「馬琴からはじまる文学史―『日本小説技術史』第1章を読む―」
日時:11月20日(火)21時~23時まで
参加者:日居、6、小野寺
6: ではこれから渡部直己著『日本小説技術史』について小野寺さんと日居さんと一緒に話していきたいと思います。よろしくお願いします。
小野寺: はい。
日居月諸: お願いします。
6: まず、序文で著者本人が言う通り「季節はずれな」文学史をたどる本に過ぎません。
しかし凡百の文学史がまとめられてきた本と、この本の差異たるや何か? それは言わずもがな、「技術」に固着して行いきながら文学史をたどる新たな試みをおいて他にありません。
小野寺: そうそう序文は大事ですね。
6: 文学史の本は幾つも出版されていますが、「技術」に着眼をおいて語っている文学史というのはなかった。しかもこの批評家は「小説から技術を除けばあとは何が残るのか?」と明言するほど、小説と技術の相関関係には非常に注目をしている/してきた……。そして第一章は何が書かれてあるかと言うと、滝沢馬琴からスタートしている……。まずこの馬琴から文学史をはじめること自体が新鮮であり、驚嘆するべき出発点だと考えます。みなさん、いかがですか?
小野寺: そうですね。私も数々の文学史の本は読んできましたが、言文一致や近代的自我の確立史のようなものが多かった。
日居月諸: おおむね同じですね。
6: 何をおいても「小説神髄」(逍遥)「浮雲」(四迷)の理論と実践からスタートする文学史がほとんどであったと思います。
日居月諸: 西洋文学の輸入からスタートするということですね。
小野寺: ところが、逍遥は馬琴を批判しているつもりが馬琴に依存していた、というようなことが書かれていましてね。
6: 西洋文学の翻訳からスタートして、いかに西洋の文学に日本語で近づいていくか、みたいなせめぎ合いに注目したものばかりだった中で、小野寺さんがおっしゃったとおり、馬琴との連続性からこの章は始まっていますね。渡部さんはまるで「逍遥」(『当世書生気質』)を読みながらテクストを診断するように、「馬琴の死霊」と称されたものを明示してきますね。
小野寺: 馬琴が縦横に使う「偸聞」これがいわずもがなの近代文学らしくない代物。
6: 『稗史七則』という馬琴が書いた小説の教則本があり、当然『小説神髄』よりも前に世に出されているのですが、そこに載る省筆の技法として、いま小野寺さんが上げられた「偸聞」がありますね。ここからいかに脱出するのかが『小説神髄』の命題でもあったかと思うのですが、まんまとこの『稗史七則』にからめとられてしまい、どうしてもその技法を捨て去ることができない。
6: 同時代の作家たちがあっさりと馬琴の技術に甘んじていく中で、ずっと逍遥だけが逆らいながらも馬琴の翳を背負うことになり、ついには自らの小説作品全般を指して「旧悪全書」(!)とまで言ってしまうということも書かれてありました。ネタバレ全開で話してしまって申し訳ないのですが……。
小野寺: いや、いいでしょう。すごくいい。実際みなさんは八犬伝なんて原文で読んだ人いるでしょうか。
6: 渡部さん自身がそれまで読まれていなくて、この本はそうしたこれまで読んでいなかった文学作品への応対もまたひとつの試みだったと書かれていますね。
小野寺: 私はNHKの人形劇「新八犬伝」を見ていたからなんとなく分かりますけど
日居月諸: 一応付け加えれば、馬琴の「偸聞」はこれまで研究家に顧みられなかったという背景も紹介していますね。
6: そうですね、「偸聞」の話をもっとしましょうか。「偸聞」というのは、先ほど、もご紹介した通り「省筆」の技法なのですが、具体的に説明をすれば……。小説で起きた出来事をある登場人物のためにもう一度語りなおすことは読者が飽きてしまうから、誰かが「偸聞」をしていて、それが広まり、知る筈のなかった情報を関係する登場人物も知っていると言う単純な技法です。
日居月諸: 「偸聞」は「立ち聞き」のこと、筆者は「窃聞(たちぎき)」(盗み聞き)とも書いている例を紹介しています。
小野寺: これは、他人の会話を第三者が盗み聞きしているシーンを描くことで、知りえない情報を共有し、話のテンポをよくすることで省筆になるということですよね。
6: そうですね。
小野寺: 通俗小説やテレビドラマでは今でもよくやっていますね。
日居月諸: けれど、単純に文章技法にはとどまらないものがあると筆者は説く。
6: はい。それだけではありませんね。渡部さんが紹介している偸聞は>日居さん
6: 渡部さんは関数のグラフのように小説と実人生の図を書かれています。
小野寺: この図を載せたいものです。
6: それは「小説にあり、人生にも頻繁に登場する者」、「小説にあり、人生にはあまりでてこないもの」(※1)などパターン分けされたものです。馬琴は「※1」の「小説にはよく登場し、人生にはあまりでてこない」ものを頻繁に描いていると指摘されてあります。その中で「偸聞」と関係するのは「偶会、偶接」と呼ばれる現象です。まさかのタイミングで宿命的に「偸聞」をしてしまう馬琴作品の中の登場人物たち。それとは一線を画そうとしたのが、逍遥でありました。
小野寺: つまり超越的な神様馬琴は仏様なのかそういう信仰のようなものがあるんでしょうね。
6: どういうことですか? 詳しく……。
小野寺: まさかのタイミングで現れる超人的な人物、この場合は犬士ですが、勧善懲悪のヒーローものには背景に大きな力が存在している。思想と言うか。
6: そうですね。66ページ当たりがそこは詳しいのですが合縁奇縁を繰り返させる作者の全能感。
小野寺: それも渡部さんは言及されています。
6: それゆえに作者は小説世界の神=覇権者にたりえています。
小野寺: そうそう。
6: 逍遥は、どうあっても自分は俗な神にしか成りえない廉恥をもっていたとも書かれていますね。だから逍遥にはそこまで「偶会」の要素はないという……。
日居月諸: 馬琴にはなぜ「偸聞」が頻出するかということも、作者の全能感から語られていますね。論理の道行きは逆ですが。「偸聞」が読者に作品との距離を取らせない。あたかも作中人物に感情を(強制的に)移入させるような効果がある。それはつまり作者が読者をコントロールするということです。だからこそ、作者の全能感へとつながる。ついでに馬琴の説教グセも指摘した上で、渡部さんはそう暴いてみせます。
小野寺: ええ
日居月諸: ただ、だからといって馬琴が作者の権力をほしいままにしたわけではない。全能感を持つということは常々読者を楽しませなければならないことでもある。「八犬伝」後半の失速や、馬琴自身の述懐にも渡部さんは触れています。
6: そうですね。馬琴の失速と言うのは気になり、具体的にどう失速しているのかが読みたいと思いました。
日居月諸: そして逍遥にとっては、その全能感は「廉恥」でしかなかった。権力をほしいままにすることなどできなかった。渡部さんは時代背景も加味してその原因を明らかにしています。馬琴の時代には階級や上下関係が明確だったけれど、逍遥の時代に
は(体面上は)平等をモットーとしていた。
小野寺: そうですね。
6: そう。馬琴に置いて「偸聞⇒偶会・大団円」だったものに、逍遥が付け加えた新味は、「偸聞⇒誤解」という新たな展開でありました。馬琴はいかにも、大きな世界を描いていたのだけど、逍遥は「小さな物語」を呼び込もうとしているのが何だかうっすらと感じられる。けれど「偸聞」を媒介にして書いてしまう。馬琴に逆らいながらも馬琴の技術に回帰してしまう逍遥には、何だか感情移入をしてしまうところがありました。僕たちは三人とも小説を書いています。だから既存の作家の小説技法や作品を否定しなければならないときがあります。そこに苦慮しながら闘いをいどみ、幾つもの敗北をしてきたことが、何だか逍遥の小説とも絡み、共感しました。
小野寺: 自分の中では「偸聞」はありえない手法です(笑)
日居月諸: 実際、日本小説史として語られているのだけれど、実作者にとっても大変参考になる物ですね。もっとも、ハウツー本ではなく戒めの書としての効果がたぶんにありますが
6: そう、そこは僕も感じた。ハウツー本かと思って読みはじめたら、ごりごりの文学史だった。けれど新鮮な切り口の文学史で予想していた面白さとは別の妙味を感じました。
小野寺: 逆にエンタテイメントとしても参考になるのではと思います。
日居月諸: 個人的にはうすうす感じ取っていた実作の卑しさを鮮やかに暴いてくれる書でもあった。同時に漠然としたものでしかなかった渡部さん自身への忌避の出てくるところもあきらかになった。これは後で語りますが。
日居月諸: 「八犬伝」後半の失速は「偸聞」の消去と絡めて語られていますね。
6: そうですね。最初の方かな、語られていました。
日居月諸: 八犬士がそろって悲願を成就する。しかし、そこに至るまでの全てを知っている人間が出てくることで、それまで「偸聞」によって兄弟たちの居所を知っていた八犬士の労苦は水の泡も同然となる。たぶん、これはいわゆる神の視点の導入にもつながるんじゃないかと思います。文学史を語る際には頻出する、自然主義的な三人称の獲得。
6: それってどのあたりに書かれていたのかな? 何ページ?
日居月諸: 52ページと53ページにわたって書かれていますね。八犬伝の失速地点はここで渡部さんは自然主義の勃興とはからめて絡めてこないのだけど、一章末尾の方で柳田の文章を引きながら「隔世の感」を語っているからには、やっぱり自然主義も視野に入れているんだと思う。
6: ふむふむ。三人称の起源的な話になるのかな……。そうなるなら、ぜひ本格的に文章化してもらいたいな……。
日居月諸: 最後に、間違いなく柄谷行人の『起源』を意識した「内面」に触れているから、間違いなくそういう道行きになるんだと思います。
6: 本書の論旨は「内面」につながる2章への予告はすごく読みたくさせてくれました。
小野寺: 私も次章からは内面に言及していくと思いました。
日居月諸: ただその「内面」への移行は、逍遥が抱いた問題を打ち消してしまうんですね。なかったかのごとく扱ってしまう。書き手の欲望を無視してしまう。
6: 欲望はひとつのキータームでしたね。僕はいまいち欲望のあたり、サドとの関係についてはまだうまく理解できていないなぁ。
日居月諸: 馬琴流の説教臭い俗な神様から、客観的で冷徹な神の視点へと変わっていく。そこには書き手の欲望など初めからないかのごとく(本当はあるのにもかかわらず)。
6: うむ……。「馬琴の死霊」に捕まっていたのは逍遥だけではなかったですよね。「偸聞」とは別の観点から馬琴の「七則」を反復する作家が紅葉でしたね。
日居月諸: ああ、そうそう。紅葉も語らないといけない。
小野寺: 1章後半部分の「金色夜叉」。
6: 「偸聞」とは別の技法「照応」「反対」の法則。
小野寺: これは「照応」「反対」を使っていると
6: そうですね。あとはそれを「対偶」と表現されていることもありますね。これは反復的にエピソードなどを似させて、作品の構成力を高めていく技法と言う理解で大丈夫かな。詩のリフレインみたいなものを物語内容レベルでするということですよね。細かなエピソードを拾いながらかなり詳しく記述されていますが……。
日居月諸: 「照応」は花咲か爺さん、「反対」は猿蟹合戦で説明がつくんじゃないかな。
6: 巧いたとえだね。その通りな気がするよ。
日居月諸: 「照応」は「そのものはおなじけれども、その事はおなじからず」、「反対」は「その人は同じけれども、そのことは同じからず」と説明されています。花咲か爺さんは、確か鬼に踊りをみせて、褒美をもらう爺さんとこぶを貰う爺さんの話でしたね。だから、もの(鬼)は同じだけど、事(結果)は違う。
6: え、それは「こぶとりじいさん」では?
日居月諸: 猿蟹合戦は、猿に柿を投げつけられて蟹が死んでしまう。死んだ蟹の子供は臼の手を借りて猿を倒す。人(猿と蟹)は同じだけど、事(結果)は違う。ああ、そうだ。こぶとりじいさんだw
小野寺: ううサルカニ合戦すっかり忘れてる。
日居月諸: 花咲か爺さんは犬をむげにした爺さんの話でしたね。
6: ここほれわんわん⇒宝⇒ここほれわんわん(いじわるじいさん)⇒化け物・ガラクタ・石ころなど⇒いじわるじいさんは犬を殺す⇒犬の灰をもらったじいさんが灰を木にまくとなぜか桜が……。というのが花咲か爺さんだったような。照応だよね。
小野寺: それも忘れてるなあ。
日居月諸: 昔話もきちんと分析すれば定型があるのか……まあそれはともかく紅葉の話に戻りましょう。
小野寺: 紅葉の金色夜叉は貨幣経済についての話と言うことは分かった、なんだか腑に落ちなかった。
日居月諸: 私もちょっとつかみようがなかった。欲望の話は身にしみて理解できたのだけど。
小野寺: 登場人物は類型化されていて確かに「照応」や「反対」を使っているのだろう。
6: 僕も一読してみてよく理解できていないです。課題は残りますが、そろそろお開きにしますか。続きはまたどこかで したい気もしますが。これを読んでくれた方もぜひ「日本小説技術史」を手に取っていただきたいと思います。
小野寺: 「金色夜叉」の宮を蹴り飛ばすシーンは本当に最初のところで、そのあとは高利貸しの話が延々続く。どっちかというと後半部分の言及なんですね。これは。
小野寺: 金色夜叉の部分は通説批判をしているだけのように思いました。
6: 三角形っていうのがよく理解できていない……もう一度読み直します。
日居月諸: ちょっと一言総評めいたものを。私は渡部さんに漠然とした忌避を抱いていました。優秀な批評家だとは思っていたけど。それが今回、渡部さん自身の手によって明確なものとなりました。渡部さんは書き手の権力に対する嗅覚は極めて鋭いんですね。だから筒井康隆や村上春樹には手厳しい。ただ、渡部さん自身にもそれが当てはまるんじゃないかと思う。ひどく言ってしまえば、書き手の権力を暴く批評家の得意気みたいなものが出てくる。天皇論などを書いて権力に対しては敏感なはずの渡部さんが、自身の権力に関しては極めて鈍感じゃないかと疑ってたんだと、今回気付かされました。
小野寺: なるほど。
6: そうかもしれません。だけど僕は渡部さんの作品は数作しか読んでいないからちょっと結論は避けたいかな。
小野寺: 私も渡部さんを今までかなり長い歳月、遠ざけていましたが(笑)、書き手を暴くというのはいかにも斬新だと思います
日居月諸: 私も渡部さんの著作は数作しか読んでいませんので、ちょっと言いすぎかなという気はするんですが。ただ、渡部さんと近しいところに、柄谷行人や蓮實重彦、絓秀実のような、自己言及を徹底させている批評家がいるからには、そう思わざるを得ないんです。
6: おもしろい着眼点であることは間違いないと思います。別の場所でそのことについて語りたいですね。
小野寺: おお、そうですね。
日居月諸: こんなところかな。個人的には。ともかく本書をしっかりと読みこもうと思います。図書館だから次読書会があっても参加出来ないんだけどw
6: ではこれにて落着ですね。おつかれさまでした。
日居月諸: おつかれさまでした。