参加者:6、イコ、ふかまち、日居、あんな、緑川
6: こちらは座談会「小説と詩の恍惚をめぐって」の会場です。
ふかまち: おねがいします。
イコ: おねがいします。
6: イコさん、ふかまちさん、あんなさん、日居さん、来ていただきありがとうございます!
手掛かりのないテーマなのでうまくできるか心配ですががんばります。ではいきますね。
小説や詩をはじめとする、「読書」という行為はときに「現実」をも巻き込んでさまざまな体験をわたしたちに与えてくれます。むろんそれは読者という読み手がいなければ引き起こせない事件だと思うのですが……。事件とまではいかなくても、これまでの経験から印象に残っている読書体験などあれば教えてほしいなぁと思います。
どなたからでも、どうでしょうか!?
どんなことでも結構です。読書に纏わる忘れられないことなどありましたら、お願いします!
ぱっといわれてもなかなか言語化しにくいかな。では僕から話したいと思います。一年に何回か、まさに雷に打たれたような衝撃的で幸福な読書体験をすることがあるのですが……。最近では芥川賞作家の朝吹真理子最新作「いりくちでくち」がそうでした。
「Scene」と名づけられた短い断章がいくつもつづき、小説としての構成されているのですが、それが突拍子もないフリースタイルの詩のような文章が多く、とても興奮した次第です。
そのうちのひとつに、
『Scene 夫
(中略)
わたしは、ひかりにおぼれて、死にました。いまは、まだ、しりません。
がんどうがえし。
忘れたいことは、すべて、忘れた。畳にさしていた、ひかりがおしよせ、身体がうしろへと、かたむいていく。ひかりに、ばたん、と、のまれて、消えた。
うみのおと さふ さふ
いちめんの なみ
娘たちのうたう、うたが、自分の死ぬ日のことだとは、しるよしも なかった。娘の声。意味はわからない。音のふるえしか わからない。
その日は、光をとりつけていた。廊下の電球が切れていて、それをとりかえていた。その日は、たしか、祝日で、お祭りが近くにあるというので、娘たちは、でかけている。
廊下に面した一間。
古い畳に、ひかりがさしこんでいた。
それは、ふしぎとひかり、ひかりで、川をつくってゆく。畳から、わいて、とろとろあふれ、天井にも、なみもよう。ひかりは、アメを炊いたような色。しぼった、くだものの汁にも似ている。わたしは、その、ひかりに近づいていく。ひかりに足が濡れ、あしさき、くるぶし、ふくらはぎ、すべてがひかりにひたされて、ひたひたに、なってゆく。身体がうしろへと反り、ひかりがせりあがるのか、畳が、せりあがるのか。あしのうらからおされて、畳が垂直にかたむているのか、わたしがかたむいているのか。わたしのからだは、どんどん水平になってゆく。天井がすぐ、あしもとにあり、そのまま、ひっくりかえって、消えた。
わたしは、ひかりにおぼれて、死にました。
がんどうがえしで、死にました。』
(朝吹真理子・飴屋法水「いりくちでくち」『新潮』二〇一三年六月号)
6: 以上のような断章がありました……。他にも興奮した箇所はいくつもあるのですが、とくに衝撃的だった場面です。ここだけ読んでもよく分からないかもしれませんが、僕はここの「ひかり」の描写を読んだ時に胸の奥をくすぐられるような、くすくすという笑いがこぼれるような気がしました。文章にからだをさわられるような、身体的な感覚がこのわずかな文章から感じ取ることができ、とても驚いた覚えがあります。うまくこの感動が伝わっているかどうか判りませんでしたが、とにかくこんなことは初めてで、踊りだしたくなるような、万歳をしたくなるような気持ちとでも形容すればいいのか……何とも言い難いです……。のっけから一人でハイテンションですいません(笑)
イコ: 「ひかり」がいっぱい使われてるなぁ。
ふかまち: これだ! という文章にであった6さんの興奮が伝わってきましたよー。
6: ありがとう!
ふかまち: わたしはですね、小説とか童話なんかはおもしろいなーと思いながら、小さい頃からちょくちょく読んでいたんですが。
6: ふむふむ。
ふかまち: 詩はおもしろいと思ったことがなかったんですね、でもなんとなーく開いた文学極道(ふふふ)というサイトで一条さんという怪物に出会ってからは、もう、これしかないみたいな感じで詩にのめりこんでいったわけですね。
ふかまち: ここにあります。この「血みどろ臓物」という詩に、本を読むということ、自分がなぜ本を読み続けているのか、読書というものからなにを得ようとしているのかを、ぐりぐりえぐられました。
6: 「血みどろ臓物」……読み中……。
ふかまち: それから詩を読むようになって小説がもっと好きになったし、小説を読むことで難解な詩も少しは理解できるようになってきた、という体験。
6: 「血みどろ臓物」……読みました……。これもすごいですね! 「あたし」があふれている。
イコ: どういうところにえぐられたんですか?
ふかまち: そうですね。読むということから何かを得ようとしている、何か貪ろうとしている、そういうせこい根性をこの詩に指摘されたかな、わたしの場合ですが。
6: ただのお上品な詩にはない、色んな要素がちりばめられていることをふかまちさんは嗅ぎとったということですね。
イコ: ふーむ。
6: 一条さんをるさんやふかまちさんがよく褒めていて、どういうところが良いのかっていうのが僕もよくわからなかったんだけど、初めて真剣に一条さんの詩と向き合ってみて、この詩から感じたのは、平凡な日常から、物凄いスピードで展開して行くんです。存在とか時間などに意識をかたむけられながら、時折なんだろう……、キラーフレーズで「絵」を見せて、なおも突進していくような。「あたし」が「あたし」に向かっていくんだけど、最終的に「あなた」にたどりつくようなところが何かすごかったです。
イコ: 6さんはどのへんをキラーフレーズと思いますか。
ふかまち: すげーイコさんが食いついておる(笑)
イコ: 具体的に聞きたいんだもん。
ふかまち: ですよね。
6: 『あたしがあなたに与えることが出来るのは、ページがめくられるたびに生起する風の音だけ』こことかですね。
イコ: もしできるなら、ですけど、そこを「キラーフレーズや!」と思う感覚に理由づけできますか?
6: キラーフレーズというものの僕のとらえかたは……空気が一瞬にして変わる言葉かな。
暴走族とか利便性とか都市開発とか何だか落ち着かない言葉が続くなかで、一瞬この詩をかけぬけた「風」。予想もつかないおだやかでさわやかな風。そういう感覚でしょうか。この詩は概念的な言葉と、映像的な言葉が混交していて、でもそれが描き分けられているような印象を持ちます。なんか大友の漫画のような印象を受ける(これは言語化できないです)。しかもフルカラーの奴。
ふかまち: ふむ。
イコ: ふーむ、ありがとうございます。ちょっと考えてみましたが、難しいなー。
『読むということから何かを得ようとしている、何か貪ろうとしている、そういうせこい根性をこの詩に指摘されたかな、わたしの場合ですが。』
ふかまちさんのこの言葉を受けて、「何か」ってなんやろって考えたとき、「意味」みたいなものを当てはめてみたんですね。そしたら少し、ああ確かに意味を深く考えることにあんまり意味はないな、と思えました。でもそういうものだとしたら、何を喜んで、恍惚として読むかっていうと、自分は、6さんの使った「キラーフレーズ」(使い方が少し違うけど)だった。そのキラーフレーズを見つけられるような詩と出会いたいと、お二人の話を聞いて思いました。
ふかまち: なるほど。
イコ: この一条さんの詩に自分は恍惚を得られないけれど、それはそれでいいんやと思ってはいます。
6: 「読む」という行為が更新されたってことかと思っていました。それまで使っていなかった脳のある部分がこの詩によって動き始めたかのような。
ふかまち: 何がつぼにはまるか人それぞれだからイコさんのいうとおりと思います。
イコ:
『「読む」という行為が更新されたってことかと思っていました。それまで使っていなかった脳のある部分がこの詩によって動き始めたかのような。』
ああ、こういう表現があるんや、まったく気づかんかった! と思うことはありますね。自分にとっては「惑星ソラリス」の藻がそうだったなー。
6: そういう感覚って、何かを詳しく知っていくごとにあるんじゃないかと。「黄色い本」で僕のある部分の脳みそが動き始めた。「いりくちでくち」でもそうかもしれない。
イコ: 『俳句は第一芸術と区別して、第二芸術とでも呼んだ方がいい』っていう、桑原武夫の『第二芸術論』での俳句への痛烈な批判に対して、水原秋桜子が『黄蜂二号』で『俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである』と述べたんですね。これ自体は有効な反論にはなっていないと思うんだけれど、たとえば小説だったら小説、詩だったら詩、なんでも、実際に作ってみるとか、深く知ろうとして、初めて分かってくるものがあるんでしょう。でも深く知ろうと動機づけてくれる突破口的な作品が必要なのも事実。ふかまちさんの詩への認識をかえる突破口が、一条さんの詩やった。そういう体験って、めちゃ幸福やと思うなぁ。
6: そうですね、小説を書かなければ読めなかった感覚はあると思います。
あんな: こんばんは。わたしは小説を書くために読み始めたところがあります。
6: こんばんは。
ふかまち: あんなさんこんばんは!
イコ: こんばんは、あんなさん。
ふかまち:
『たとえば小説だったら小説、詩だったら詩、なんでも、実際に作ってみるとか、深く知ろうとして、初めて分かってくるものがあるんでしょう』
書くにあたって読んだものから何かを自分のものにしたいと思いながら読むと、また違う読み方ができて違う面白さが味わえるのかな、でもその副作用もあるかなんて思います。
イコ: ふかまちさんは、副作用をどんな風に感じておられますか。
ふかまち: んー、恍惚するたびに道に迷って筆が止まってしまったり、巨大な壁になってしまうという副作用ですかね。でもこれを乗り越えれば一気に跳躍できるから悪くも無いのかな。
イコ: 読めば読むほど無自覚に書いてる自分が分かって、これでいいのん? ってなり、書けなくなる、っていうのはあるかも。
6: 副作用か……。
ふかまち: すばらしい文章と出会うのはしあわせだけど怖くもあるかな。
イコ: 文学の世界は怖い人ばっかりですね。
6: 自分と比較してしまって、暗くなることはあります。
あんな: 純粋に作品を楽しめてるのかなって思うことはありますね……。
6: あんなさんのはどういう? 楽しめないものっていうのは副作用的なものですか。
あんな: うーん。もう書かない人目線で作品読めないじゃないですか。
6: なるほど……なくしてしまった視点ですね。純粋な受容者としての視点。
あんな: はい、芥川賞作品が本読まない人に、つまんない、と言われてる時とか、よく考える……。
イコ: ああ、よく言われてますね。「これが芥川賞!?」とか(笑)そういうセリフをネットなどで見るたび、あなたがたは一体どういうものを芥川賞だと思っているのか聞いてみたかったりする。
あんな: なんか溝を感じますよねー。
イコ: でもそういうとき、これを面白く読める自分は幸せやなぁ、と思います(笑)
あんな: たしかに!
ふかまち: ですね! すみません、家族と出かけるので抜けます。いやー、読書はすばらしい! そのひとことでまとめられるくらい、純粋に文学を楽しめればいいな。
6: え、そうなんですか。残念ですが、ではまた!
6: 「小説」と「読み物」の違いとは、それと出会う前と後で決定的な変化をあたえてくれるものが小説で、もともとの自分をやさしく撫でてくれるものが「読み物」と聞いたことがあります。その意味で副作用はたいへんかもしれませんが、薬になる文章とは、同時に毒であるということですね……。
イコ: そうですね、自分も6さんのおっしゃる「読み物」ではない「小説」を読むのはつらいときがあります。文章に抵抗されて、なかなか読み進められない。だけど、読み終えたときに、何かが更新されてるんですよね。そういう体験を得たくて、わざと滝に打たれてる感じ。
6: ええ……滝にうたれなきゃ……。
イコ: ちょっとまとめたので、自分の恍惚について、挙げてもいいですか?
作品にユーモアは大切だと思うんですが、ここまでやるか! っていう、「決死のユーモア」を体験したことがあります。
『相手が警官でも祖母が夜中にドアを開けることはなくなっていた。数年前から親切な警官が泥酔した父をドブから拾い上げ、家に届けにくるたびに睡眠を中断されることにうんざりしていたのだ。レートフェールデヘムの警察が他の何よりもタクシー会社に似ていた時期だ。まず父を玄関の前まで連れてきて、その三時間後にズワーレン叔父を届けにきたことさえ何度かあった。我らがヘルマンを部屋まで連れていき、ボロボロになった服を脱ぐ手助けまでするのは、さすがに度が過ぎた。結局のところ彼らはそれによって村全体の安全に貢献していたことになる。道に横たわって酔いを覚ましている者は事故の原因になるだけなのだから。』
(ディミトリ・フェルフルスト『残念な日々』新潮クレストブックス版、五十一ページ)
イコ: ベルギーの小説なんですけど、この小説との出会いは、たまらん幸福でした。笑えるんです、くすくす笑ってしまうんです、でも語り手はめっちゃ必死で笑いをとっているんです。
6: そういう体験はしたことがなかったなぁ。ユーモア小説というのをなかなか読んでこなかった。
あんな: わたしもあまり読んだことないかもしれない。
イコ: ベルギーに破滅的な酒飲み一族がいまして。みんなビールが大好きで、ろくに仕事もせず、日がな一日中、酒を飲んでばかりいる。主人公の「ぼく」は、その血を受け継ぐ少年。作家になってからの、後年の回想っていう形式。
どのページをめくっても、語り手がジョークを言わないところがないんです。ひとつのジョークがつぎのジョークを生む。全編ジョークのかたまりなんですね。日常をまじめな文章でストレートに書くんじゃなくて、どこかに皮肉を入れて、描く対象と距離を取らずにおかないんです。
町田康とか、爆笑しながら読みますけど、あれもけっこう決死のユーモアに分類されると思うんですね。読みながら、初めはただくだらないなあ、アホな作家やなあと笑っているだけだったんです。ところがだんだん、ジョークがとても切実なものに見えてきて。どうしようもない破滅的な一族を、たまらなく愛しく見ている作者の目に気がつくんです。おれたちほんとだめな人間だけど、こんな、「一つの悪いジョークの煮こごりみたいな人生」も、人生なんだよな、っていう。でも、ディミトリ・フェルフルストのそれは、ジョークで笑うたびに胸がしめつけられて、たまらなくなるんです。町田さんは、とくに初期作は、下手すると、ああ笑った面白かった、「でもなんでこれが芥川賞?」で流されてしまう危険があったと思うけれど、フェルフルストは、そうならんだろうな、って感じました。連作短編なんですけど、最後の方は、一行一行、とても大切に読んでいる自分に気がつきました。笑いながら、胸を締めつけられている。
6: 町田康はたしかに笑える。でもこういう皮肉というか、ウイットみたいなものはあまり読んでこなかったのかも。『吾輩は猫である』も挫折してしまったし。何か別のものをひきつれているんですね。ユーモアがユーモア以上のものを……。
イコ: そうですね、ユーモアひとつひとつが「人生」を連れてるんです。
6: 徹底すれば、「何か」が浮き出てくるんですね。徹底って非常に難しいんだけどなぁ。
イコ: うん、徹底されている。どこまでもひたすら読者をそのやり方で引っ張っていこうとする小説っていうのは、すごく好きです。書いてるうちに徹底ができなくなって、迷ってしまって、作者がうろうろしている小説を「集中力が切れた」って呼ぶんだろうな、と最近思います。
6: 笑いって非常に難しい手法だと思う。寒いって言われてしまったらどうしようかと考えてしまって、ずっと手出しできないジャンルになりそうです。
イコ: クソマジメも突き詰めればユーモアになるんじゃないかな。
6: うん、そういうのもありますね!
ここまでは読書のこと中心でしたが、創作について今度は話していきませんか。もちろん読書の話題が続いても大丈夫なんですが。
あんなさん、何か読書や創作で最近考えていることはありませんか。
あんな: 最近小説はどれだけ濃くできるかをテーマ(?)に書いてます……。なので一行一行、いじいじぐちゃぐちゃしてます。完成してみないと、このやり方がいいのか悪いのかはわかりません。
6: 濃密な文章を書こうとしているんですね。
あんな: 多和田葉子の『文字移植』とか『変身のためのオピウム』とかが、自分にとって初めて字を字として読まず「世界」を感じられた作品だったと思うんです。自分はどうやったらそういう感覚を読者に感じてもらえるかってことを最近もっぱら考えてますね。
6: なるほど……。
イコ: 字を字として読まずって分かるな……。『文字移植』は、読んでるハシから字が崩れていく作品でした。
6: 「世界」を感じさせる、めっちゃ難しそうだけど、僕もやりたい方向性です……。その小説が存在することによって、小説の定義を変えてしまうような何かをもっているっていうのは素晴らしいことですね。
あんな: 何度も何度も読みたくなる、というのは理想な気がします。好きな本は何度も読んじゃいます。
6: 何度読んでも飽きない小説というのは、たしかにありますね。磯崎憲一郎の小説とか何度も何度も読みました。
あんな: お二人の創作の仕方はどんなですか?
6: イコさん、どんな感じでしょうか。
イコ: できるだけ人物と距離を取っていきたいです。でも人物に魅力をもたせたい。よく「自我」がどう、っていう言い方を自分はするんですけど、作者と作品の距離が取れてなくて、全編作者の自我に支配された小説って、今はあんまり好きじゃないんですね。人間を丁寧に丁寧に、でも観察者であるっていう目を崩さずに書けば、距離を取ることと、魅力をもたせることは両立できると思うんです。
6: 「観察」っていうのはイコさんの小説によくでてくるキーワードな気がする。
イコ: そのための方法を模索中ですが、今は人外を小説に放りこむことによって、人間と距離を取ろうとしています。魅力はともかく、距離を取ること自体は、できてきてるかな、と思いました。観察したいですね、めちゃ観察したい。
6: 人称から、観察=距離の取り方へみたいな流れかな…イコさんの創作は。
イコ: そうですね。
6: なるほど……そのために人外を使うというのが、特徴的なのかもしれない。
イコ: 芥川賞の藤野さんも、やってみたいと言っておられました。やばい、先にやられてしまう! と焦りが(笑)
あんな: 藤野さんの人称使いは軽く衝撃でした。
6: そうなんだ…あの人は、人間じゃないものが好きだから、たぶんゾンビとかかな……。
あんな: そんな手があったのか! という感じ。
イコ: 三歳の幼児やと錯覚させる「信用できない語り手」。
6: 「爪と目」ですか?
あんな: 幼児を使ってまさか二人称とは。
イコ: あれ三歳の幼児が大人びた口調で話しているように見えるから怖いんですよね。三歳が「あなた」とか言わんやろ、と思いながらも、謎の説得力で読んでしまう。でもほんまは、後年の「わたし」の回想なんです。
緑川: こんばんは。
あんな: 変な不気味さを漂わせるのに見事成功してますよね。
緑川: 実家からなので、今日はおとなしく……。
あんな: こんばんは!
イコ: こんばんは。チャットなのでご安心を(笑)
6: 実家なんですね。ということは九州?
緑川: はい。すごく久々。
6: 里帰りですね。
緑川: はい。盆休み。
6: 緑川さんにお盆がおとずれた……。
イコ: 遅れてきたお盆ですね。
緑川: お盆中は忙しいので、終わってからですね。
イコ: お疲れさまです。
6: 最近、小説は描きたい場面が頭にうかんでそれを描くために物語を考えているところがあります。あと雰囲気を大事にしたいと思っています。最後に、文体を考えながら書いていきます。僕はそんな感じかなぁ。あと、最近は勇気を課題にしています。こんな方向にいったら、かっこわるいかな、とか気にせず、やりたいことをやれるだけのちからをつけようと頑張ることにしました…。
あんな: 勇気……いいですね。
6: 勇気出します!
イコ: 6さん最近かなりクサいですね。
あんな: (笑)
6: かなりtweetもくさいことを言ってます。
イコ: twitterのコメントが……うん(笑)
イコ: ギップル出てきますよ。
6: 踊り続けます! 僕は……。ギップリャー!
イコ: でも6さんの小説はイメージ喚起力があるように思うので、その路線は楽しみだな。
6: 小説でしかできない体験のようなものは、やはりずっと目指して行きたいですね。
イコ: みなさんは、書いていて楽しいなあ、幸せだなあと思いますか。
6: 思いますね。
イコ: ほう。最近カヅヤさんがリツイートされていたんだと思うけれど、「書いていて辛いならやめればいいのに」っていう意見があったんですよね。血を吐いてまで書く必要ないだろって。
6: 最果さんのツイートでしたね。
イコ: かな。
緑川: いや、なかなか止めれないですね。
イコ: 自分は書いていてかなり辛いんですけど、でもやめられないしやめたくないんですね。だから、みなさんの意見をうかがいたかった。ですよね、緑川さん。辛いからやーめたって、やめられるもんじゃない。
6: あまり辛くはないかなぁ……いまのところ、ただ体力的にしんどい……。書き終わった後は辛くなるけど……。
イコ: 書き終わると辛くなるんだ(笑)
6: 書き終わると辛くなります。
緑川: 書いてる時に楽しい、幸せっていうのは、たまにしかないかな。
6: 書いているときは「おれ、天才か!?」って自分をだましているので(笑)
あんな: 書いてる時はアドレナリン出るけど書いてない時は常に焦燥感……躁鬱っぽい……。
イコ: 無理やり麻薬出しながら書く、それはありますね。
『 書いてる時はアドレナリン出るけど書いてない時は常に焦燥感……躁鬱っぽい……。』
これ、まんまです。「書ける!」ってなるまで書けないのに、それが長く続いてると、どんどん焦燥感に襲われて、精神不安定に。なんていうのかな、書いてない時期も、書いてる時期なんです。人生すべて、書いてる時期。精神がそういうリズムになってる。
6: 僕は書いていない時も躁で、躁躁かなぁ。書き終わったら鬱鬱だけど……。
イコ: 書いてないときに苦しくてたまんないのも、小説のこと考えてるからで。書いてたら書いてたで、筆が止まって苦しいし。
6: 筆が止まると辛い……てきとうに進めているともう後にはもどれない感じになっている……。
イコ: ですね、でも最近「書き直し」という術を手に入れて、少し気が楽になった。
6: その術は、なかなかできないです……。
あんな: かなり勇気がいりますね、書き直し。
イコ: 入魂して書いてるとね、なかなかね。
6: どこから書き直せばいいのか分からなくなるな。
イコ: でも、書き上がったのを、これはだめだ、もう一回書きなおそうって、最初から書きなおしたんですね。そしたら、明らかに書きやすくなっていて、小説を、集中力を切らさず書ききれた。
あんな: 最近わたしは細切れ戦法を身につけた。藤野さんも爪と目を人称変えて何度も書き直したって言ってましたね。
イコ: 「あなた」と「わたし」にたどりつくまでずっと七割の出来だったって言ってましたね。たくさん書き直してたどりついた。鹿島田真希さんは「冥土めぐり」を十回近く書き直していました。
あんな: 十回?!
イコ: 百枚を十回。気が遠くなる。はい、文藝春秋だったかな、言っておられましたよ。
6: すごいな。
あんな: そのぐらいの気合いが必要なんだな……。
イコ: あんなさんの細切れ戦法ってどんなのですか。
あんな: 何個も場面を用意しといて同時進行で書き足しながらくっつけていくんです。荒業っぽいですけど。
イコ: 長嶋有みたい。書きたいネタをいくつも用意しておいて、それを有機的につなげていくっていう。(インタビュー「ジャージではじまる小説の書き方」)
あんな: 長嶋有ってそうなんだ。
イコ: みたいです。思い浮かんだことをいくつもパソコンに、メモっておくらしいです。
あんな: ああ、そんな感じです……。iPhoneのメモ欄が不穏な感じになってます……。
イコ: iPhoneにためてくんですね(笑)
あんな: iPhoneだったり手書きだったり……。
6:
僕もそうしよう。
イコ: 日々、書いてるときだけが小説に向かっているときじゃないようにしたいな。ぽっと浮かんだことを、書きとめておくと、いずれ使えたりしますもんね。
6: サナダムシ(バルガス・リョサ『若い小説家に宛てた手紙』)にどんどん食わせていくんですね。
イコ: そうですね、まあ嫌でも浮かんでくるんだけど(笑)
6:
きょうはこんなところかな。何か他に話したいこととかあります? 日居さんと緑川さん。
緑川: あぁ、すいません。
6: 最後に何か一言を……。
緑川:
入ったり、離れたりで私は、書き終えたときの(たまに書いているときの)手応えかな。書くことから離れられないのはそれを、ずっと追いかけてる感じ。
6:
その手ごたえのために書いているということ。日居さんはやはりキーボードが不調なのかな……。
では、ここらでお開きにしたいと思います! みなさまありがとうございました!
日居月諸: My keyboad is dead.
(文責:6)