五月のよく晴れた日に、僕と薫は知り合いに招かれて山の麓にある小さな町を歩いていた。都心から電車で三十分ほどを田んぼや川が見える抜けの良い景色に囲まれながら走り、それから嶮しい山肌を望む駅に降りてまた二十分ほど歩くと、黒い瓦屋根を葺いた大きな屋敷が見えてくる。日差しが当たって萌黄に染まった山を背に居を構えている姿を、薫は歩みを止めてじっくりと眺めていた。青いジャケットにレースの付いた白いトップスが太陽の光のもとで混ざり合って、まるで青空に融けていくような印象を醸し出していた。
「本当に良いところだね、ここは」
彼女は駅に着いてからあちこちにアンテナを張り巡らしていた。耳をつんざくような雉の鳴き声、足元に寄ってくる野良猫、無邪気に駆けながら通り過ぎる子どもたち、普通なら逐一感想を述べたくなるだろうこの小さな町を構成する物たちを、薫は目を見開かせつつも黙って受け止め続けていた。そしてようやく、それらを総括するように薫はシンプルに言い放った。その中には、きっとこの家に住む家族も含まれているだろう。
家主である野田さんは僕の会社の取引先に勤める医者で、養子の恵治は薫にとって画家の師匠に当たる。野田さんの奥さんが子供を授かるのに不向きな体質ゆえに、二人は養子縁組という形で四人の子どもを育ててきた。
四人はいずれも親を失っている。長男の恵治は十歳の時に火事で両親を亡くし、親戚である野田さんの元に身を寄せた。次男は生後間もなく、野田さんが勤める病院の玄関に置き捨てられた。長女は望まぬ妊娠のために育児が出来ない母親に代わって、二人がその身を引き受けた。三男は津波で血縁のほとんどを流された。
長女の響子が十四歳の誕生日を迎える時、初めて僕たちはこの家に招かれた。野田さんの家が養子で成り立っているのは町の人なら誰でも知っており、子どもの誕生パーティーは知り合いを呼んで賑やかに執り行われることとなっている。中学校の同級生たちが席を埋める中、倍近く年の離れているはずの薫が一番ハシャいでいたのは良く思い出せることだ。
「今日はハシャぐにしてもほどほどにしろよ、今度は電車で寝ても起さないからな」
「わかってるって」
とは言うものの声の調子は上ずっていて、手に携えた紙袋も大きく揺れた。中にはプレゼントが入っている。今日は三男の幸太の四歳の誕生日だ。まだ幼稚園に入ったばかりの幸太に呼べる友達は少ないので、代わりに僕たちが席を埋めることとなった。
「いらっしゃい、疲れてない? やっぱり迎えに行けばよかった?」
玄関を開けると奥さんが迎えてくれ、その後ろにいる響子も二つに結った髪を軽く揺らして会釈してくれた。いえいえ、と心配がいらないことを示すのも程々に十五畳ほどの居間に通されると、次男の哲治が本を読みながら紺のポロシャツと黒の七分丈パンツ姿で坐っていて、
「三人とも山に行っちゃったよ。二人のために山菜を取るんだ、って」
と残りの家族がここにいない事を教えてくれた。
「追いかけようよ、私、山に行きたい!」
下ろしかけた腰をすぐさま上げて、薫は早くも玄関へ向かおうとしていた。まだ挨拶もまともにやっていないのに席を立つわけにはいかず、
「本の話しようよ、桜井さん」
と哲治が言ってくれたのもあって、結局薫だけが山に行くことになった。玄関先にて大声で、行ってきます、と言うだけ言って出て行った彼女の代わりに謝ったところ、奥さんは、こちらだって主人も恵治もいないから、と許してくれて、準備が残っているからと台所へ向かった。
「テツ兄の話なんて全然面白くないじゃん、薫さんについていけばよかったのに」
母親と入れ替わる形で麦茶を持ってきてくれた響子は、グラスを置くと去り際にとげのある言葉を残していった。そりゃ馬鹿には面白くないに決まってるだろ、という兄の声は聞こえていたのかどうか、妹は何も答えずに足音だけを響かせていく。
「これありがとうね、面白かったよ」
と言って哲治はテーブルの下から『硝子戸の中』の文庫本を差し出してきた。ひと月ほど前に、高校の授業で漱石をやったから他のものも読みたい、と言うので譲るつもりで渡してやったものだ。古本屋に行けば簡単に買えるから、と受け取るのを断ろうとしたが、どうやらすでに向こうも自分の本棚に入れるための本を買っていたらしい。それを引っ張り出してきてあちこちに付せられた傍線やら折り目やらを元に話を始めようとしてくるはものの、こちらとしては大学時代に読んだ本だから筋がさっぱり思い出せなかった。
「じゃあちょうどいいね、今度来る時は読んでおいてよ」
元はと言えばこちらが薦めたというのに、今となっては向こうが自信満々に本を差し出してくる様はあべこべにも程があるな、と思いつつ鞄にしまいこんで、新しく用意してきた『坑夫』を、申し訳なさを表すように丁重に取りだした。
「漱石ってさ、一回勘当されてるんだよな」
本を受け取ったかと思うと、哲治は不意に小さく深刻そうな声色で言い出した。裏表紙のあらすじを見つめつつも、心では別のことを考えている様子だ。
勘当されたかどうかは微妙なところがある。漱石は生まれて間もなく里子に出され、露店でザルに入れられている姿を哀れに思った姉によって拾われ、実家に戻った。ところが、今度は余所の養子になった。そして、この養父が離婚したことでまた実家に戻ってきた。都合、親が四回変わっているが、本人が不徳を犯したわけでもないのだから、勘当という言葉は間違っているだろう。とはいえ、待遇としては確かに勘当に近い。
ただそれとは別に、哲治が勘当という言葉の意味をしっかりと捉えて使っていたかどうかは、注意すべきことだと思われた。
「実の親から愛情を受けなかったのは確かみたいだけどね」
「じゃあ養子のままでよかったじゃん」
と言っても養家との仲も悪かった。特に養父は籍を戻す戻さないで実家と争いになり、あまつさえ養子でなくなってからも漱石をゆすって金をせびる有様だったそうだ。
「……最悪な奴じゃないか」
昔は子どもは大事にされなかったから、と言いかけて哲治の境遇に思いが至った。もしかしたら、漱石に対してシンパシーを感じているのかもしれない。思い入れを抱く事自体に問題はないだろうけど、自分の境遇に引きつけて作家に接することが良いのかどうか、判断がつきかねて返答が遅れてしまった。しかし、哲治は一人で考え込んでいたので、ある程度言葉が遅れても間に合わせることができた。
「最悪な奴だよ。実際、漱石は自分の小説にそいつを出して悪役にしてるくらいだし」
「それって、いいの?」
「昔は何でも出来たんだよ」
曖昧な答えに対して哲治は拍子抜けしたような目を向けてきた。頬は苦笑いでひきつっており、すげえな、漱石って、という感嘆を残してひとまず探求は諦めたようだ。気付くと台所の方から足音が聞こえてきて、
「何のお話?」
奥さんが顔を見せたので、漱石の話を少々、と簡単な事実だけを答えると、哲治もうなずくだけで細かい説明はしなかった。
「そうなの? 昔は小説もよく読んでいたんだけど、今じゃすっかり忘れているものですから、哲治の話には時々ついていけなくなるんですよ。桜井さんがお相手をしてくれて助かります」
「僕もたいして変わりませんよ。結局わからないままに読み進めていたんだと気付かされる始末です」
「若い時は何でも吸収出来ますからね……あぁ、桜井さんもまだお若い方でしたね」と言って奥さんは今のは無しにしてくれ、と言うように笑った。
「でも桜井さんはトリビアとかいっぱい知ってるじゃん」
「余計なことはよく覚えてるってだけだよ」
余計なことでも面白いからいいんだって、と矢鱈にフォローしてくる哲治に気後れして思わず奥さんの方を見てしまったが、こちらも微笑んだきりで視線を固めることは出来ず、仕方なしに入口に目を向けると、響子が醒めた目で居間に入ってきた。
「テツ兄は余計なことしか知ってないし、面白くもないもんね」
目つきを険しくした兄に対して、臆する様子も見せずにベージュのスカートを整えながら畳に正坐する。背筋を正したためにやや濃いピンクのカーディガンがすこしきつく映った。
「僕だって面白い話は出来ないよ」
謙遜するわけでもなく、素朴な実感として話したつもりだったが、響子はそう、と言うだけで取り合っているのかどうか、手元のグラスに口を付け始めるだけだった。
「薫さんとはどうなの? 上手くやってる?」
何の話だか、とお返しをするようにおざなりな言い方をしたところ、だってカノジョなのについていかないっておかしくない、と追及してきた。茶化す調子でもないので響子の方へまともに目を向けると、きつい視線とかちあってしまった。
「薫さんとはいつもいるから、今更なんだろ」と哲治が助け舟を出してくれたが、
「だからってテツ兄の相手って、ねえ」
と皮肉ぶった口調で返してくる。奥さんの方をうかがうと、動揺しているわけでもなく、しかし微笑みは無くして斜向かいに坐る二人を見つめていた。
「まあ、俺は桜井さんに比べたら頭は良くないけどさ、でも別に不快にさせることなんか何もやってないぜ」
「そういう問題じゃないんだよ。薫さんを放っといてテツ兄の相手するのがダメなんじゃないのって話」
「だからそれは、たまには俺と喋りたい時もあるだろう、って事で」
「で、喋ってることが理屈っぽい変な話? それが役に立つの?」
「そりゃ、お前にはわかんねえだろ」
「わかんないって言うばっかりだよね、説明できないだけなんじゃないの、結局」
言葉はともかく、口調は二人とも押し殺したような所がある。一通り口論をした挙句、お互いの意見が合わない事を悟ってこれ以上疲労したくないといった調子があった。意見自体が噛み合っていないし、単純に自分の言い分だけをぶつけて済ませたいというところがうかがえる。
「ま、いいや。桜井さん、今度来る時までに読んでおくよ」
立ち上がると、扇子で仰ぐように文庫本の表紙を顔のあたりでかざしてみせた。入口を出て少しすると、階段を上る音が聞こえてくる。しばらくは戻ってこないだろう。それを察したのか、響子の口調はきつさを増していった。
「私、やっぱり最近のテツ兄、嫌い」
ぶつけどころが遠くに行ったのに比例して、声の通りは良くなっている。最近といっても一年近くにはなるだろう、と指摘しかけたものの、茶化すつもりかと咎められそうだからやめにした。第一、今日初めて喧嘩の現場に立ち会った僕からしてみれば一年というのは長く感じられるものだけれど、十五年ほど同じ屋根の下で暮らしてきた身からすれば、一年くらいは最近と括ってしまえるのかもしれない。
「いつもこんな調子なんだ」
「うん。ていうか昨日も喧嘩したばっかりだから、ちょっと引きずってる」
「ここのところは、まあまあ穏やかだったのだけれど」
気付くと奥さんは少し微笑みを取り戻していた。というより、さっきだって本当は微笑みたいところだったが場に似つかわしくないから留めておいたという様子だ。
「ますます理屈っぽくなってるってこと?」
「別に理屈っぽくなるのはいいんだけど、やたらとこっちのことを否定してくるようになった。たとえば昨日だって、夜遅くまで起きてたら桜井さんたちとまともな話できないでしょ、って言っただけなのに、どうせお前には分からないから関係ないだろ、とか言い出すし。私は単にテツ兄のために言っただけなのに……お父さんやケイ兄だったらちゃんと言い返せるけど、私じゃいつも喧嘩になっちゃう。それに、お父さんとケイ兄は家にほとんどいないし、お母さんは喧嘩するタイプじゃないから、ぶつかるのは結局私だけ」
奥さんの微笑みを通して響子の様子を見てみると、そのきつい口調も単純に兄を嫌っているという様子でもなく、それと付随して兄を嫌うようになった自分のことを責めているのではないか、と思えてきた。
「昔は優しかったものね、お兄ちゃん。周りの子どもは何かあるとこの家に集って、お兄ちゃんが取り仕切って遊びやら何やらを計画してた。お山の大将みたいに上から命令するんじゃなくて、公園で遊びたい、とか、山で遊びたい、とか、そういうあれこれの意見を全部聞いてから、公園で遊ぶのが一番良い、ってまとめて、次は山に行く、っていう約束も決めてた。響子はそういうお兄ちゃんに一番助けられたんじゃない?」
奥さんが問いかけると、響子は少し目を背けた。
「響子が家で一人になっちゃうから、響子も加われるような遊びを考えられないかって言いながら、皆で新しい遊びを考えてた。あの遊び、しばらく流行ったわよね。鬼を一人決めて、その子を守る側と奪い取る側に分かれる遊び」
「そうでもない……って言いきれるわけでもない、かも」
煮え切らない態度を取るところを見ると、見立ては間違っていないようだった。
「その点、今は本を読んでいろんな考えを取り入れてる時期なんでしょうね。それが普段の生活で使う思考回路と大分違っているから、一本に集中するために響子のことは邪慳にしている」
「そうじゃないかしら。でも、響子としては一人にしてほしくないんでしょう?」
別にそんなわけじゃない、と否定はするものの、語調が弱いので反抗までには行き着いていない。
「変な知恵を教えてる身としては、一人立ちしたところで思いやりも忘れちゃいけない、って教えてやんないといけないんですかね」
「ていうか、なんでテツ兄の相手なんかするの? 薫さんはカノジョでしょ? 一人きりにしていいの?」
普通はフォローが入るべきところなのに、きつい口調が再びやってきたので面食らってしまったが、考えてみれば中学生でそんな世渡り上手な口の利き方が出来るはずもない。
「それとこれとは別だろ」
思い通り、薫については放ったらかしにしても大丈夫であるかのように素っ気なく答える事が出来た。時にはまともに取りあわないで、相手をいなすことも重要であると教えなければいけない。
「別だけど、でも……」
「言いたい事はわかるけどさ、あいつだって一人きりのほうが楽しそうにしてるタイプの人間だから」
無頓着というわけでもない。僕のいないところでも薫は薫であるし、彼女だって僕がいなければ自分が保てない、なんて思ってはいないだろう。ありていに言えば束縛めいたものは僕たちの間にはないのであって、現在の放擲を表現するには信頼というのがふさわしい言葉だ。つまり、今この場で薫の話題を出すのはどこまでつきつめても間違っているし、関わるべき話でもないから、僕は引き続き素っ気なく答えた。
こうして肩透かしを食らった形になる響子は、唇を噛んで睨み始めた。とはいえ瞼には力が入りきっておらず、首もそれまでの前にのめった体勢から、後ずさりしたように顎が上がって見えた。
「……もういいよ、だったら私が薫さんについていく」
と言って響子も立ち上がってしまった。行先は兄とは逆の玄関の方だ。あれが哲治との口論の末に取る態度か、と確認しつつ見届けてから、すいませんね、と奥さんに詫びを入れた。
「いえ、良いんですよ。今の子どもたちは皆頭が良いから、私なんかは、そうなの、と言うばかりでまともに相手をすることが出来ないもので。桜井さんみたいに壁になってくれる人がいた方が良いでしょう」
そこまで言われると買い被りも甚だしいな、と思えたが、依然として皺を露わにしながら目を細める顔に見つめられていると、そうしたあけすけな態度に対してはお世辞だと捉えること自体間違っている気がしてくる。
「黙って見てる方が正しい気はしますけどね。本当は子どもの問題は子どもの間だけで解決するべきなんでしょう」
そうかしら、とまた僕のことを持ち上げるような首の傾げ方をしてみせる。
「今まで、甘やかしてばかりでしたから。たぶん響子は誰かにそっぽを向かれるのを極度に嫌うんだと思うんです。でもどうしたらいいかわからないから、相手と同じ態度をとってしまう。私たちは、特に哲治は一番、響子のことを大切にしながら生活してきたから。こう言うのもなんだけれど、徐々に人から突き放されることに慣らしていく経験も、積ませるべきだったのではないか、と」
「甘やかすことにはそういう面もあるだろうけれど、一概に悪いことばかりではないと思いますよ。むしろ外側から見たら、真っ当に育ってますよ、二人とも」
「桜井さんにそう言っていただけると助かります」
倍近くも年が下回っている人間の、誰にでも言える一般論にも耳を傾けてくれる。おそらく兄妹はこの養母が見せる、自分を小さく見せて相手を立てる態度のおかげでそれなりの良心を保っていられるのだろう。単なる育ての親ではない、恩人とも言うべき人がここまでへりくだって見せるのだから、そうした態度を無下にしてしまってはこちらのメンツも形無しになってしまうというものだ。
もしくは、喧嘩してバツが悪くなった時、こうして微笑みながら迎えてくれる人がいることで、いつもの自分を穏やかな状態の中で取り戻せるようになるのだろう。そういう役回りが出来るのならば、別に首を傾げるような真似をする必要はない。にもかかわらず、この人は首を傾げてみせる。無自覚にせよ、そこには余裕のようなものが仄見えた。嫌味は全くない、ひたすらにこちらを慮ってくる余裕。自分の持っている価値のある物を、持て余しているからと惜しみなく分け与えてくれる余裕。
「そうすると、薫のことをあれこれ言ってくるのも哲治に対して抱いてる不満の転嫁みたいなものだったのかな」
「そうかもしれません。お気を悪くしたら、ごめんなさいね」
こちらは気にもしていないのに、しっかりと白髪のまじった結った髪を見せながら、頭を下げてくれる。そうした仕草を見せられては、響子の事も頭ごなしに叱ってしまったのではないか、という疑念が湧き起こってくるというもので、
「ちょっと追いかけてきますね、せっかくの幸太の誕生日なのに、後味が悪くなるのもいけないから」
とわだかまりをなくすために立ちあがると、そう、いってらっしゃい、と単純に見送ってくれる。その様子もまた、余裕があるものだった。
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