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リセット:しろくま

 気が付けば寂しい部屋だった。ベッドも机も無い。絨毯に敷かれた布団から起き上がる。掛け布団、毛布にこの寒さ、冬だった。
 窓の外からは昼過ぎの陽光が注がれていた。部屋のドアを開けた母さんが、
「起きたの?」と覗いて言った。僕は、
「うん」と答えた。
 見回すと部屋の隅でまとめられた家具がシーツを被せられていた。それでも部屋にはシーツを被せられた物以外は無いから、やっぱり空っぽの部屋だった。
 なんとも記憶の曖昧な頭だった。ここのところのことが思い出せない。
 自分の部屋から出て階段を降り、居間に入った。部屋の壁紙が新しくなっていた。椅子にある座布団も緑と赤の新しい物で、まだ表面の毛ももこもこしている。クリスマスに合わせて買われた物だろうか。時計の針は一時を指している。テーブルの椅子に座ると母さんがお茶を出してくれた。
「なんだか夢の中に居るみたいなんだけど」
「ずっと寝てたからね」と言う、母さんの真意が分からなかった。
「覚えてないの?」
「覚えてないって、何を?」
「あなた、今までリセットしてたのよ」
 そう言うと母さんは、家計簿の入っている棚の引き出しから区役所にでも置いてありそうな水色の紙を一枚取り出して、僕の前に置いた。その紙の一番上には「リセット申請書控え」とあって、その下の欄には僕の字で諸々の手続きが書かれていた。
「こんなの出したんだっけ」
 はっきりとは覚えていなかった。
 リセットとは自殺する人間を減らすために国が作った制度で、この申請書を提出した者は一年間、冬眠が与えられる。僕は去年、何らかのストレスに耐え切れなくなって、この申請書を提出したらしい。去年の十二月に提出したと書いてあるけど、なんだかその一ヶ月程前の記憶も無くなっていて、僕がどうして申請書の提出を決めたのか、何が原因で冬眠をしたのか、そういった一年前のことがどうも思い出せなかった。自殺者を減らすために作られた制度を使った訳だから、僕にもそれなりの理由があったのだと思うけど、そんな理由は思い出しても碌なことが無いから、思い出したくない。思い出せないなら、そのままのほうがいい。
 冬眠明けの生活のため、給料じゃないけれど当時の社会的立場から見込まれる一年分の所得の何割かが、冬眠者の口座に振り込まれる。僕の場合、大卒で商社に入社してから二年近くが経っていた。申請書と一緒に引き出しの中に入っていた通帳を見ると五十三万円が振り込まれていた。会社には退社扱いにされたらしい。だから今僕は仕事が無い。振り込まれたお金とそれまでの貯金で、仕事探しと仕事が見つかるまでの生活費を工面することになるけれど、僕は実家暮らしだからまだらくだ。
「あぁ、そうだ。これを言わなくちゃ。先月ね、まゆちゃんが亡くなっちゃったの。あさってがまゆちゃんの四十九日だから」
「そうなんだ。そういえば、僕が冬眠する前に白血病になったんだよね。今思い出した」
「数珠とかは出しておいてあげるから、スーツは自分で準備しておくのよ」
「分かった」
 まゆちゃんは僕のいとこで知恵遅れだった。僕より年上で、まゆちゃんは妹のひとちゃんとの二人姉妹だった。まゆちゃん達のおじさんが僕の父親の兄で、僕の母さんには兄弟がいなかったから、僕のいとこはまゆちゃんとひとちゃんの二人だけだった。
 小学生の時は三人でよくじいさんの家に泊まった。中学生、高校生になってからはなんだか疎遠になって、特にひとちゃんとはお互い制服を着て出た親戚の葬式の時も照れくさくて話せなかった。だから僕が持っている二人の記憶は小学校、それも低学年の頃のものだけだった。
 ひとちゃんは生まれは僕と同い年だけど早生まれだから学年は一つ上だった。ひとちゃんは子供の頃からしっかり者だった。高校を卒業してからはたくさんアルバイトをして専門学校を卒業し、病院で薬か何かの仕事をしていると聞いたことがある。でも、あまり詳しくは知らない。まゆちゃんは確か、ケーキ屋さんで働いていたはずだ。
 テレビを点けてみたけど何もおもしろくはなかった。僕は自分の部屋に戻ってシーツに覆われた物を整頓することにした。まるで引越しをしたみたいだ。段ボールの中には文庫本や漫画、CDにDVD、昔ハマった釣りの道具、子供の頃の将棋の駒やノート、日記、シルバーアクセサリー等、色々入っている。ダンボールに入れたのは母さんだろうか。僕の部屋の壁紙も僕の寝ている間に貼り換えたらしく、本棚ももう古い物だったので捨てたとのことだった。母さん曰く大地震に耐える本棚を新しく買うつもりらしいけど、僕の部屋の物だから、僕が起きるまでは買うのを待っていたらしい。だから本棚も、本棚とセットになっていた机も無くなっていて、部屋には積み重ねられたダンボールの山しか無かった。
 そういえば冬眠前に一度、自分の手で要る物と要らない物を整理した覚えがある。部屋にはもっとたくさんの物があった。一つ増やすなら一つ減らしなさい、それが母さんの口癖だった。
 でも一年前は、要らないような物でも捨てることはできなかった。一つひとつに名残惜しさがあって、捨てることで部屋に新しいスペースを作ることよりも、ふと気付いた時に捨てたことを思い出す悲しさの心配ばかりをしていた。
 ダンボールを開けば、もうなんの用も無いと思われる物ばかりだった。昔の鞄なんていつまで経っても使うことは無いだろう。一年前は捨てられなかった物だが、今はなんの価値も感じなくなっていて、容易に捨てることができる。
 昼過ぎに起きたこともあり、部屋の片付けをしただけですぐに一日は終わった。片付けをしていて新しい机が欲しくなった。本は全て売ればいいから本棚は必要無い。なんの飾りも要らない。引き出しだって無くていい。ただ、木目のある、いつまでも使うことのできる大きな机が欲しい。大きな机。それがあれば、これからなんでも生み出すことができる。次の日、僕は電車に乗って出掛けることにした。お金は、冬眠中に振り込まれていたのを使うことにした。
 
 家の外は一年の歳月をあまり感じさせなかった。午前十一時、小学生もまだ帰ってきていないから、自転車に乗っても駅に着くまでは人の姿をほとんど見なかった。それでも人の居ない町の中を冷たい風は流れていて、時間は常に今まで流れ続けてきたのだと思わせる。
 定期券は持っていないから券売機で切符を買った。ホームには四、五人、暗い色のコートを着た人達ばかりが立っていた。ホームに滑り込んできた電車の中にも何人か人が乗っていた。世の中にリセットをした人はどのくらいいるのだろう。ふとそんなことを思った。車両の中に居る人達の顔を見てみるけれど、誰の顔にもそんなことは書かれていない。当然僕の顔にもリセット歴、そんなものは書かれていない。
 電車のドアの窓に反射している自分の顔を確認する。擦れ違うだけの僕のことをよく知らない人達には、おとついまで僕がリセットをしていたことは分からない。
 電車の中の人の数が段々と増えていった。僕は街の中心にある駅で降りた。どっと人が流れ出て、皆が改札のある方を向いて歩いて行った。僕は人が少なくなるのを待ってから、皆の後に続いて改札に切符を通した。そして右に曲がると、すぐ近くにある百貨店の中のエスカレーターに乗った。
 一年前に欲しいと思っていた机があった。一年前はそれまでの机があったので買わなかった。もともと机は捨てようとは思っていなかった。でも母さんが捨てたので、新しく買うならこれがいいと思った。捨てようとは思っていなかった物だけど、捨てられてしまった後にはこうも後ろ髪引かれる想いも無くすっきりしていられるものなのだろうか。こうなると前の机を捨てられたことが、良いことだったように思える。
 欲しい机の値段は五万円だった。高い買い物だ。大きい机がいいと思っていたけれど、サイズは本当にこれでいいのか分からなかった。ちゃんと置きたい所に収まるだろうか。部屋の寸法をちゃんと測ってこれば良かった。その場で買うことを決めることはできなかった。注文もできず、僕はデスクのカタログだけを手に取って、その場を去った。
 これだけで家に帰ってしまうのはなんだったから、ついでに百貨店の中を見ていくことにした。時計、鞄、万年筆、これからは今だけ使う物じゃなく、いつまでも使える物を手に入れていきたい。見ていると随分時間が経った。
 ケータイは持って来ていない。腕時計も着けていなかったので、駅まで行ってからホームの時計を確認した。時計の針は三時を回っていた。家を出てから何も食べていなかったのでお腹も空いた。帰りの電車に乗った。
 冬だから陽は短い。少しずつ電車の窓の外の陽が傾こうとしている。車両の中には高校生が居る。サラリーマンの帰宅する人も少し居る。この時間帯に乗る人の中で、冬眠明けの人間はいないような気がする。きょう僕が家を出てきたのはリハビリのようなものだったのかもしれない。もし冬眠を終えても、きょうみたいにすぐ家から出る機会が無かったら、いつまでも家から出られずに引き篭もっていたかもしれない。
 そう思うと、偶然にも理由があって家を出て来られていたことに、急にぞっとする想いがした。偶然が無かったら、僕はどうなっていただろうか。理由が無ければそのまま家の中だけで生活していたかもしれない。ちゃんと出られていたと断言できるかと問われれば、なんとも自信が無い。周りの、喋ることも無くただただシートに腰掛ける人達に囲まれて扉の前に立っていると、鼓動が強まるのと相重なって変に居心地が悪くなった。
 体の中、食道や気管支のあたりを周りの肉や臓器と一緒にこう、ギュッと握られているような気持ちになった。ずっと一日同じ肩で鞄を掛けてきたから、首筋から連なった肩の凝りを感じる。肩下げの鞄の紐が肩にくい込む。自由な翼なぞ意識すること無く日々を暮らしていた人間が、それが消えてしまったときにこんなふうに感じるのだろうか。この不自由さ、枷。鞄の肩紐が、コートの上から体を締め付ける。僕はううんと気だるくしがらみを伸ばす。扉のガラスに表情を歪める自分が映っていた。
 国の認めた制度とはいえまだ二十代半ばの男だ。リセットなぞそうそうすべきものじゃない。癖にならないだろうか。どうせ会社もクビになるのなら、リセットなんかせず一年間、どこか農村の手伝いでもしていたほうが世の為だ。実際僕のじいさんの家は山の中の農家で今は誰も住んでいないから、手入れのされないままの田んぼや畑が残っている。じいさんの家に篭って農作業をしていたほうが良かったんじゃないか。リセット前の僕と何が変わったのだろう。一年間微々たるものとはいえ、無駄に国生産の損失に繋がることをした僕は、国の制度は認めても社会が認めてくれないだろう。
 世の中の眼中に僕はいないようだ。人に自分を確認してもらいたくなった。腹の空きが我慢できなくなった。降りた駅の近くで持ち帰りのお好み焼きを買った。食べてから家に帰った。
 
 翌日、父親の運転する車でまゆちゃんの四十九日に出掛けた。母さんは家のばあさんの介護で出掛けられなかったから、父親と二人で出掛けた。途中、老人ホームに預けられていたじいさんを拾って向かった。
 じいさんの家にはもう誰も住んでいないため、まゆちゃんの四十九日はじいさんの家の近くのお寺で行われた。お寺にはもう既に車が四台停まっていた。知っている親戚のおじさん達、そして僕とは血の繋がりの無いほうの、まゆちゃんの親戚の人達も来ていた。まゆちゃんのおばさんの兄弟らしい。
 そのおじさんのほうからはじめましてと僕に声を掛けてくれた。おじさんには高校生と中学生の二人の息子がいると言う。僕にとってはまゆちゃん、ひとちゃん以外にいとこはいないけど、まゆちゃんとひとちゃんには他にいとこがいたことに初めて気付いた。
 寺といっても半分人の家のような所だった。山の中の寺で遠方から風に乗ってきた雪が青い空の下を少し舞っていた。軒先から障子を開けて中に入った。黒い礼服を着た女の人が三人、座布団を並べて準備をしていた。一人だけ周りの人と年齢の違う女の人を見つけて、僕は話し掛けた。
「ご無沙汰してます」
「お久しぶり、来てくれてありがとう」
「何か手伝うこと無い?」
「うん、ありがとう。じゃあ……」
 久しぶりに見たひとちゃんは綺麗な大人になっていた。黒の礼服がそれを引き立たせているようだった。ひとちゃんは背が高かった。小学生の頃も、僕より少し背が高かった。今も百七十センチの僕と目の高さは同じくらいだったから、それも手伝ってか久しぶりに話したけど違和感は無かった。
 まゆちゃん、ひとちゃんのおばさんの顔を見るのも久しぶりだった。読経の間すすり泣く声がして、おばさんが肩を震わせているのを後ろから見ていて分かった。でもそれ以外はどう仕様も無く沈んでいる、そんな感じは無かった。動くことで気を紛らわせているのとおばさんは話していた。
 おばさんとおじさんは長女の娘を亡くした。ひとちゃんは生まれてからずっと存在していたお姉ちゃんを亡くした。でも誰もリセットをしていなかった。僕の母さんもここに居る父親もリセットはしたことが無い。おそらくここに集まった親戚の中でもリセットをしたのは僕だけだろう。リセットをした理由は思い出せないけれど、その理由も今のここでは場違いに思うくらい人に言えばきっと恥ずかしいものなのだろう。
 お参りが終わり、片付けて食事の準備をする。座布団を一端隅に寄せて折り畳み式の細長いテーブルを並べ、ストーブを寄せてテーブルの上に弁当を並べた。
 僕は手伝えることを見付けては全て実行した。自分の居場所の無いという気不味さは仕事を得ることでしか埋められない。危険を察するアンテナのような物が冬眠明けの体にも付いていて働いていた。僕がリセットに踏み切ったのも何か自分の居場所が無いという居心地の悪さ、それだったのかもしれない。僕が動くたびにおばさんやひとちゃんは悪いわね、ごめんねと言ってくれた。
 僕には兄弟がいない。まゆちゃんとひとちゃんとの思い出される記憶は僕が小学校一、二年生の頃の記憶しか無い。当時じいさんの家で三人一緒に遊んだり寝たりもしたけれど、今覚えばそれは僕にとっての兄弟だったのかもしれない。
 当時小学一年生の僕もまゆちゃんが知恵遅れだということは聞かされていた。でも、小学生同士の知恵遅れなんて、大人のそれに比べてほとんど二人の間に差は感じない。そんなこと小学生の僕達には関係が無かった。まゆちゃんは僕にとっても長女のお姉ちゃんだったのだと気付く。
 僕はひとちゃんの隣に座って食事をとった。久しぶりにひとちゃんと話せて質問したいことも出てきた。
「まゆちゃんはひとちゃんの幾つ上だったの?」
「三つ上、いや、八十一年生まれだから、学年で言えば私の四つ上になるのね」
「そうか、そんなに年上だったんだ。僕はそんなことも知らなかった」
 ひとちゃんの隣にはおばさんが座っていた。ひとちゃんには彼氏がいるのだろうか。そんなことをふと思ったけど訊くことはできなかった。まゆちゃんから開放されて、今までよりもっと自由に生きられるようになるのかもしれない。ひとちゃんにそう言ってあげたい衝動に駆られたけど、中学から疎遠になって大変な時期を共にできなかった僕にそんなことを言う資格は無い。それを言いたいと思う衝動なぞ偽善心だろう。
「まゆちゃんの葬式に行けなくてごめん……。実はおとついまでリセットしてたんだ」
「体調が悪いって聞いてたけど、そうだったの」
「体調というのもあれだけど。きっと母さんがあやふやに言ったんだ」
「仕事は辞めちゃったの?」
「うん」
「じゃあ、これからまた仕事を探すのね」
「うん、そう……」
 ひとちゃんはそのまま優しく話してくれた。
 おじさんが食事の最後に終わりの挨拶をした。これでまゆちゃんの四十九日は仕舞いで、僕達は片付けに入った。
 おじさん達はそのまま座って話を続けていた。この中で年長になるじいさんも、久しぶりに親戚の人達に会えて嬉しそうだった。ひとちゃんのおばさんや、おばさんの妹、ひとちゃんばかりが働いていた。僕の父親もおじさん達と話しながら酒を飲んでいた。食事の席を立った人達は外に出ていったままもう部屋の中には戻って来なかった。
 テーブルの上の弁当や湯のみ、とっくり、おちょこを全て片付けてテーブルを拭いた。座布団を隅に重ねた。おじさん達は皆もう部屋から出ていった。ひとちゃんと僕は協力して、これは私が、じゃあ僕はこっちを運ぶねと、まるでいつも一緒に仕事をしている同僚か本当の姉弟のように片付けを進めた。お寺の奥さんが男の僕にテーブルの片付けを手伝ってと言ったので、僕はテーブルの脚を折り畳んで階段の下の物置にテーブルを立て掛けた。
 法事、それは亡くなった人々が生きている人間に与えてくれる自分が何者かを考える機会だった。忙しく生きる人々の足を止めさせて考えさせてくれる機会だった。僕の中には片付けを手伝うことに頼られる喜びがあった。ひとちゃんや親戚であるこの人達は、リセットした僕を特別にそのようには見ない。過不足の無い、ありのままの自分を再確認する。
 人に頼られて人の役に立つ自分に安堵感を覚えた。一年前の自分と何が変わったかは分からないけど、気付いたのは今だった。笑顔になりそうなのを我慢した。
 部屋の中を片付け終わったおばさん達は皆に渡す大きな紙袋を軒先に並べていた。志(こころざし)、そう呼ばれる袋の中にはまゆちゃんが作ったクッキーが入れられていた。ひとちゃんがその紙袋を車に運んでいたから僕も靴を履いて手伝った。
「これで終わりね」
 僕も軒先にあった物が全て車に積まれたのを確認すると、自分の家の車に向かって歩き出した。父さんが酒を飲んでいたから、帰りは僕が運転しなければならなかった。
 車の所にはもう先に父さんが居て、じいさんを車に乗せていた。
「ガソリンが足りないな」
「じゃあ俺が入れておくよ」
「そうか。俺は寝るからな」
 上着を脱いで車に乗ろうとすると後ろからひとちゃんの声がした。
「ケンちゃん、きょうはありがとう」
 僕は振り返り、笑顔でひとちゃんにさよならをした。