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親子の敗走:だいぽむ

 母から手渡された紙袋の中身は獅子を模したロボットであった。洋太はそれを取り出して電灯の光にかざした。風になびく緋色の鬣が雄々しい、鋼鉄の肉体をもつ獣である。上下の顎に植わった鋭い牙はいかにも剣呑で、覗き込んだ洋太が思わず息をのんだほどである。

「お父ちゃんが買ってきてくれたんだよ。良かったねえ。大事にせないけんで。あんたはすぐ物を壊すけんね」

 洋太は母の言葉などまるで聞いておらぬ。彼は獅子を(まさぐ)るのに一所懸命である。首の後ろにあるボタンを押すと、獅子の眼がかっと赤く光った。ただの置物ではなかったのである。その他にも頭に衝撃を与えれば獅子はガオゥと勇ましく吼えたし、ネジになっている尻尾を巻けば四肢を動かしてぎこちなく歩き出した。いよいよもって底の知れぬ玩具である。

「洋太、晩ご飯は何が食べたい。今日はあんたの誕生日だけんね。何でも好きなもの言いなさい」

 洋太の誕生日には毎年親子揃って外食をするのが彼の家での慣わしである。洋太がこよなく愛するのは鮨であり、中でも甘いタレをかけた穴子は一人で十貫でも二十貫でも食べられる。しかし洋太の家は裕福ではなく、建具屋をしている父が仕事の代金を受け取った日や、何か特別な記念日でもない限り滅多に外食には連れて行ってもらえない。まして鮨などはこれまでに数えるほどである。そういう事情であるから、洋太は待ってましたとばかりに鮨と答えたのであるが、好きなものを言えといったにも関わらず、母は苦虫を噛み潰すような顔をしたのである。

「鮨なんてやめんさいね。もったいないわ。カレー食べよう、カレー。ラーメンでもええよ」

「いやだ。鮨がいい」

 洋太はてこでも動かぬ覚悟である。カレーもラーメンも好物ではあるが、鮨に比べれば一段劣る。何より洋太はこの日、居間のテレビで偶然にも鮨の特集番組を見てしまい、鮨を食べたいという欲求が弥が上にも高まっていたのである。

 母はあの手この手で説得を試みたが、頑是無い息子に業を煮やし、洋太の尻をひん剥いて手のひらで勢いよく打った。痺れる痛みに耐えかねて洋太が涙をこぼすと、仕事を終えて父が部屋に入ってきたのであった。

「なんじゃ。洋太、鮨を食うんか」

 泣き顔のまま頷くと、母がもう一度尻を打とうとする気配を示した。洋太はきゃっと悲鳴を上げて畳の上に丸まった。

「まあま、ええがな。一年に一回のことだしな。洋太も楽しみにしとったんだろう。今日は回転鮨にしようや」

「そげんこと言って、あんた、支払いはどうする気。今日だって材料屋さんから電話があったんよ。先月の電気代もまだなのに、鮨なんて贅沢なもん」

「待たせとけばいいんじゃ、そんなもんは。どうにでもなるわい。なあ、洋太」

 父は洋太を抱き上げて頬擦りした。味方を得た頼もしさと硬い無精ひげのくすぐったさで、洋太は泣きながら笑った。

 頑固な母もついに折れ、その日の夕飯は回転鮨に決まった。母の後について仕事用のバンに乗り込んだときには、洋太はもう有頂天であった。腹もいい具合に空き、こみあげる期待に(つばき)はとめどなく湧いた。ハンドルを握るのは父であった。年季物のバンは派手な音を立てて震え、夢の国を目指して一路行進を始めた。

 洋太の家から目的の鮨屋がある繁華街へ行くためには、見渡す限りの田園に囲まれた田舎道を通らねばならぬ。道沿いには街灯一つなく、夜ともなれば頼りになるのはヘッドライトと仄かな星明りだけである。闇の中では一人でトイレにさえ行けぬ臆病者の洋太であったが、父母に確固として挟まれていれば、恐れるものなどあろうはずもない。開け放った窓から飛び込んでくる蛙たちの喧しい合唱に合わせて、洋太は髪を風に嬲らせながら高らかにうたった。

 鮨屋の看板を宙に見かけたときには、洋太は躍り上がらんばかりに喜び、手を打ってはしゃいだ。車を止めた後、真っ先に店の中へ駆け込んだのもやはり洋太であった。遅れてやってきた父母を急かし、空いていたカウンター席の前まで来ると、色とりどりに輝く宝石のような鮨の列に彼は魂を抜かれたようになった。好物の鮨を無限に送り出すコンベアは、彼にとってはつくづく夢の機械である。

「よし、洋太。遠慮はいらねえからな。たらふく食えよ」

 言われずとも遠慮などする殊勝な洋太ではない。彼は箸を割ると、早速目の前に流れてきた玉子を掬い上げた。甘く味付けしてある柔らかい玉子に洋太は目がなかったのである。二貫あるうちの一貫を洋太が噛みしめている間に、父は蛸を、母は鉄火巻きをとって食べ始めた。鮨の値段は皿の色や柄によって示されているが、それらはどれも一番安い百円の白い無地の皿である。かっぱ巻きや稲荷などの安くて量が多いものが流れてくると、父は次々と洋太にとってよこした。必死の面持ちで鮨を口に詰め込む洋太の頬は丸々と膨らみ、さながら怒り心頭に発した河豚のようである。

「見てみい、洋太。トロじゃ、トロじゃ」

 洋太がかっぱ巻きを食べていると、父が強く洋太の肩を叩いた。促されて顔を上げた洋太は、おうと驚きの声を上げた。その拍子に口の中にあった鮨がこぼれた。

 傑物、それはまさに傑物であった。コンベアの上流から、シャリを覆い隠さんばかりの霜降りのトロが二貫、濡れたような光沢を帯びて洋太のほうへと近づいてくるのである。桜色の肉から立ち昇る神気のあまりの尊さに、洋太は束の間咀嚼を忘れた。恭しくトロを運ぶのは眩い黄金の皿で、これは実に洋太の好物の穴子六皿分に相当した。その味わいの気高さたるやいかばかりであろうか。洋太は通り過ぎていくトロをどこまでも目で追った。彼の傑物と比すれば、他の鮨など王に額づく奴婢に過ぎぬ。

「まあ。いやらしいねえ、あんたって子は。そんなにじっと見とったっていけんで。いつも言っとるでしょう。白いお皿のやつになさい」

 母は洋太がこぼした鮨を丁寧に拾って自分の口に入れた。

「トロはお前にはまだ早いな。トロを食うには立派な大人にならねえとな」

 父は笑って洋太の頭を撫でた。

 洋太は再びかっぱ巻きを租借し始めた。もとよりトロに手を伸ばそうなどという大それたことを彼は考えておらぬ。色のついた皿を子供が貪ることは悪徳であるという父母の厳格な教えは、数年をかけて洋太の心理にしっかりと刷り込まれていたのである。彼の幼い舌は百円のかっぱ巻きや稲荷でも十分に満ち足りた。

 洋太が三皿目の稲荷に手をつけたとき、入り口のほうから声をかける者があった。

「あれ。洋太君」

 洋太が振り向くと、そこに父親に手を引かれたクラスメイトのMが立っていた。Mは背の低い痩せっぽちで、分厚い眼鏡をかけ、クラスの中でもとりわけ身体能力の低い子供であった。リレーでいつもアンカーを任せられる洋太にとってはものの数ではない相手ではあったが、知り合いとの邂逅はやはり嬉しく、洋太は伸び上がって手招きをした。

 親同士が簡単な挨拶を交わしている間に、Mは洋太の隣に座った。

「洋太君、稲荷好きなん」

 洋太の食べかけの皿を見て、Mはそう訊いた。洋太が頷くと、「僕、シーチキンが好き」そう言って流れてきたシーチキンの海苔巻きをとった。

 並んで鮨を食べながら、洋太は早速親に貰った獅子のロボットを自慢した。無限の可能性を秘めた新時代の玩具である。Mもすっかり興味を示し、今度ぜひ見せてくれと熱心に彼にせがんだので、洋太はすこぶる得意であった。その後、二人は流行のアニメの話に興じたが、言葉の合間にぼそぼそと鼠のように鮨を齧るMのみすぼらしい食べ方が次第に洋太の鼻につきはじめた。学校の昼休憩でも、Mは一人だけ教室の隅で給食と格闘しているような子供だったのである。洋太はお手本を見せるつもりで、残っていた稲荷を一息に口の中へ放り込んだ。

「お。洋太君、いい食べっぷりだねえ」

 そう褒めたのはMの父親であった。Mに似てひょろ長い小男で、過酷な労働を軽々とこなす洋太の父の剛健な肉体の前にあっては、その姿形はあまりにも卑小である。洋太はますます勢いづき、次に父の逞しい腕から手渡された海老も同じように食べた。Mの父親は愉快そうに笑い、貧弱な細腕で息子の背中を叩いた。

「お前も負けるなよ。どっちが多く食べるか競争だな」

 Mなど眼中にない洋太であったが、競争と聞いて男児の血が燃えた。彼くらいの世代にあっては、多く食べるということはそれだけで権力なのである。父母にいいところを見せようと、洋太は俄然奮い立った。Mも細い牙を剥いて懸命に立ち向かってきたが、所詮は虎と猫の争いである。Mが一皿食べる間に洋太は二皿食べる勢いであった。二人の差はみるみる開く一方である。

 そのとき、あの黄金のトロが店内を一周してまた洋太のもとへと舞い戻ってきた。遠く離れていても分かるその華麗な姿はまさしく宝船である。負けられぬ競争の最中にあって、やはり洋太は身動きが取れなくなってしまった。悠々と物見遊山を楽しむ神の魚肉、その行進はあまりにも雄大であり、荘厳であった。洋太の心はもはや大名行列を前にして跪く百姓のそれと同じである。彼の中にはトロへの厳かな信仰さえ芽生えつつあった。

 ふいに視界の端から細い手が伸び、今しがた洋太が見送ったばかりの金の皿をむずと掴んだ。洋太は息が止まるほど仰天した。Mであった。目を剥く洋太を尻目に、Mは鮨からわさびの部分を削ぎ落とすと、たっぷりと醤油に浸した。Mの唇が上下に割れ、暗闇と赤い舌が露になった。巨大なトロはその中へ吸い込まれていったのである。無論一口では収まりきらず、Mは頬を膨らませながら何度もかぶりついた。競争に気をとられているらしく、うまそうな顔ひとつしない。二貫目も同じようにひどく慌てながら食べてしまった。

 洋太は一部始終を凝視していた。彼の内心は驚天動地の只中にあった。たった今まで栄耀栄華を(ほしいまま)にしていた光の国が、突如として滅びたのである。廃墟と化した金色の神の乗り物は、他の白い皿に混じって空しく輝きの残滓を宙に投げかけるばかりである。

 禁忌を破る者は罰せられねばならぬ。洋太は直ちに大人たちの叱声が彼の上へ注ぐものと期待した。しかしMの父親は微笑を浮かべたまま、一向息子を叱り飛ばす気配がない。むろん洋太の両親など素知らぬふりである。さては気づいていないなと思い、洋太は隣で鯖を食べていた父の袖を引っ張った。勝負のことなどはすでに彼の頭にはない。

「トロ、食うた」

 洋太はMを指差した。父はすぐには反応しなかった。

「トロ、食うた」

 もう一度言ったが、ああ、と父は気のない返事をしただけであった。そうこうしている間に、Mはまたしても色つきの皿をとった。四百円の蟹の剥き身である。洋太の混乱は極みに達した。よく見ればMの父親の前に積み上げられているのはことごとく色つきの皿ではないか。それとは対照的に、彼の一家の前にある皿は見事なまでの白一色である。

 二つの家族の間に、何か訳の分からぬ巨大なものが佇立しているのを洋太の直感は捉えた。こみ上げる感情を抑えられず、彼は顔を赤くして父母に迫った。

「僕もトロ食べる」

「またそんなこと言って」

 母は甚だ困惑の態である。すると父がおどけた調子で顔を近づけてきた。

「洋太。穴子食べようや、穴子。うまいぞお。今注文してやるから」

「トロがいい」

 洋太は叫んで頭を振った。昂ぶる彼の心はもはや穴子などでは収拾がつかぬ。

「駄目って言っとるでしょ。聞き分けのない子だね、あんたは」

 意外にも叱声を注がれたのは洋太のほうであった。鼻の奥にちくちくと針で刺すような刺激があった。かと思うと、洋太の目にみるみる涙の膜が覆いかぶさり始めたのである。しかし洋太は堪えた。泣き出すことは敗北であった。M如きに負けるなど、彼のプライドが許さぬ。

「僕、おしっこ」

 洋太は小走りにトイレへと向かった。潤んだ瞳を悟られたくなかったのである。便器に向かって小便を放ちながら、しかし洋太はまだ一縷の望みを抱いていた。洋太に甘い父のことである。融通の利かない母と違い、父はいつも最後には洋太の望みを叶えてくれることが多かった。トイレから戻ったとき、もしかしたら彼の席にはトロが置かれてあるかもしれぬ。その可能性は絶対に否定できぬ。

 洋太がトイレから出て彼の席のほうを窺うと、想像通り机の上に鮨があった。これこそ骨肉の愛の深さよ! 洋太は感激し、満面の笑みを湛えて駆け出した。が、席に近づくにつれ、彼の笑顔はまたもとの無表情の中へ没していった。いくら目を凝らしても、その鮨には黄金の輝きが見当たらなかったのである。席に戻ったときには鮨の正体も知れた。穴子である。一皿百円の、土くれと同じ色をした、トロに比べればあまりにも粗雑な食物である。

 洋太の小さな胸は張り裂けんばかりだった。もはや箸を持ち上げる気にもならぬ。ただ下唇を噛み、わななきながら穴子を見つめるのみである。

「どうした。食わんのか。お前の好きな穴子だぞ」

 父にそういわれても、洋太は頑として返事をしなかった。目前の不条理に対する幼い彼の精一杯の抗議である。Mは不思議そうな顔をして食べ続けていた。彼が積み上げた皿の塔はすでに洋太のそれよりも高い。

 父母は洋太の説得を諦めた様子で、黙々と百円の鮨を食い、茶を啜っていた。洋太は溢れそうになる涙と懸命に闘った。父母が折れぬ限りこのまま永遠に頑張り続ける覚悟であった。

 しかしそのとき、洋太の予期せぬことが起きたのである。

 見よ! コンベアの彼方から、紛うことなき霜降りのトロが、黄金の天馬に跨ってゆっくりと近づいてくるではないか! まさしく神の蘇生である。洋太の意識はふらふらとその官能的な肢体に吸い寄せられていった。柵を乗り越えればそこはもう花咲き乳の河の流れる地上の楽園である。

 洋太の目の前を黒いものが過ぎった。衝撃が彼を襲った。トロへと伸びる洋太の腕を、父が空中で叩き落したのである。洋太は痺れる腕を押さえて放心していた。父は咄嗟の行動であったらしく、すぐに決まりが悪そうな顔をして辺りを窺った。トロはそのまま洋太の手の届かぬところへ流れ去ってしまった。痺れは徐々に痛みへと変わった。堤はついに破られたのである。洋太は喉よ裂けよとばかりに泣いた。机の上に突っ伏し、全身全霊を振り絞って狂い叫んだ。彼の立つ大地はこの世のものではなかったのである。彼は天に見放された孤児であった。

「おい。帰るぞ」

 父が促し、母も頷いた。M親子が目を丸くして彼らを見ていた。母が会計をしている間に、父は獣のように吼える洋太の腕を掴んで店の外へと引きずった。洋太は車の後部座席に荷物のように放り込まれた。後からやってきた母が洋太の隣に乗り込むと、父は一気にアクセルを踏み込んだ。車は猛スピードで鮨屋を離れた。

「ほれ、洋太。いい加減泣きやまんか。あとでシュークリーム買っちゃるけん。プリンでもええよ」

 悲嘆にくれる洋太の心はいかなる慰めも受け付けなかった。ただ母の膝に顔を埋め、押し潰した声で泣くのみである。父は不機嫌そうに黙り込んだまま煙草を咥えていた。やがて車は繁華街を抜け、再び光の射さぬ田園の狭間を走り始めた。鮨屋を出てからずいぶんと時間が経ったようである。泣き疲れた洋太が重い頭を持ち上げると、母が俯いて小刻みに肩を震わせていた。洋太は呆然とそれを見ていた。母の涙の理由が分からなかったのである。母もトロが食べたかったのであろうか? そのとき、暗がりの中から父の声が低く響いてきた。

「貧乏はつまらんなあ。洋太。貧乏はつまらん」

 父はそれきり何も言わなかった。鼓膜を揺るがすのは不気味な蛙のさざめきばかりである。洋太は急に心細くなり、母の胴に腕を回した。すると、母はそれを上回る力で洋太を抱きしめてきた。求めていた温もりを与えられたにも関わらず、洋太は少しも安堵を覚えなかった。母の乏しい肉の感触がどうにも物足らぬのである。彼は早く車が家につくようにと念じた。帰って獅子の玩具で父母と遊べば、この胸のとどろきからも解き放たれるに違いないと彼は固く信じた。

 ところが、家に近づくにつれて、闇はいよいよ濃く深くなってゆく気配なのである。

 

 

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