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五月の同行:イコ

 大宇宙の直上から絶え間なく降り注ぐ光が、自動車の外殻にぶつかって、粘膜のように車体をすっぽり包み込む。赤信号に道の先をふさがれているとき、それはあらわれる。車内にしみこんでくる粘つく光にゆっくりと皮膚を舐められる感覚である。陽炎が立ち上る道を見つめながら、上半身をシートから起こし、背筋を伸ばしてみたり、ハンドルにもたれかかったり、ハンドルを指先で何度も叩いてみたくなったりするのは、光を引きはがそうとするからだ。

 信号が青に変わる。ブレーキを離し、クリープ現象のゆるやかな発進を体感することで身体から消えていくように感じられる光は、実際のところ、変わらずたっぷりしみついていて、ドライブ三時間目になると、常に意識されるようになった。

 同行者は唇をひねって押し黙っている。

 バターを塗りこんだ食べごろの小動物の気分を晴らす目的地など、どこにも見当たらない、あてのないドライブだった。凝視したくなるような美人も歩いていなかった。自転車をこぐ大学生然とした男の髪の毛が強風でまくれあがっていた。FMを利用して聞くアイポッドの音楽が、強風に阻まれてノイズになるような日である。

「聞こえやしないね」

 一度など、FMの電波が混線して、韓流スターの曲が大音量でノイズといっしょに車内を席巻した。十秒ほどのことだったが、アイポッドのロックミュージックが帰ってきたあともノイズの昂奮はおさまらず、リズミカルに波打っていた。

「車の呼吸音みたいだ」

「トイレ行きたい」

 同行者の声を久し振りに聞いたような気がした。

 ドリンクホルダーにおさまった午後の紅茶がまだ残っていることに気がついて口に含むと、煮え湯のようだった。

 コンビニの駐車場にはトラックが一台停まっていた。同行者がトイレをすませてコンビニを出て行くので、読んでいた雑誌を棚に戻して追いかける。

 漠然と、羽生のイオンになら行ってもいいと思っていたが、いつまで国道を走っても着かなかった。カーナビは五年以上前のもので、あてにならなかった。道路に一度、「直進25km」という看板が出ていたのだが、一時間以上走っても見当たらないということは道を間違えたのだろう。とりあえず羽生まで行けばいいと思ったが、標識から羽生の文字も消えており、どちらに行けばいいのかもわからなかった。同行者はカーナビの操作を一度だけ試みたが、「どちらまで、行きますか」という女性のアナウンスが三回繰り返したところでリモコンをハンドブレーキの下に投げだした。

 国道17号をずっと北上し、熊谷に着いたところで同行者がつぶやいた。

「なんだってそうだけど、作品と呼ばれて市場に流通するものにはキャッチーさが求められるでしょう」

「埼玉県に来てまだ二年目の人間が、熊谷と羽生を混同するのはしょうがないよ」

 同行者に応えても栓ないことで、何を言おうと勝手にしゃべりつづけるのだから、自分の境遇をかわりにつぶやいてみる。つぶやいたところでイオンに着くヒントが標識なり何なりに現れるわけではない。行田、という町の名前が頭に浮かんできたが、なぜ頭に浮かんだのかわからない。

「夜九時のメロドラマ、百万枚突破のポップス、高額予算を謳うハリウッドのアクション。決まり切った王道展開、王道進行。あまた生まれて高速で消費されていく、その時代を象徴する使命を背負った刹那的な生産物」

 イオンは巨大なので遠くからでもすぐ分かるはずだが、坂道の上から望む熊谷の街には、一点集中していく自動車の群れ、ズボンのポケットを膨らませたアリの流れは見えず、日曜日の終りを粛々と受け入れる様子だった。同行者はぶつぶつ言っていたが、いつの間にか黙っていた。一枚のアルバムが終わって、ノイズだけ拾っている。いよいよ諦め、次のコンビニの駐車場でハンドルを切り返して、元の道を帰りだすが、肌に光をぬりつけられるのに辛抱しきれず、いっそ食べられてしまいたかった。

 同行者はときおり歯をむき出して、食べる合図をする。「食べるよ」とはわざわざ口に出して言わないが、同行者が赤い唇をめくって尖った犬歯をのぞかせるとき、隣にいる者はかじりとられることを覚悟しなければならない。かじられると、心がしんとする。同行者は音を立てず器用に食べるので、その頬の震えるふくらみのなかに、小宇宙のまたたきと死滅を感じる。かじるのは一瞬で、かじられるのは無限である。

 同行者の茶がかった瞳は澄んでいる。目のなかにばかばかしいくらい、今まで食べてきたものを溜めこんでいるのだ。よく泣いた。涙は吸うと苦かった。

 今日はまだ食べないし、泣かない。今日のように暑い日でも長いシャツを着るからめったに見ることはできないが、信号で停まったときに、めくれた袖から白斑をいくつも認めることができた。同行者はシャツの上から身体じゅうを掻いている。虫さされとはちがい恒常的なもので、まず白いおでき状のものが発芽するようにいくつも生まれる。それが掻痒感をもたらすので、一つずつ、指でつまんだり、ひっかいたりして潰していくのだが、そうすると血が細流となって掻き痕を蛇行して連絡し、巨大な赤い網目を肌に形成する。その傷にシャツが触れるのが余計に痒いのだが、絆創膏を貼っても毟り取ってしまうのである。同行者は掻くことに意識を支配され、無表情で掻き続ける。

 往路にはずいぶん時間を費やしたように感じられるのが、戻ってくるのはあっという間というのはよくあることだった。昼食を摂ったし、途中いくつかの不毛な寄り道を挟んで、さいたま市に入る頃には、ドライブを始めて四時間も経っているのだった。五月半ばともなると太陽は粘り腰だが、さすがに六時を回ると日も陰りだし、肌の気分も落ち着いてきた。またイオンの看板を見つける。「直進8km

「イオンには一度敗北した」わざと格好つけて言ってみた。「二度敗北するのか。いま一度勝利するチャンスを与えられたと考えるべきか」同行者が歯を剥いて首を鳴らした。食べる合図かと思ったが、同行者は何もかじっていかなかった。真っ白くだだっぴろい部屋にぽつんと置かれたピアノを、でたらめに演奏し続けているような気分で、ハンドルをにぎりつづけた。こいつはときどきフェイクをかますのである。

 三倍に薄めたような水っぽい血の色が空を濁し始めている。前の黒い自動車がはねた光がフロントガラスを突き抜けて、茹で卵の殻を毟るように乾ききったまぶたを射る。バイパスを抜けると、マンション群の奥に、巨大なクレープのように、なだらかに、贅沢に横たわる建造物があらわれる。

 イオンの姿を視界にとらえたに違いない同行者が、しゃべりはじめていた。まだ掻いている。しゃべることと掻くことの、どちらに意識の比重を重く置いているのか測りかねるが、測ったところでそれも栓ないことだった。

「映画の長回しってあるでしょう。カットせずに、十分以上主人公たちの行動をそのまま追いかける手法。ヒッチコックのロープなんて有名だけど、あれに似たやり方で、面白い方法があるね」自動車は左折レーンに入り、イオンの駐車場へ進んでいく。「主人公たちがある場所で行動している様子を、無音で、ルーズのまま撮影して、追いかけない。カメラはしかし止まっているわけではない。気付くか気付かないかの微々たる速度で、ゆっくりスライドしている」指示棒を掲げた整理員が、奥へ進めと誘導する。軽自動車と普通自動車のすきまから、家族連れが一人また一人と生まれて視界の隅を歩いていく。「主人公たちが巨大な歯車に乗せられてゆっくり回転しているかのような錯覚に陥るくらい、ぶれずに、完璧にスライドしていく。それはむしろ地球の自転を想像させるんだ。たとえば主人公が事務作業をしているとして、ボールペンを走らせる音はしないんだけれど、ペンを使って書きものをしている。主人公はカメラに気付かず、肩をもみほぐしたり、足を組みかえたり、ペン先を出し入れしたりする。カメラの視界にあらわれて、中心に来、また消えていくまで、三十分ほどの時間をたっぷり遣う。これはキャッチーか。むろん違う。違うけれど、彼のしぐさをじっくり観察することで、他人の人生にひそむ何らかのドラマを見出さない人はいるだろうか……」

「やっと着いたよ」

 エンジンを切ると、音楽も、同行者の言葉も止まった。イオンの平面駐車場、白く区切られた線の内側で呆けながら待ち続ける大小の車列が、マンションの陰にかくれた太陽に染められて喪服をまとい、モノクロームの、サイレント映画を見るようだった。整理員がただ一点赤く明滅する棒をばんざいするように振っていた。

 イオンに入り、はじける色彩のなかを飛び交うように歩いた。色がだだっぴろい空間のなかを、原子のように、接合する対象を求めてさまよっているようだった。周囲の人間はめいめいに色をくっつけ、さらに今新たな色をつかみとっている。色にとりつかれないように自然と早足になった。本屋やCDショップに入り、本を探すが落ち着かない。

 イオンに入って三十分で窒息同然になって、誰もが手の先で揺らしているどんな袋を手に入れることもできずベンチにへたりこんでしまう。隣を歩いていたはずの同行者がいなくなっているのに気がつく。三階建ての吹き抜け構造を、三階から見下ろして探すと、床の上へ、視線がまるで槍を投げおろすように勢いよく突き刺さって、ぴったり離れなくなる。天井からの光をゆるやかに反射する磨かれた床が拡大していく。手すりにこめていた力が弱まり、今この手がつかんでいるのか判然としなくなる。目を閉じ、手すりから半ば身を投げ出すように背を丸めると床は消えていく。

 取り残される同行者のことなど知らぬふりで、ようよう出口を見つけると、太陽は没している。地の底からわきあがる光が群青の空にしみとおっている。

 自動車も整理員も減っている。横断歩道をわたろうとすると自動車が気配なく近づいてきて、テールランプの赤色を、網膜に置き去りにしていった。駐車場の奥にはマンションが光を背負い、整然と十棟ばかり連なっている。地表に歯列のように突き出たマンション。くっついた白い蛍光灯の並びが、虫の産みつけた卵のように生物的に見える。

「何でもはっきり見えるね」とは、同行者の言葉である。同行者は車の横で待っていて、マンションの列の方を、腕を組んで睨んでいた。言葉の通りに、風景は明るい昼間よりも、ずっと鮮明に、何かを主張したがっているように見えた。マンションの歯型に産みつけられた卵が孵化する瞬間を想像しかけている。建物のなかでの経験が消化され、意識が息吹くのを感じる。「何もかもぼやけることなく輪郭をくっきり保っている最後の瞬間だからこそ、意識して見るんでしょう」

 鍵を開けると、同行者は滑り込むように助手席に乗った。

 運転席でエンジンをかけるが、どうしても車を出す気にならなかった。

「切るんだよ、エンジンを。切らなきゃわからない」

 整理員が指示棒をおろして、うつむいたまま歩いていく。自動車のフロントガラスごしに映る空はイオンの圧倒的な直線に半分以上も切りとられていたが、だからこそ濃厚で、奥知れず、飛びこめそうに思われる。整理員が視界の隅で一度、自分の来た道を振り向いた。その瞬間、同行者がかじりとっていたのだった。かじりとったものを、同行者は音なく嚥下した。エンジンは同行者の指示にしたがって切れている。大宇宙の直上から注がれる空の視線は、しんとした心をつつみこむ。輪郭はいよいよ明瞭になる。車列が言葉を発することはない。どの自動車も雄弁に沈黙している。

 イオンから大きな袋を一つずつ提げて出てきた三つのシルエットは、上半身こそ染まりきって判らなかったが、三つとも丈が短く統一されたスカートをはいていることから、女子高生であるとわかった。ならんだ車のひとつの前で立ち止まり、三角形を形成し、空いた腕を振りながらしゃべっている様子だ。車中にいるので声は聞こえず、その腕の動きだけが彼女のしゃべっているらしいのを伝えてくる。腕を振りながらしゃべる。ここからではボディランゲージが口から発される言語を凌駕しているようにも思われた。同行者とともに飽きずに眺めた。飽きずに眺めたといえるほどの時間を、女子高生はしゃべりつづけていた。

 女子高生の腕は、春の歌を口ずさむ人間や、指示棒を振る警備員を冷ややかに切り捨てるような動きをつづける。陰はますます濃く、深く、地上に立つ女子高生にかぶさり、飲み込んだ。やがて輪郭が溶け出した。車列は車のカタマリになっていった。

「夢を見ているというけれど、見ている自分のほかに、経験する自分もいるでしょう。それは夢を経験しているってことでもあるね。夢は単なる過去の再生産じゃなくて、眠っている当人にとってはきわめて現実的な体験なんだよ」

 同行者の唾を呑み込む音や、吐息まで聞こえてきそうだが、隣を見やると、すでに同行者の輪郭すら溶けているのである。きわめて近くにいながら、かぎりなく遠くにいる。まだ隣で掻きむしっているのだろうか。音はしない。

「夢を、覚めれば解ける魔法のように感じるのはなぜだろう。朝食を摂ればもう忘れているのはなぜだろう。ひょっとしてまだ、その夢がつづいているかもしれないのに」

 太陽が隠れ、空に群青の意思が消える頃、イオンの駐車場に円形の光が灯り、周囲の色を浮き上がらせる。目の前の自動車とともに女子高生は消えていった。

 キーを差し、回すとすぐにノイズ、そしてロックミュージックが響き出す。 

 

〈了〉