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牧村拓:はい、ではこれより座談会を始めます、よろしくお願いします

イコぴょん: よろしくお願いします

 

・イコへの質問

 

牧村拓: まずですね、イコさんにいくつか質問をしていきたいと思います

イコぴょん: はい

牧村拓: なぜ創作に関わるのか?

イコぴょん: 大学生までの頃と、今ではずいぶん動機が異なります。昔は、自分や他人を救うために、小説を書いていたのです。今じゃ、誰かを救いたいなんて、考えません、すごい変化じゃないですか?

牧村拓: うん、大きいものですね

イコぴょん: 世に、マジョリティと、マイノリティという考え方があって自分は、他人とうまく関われない、マイノリティだと考えていた(それは今もなのだけれど)。そのマイノリティは、きっと自分だけじゃないだろうと思っていたのです。自分が、いわゆるマイノリティが戦う小説を書くことで弾圧を受けてきている人々、圧殺される人間というものを、救いたいと考えていたのです。牧村さんは、こういう考え方をしたことがありますか?

牧村拓: 僕はありますね、ただそこまで大層なものじゃなくもっとささやかなものです

イコぴょん: ささやかですか、戦う、というほどではない?

牧村拓: そうですね、寄り添う、くらいです

イコぴょん: なるほど、寄り添う姿勢、それは現在進行形で、そういうところは強いですか

牧村拓: かなり僕の中では大きいですね、それが原動力におけるひとつの軸といっていい

イコぴょん: 自分は、そういう姿勢で、生きてきた。現実の中であらわれる、試練のようなものに、現実では屈服していたけれど、創作のなかでだけは、精一杯の抵抗を試みることができたのです。もちろん、一行ごとに、すごく辛かったんですけど。

牧村拓: ふむふむ

イコぴょん: けれど今は、違うんですよね。働き始めて、ずいぶん、他者について考える時間があり自分は、いわゆる抵抗を試みる「敗者」でいられなくなった。対義語である、「勝者」にも、何らかの生きづらさがあり困難なものがあるだろう、言い分があるだろうと、考えるようになったんです。そうしたら、勝者と敗者、マジョリティとマイノリティという概念は消滅しました。今では、すべての生きる人間を、描きたいと思う。けれど、とても現実的に、描きたい。みんなが目をそむけているようなことも、丁寧に描きたい。自分にとって敵でもなく、味方でもない、ただ、人間がそこで生きているんだ、ということを描きたいのです。

牧村拓: うん、ひとつの到達点のようにも思えます。現実的に、人は生きている 疑いようもなく事実です。けれど僕の中のものとはやはり違って面白い。

イコぴょん: その違いを、ぜひ教えてください

牧村拓: 僕は言ってしまえばもっとファンタジックでいいんです。確かに我々はここに生きている。けれどそれだけではない、ここにいない我々という可能性の道筋だってある。そうして僕はその失われている可能性、あるはずであったけれど今ここにない姿。そういうものについても書いて行ければいいなと思っています

イコぴょん: ここにいない我々、というのは?

牧村拓: ううん、なんといいますか。今ここにいる我々ではなく、パラレルワールド的に、僕らが生きる過程において選ばれなかった我々の姿、とでもいいましょうか

イコぴょん: ふむふむ

牧村拓: 春樹の作品内に『薄いいくつもの絶望的に分かれている断層』という表現があるのですが、そんなひどく不安定な層に分かたれて僕らは存在しているのだと思っています

イコぴょん: 今のお話を聞いて戦後の小説を思い出したのですが、たとえば大岡昇平が、「野火」という作品を書いて、現代の読者にとっての、いわゆる選ばれなかった姿(パラレルワールド)を示していますね

イコぴょん: 「野火」では、極限の飢餓状態のなかで、人の肉を食うか食わないか迫られた主人公が、選択をするのですがある選択の結果、食う自分と、食わない自分というものが、永遠に別れます。

牧村拓: うんうん

イコぴょん: 多くの小説は、困難な過程を経て選択され、選択されたあとの世界を描きます。けれど牧村さんの場合は、そうではなく選択された世界ではなく、選択されなかった世界に目を向けるのだな、と

牧村拓: そうですね、そしてそれはやはり、弱い存在小さな存在に目を向けていきたいという少し大きな価値観に繋がります

イコぴょん: 多数決を連想します

牧村拓: 確かに通じるかも、強い存在大きな存在は僕がほうっておいても選ばれ、認知されるので僕が触れずともいいだろう、と思っているところがあります

イコぴょん: 多数決では、大多数の意見が優先され、少数者の意見は圧殺される。しかし圧殺されたかれらに対して、誰も責任をとらないですよね

牧村拓: そうなんですよね、彼らはそのまま消えていくことを余儀なくされる

イコぴょん: パラレルワールド、とのつながりはどうでしょうか。牧村さんは、個人のすがたに目を向けているようにも見えますが

牧村拓: やはり個人の在り様について考えていきたいところは大きいですね、けれど個人についてもやはり僕らはもっと色んな形で僕らたりえたと思うのです

牧村拓: そういった可能性について考えることは続けていきたいと思います

イコぴょん: さまざまな選択と、選択されなかった可能性を、外的要因によって語るのか、それとも、内的(個人の精神)な問題として語ろうとするのか、あるいはそのどちらもなのか

牧村拓: んー、どちらかといえば後者なんでしょうね

イコぴょん: 社会と密接にリンクさせるのか、それとも一個人の自我遍歴として社会から離れて語るのか、ということでもあるのですが、やはり後者ですか

牧村拓: その表現でいくと確実に後者ですね。僕は社会を描く必要はないと思っている

イコぴょん: おもしろいですね。もっと突っ込んでお聞きしたいところではあります。社会性と、個人の問題は、現代の書き手の文学観としても、近代からの文学史においても、けっこう大きい問題ですので。

 

・しろくまへの質問

 

牧村拓: そうですねえ、自分の番に持ち回りが来たら語るやも。ではしろくまさんにはイコさんとは別の質問を

牧村拓: どんな人に自分の作品を届けたいですか?理由も合わせてお願いします

しろくま: 自分とおなじような人ですかね

牧村拓: 同じような?といいますと

しろくま: 「あ、きみもそんなこと考えているの?」というような気の合う読者と、共感、考え合えるような小説を書きたいですね。読者と、いろりを囲んで話しているようなのが、いいですよね

牧村拓: となるとしろくまさんが自身をどう捉えているのかも気になります

しろくま: 僕自身がこうだから、というよりも、僕は「この作品のここがいい」という読み方よりも、「これってどうなんだろうね」という、読み方が好きで、書き手と読み手で会話ができることが好きです。だから、たとえば書き手の僕が書いたテーマについて、作品うんぬんじゃなくて、「こういうのってどうなんだろうね」っていう目線で、読んでくれるとうれしいですよね。

牧村拓: 書き手と読み手、お互いの思想や感情を大事にしていきたいということなんでしょうか

しろくま: いや、もっと単純に、例えば、こういうケースのこれは、本当の幸せなのかなっていう、幸せなのかどうか判断しにくいことを僕が書いたとして、その曖昧さの真意を共感してくれる読み手がいると、僕もうれしいです。

牧村拓: なるほど

イコぴょん: しろくまさんは、主人公の考え方と、自分を重ねて、いわゆる「主張」をするのでしょうか。それとも、主人公はこう考えるけれども、作者自身は、もっと冷静に見ていることもあるのでしょうか

しろくま: なんというか、主人公を使った問題の提起だと思います。僕自身は、極端に書き手の自分と主人公を離して、書いてはいないような気がします。

しろくま: 重ねているほうが多いですけど、それが表の自分だったり、裏の自分だったりするということかなと思います。ちょっと主人公と距離を置きたいときは、わざと主人公を女の人にしたりしますね。

イコぴょん: 重ねている場合の「共感」の発生、「あー、こういう感覚、分かるわ」というのは、嬉しい反応、ということですね

牧村拓: うん、作品を通じた交流がなされていますね

しろくま: たとえば、拙作のことを出してしまって恐縮ですけど、書き手としては、「ダイヤグラム」はグッドエンディングで、「変身現代」はバッドエンディングの気持ちで書いたんです。

イコぴょん: 作者であるしろくまさんが、主人公を使って問題提起をする、その囲炉裏には多くの人間がいて、こうだな、ああだな、と話し合う、その囲炉裏には、囲炉裏に火をつけた透明な作者がたしかにいる、という感覚なのではないか、と感じました。

牧村拓: ああ、その表現、僕も聞いていてしっくりくるような気がします

イコぴょん: グッドエンディングと、バッドエンディングの違いをもたらしたものは、何なのでしょうか。

しろくま: たとえば、どんなに悪いこと、ずるいことをしたとしても、それを悪いことだと片付けられない、人間の感情があるし。

しろくま: どんなに幸せそうな終わり方をしても、いやいや、それは本当の幸せじゃないでしょ、っていう事実があるからそこを一緒に、共感したり、考えてもらいたいですね。

牧村拓: ふんふん、統一されたスタンスが見えますねえ

牧村拓: ではここらでしろくまさんの持ち回りは一旦切り上げましてカヅヤさんに振ろうかな

イコぴょん: よくドラマで、ハッピーエンド、たとえば主人公たちが、劇的なプロポーズを経て、結婚して話を終える、というようなものがありますが、その後ももちろん人間としての生活は続いていて、ドラマの終わりの一秒後に「幸せ」と呼べないようなことが発生するかもしれない。果たして「幸せ」とはなんなのか。

 

・カヅヤへの質問

 

牧村拓: ではカヅヤさんへ、どんなものに刺激を受けていますか?

カヅヤ: 刺激…。あえて読書に限定してみると、自分は、小説よりも記録ものの方に強い刺激を感じます。

牧村拓: ノンフィクション?

カヅヤ: そうですね。伝記やエッセイに限らず、民俗学とか社会学とか心理学とか。理解及びませんが数学物理とか、分からないけど好き。

牧村拓: それは自分の中で創作と繋がりますか?

カヅヤ: 繋がります。

牧村拓: どういうふうに?

カヅヤ: 先ほどの、牧村さんのパラレルの話とも繋がるのですが。例えば、「選ばなかったルート」というものを、自分は、空想の中ではなくて社会のどこかにいる、自分と全然違う生き方をしてる人に投影するクセがあり、みんな小学生ぐらいで卒業している思考かもしれんと思うのですが、事故のニュースを見て、自分が加害者になってたかもしれない被害者になってたかもしれないと考え、その可能性っていうのを、社会学や民俗学を読みながら広げていったりします。創作の為、というよりも、そういう妄想壁があるから、それを書いているかんじです。

牧村拓: ほー、妄想癖を活かしているんですね

カヅヤ: 活かす、というか、ないならないでいいよね、という…。

イコぴょん: 安全に日々を過ごす、ということは、事故を起こすという選択を、回避し続けていることでもありますからね。

カヅヤ: 先日のNHKの石牟礼さんの言葉を借りると誰かが自分の代わりに死んでるかもしれない。ということを妄想してプルプルしてしまうんです。事故の死亡者がゼロなんて年はあり得ないし。

牧村拓: それはカヅヤさんのなぜ創作に関わるのか、という問いにもつながっていきそうですね

イコぴょん: そこにいるのは自分だったかもしれない。自分が目の前の人物を殺していても、おかしくはないかもしれない、というような感覚は、分かります。

カヅヤ: 自分、20歳ぐらいまでは確か、エンタメ志向だったはずなんです。「小説って楽しいし、楽しい小説書きたいよね!」っていう。それが、色々読んでいるうちに、主に小説以外の物に影響を受けて今は「いろいろ考えたけどしんどいからスッキリするために書くよ!」という、吐き出すような側面が強くなっております。でもエンタメとしての小説も好きなので、そういうのも書きたいな、という願望は、ずっとあります。

牧村拓: かなり立ち戻った問いになりますが書くことでどうしてスッキリするのでしょう?

カヅヤ: もともと、性格として、もやもやしたことをブログとかでガーっと書くと、すっきりするタイプの人間なんです。あとは、自己顕示欲。あと共感が欲しい。

牧村拓: 自己顕示は確かにありそうですね。やはりそういったある種原始的な欲求にも目を向けなければならない

カヅヤ: それこそ、すっきりする方法としてなら、カラオケで歌うだとか、甘いもの食べるだとかでいいんですが、書く方に行ったのは、やっぱり根っこにある自己顕示欲かなと思います。

牧村拓: ふむふむ

イコぴょん: 牧村さんも仰ったけれども、カヅヤさんの「自己顕示」という正直な発言は、外に向けて書く表現者の誰もが、根っこに抱えているものですね。

牧村拓: うんうん、一度は向き合わざるを得ないものです

イコぴょん: すごい芸術を作りたいんだ、と言う人が、本当にすごい芸術と自負するなら、なぜわざわざ周りにそれを広めるのか。自分の胸のうちで「すごいものができた」と満足できれば、それでいいはずなのですがみんな発表しようとするし、それをお金にかえようとする、というのは根っこには、「認められたい」「自分を見てほしい」という欲求が、どうしても絡んでくると思います

牧村拓: 自己承認ってのは結構根源的な欲求ですしね、そうでしょうね

カヅヤ: お金に変えるのは、単純に、金にならないとそれに集中できない、という側面も大きいだろうと思います。

イコぴょん: 生活的な意味でですか

牧村拓: それ以外のことに時間を割きたくないと

カヅヤ: 劇団キャラメルボックスや、村上隆なんかは、いかにお金に変えるか(生活を成り立たせるか)という点に、結構言及していたようなきが…

牧村拓: ああ、村上はかなりそうですね

カヅヤ: お金と、認められる、といのは、重なる部分も大きいけれど、ベクトルが違うかなと。

イコぴょん: 現在、ほとんどの文学者が、何らかの欲求を抱えて、商業誌に作品を載せようとしていますが、結局のところ、十分な対価を得て、筆に集中して暮らせているのは、ごくごくわずかです。それでも、外に向けて発表しようとするのはなぜなのか。

牧村拓: なぜでしょう。人によって違うといってしまえばそれまでなのですけれど。自分だったら承認ですかねえ

牧村拓: では小野寺さん

 

・小野寺への質問

 

牧村拓: どんなものを書きたいor読みたいか?

小野寺: 漠然としていて申し訳ないですが常に変化しています

牧村拓: ふむ

小野寺: 時代に流され自分の経験に流される

小野寺: けれども一度読んだものは読まない主義できていたので読書がすすむと読むものが変わってしまいます。たとえば一時は車谷や西村の新私小説を好んでいました。でも、読み過ぎたために嫌いになった

牧村拓: そういうことは、ままありますね

小野寺: 基本的に村上春樹も嫌いではなかったのです。でも売れたのと読み過ぎたので嫌いになった。非常に売れたものに対する反発があります

牧村拓: 売れたものに対する反発、それはなぜ?

小野寺: 僻みなんだろうか。世界の中心で愛を叫ぶ」などは読んでないのに嫌っている()

牧村拓: あれはちょっと異常でしたしね

小野寺: だから金原や綿谷りさもすごく後になってから読みました

イコぴょん: 逆に、すっかり売れてしまったあと、綿矢や金原に手を伸ばしたのはなぜなんでしょうか

小野寺: やっぱり書くことに回帰して、読んでおかないといけないだろうかと思ったからです。だからセカ中も読もうかと思っています

牧村拓: かなり出遅れていますね。けれどそういうのは何かしら、ひとつのスタンスとして大いにありだと思います

小野寺: 読むモノは多くありすぎるんで新しく追加したくはないんですよ

牧村拓: 確かに文芸というのは過去作品の量の多さがすさまじい

イコぴょん: 多くありすぎるなかから、どのように選んでおられるのですか

小野寺: 評論家の評価は大きいかもしれませんね。評論家といってもベンヤミンくらいのひとですけど

イコぴょん: 問題に返ると、小野寺さんの場合は、読みたい、よりも、読まねば、という感じなのでしょうか

牧村拓: 確かにそれは感じますね

小野寺: 読みたいというのは古典であり読まなければと思うのは現代作家です

牧村拓: ある程度は時流にも乗らなければならないと

小野寺: そう、書くんなら

イコぴょん: 読まなければ、というのは、自らの「書くこと」を考えたときに、発生する感情なのですね

小野寺: 読みたいものだけ読んでればいいなら古典ばっかりです

牧村拓: 古典のどういったところに惹かれますか

小野寺: 古典は喪失された世界なので興味深いです

牧村拓: 喪失と言うと?

小野寺: つまり貴族とか軍人とか江戸や平安の風俗などですね

牧村拓: なるほど。確かにそういったものを求めると古典になりがちですね

小野寺: それはキャラも含めてです

イコぴょん: 小野寺さんの場合は、考え方が、やはり社会ときちんと接続していると思います。時代や人間を、社会という外部からとらえている

牧村拓: そうなんですよね、小野寺さんは社会派という感じがする。それは同じく

小野寺: 社会派なんかなあ

牧村拓: 僕のイメージですけれどね

イコぴょん: twi文のなかでは、という意味での、相対的な評価です

小野寺: 喪失に関して今日は語りたかったんだけど10%以下しか語ってない

 

・神崎への質問

 

牧村拓: では神崎さんへ。最初の質問に戻るかな。なぜ創作に関わるのか?

神崎: そうですね、単純に書きたいからという理由があります

牧村拓: 書きたいから。 何を?と気になりますね

神崎: 自分の頭にあるもやもやとしたいわば思想めいたものですね

牧村拓: それを形にしたい?

神崎: はい。未だにできている気はしません。それを形にするための練習とおもっています

牧村拓: どうなれれば形にできたと思いますか

神崎: それはまだ見えません。しかし、暗い中を手探りでやっている感覚はあります。

牧村拓: 何か少しずつでも、見えてきたりしていますか

神崎: 少しずつは見えてくるのと思います。たぶん数年のスパンで

イコぴょん: 神崎さんは、一本の作品を仕上げるまでに、書いては消し、書いては消しを繰り返しておられるそうですね

牧村拓: 数年のスパン、長い視点がひつようですね

神崎: それまでにあきらめないかが心配です笑 はい、何度も消します

イコぴょん: それで残るのが、童話だったり、今回(8月号)の作品だったりするけれども、いずれもたいへんに短い。削って、削って、最後に残ったものを、つかまえてきて、とても攻撃的な形で、提示しておられる印象がある。

神崎: ふむ。確かにそうかもしれません。

イコぴょん: 自分の話で恐縮ですが、自分は言葉を重ねる書き手なので、言葉を削って提示する書き手の、ありようというものに、とても興味を抱くのです。なぜそこまで削れるのだろうと。不安にならないだろうかと。

牧村拓: 削るというのは、確かに怖い

神崎: 不安にはなりますが、いかようにして最低限の言葉で伝えられるかいわば効率が欲しい。自分がどんくさい人間であるからだと思います。

イコぴょん: 効率か、それは読者を意識してのことですか

神崎: 自己を意識してだと思います。非効率なことはできるだけしたくない性格なので

イコぴょん: なるほど

牧村拓: 効率を創作にまで求めるということですね

神崎: はい

牧村拓: それはちょっとすると文芸的立場から離れていそうですが効率に何をみているんでしょうか

神崎: そのほうが楽であるからですね

牧村拓: 楽、自分に合っているということでしょうか

神崎: はいそうです

牧村拓: なるほど、面白い相違ですね。僕とは、ということですが、効率を求めるなら僕は文芸なぞやっていないと思ってしまうタチなのでですね

イコぴょん: しかし、神崎さんの場合は、いくつもの言葉を捨てる作業があるのです。効率化をはかっているけれども、単純な言葉の積み重ねでないのは分かります。

牧村拓: ああ、そこもまた違うのか、なるほどなるほど

イコぴょん: ひとつひとつの言葉にある効果的な重量をのせるための、途方もない作業量があるのだと思います。削る作家には。結果として、とても簡潔な、すっきりとした形で伝えられるそれは、神崎さんの言葉でいえば、効率化のなされた姿なのかもしれません。

カヅヤ: イコさんや牧村さんは、作成時、あまり削られないのですか。

牧村拓: そうですね、僕は削るというかどこかを削除したらそれ以上に付け足してしまいがちです

イコぴょん: 当然の疑問なのですが、自分は削除するよりも、出てきた言葉の力に引っ張られていくのです。

イコぴょん: その言葉が、なぜそこで出てきたのか、を考える。効果的な表現になるよう、つけ足したり、消したりと模索はしますが、大枠は変わらないで、そこにあるものを信じ、一行ずつの更新を試みます。

神崎: ふむ、なるほど。

カヅヤ: 当たり前と言えば当たり前ですが、創作のしかたって、本当に人それぞれですね。腰折ってすみません!興味深いお話サンクスでした。

牧村拓: ちょうどひと段落して、全員に順番が回ったと思うので、時間も時間ですし、この辺りで閉めようかと思うのですが、何か最後にこれは主張しておきたい!という方はいますか?

 

イコぴょん: 主張というか、感想ですが、いいですか

牧村拓: お願いします

イコぴょん: 今回、みなさんのお話を聞いて、文学と自分の距離の取り方、考え方というものが、やはり人それぞれであることを十分に感じました。

牧村拓: 同じく!

イコぴょん: そしてこういうことは、多くの文学者が、これまでに悩んできたことでもある。この自分を知る、他者を知る、という機会が今回もうけられたのには、大いに意味があると思います。つまり楽しい座談会でした。ありがとうございました。

 

牧村拓: こちらこそ。ではほかになければ、これにて座談会を締めます。

長いことお疲れ様でした!ありがとうございました