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「ガラスの街」:蜜江田初朗

 ちょっとした、でも確かに冷たい温度で私の中心をひどくしばりつける、胸の痛み。
もう、これ以上何も傷つきたくないというのに。
 十月の空が街を支配する、その地に近い所で、十七歳の杏は自転車を漕いでいる。一心不乱に、時に自転車を漕いでいることなど忘れてしまいそうで、でも思い返したらとにかく一生懸命にペダルに体重を乗せて。私の中心を襲うこの確かな痛みと共に。
 グリーンの塗装に包まれた自転車のボディも、この暗闇の中ではその存在感をあらわすことはない。むしろ、冷たさと暗さの圧倒的な空気に飲み込まれてしまっていて、その色すら物悲しい表情を作っている。少なくとも今の杏にはそう見える。
 信号の目の前で止まる。赤のライトの点滅は、大した意味もなく視覚をいたずらに刺激する。何を、何を止めろっていうの? この痛みを? この存在を?
 こんな片田舎のこんな遅い時間帯なので、人どころか車通りでさえ少ない。それでも赤信号で止まらざるを得なかったのは、痛みを抑えたくて抑えたくて、それでも止まらないこの冷たさをどうにかしたかったから。哀しくて。
 人間関係については、少なくとも今までの人生の中ではうまくやってきた――そしてこれからも――はずだった。だから、私は、アイツのことが理解できない。少なくとも、私の知っていた、あの優しくて情緒深い性格だったはずの、アイツではない。
――「お前に、何が分かるんだ!」
 私に何が分かるかって? 全部よ、全部。私に見えるものの範囲の中でなら、全部。そう言いきれるくらい、私は彼の事を分かっているつもりだったし、優しくしてきたはずだった。
 なのに。
――「お前に、何が分かるんだ!」
 その言葉を放った時のアイツの表情を思いだそうとするが、できない。頭と心が拒否しているのかもしれない。思い出すな、敵の顔を。
 敵。たった一瞬で、友達と言うものは敵になってしまうものなの?
 私たち人間の関係というものは、そんなにも儚くて、そして哀しいものなの?
 信号が緑に切り替わって、またペダルに足をかけて、自転車を漕ぐ。
今日はどうやら風が吹かない。街そのものが、静まり返った感じ。わずかに、CDレンタル屋さんのけばけばしい電光板の光や、暗闇にひっそりと生える植木の緑たちが、杏の視界と心にただただ意味もなく流れ込んでくる。
 ……痛い、っ。
 身体と心というものを完全に分けることができないのだとしたら、心の痛みは身体の痛みに決して劣ることはないだろう。人との――一瞬の――亀裂を目の当たりにしてしまった杏は、多分未だにその事実の重みを把握できていなくて、それでも衝撃だけが杏の頭の中をかけまわって、そうして冷たさと暗闇の深みに接している。
 痛みを抱えた自転車は、ガラスでできた冷たい街の中を、一秒一秒すすんでゆく。

   ☆

 

どれくらい走っただろうか、気がつくと杏は帰路にいた。飛び出してきた、家族のいるアパートを頼りに、自転車をくねくね走らせている。行きの時と違って疾走感はない。杏の体は火照っても冷めてもいなかった。むしろ秋の空を覆う空気はひんやりと冷たく、それは時として人の健康な精神を蝕んでいくほどの不気味さを兼ね備えていた。

 杏は夜道が怖くなり出した。一時の感情で家を飛び出したことを後悔しはじめてすらいた。杏の住んでいる街では、たとえば大通りから離れた地域ほど、夜間灯の整備はおろそかであった。

杏が特に嫌いな場所が二つあった。一つは、杏が中学生の頃通っていた、空き家の前。もう何年も前、それこそ杏が生まれる前からずっと空き家の状態で、壊れた家屋の割れた窓ガラスや木片などがずっと散乱したままなのだ。その空き家には庭もあって、これを庭と呼べるか怪しいほど草木が荒れ放題になっているのだが、その不気味さといったら無かった。杏が中学生のとき夜遅くそこを通ると、この庭には魔物が住んでいるかもしれない、と真面目に何回も思った。それになぜ一向に建物が取り壊されないのかも不思議だった。

もう一つは家から少しだけ離れた所にある公園だった。基本的に、公園というものは、昼の時間帯のためにある、と杏は幼少のころから結論づけていた。それには公園の様子を一日中ずっと観察していれば事足りる。公園に設置してある遊具や、サッカー・野球をするためのスペースは、子供が明るい時間帯に遊ぶものだし、事実、日が暮れると公園という場所には誰ひとりとして存在しなくなる。たまに、深夜になって、金髪のヤンキーや騒ぐ高校生たちの溜まり場と化すだけだ。

 そのように、暗がりの中誰ひとりとして人がいないか、若しくは怪しい集団がたむろしている様子は、昼の公園とは全く違ったものである。夜の公園は人々の意識からは遠ざけられる。ただし私のような、近くにアパートがあるから公園は意識せざるをえない人々は除外して。そして、杏は夜の公園の雰囲気がとても苦手だった。二つの薄暗い街灯のあかりが、逆に公園の侘しさを際立たせていて、灯りの下には誰かが居ると何回も思った。口が耳まで裂けた女、チェーン・ソーをひたすら振り回す男、汚い恰好をしてよだれを垂らした不審者、長い黒髪を束ねた白装束の女……。イメージの源泉はよく見るテレビだったり、真夏の怪談話だったりした。公園の灯りの下には、そのうち誰が出てきても可笑しくないくらいほどの戦慄の手触りがあった。

 杏が現在たどっている道からして、一つ目の空き家近くを避けることはできそうになかった――公園はなおさらだ。杏は彼女自身でも気がつかないほどにその額にうっすら汗をかきはじめ、自転車の方向を定めた。街灯は少ない。杏は空を見た。三日月と半月のあいだくらいの月がわずかに光っていただけだった。ちいさな通りに並ぶ住宅や会社や何らかの建物たちは、むしろ道路に大きく暗く伸びる不気味な影になっていた。杏はそれらをタイヤで踏みしめるうちに、今が暑いのか冷たいのか全く分からなくなった。

 かなり細い通りに入って、百メートルも二百メートルも先に例の空き家がそびえ立っているのを杏はすぐ目にしてしまった。少し意識しすぎているのだろう……。杏は冷静さを取り戻さなくては、と自分に言い聞かせた。しかし、空き家の手前にさしかかったとき、彼女はある感情を露わにせずにはいられなかった。先程も言った通り、この空き家には壊れた家屋と伸び放題の庭とがあるのだが、その庭の右すみに黒いものが立っているのが見えた。杏はすれ違ったその瞬間、黒い少女が立っている! と思った。決して明瞭に見えたわけではないが、何かとても黒々としていて、そしておそらく背の低い少女。それが荒れ放題の庭のす隅に独りで立っている……と思った。もちろん何か木材とか石とかの間違いかもしれなかった。でももし本当に黒い少女だとしたら? 杏はもう空き家を背後にしていた。今度は自分でも尋常ではない量の汗をかいていることに気が付いた。杏の脳裏には、黒くてぼさぼさとしている、そして少女の形をしている像が焼き付いていた。彼女は口をきゅっと閉めたまま、自転車を猛スピードで走らせた。

 

 杏は自分の部屋のベッドのことを思った。一刻も早く家族のいるアパートに着き、そして自分のベッドにばたんと身をあずけられたら……。恐怖に駆られた妄想はそれを打ち消してくる。後ろから黒の少女がついてきているのではないか、とか、いやもしやこの自転車に少女が丸ごとはりついているのではないか、とか悪いイメージはいくらでも出てきた。その度に杏は自転車の後方に目をやり、先ほど目にしたような少女は見当たらない、と確認してまた前を向いては、恐怖の妄想に駆られるのだった。

 そのうち公園が現れた。このとき杏は進む道だけを見て、公園には一瞥もくれてやらないと心に決めていた。杏のアパートは、公園の角を二回曲がって真っ直ぐ進んだところを右に入るだけだった。家はもうすぐだ。

 一回角を曲がって、もう一回角を曲がったところで、杏は安心した。そして、角にある公園の入り口を目にしてしまった。杏は「きゃああ!」と声をあげた。入口の所に、先ほどの黒い少女が立っている……。全身が黒くぼさぼさとしていた。少女の口元が見えた気がした。黒い少女は薄く笑っていたのだ。

 杏は気が気ではなくなって、アパートまで猛突進した。ほとんど目をつむるようにして、感覚だけでアパートの自転車置き場にたどりついた。ハァハァハァ、と息が切れる。もう、すぐさま家に入ろう。ここまでくれば。

 そうして、自転車の鍵に手をかけたとき、杏は自転車置き場の暗がりの中から、物体がゆっくり姿を現すのを目にした。最初は影と一体だったものが、今や分離された。黒い少女は、熊の毛皮のようなものを全身にすっぽりと被っていた。彼女は本当に黒々としていたのだ。黒い少女の身長は杏の半分くらいだった。顔は毛皮のようなもののおかげで下半分しか見えなかったが、黒い少女の口元は真っ赤に塗られていた。まるで鮮血のような紅さで、それは美しささえ感じさせた。

 黒い少女の口元が再び開き、その表情はニタァ……とほかでもない杏に向けて笑いかけられていた。今や黒い少女のひきつった顔面は杏の目の前にあった。

 

 「杏―?」 部屋の扉がガチャリと開けられると、ベッドには杏の大きくない身体が横たわっていた。

 「あんた、どこ行ってたの? バタバタ帰ってきたりして。」

杏は何も答えず、うつぶせたままだ。母親は返答を待っていたが、しばらくすると小さく鼻を鳴らして、ご飯は電子レンジにあるから、と言って部屋を出て行った。

 何とか、何とか家に帰ってきた。今は大丈夫だ。杏は思った。でも、今日は、寝るときに灯を消すことなんてできそうもないよ、と。

 

 、……そう、その灯だけは、その灯が、この心の内の、冷えた吐息を、それゆえ……。

 

 

(了)