twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

置き捨ててしまった小さな背中:編集後記

 聡明であるがゆえに周りから一歩引いて物事を見ることができ、その姿が傍目から見れば浮遊しているようにも見えるから、近寄りがたさを感じて爪はじきにするつもりもないのに独りにさせて、本人は本人でさみしさを覚えるような性質ではないので結局別の道を歩んでしまう少年の話が、妙に頭から離れない。造形の手つきからしてヘッセあたりかと見当をつけているのだが、ともあれ少年は周りから外れて独りで自然を愛でる日々を送る。ところが、何かの拍子に自然からも外れて、小川のせせらぎに誘い寄せられ、そこに浮かぶ小舟に乗りこんでしまい、二度と帰って来ることはなかった。暗い夜の出来事だったはずだ。夏のことなら蛍が道案内を務めてくれて、あるいは日本のことならホトトギスが船頭を務めてくれる、と興趣が添えられそうな気もするが、頭には、ひたすら暗い視界の中どこへ行くとも知らされず、かといって震えるでもなく、周りから外れた時のように結局行き着いた先でも落ち着く事はないのだろうから、たとい鬼が出ようと蛇が出ようと通り抜けるのみ、今更怖がることもないだろうと一切を受け入れるかのごとく前を見据えている少年の背中だけが残っている。
 以来、人間は何かの拍子に自らの少年時代を置き捨ててしまう生き物ではないか、という観念が根付いてしまった。もしかしたら漠然とした想念が寓話めいた話によって呼び覚まされたのかもしれない。とはいえ、元の話が載っている書籍に行き当たりもできず、自らの来し方を振り返ってもピンと来るものがない、と来た日にはもっともらしく書いたところで説得感は出ない。むしろピンと来るのは自らには縁のないはずの、あるいは他人が話してくれたわけでもない、ひょんなことから頭に訪れた妄想にも等しい断片的なイメージと来たものだ。
 たとえば迷子になって闇雲に走り散らした揚句、いっそこのまま果てまで向かってしまった方がつまらない果てが待っている人生を送るよりもいいのではないかと振り切りかけた矢先に、見覚えのない川瀬に行き着いてしまって、左右を見渡しても橋がないから行き場がなくて坐りこんでしまった少年。

 普段兄が占有してる自転車を羨ましがって、ある日こっそりと鍵を奪い自らの所有にし、あちこちを走り回った末に兄にも出来なかった芸当をやってのければこれは自分にこそ相応しい代物だと証明出来るのではないかと、坂道をブレーキも利かさず全速力で駆けて転倒してしまい頭から血を流す少年。

 放課後の夕暮れが差し込む教室に居残って、課題があるわけでもなし、とはいえ家に帰るのも物憂い、ただただ黄金色に輝く時間の中に身を浸して、この瞬間を知っているのは自分だけだと感じることでむしろこの瞬間を永遠には出来ないかと模索する少女の黄昏た姿を、ドアから盗み見ている少女。
 少年少女をモチーフにする時は、そんな縁もゆかりもない断片的なイメージにこだわり続けて、文章を書いてきた。向こうからすればそんなこだわりは余計なお世話であり、あるいは大人からすれば固執したところで懐古主義、あるいはセンチメンタリズムとの謗りを受けるだけだろう、と咎められかねないところだ。そもそもそんな少年や少女が本当にいるのかどうかもわからない。元の体から切り離されて、置き捨てられてしまったかのごとく、あちこちに浮遊している姿だけが浮かび上がってくるだけの話である。ただ、どうにもそうした一人きりでいる姿を見ると、申し訳なさが先立ってしまう。憐憫、とするのが相応しいか。

 誰かを頼りにするどころか、自分さえも蔑ろにしてしまって、目の前に続く道を真っ直ぐに見詰めている背中だけが見えている。このままでは破滅に近い結末が待ちうけているが、導きになるだけの体力はとうに失ってしまっているから、追い越して前に立つことは出来ない。ただただ、責任を負うことも出来ない背中だけが見えている。どうせ先導も出来ないのならば、せめてその背中を押させてくれるよう頼んでみるか、果てまで向かう力が衰えないよう手助けだけでもできないものか、思案している隙に足元にも及ばないところまで走ってしまっている。
 さしづめ、彼ら彼女らが、元の体から引き離されて自分さえも置き捨ててしまう瞬間を捉えることしか、小説家には出来ないのではないか、という諦めさえも思い浮かんでくる。あるいは、彼ら彼女らが、果てまで行き着いた末に力を失い坐りつくしているところへ、何の事情も知らないくせに、自分にもおぼろげながら思い当たる節はあるから放っておけない、という具合の自分勝手な憐みによって手を差し伸べることしか、小説家には出来ないのではないか。ともあれ今のところは、さみしさを覚えないまま走り続けた彼ら彼女らが、やがてさみしさを知ってしまった時に隣にいるのは悪い事ではないだろう、というくらいの心持で小説を書いている。

 暮れなずむ道をたったひとり、リヤカーのうしろにのせられてひかれて行く子供の姿が見える。昼間の引っ越しは機銃掃射をおそれて避けたのだろうが、それにしてもこんな時刻に、なぜひとりきり先へやられたのか、どう言い聞かされてきたのか、覚えはない。梶棒を取る見知らぬ男の背が物も言わず、地下足袋の脚をひたひたと運ぶにつれて、道は暗くなる。子供も物を言わない。何を考えていたのか。これで安穏なところへ越せると思っていたのか。何処へ行くのか、知っていたのだろうか。
 西の在所の農家に身を寄せてほどなく、ある夜、城下町が全体に炎上するのを、畑の間から眺めた。赤く焼けた空へ、白熱した火炎がつぎからつぎに押しあがる。吸いこまれるように眺める人の顔も赤く照っていた。また家をなくして美濃の奥の母親の実家にようやく落着くことになり、長かった梅雨が急に明けて猛暑に変わり、広島に特殊爆弾が落とされてたった一発で街が壊滅したと伝えられ、まもなく敗戦となった。それからは子供ながら心身が弱りはてて、炎天の午後をすごすのも苦しく、夕方の涼風が立つと年寄りのように息をついていた。その体感は後年まで、夏の盛りにはいまだに過ぎ去らずに思い出された。しかし、暗い道をリヤカーにのせられて運ばれて行った子供の姿を見送ったのが、最後であったような、そんな哀しみをときおり覚える。
 (中略)
 いずれまた出会うことになるだろう、とその頃から、暮れ時にリヤカーにひかれて行った子のことを、今では暗い土をひたひたと踏む足の気配しか伝わって来ないが、振り返るようになった。とにかく無事だった子供の身にいつまでこだわっているのか、何の悔いのあることか、と訝りながら年を取ってきたけれど、この年になれば、ひとりきりになって行った子を、それこそいつまでも、放っておけるものではない、というような気もしてきた。記憶はいよいよ声や音を消されて、いたずらに鮮明なようになって遠ざかるそのかわりに、静かな夜明けの、ふっと耳について静まりをさらに深める木の葉の、一葉ずつのさやぎの内から、これを限りの切迫が兆しかけるように、聞こえることがある。それが天地に満ちて、身の内にも満ちきる時、そばに子供がいるか。
 黙って手を引いてやらなくてはならない。手を引いて、そこから先はもう一本道になり、その涯までつれて行く。
                    古井由吉「子供の行方」『蜩の声』

 夏号の誌面がこうした私の気分を反映しているかはわからない。そもそも個人の単なる思い込みを元にして、こんな原稿を書いてほしい、などというのは押しつけもいい所であって、そんなことをしては書けるものも書けなくなってしまう。とはいえ、原稿を寄せてくれた部員たちが、執筆をしている間にふと置き捨てられた少年少女たちのことを思っていてくれたら、あるいは、部員の原稿を読んだ人が一人きりでいる少年少女たちのことを思い起こしてくれたら、きっと彼ら彼女らは一人でありながら一人ではないことになり、これからも心おきなく駆けていけるのではないか、そんな漠とした考えを一通りの編集を終えた今では抱いている。


                          夏号編集長:日居月諸