「限りない物欲」
フォロワーのほとんどがtwitter文芸部の方なのに、文学と関係の無い、全然分からないと思うカメラやレンズのことばかり日々呟いている。写真が好きなら同じ趣味の人に相互フォローしてもらえばいいのかもしれないけど、そういうのは嫌だ。身近にも同じ趣味の人はいない。別に写真について議論したい訳で無いし、大抵は自分よりも詳しいだろうし。趣味なのだから、嫌なことはしたくない。
日々懲りずに、買えもしないカメラやレンズをインターネットで調べて、人が書き込んだ感想を読みふけって、そういった所で得た知識ばかりが増えていく。楽しんでしていることだからいいのだろうけど、虚しいなぁとも思えてくる。
今のカメラを手にして三年の月日が経った。初めての一眼レフで、国内外、それなりにこのカメラで行った先々の写真を撮ってきたけど、飽きてきた。まだ行ったことのない海外の粋な写真を見れば、その場所と、撮影に使われたカメラとレンズに羨ましさを感じる。街中のスナップ写真であっても、こういう風に撮るなら仰々しいカメラじゃなくて、小さなカメラ、マニュアルレンズ、こういったストラップと鞄のスタイルで、と想像が膨らむ。欲しい物ばかりが増えていき、頭の中でそれを持っている自分ばかりが大きくなり、それを手にしていない今の自分は自分で無いような虚しさも覚えてきてしまう。 無い物ねだりをしているばかりじゃ仕様が無いと、天気は曇り、出掛けてきた。
行先は旧東海道近くにある有松天満社。有松はわざわざ電車に乗って京都にまで行く気力も出ない僕が行ける小京都。絞り染めで栄えた街で、歌川広重の『東海道五十三次』にも描かれた街なのだけど、世間的にどのくらい知られた場所なのか、僕はよく分かっていない。
今も小規模ながら江戸時代からの旧東海道の街並みが残されていて、この保存区域が僕にとっての小京都にあたる。ここは新しい建物も街の景観に合わせた物になっている。また、今回は反対側に来ているけれど、大通りを挟んだ向こう側は数年前に電柱が撤去されて、電線も地面の下に入れられている。電柱や電線が無いと写真を撮りやすいけれど、あったらあったでまた違う趣が出る。
写真の建物は比較的新しく建てられたアパートなのだけどレトロ調になっていておもしろい。こういった様子が見られるのは街の中の一部でしかないけれど、その一部だけを切り取って見せられるのは写真の良さだろうか。昔は無かった洋と和が共存している。まだ行ったことが無いけれど、神戸の街並みというのも一種こういった雰囲気なのだろうか。僕にとっての小神戸か。
有松の近くには織田信長が合戦した桶狭間がある。司馬遼太郎の『国盗り物語』を読んだ時は自分のいる地が今読む小説の舞台になっていることに興奮した。自分のよく知るあの坂を、馬に乗った信長が駆け下り、今川義元の軍に奇襲を掛け、そして明日は天下をと世に名を挙げていったのかと。
普段住んでいる中では、そういったロマンに浸ることは無い。だけど時々、思い出したように感じたくなる。
旧東海道の所々におもしろい物を見つけることができる。今も人が住んでいる場所なので気を付けなければいけないけれど、そういった物を一つひとつ見つけながら歩くのは楽しい。車や自転車に乗っていては気付けない、鈍行の楽しさ。無い物ねだりをしていないで、自分のいる足元を見つめてみる。できないことも多いけれど、そうすることで、自分のオリジナリティも出てくる。
この有松と桶狭間がこの辺りの観光名所となっている。しかし、わざわざ観光をしに来る人は見掛けない。有松では年に二回、お祭りが行なわれているけれど、それ以外は活気が無い。こうやって写真を撮ってきて文章を書いているのは、僕のこの地を紹介したい気持ちによるのかもしれないけど、そんなに来てもらいたとも思わない。あくまでも自分の小京都。
旧東海道は名鉄本線の傍らに残っている。僕は「撮り鉄」じゃないけれど、電車はよく自分の書く小説のモチーフになっている。自分が感じる、電車が持つ魅力は何なのだろうかと考えてみる。自動車はそれ単体でも動くことができるけど、電車が走るには、レールや駅、踏切を始め諸々の施設が必要で、そしてそれらは街の風景に溶け込んでいる。生活に溶け込んだ交通機関は魅力的に感じる。逆に生活に溶け込んでいない交通機関ほど、魅力を感じない物は無い。
僕にとっての電車が、小説の中でどういう役割を果たしているのか、自分にとっての何なのか、取り入れてはいるけれどよく分かっていない。また今度は少し、暴力的な作品を書きたいと思う。
きょうは朝から天気が曇りだったので、それならばと、ここまでモノクロで撮ってきた。帰りはカラーにしてみることに。曇りの日のくすんだ空気に挑戦してみた。
ここまでのモノクロは写真の明るさと構図に注意してきた。「空気感」カラーでのそれを表現するために、明るさと構図に加えて、輪郭のシャープさ、コントラストの強弱、彩度の設定を変えていき、自分のイメージに近づけていく。基本としてはシャープ、コントラスト、彩度の全てを落とすのだけど、明るさとのバランスを取りつつ、コントラストや彩度を微調整する。
写真を撮る前にしっかりイメージを持っていないと、カメラが出してきた画に満足してしまいやすい。カメラに写真を撮らされていることになる。撮りたい確固とした画を頭に描いてからシャッターを切る。カメラに写真を撮らされるのではなく、積極的に自分の写真を撮りにいく気持ちで。そうすることで、撮った人の意思が伝わる写真になると思う。
社までの石垣の階段に並んでいる旗の赤色が目を惹いた。ワンポイントカラーにして、他の色をモノクロにしてみるとおもしろいかもしれない。前に使っていたコンパクトデジタルにはその機能があったけど、残念なことに今のカメラには無い。旗と周りの色の出方に注意して設定を変えつつ、 落ち着きのある構図を狙って撮ってみた。
こうやって赤い旗が並んでいるのを見ていると、神社と関係無く、段々と「決起せよ」と呼び掛けられているような気持にもなってきておもしろい。武将の旗に見えてくるのか。
写真で表現することと、文章で表現することは似ていると言う人もいるかもしれないけど、僕にはどうなのかよく分からない。考えて撮られた写真には俳句に近いものがあるのかもしれないけど、長々と文章を連ねる小説とは違うように思える。
一枚一枚こだわって撮っていったら気分のいい写真が撮れたと満足。もう暫くは今のカメラのままでいいかなと、ここ最近暴れ続けていた物欲を慰めてくれた。
このコラムのタイトルは、Nikon製作のシネマトグラフィー『Through The Lens』から付けさせてもらった。