきから血の味がしている。口が切れてるな、これは。クソ、マウントポジションから容赦なしの顔面パンチとか普通するか? 間違いなく口だけでなく顔も傷ができていることだろう。遠慮なく殴りやがって、この野郎。

「剱人さん。私、ちょっと前に田中さんに図書館で勉強教えてもらったんですけど……」

 唐突な嶌の言葉に、剱人は驚いた。表情まで動き、そしてその動きの所為で、

「痛ぅ……」

 傷口が沁みた。嶌はこう続けた。クラスで優しくしてくれる人がいたら嬉しい。私は明るく出来ないから、私、根暗だから、でも、優しくされたら、嬉しいよ。香織はそう言っていた、と。

 ここで漸く剱人は悟ることができた。嶌を通して悠は香織の情報をことごとく入手していたのだ。そういえば、本屋で香織の姿を見た後、嶌の姿も見た気がする。でもまさか、二人が顔見知りだったとは思わなかった。

 ……悠。お前全部知ってやがったんだな。この、クソッタレめ!

 そう思った剱人は、そのまま脱力し、道場に倒れこんだ。ハハ……。そんな乾いた笑い声諸とも、倒れこんでしまった。

 

 次の日の教室、次の授業が移動教室なので、クラスの人間はちらほらと移動を始めていた。

 田中香織も移動を始めようとした。丁度その時、ほら。杖。そう言いながら杖を差し出したのは、

「あ、ありがとう。えっと……宮崎君」

 剱人だった。

「それと、剱人でいい」

 そう言って、香織が通りやすいように周囲の机を少しだけずらしてから、剱人は教室移動を始めた。

「あ、……ありがとう。……剱人君」

 そう呟くようにして言い放たれた言葉が剱人に伝わらなかったのは、

 

「お、ついにあいつ行動起こし始めたなぁ。悠」

「そうだねぇ」

 そんな風に小声で会話しつつニヤニヤと笑っている二人の存在が照れ臭く、さっさと教室を出て行ってしまったからだった。

―了―