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ほろほろ鳥:小野寺 那仁

 明るかった混雑した車内は、急に真っ暗になった。ベージュのコートの母親に慎二はしがみついていた。車内のアナウンスは臨時ニュースを伝えてくる。

「三億円が強奪された事件の被害車両が東京府中市の畑の中に乗り捨てされているのが見つかりました」

 おおっと声が挙がった気がする。

 ということは犯人が捕まるのも時間の問題ということなんだ、と慎二は合点する。単にトンネルの通過だったらしく車内は明るくなった。するといつのまにか自分の掴んでいたコートが他人のものだと知り愕然とする。名古屋駅に到着する間中、慎二は電車内を行き来して父親と母親を探したが、ホームについて乗客がいっぺんに吐き出されるまで彼らに巡り合うことはできなかった。

 父親は笑っていたが母親は怒っていた。一瞬、感じた不安は蒸発するように消えていく。

 都会に出ることはほとんどなかったのに二週連続で人混みの間を縫うように歩くことになるとは思わなかった。冷蔵庫の中の痛んだ卵を三人で分け合って食べているのを貧しくて金がないのだと小学生の慎二でも理解しないことはなかった。

「さて、今日はどこへ行こうかな?どこがいい?」

 すぐには思いつかない。先週は父親の希望で『キングコング』の映画を観た。父親が子供の頃にもやっていたそうだ。その影響もあったのか、父親と自分の趣味の一致ということなら東山動物園のゴリラショーなんかどうだろうかと思っていた。また滅多に外出しないものだからそれぐらいしか思いつかない。

「今日、また刑事がうろうろしていたよ」母親が言った。

「相変らずしつこいやつらだ。まだ疑ってやがる」

 どうやら父母はなんらかの事件に巻き込まれているようだった。刑事は父親の持ち物のライカのカメラや小さなテレビ、真新しい冷蔵庫、慎二が私立の小学校に通っているなど分不相応な贅沢に何かを嗅ぎつけたらしいのだが、廃屋のような長屋で襤褸切れのような布団にくるまって寒さに震えていた慎二には貧しさのどん底にいるように思えてならないのだった。慎二はゴリラを思い出す。

 数か月前に東山動物園を訪れた。

 まだ桜は三分咲きで肌寒く、ペンギンの立つ丘や猿が走り回るコンクリートの山を震えながら眺めていた。園内のモノレールに乗りたいというと園内の乗り物なんて無駄だ、歩けばいいと父母は珍しく意見が揃った。やっぱりお金はなさそうだと慎二は思った。それから飼育小屋の中で眼だけ光らせている雌ライオンや茫然と立ち竦んで遥か故郷を眺めている静止したキリンの親子や観客に苔の生した尻を見せたまま銅像のようにまったく動かない犀をみた。犀の背中には小鳥が集って背中の虫を食べていた。それでも犀は気が付いていない。アナコンダも虎もジャガーもほとんど動かないかのろくさとめんどくさそうに歩んでいるかのどちらかだった。

 虎の檻の前で慎二の写真を撮影している父親を見て慎二は少々驚いた。カメラなんてあったんだと。いつの間に買ったのだろう。それに慎二を撮影するのも初めてで隠し撮りのように不意打ちであったからだ。父は家にいるときは不機嫌で母と口論ばかりしていた。そうして酒を飲んではふらりと外へ出て行ってしまうことも何度かあった。日常の中では慎二に無関心であり、わからないことがあって何か尋ねても辞書を引けというばかりだった。父親はあまり世間のことは知らないし学問を修めたわけでもないので慎二に教えることはなかったのだろう。何冊かの辞書だけは揃えていたが、子供向けの辞書ではわからない言葉は山のようにあった。

 そんな父親が動物園では生き生きとしていた。ユーカリの木の下ではシマリスに餌をやったり孔雀を脅かして羽を開かせて写真に収めたりして喜んでいた。猿山では猿にビスケットをぶつけていた。慎二はどんな動物を見てもあまり感心しなかった。図鑑に比べるとひどく色合いが悪くて迫力に乏しく眠たがっているような感じがした。十分に餌を貰っているのだろうかと思ったくらいだ。

「このショーを見てみよう」と父親が誘ったのはゴリラのショーだった。ステージに二頭のゴリラと飼育員が居て飼育員が漫才のように掛け合うとゴリラが喜んだり怒ったりするという不思議な見世物だった。ゴリラは演技をしているのだ。大変な人気であるらしく、黒山の人だかりで父親に肩車してもらわなければ何も見ることはできなかった。ゴリラは着ぐるみなのではないかと思うほどに、動きは機敏で素早く、反応が優れていた。拍手喝采を浴びるとバナナを受け取っていた。そのときになって観客たちはゴリラが野生動物であることにようやく気が付くのだった。たまさかに怒ったふりをした時などは、真に迫っていて飼育員が襲われるかのような錯覚を生じていた。ゴリラの毛並は光に反射して黄色と茶色の針がびっしりと生えているように見える。父親も見るのは初めてらしく子供っぽくはしゃいでいた。

 あれだったらもう一回見てもいいな。今回は始まる前から場所取りしてもっと前の席を確保したい。

 それでも動物園に行きたいということはまだ黙っていた。

 

 駅を出るときに間延びした奇妙な音楽が流れてくる。

 

 花も嵐も踏み越えて往くが男の生きる道

 

 と唄っていた。その中にほろほろ鳥という歌詞があった。ミイラのように包帯でぐるぐる巻きになった男が右に左に巧みにアコーディオンを傾けて奏で紡ぎ出したどこか寂しいメロディだった。男はひとりではない。軍服姿に三角巾で腕を吊った男。片足がなく義足の先が棒になった男。真新しい包帯は痛々しい。幟には傷痍軍人に補償を!とか戦争絶対反対とか天皇陛下万歳などいろいろと文字が書いてある。その数人の集団は縦横に市電の走る名古屋市の中心部において異様に目立つスポットだった。デパートの前なのに時間が流れていない。彼らが立っているのはアスファルトのビル街でなく満州の曠野なのではないかと。数十年も使っているような募金箱が傍らにあり寄付を呼びかけていたが、ほとんど誰からも相手にされていなくて素通りされていた。それが慎二の心に留まったのはテレビや映画の画面からは流れてこない光景で、地方には傷痍軍人はいないからだった。

「そうだ。ほろほろ鳥とかいう鳥を見に行こうよ」

「え?」父親は慎二の顔をまじまじと見る。

「そんな鳥はいないよ。動物園には」

「知ってるの?」

「いるわけないよ。あれは戦地を唄っているんだから中国かビルマなんかの鳥だろう」

「動物園ならいるに決まってるよネ」

「いないよ。動物園はツマらん鳥は飼わないからね。ほろほろ鳥は珍しくはないんだ。普通に食べているんだ」

「ホントかあ」

「うるさいなあ。辞書で調べてみろ!」

 手垢にまみれた辞書を繰ってみたけれどやっぱり子供向けだから出てこない。図鑑なら出てくるだろうが今はみられない。

 本当はほろほろ鳥なんて貧乏くさそうな鳥はどうでもよかったのだ。動物園という言葉に乗ってこなかった父親は今日は機嫌が悪くなっているのだろうなと感じた。そう思いながらも思い切って言ってみる。

「動物園ならゴリラショーだって見れるよ。この前は、よく見えなかった」

「ああ、ゴリラかあ。あれは残念だったよね。あれ、もうやってないんだよ」言いにくそうだ。

「どうして?」

「ゴリラが飼育員を投げ飛ばして頸の骨が折れて死んでしまったんだ。ゴリラはいるけどショーはしない」

「いつ?いつ!」慎二は父親の数倍もテレビを見て新聞も読んでいたからそんな大事件は知らないはずはないと思った。

「それは嘘じゃないよ」母親も言った。「じゃあ、今日は資生堂パーラーでフルコースを食べようっか?」慎二はうなづいた。次の言葉がどうして出てきたのかは慎二自身にもよくわからないのだが何か父親に話しかけたくなったのだ。

「しょうい軍人って可哀そうだね」

「へええ、あんな難しい字がよく読めたね」母親が珍しく褒めた。

「適当に言っただけだよ」

「可哀そう?」父親は不機嫌を通り越して半ば怒りの表情を見せていた。

「だって、手や足を戦争で失っているんでしょう」

「所詮、辞書や本で学んだ知識なんてその程度のものなんだろうな」独り言のように言う。

「なあ俺の兄貴の伸介伯父さん知ってるよな」

「ううんと。知ってる」

「あの人は職業軍人だったんだよ。しかも二度負傷して内地召還になって三度目に出征してまた負傷した。それでも生きているじゃないか、工場で働いて、議員にもなった」

 なんのことやらわからず慎二は沈黙していた。

「戦争が終わって何年になる。もう二十年も過ぎてるんだ。今でも治らない怪我なんてあるかい!少なくとも包帯はしていない!」

「終戦のとき、俺は小学生だった。な、中学生や高校生で戦争に行くやつなんていると思うか?あいつらをよく見てみろ」父親は傷痍軍人を指さした。

「俺と同じくらいか俺よりも若いくらいだ。戦災孤児ならわかるよ。でも軍服を着てる」

 

「でも、でも、脚がないじゃないか」

 聴こえないのか父親はまだしゃべっている。

「負傷したものにはシベリア帰りでなければ国は補償してるんだ。都合のいいことは語らずに都合の悪いことばかり語る」

「でもさ、実際、脚がないんじゃない?」

「あれはフラミンゴのように脚を折りたたんでいるんだ」

「へええ。そこまでするんか」慎二は感心した。

「何なら、あいつらの化けの皮を剥いでやろうか。あの棒切れの脚を蹴飛ばしてやるんだ」

「それは、やめて!私服が尾行しているかもしれないから」母親が制止した。こころなしか父親の機嫌がよくなっている気がした。

「あいつらはな、【騙り】であって【乞丐】なんだな、わからないだろう。辞書で調べてみろ!」

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