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「泉鏡花『高野聖』について」:る

「泉鏡花『高野聖』について」


 小説における心理描写と行動描写はだいたいにおいて反比例の関係にある。ここでいう行動描写とは単なる作中人物の振る舞いに留まるものではなく、その奥底に作中人物の感情、思想、などが孕まされた描写であるとことわっておけば前述の反比例という言明もいささか説得力が出てこようか。以下に書かれた文章は私がはじめて鏡花について書いたものであるのだが、年月を重ねるにつれて、鏡花の書く文章はほとんど心理描写が書かれていないことに気付く。ただ、現代の文芸における行動描写の欠如や、どちらが優位であるかだとかを述べるつもりはない。

 なお、泉鏡花という作家は明治期の作家であり、十代には尾崎紅葉に弟子入りし、デビューも早かったため、歳の近い夏目漱石らよりも活動期間はずいぶんと長い。明治期の高名な作家の例に漏れず、文壇におけるリアリズム・自然主義の潮流によって排斥されていたことは小林秀雄の批評からも窺える。『高野聖』は彼の数多い代表作の一つであり、鏡花特有の「お化け」「女性」という意匠がふんだんに盛り込まれた作品となっている。




 さて、この短くて簡潔な物語は、主人公である高野聖と、ある女との交流を本筋においているのだが、その中で彼の思想(思想と言ってしまうと語弊があるのだが、其のことについては後で述べる)が色濃く映し出されていると思われる二つの場面について述べたいと思う。 一つ目は、女が僧に歌を聞かせようと男を励ます場面から
「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げて彼の臍を弄びながら唄った。 木曽の御嶽山は夏でも寒い、袷遣りたや足袋添えて。(よく知ってませう、)と婦人は聞き澄ましてにっこりする。」(本文[泉鏡花全集第五巻]631頁より引用)
 ここでポイントとなるのは「白痴」と呼ばれた男である。鏡花は僧にこの婦人の夫である「白痴」にばかというルビを振って呼ばせている。この時代そう呼ぶものかどうかは不明だが、僧のそれまでの男に対する言動から判断して、僧は彼の歌を聴くまではこの男を無能で愚かな男としてでしか捉えていない。この時点で女にかなりの好意を抱いている僧にとって、この男の存在は疫病神以外の何者でもない。しかしそれは「嫉妬」のような明確な感情ではなく、むしろ不可解だ、という思いである。僧はこれほどまで美しい女が、このような山奥で、こんな男の世話をしていることが理解できないのである。そのような思いを抱いているものが、この女は何か特別な事情があって、このような不幸な境遇にあっているのだろう、と考えることはいたって自然なことと思われる。そしてそのような状態でこの場面を迎えたのだが、男の唄は、

「不思議や、唄った時の白痴の声は此話をお聞きなさるお前様は元よりじゃが、私も推量したとは月ペイ雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸 の続く所から、第一其の清らかな涼しい声といふものは、到底此の少年の咽喉から出たものではない。先づ先の世の此の白痴の身が、冥土から管で其の膨れた腹へ通はして寄越すほどに聞こえましたよ。」(本文[上掲書]631頁より引用)

 とあるように見事な唄であったことが伺える。この唄を聴いて僧は自らの邪推を恥じる。つまり、この男女は何か理由があって、一緒に暮らしているという考えは、この白痴の唄によって否定されるのである。僧はこの男の純朴な心(それは白痴ゆえのものかもしれない)と女の優しさとの非常に強く純粋なつながりを直感的に感じ取り、自らの打算的な考えを恥じたのだ。それは、
「私は畏まって聴き果てると、膝に手をついたッ切り何うしても其処な男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤとして、はらりと落涙した」(本文[上掲書]631頁より引用)  

 という描写に表れている。また落涙したとあるがそれは、

「(女の)其男に対する取り廻しの優しさ、隔てなさ、親切さに、人事ながら嬉しくて、思はず涙が流れたのぢゃ」(本文[上掲書]632頁より引用)

 と説明されているように、男の純粋な心に対してのなんの曇りのない女の優しい心に感動したのだ。 この場面で描かれている、より純粋なもの、美しいものへの憧れは文学に限らず芸術における最大のテーマの一つである。特にこの「浄化」という形式はあらゆる作品の中に見られる、例えば芥川龍之介の『蜜柑』がその代表的な例だろう。鏡花は、現実の世界から離れた山奥という設定の効果から、より純度の高い領域でこの「浄化」を描き出すことに成功しているといえる。これは漱石が『草枕』で得ようとした効果に似ており、そこに鏡花の唯美的な芸術観が読み取れる。しかしこの話はそこでは終わらない。 もう一つの場面は親仁が女の正体を明かす場面である。僧は女の中に潜む鬼を知る、と同時に女の孤独を知る。読者はここで鏡花がいくつかの伏線を回収していることに気づくだろう。それは女のどこか魔性の帯びた態度だったり、女に群れる畜生や魑魅魍魎、あるいは馬に対しての行動であったり。そのなかでも注目すべきは女が僧を泊める際、言った一言。
「私は癖として、都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞かうといたしますが、あなた忘れても其時聞かしてくださいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたは何してもお話しなさいませぬ、其れを是非にと申しましても断って仰らないように屹と念を入れて置きますよ。」(本文[上掲書]601頁より引用)
 ここには女の孤独がはっきりと浮き出ている。外の世界への憧れが悲壮な思いを伴って、女の口から吐き出されている。そもそも女が鬼に変わるときそこには深い悲しみがつきものだ。年頃の若い女がその時期に「白痴」の世話で虚しい(このことは先に述べたことと対立するものではない、それは後に書く)日々を過ごしているうちにその悲しみは次第に募り、女はいよいよ妖艶さを増してゆく。人里離れた場所で人恋しさが募り、その悲しみが旅の男を次々に畜生に変えていく。一体どれほどの悲しみが横たわっているのか、それは想像を絶するものである。 さて、1つ目の場面と合わせて、この女を僧はどう思ったのだろうか、今でもあそこで残ればよかったと思うことがある、と口にしていることから、僧の女に対する複雑な気持ちがわかる。そして女自身も、この僧が出発する際執拗に引き留めようとしたことから、女の中の葛藤も伺える。この関係或いはこの葛藤は悲劇だ。しかし鏡花は決してこの女の二つの特性、純粋な心と内に秘めた鬼とを単に相反するものとして描いていない。むしろその二つのテーゼは弁証法的に統合されこの女のなかに内包され、女の性質をはっきりと浮かび上らせている。女の優しさはその魔性に寄与し、その魔性は優しさに寄与している。根源は女の持つ聖性を帯びるほどの純粋な魂であり、その奥には深い悲しみが横たわっている。狂気と親しい女ほどよく泣くのだ。私は、最初に述べたように、この作家が明確な思想を持ってこの物語を作り上げたとは思わない。さらに言えば、この作家がそのような思想を否定しているようにも思える。「白痴」を純粋な人間として描いたことで、鏡花はそれを否定したのだ。彼が求めたものはもっと根源的なものである。それはこの物語の全てに通して横たわっている無垢な魂である。読者はこの物語を読みながら、主人公の僧同様に浄化され、最も大切なものに気づかされる。それ故に、悲劇にも似た女の人生の悲しさと、僧と女と白痴との交流の中で描き出される無垢の魂の静謐さ故に、この物語は何度も何度も版を重ねて読み継がれてきたのだろう。


 ここまでが数年前はじめて鏡花について書いた文章である、多分に読み苦しいものであったと思うが、何ゆえ鏡花という文学の天才にはじめて対峙した時のものであるが故お許しいただきたい。上記の文章に挙げられた二つの場面はほとんど心理描写が書かれていないのにも関わらず多分に作中人物の心理、感情、思想が飽くまで密やかに語られている。数年前のわたしは断言の助動詞でもってこの文章を書いていたが、もちろん読み方は人それぞれにあるだろうし今のわたしとて同じ見解を示すとは限らない。蓋し、心理描写がその色容によって自らの名を開示する花ならば、行動描写とはその花の散った一欠けらである。私たちは幸いにも花びらの一枚からかつて咲き誇っていたであろう仮想の花を想像することが出来る。『春琴抄』における春琴の描かれ方、『親和力』におけるオティーリエの描かれ方、或いはクライストの諸作品など、枚挙に暇はないが、私たちは時に現実に差し出された花よりも、花のひとひらから想起させられた架空の花の物語により深く、耳を傾けてしまうことがあるのではないか。