「ただいま」
僕は家に帰ると、まずお母さんに声をかけ、きれいに整頓された自分の部屋に行く。そして、ランドセルを放り投げずに、きちんと学習机の横に置いて、台所へ行く。台所では、いつものように、お母さんがおやつを用意してくれる。
「おかえり。今日はどうだった?」
お母さんは、僕を遠慮がちに見る。あるいは不安そうに見る。少し前までは、期待と信頼のこもったまなざしだった。
「うん。今日も先生の質問には、全部手をあげたよ。給食も残さず食べた」
僕は正直に答える。お母さんはますます不安そうな顔をする。
「そう……、えらかったわね」
ちっともほめられている気がしない。
「ほかは、どうだったの?」
「あっ、そうそう、僕、お掃除の時間も、一生懸命にお掃除をした」
お母さんは、今度は暗い表情になる。なんとなく理由が分かる気がする。
僕は、誰の目から見ても、まぎれもなく良い子だ。自分で言うのもなんだが、成績優秀、品行方正な、模範的な小学生ではないだろうか。実際、まわりの大人達から、よくそう言ってほめられた。友達もみんなすごいと言ってくれた。だから、僕はもっと良い子になろうと努力した。精一杯の努力だった。その成果は、はっきりとあらわれてきている。
「ああ、おなかがすいたぁ」
僕は、イスに座ったまま、イスごと体を後ろに傾けさせ、投げ出した足をばたばたさせた。お母さんは少し元気を取り戻したようだ。
「さあ、おやつですよ」
「わあ!」
僕はプラスチックのスプーンをあわててつかみ、ケーキを、ぼろぼろにくずしながら食べた。ケーキを口の中にほおばったまま、今度は、児童文学に出てくる小学生のようなことをしゃべった。あらかじめ予習をしていたのだ。ついでに、紅茶をわざと服の袖に引っかけてこぼしてみた。これはやりすぎだっただろうか。だけど、お母さんは、こぼれた紅茶を拭きながら、とてもうれしそうだった。
やがて、僕はおやつを食べ終えると、表に遊びに行くと言った。
「晩御飯までには帰ってくるのよ」
お母さんは少し弾んだ声で言った。もし、僕が自分の部屋で読書をすると言ったなら、もっと沈んだ声だったと思う。
そして僕はとりあえず表に出てみた。だけど、誰とも遊ぶ約束などしていなかったので、僕はひとりだった。
空き地は立ち入り禁止だった。公園はひっそりとしていた。近所には、何人か同級生がいることはいた。遊びに行こうか。優等生の僕が行くと、皆は歓迎してくれるだろう。だけど、僕にとって興味のないことばかり、皆はしたがる。いや、ひとつだけ、興味が一致することがあった。ファミコンだ。だけど、これはこれで問題があった。
以前一度だけ、友達の家で、ファミコンをやらせてもらったことがある。僕は、精魂込めて、そのゲームに打ち込んでしまった。こんな面白いものがあるなんて、それまで思いもしなかった。しかし僕はきっぱりとゲームを中断した。こんなものにはまり込んでしまうと大変だ。だけど、家に帰ってからも、僕はその幻影に苦しめられた。あの鮮明なスクリーン、ヴィヴィッドな効果音、緻密に構成されたパラメーターが、何度も何度も、頭の中をよぎっては消えた。夢にさえ見た。僕は良い子だ。この自覚だけが、かろうじて僕を支えた。
結局、僕は公園で、ポケットに隠し持っていた『良寛さま』という本を読んで、夕暮れまで過ごした。
夜、僕が自分の部屋で勉強していると、玄関を開ける音がした。そして台所で声がした。
「あいつはまだ勉強しているのか?」
お父さんが帰ってきたようだ。
以前は、どんなに遅くまで僕が頑張っていても、お父さんは、満足そうに励ましてくれたものだ。だけど今のお父さんの声は、心配そうな、不満そうな声だ。
「ええ、そうなの。ほんとにあの子ったら、なんにでもあんなに一生懸命に取り組んでばかりで、あのままでは、ゆとりのない人間になりそうで」
「まじめなのはいいことだが、たしかにあれでは子供らしくない。いや、人間らしくない」
「しっ、あなた。あの子に聞こえたら」
一瞬静かになったけど、やはりとぎれとぎれに声が聞こえてくる。
「このごろ、ほら、まじめすぎる青年が新興宗教に……」
「異性に対して……」
「俺の職場でも、若い連中は……マニュアル……バイタリティが……」
「……最近の子供……それで先生が……」
「だけど、それをどう……いけないことをしているわけでは……なんと言って……」
やがて台所は静かになり、僕の部屋をノックする音がした。返事をすると、お父さんが入ってきた。お父さんは優しく僕に語りかける。
「勉強は楽しいか?」
「うん、」
僕は口ごもりながら答えた。僕は、教科書やノートの新しいページの匂いが好きだ。本を読んでいろいろなことを知るのは楽しい。今はまだ難しくてよく分からないことでも、いつかきっと分かるようになると思えば、それがまた楽しみだ。先生の言いつけをきちんと守ることは気持ちがいい。道徳の時間に習ったことを実際にやってみて、満足にできたときには、自分の中に力強さを感じる。
「そうか、勉強が好きか。お父さんも好きだった。だけどな、勉強するのと同じくらい、お父さんは子供のときには、よく遊んだものだったぞ。いろんないたずらもした」
「うん、僕も今日は家に帰ってから、外で遊んだんだよ」
「ほう、そうか」えらいぞ、とまではさすがに言わなかった。「友達とは仲良くしているか、うん?」
「もちろんだよ、お父さん。友達っていうのは大切にするべきものなんでしょ?」
お父さんは、一瞬変な顔をしたが、すぐに打ち消して力強く言った。
「そうだ、友達ってのは大切なものだ」
そして数秒の沈黙が続いた。
「さあ、勉強もいいが、子供はそろそろ寝る時間だ。さあ、寝なさい」
沈黙を断ち切るようにお父さんが言った。
「うん、今日はこのくらいにしておくよ。でもね、僕、寝る前に少し本を読まないと眠れないんだ。もう少しいいでしょう」
お父さんは、ちらっと僕のベッドの枕元を見た。僕が昼間読んだ『良寛さま』がそこにあった。子供向けの本だった。
「眠る前に少し本を読むのは良い習慣だ。お父さんも、子供の頃はそうだった」
僕は机の上の問題集を片付けて、おとなしくベッドに横になった。お父さんは、それを見届けてから、部屋を出ていった。
『良寛さま』の最初の方のページに挿絵が載っている。絵の中では、小さな子供である良寛さまが、もう日も暮れているというのに、ひとりぼっちで、浜辺でしゃがみこんでいる。遠くの方で、大人達が子供の良寛さまを探している。
この人は小さいとき、大人から「そんなカレイのような目つきをしていると、ほんとにカレイになってしまうぞ」と言われて、それを素直に信じ込んでしまって、「カレイになったら、僕はどうやって生活しようかしら」と心配で、じっと海を見つめていたということだ。
僕は、この挿絵をしばらく眺めただけで本を閉じ、部屋の明かりを消してから、もう一度横になって目を閉じた。
やがて、手足が先の方から次第に重くなり、頭の中で考えることが混ざり合ってきた。
そして遠くで寄せては返す波のさざめく音がする。
(了)