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珍獣と握手:常磐 誠

 男が覚醒した。ガラス球に映らせたのは窓の外だった。人工的なシルバー、青。紫。太陽の白い光。景色は流線型にうねり、一直線の形状を保つことはない。男はただ、ただ、じ、と居座り続ける活動を続けている。この部屋に入ったことを思い出す。能動的に部屋に入って戸が閉まり、右手に安置された空虚なソファを認めてそこに腰を落ち着け、それから、今までの時間をただ、ただ、じ、と男は居座り続ける活動を続けていた。いつの間にやら両隣からは頬を叩く気合の入った動作が繰り返されている。そんな動作の音は聞こえない。音などどうでも良い。視界の両端に、片一方は骸骨が、もう片方には石ころが、そのそれぞれの頬を叩く気合の入った動作が映ることだけが、男の意識には上っていた。それで十分だった。
 太陽は様々な色の光を出しているのだという。赤、黄、緑、青、紫。あぁ、この人工の街に、そういえば緑を見ていない。男は思う。男がたった今覚醒した。部屋の中で。人工的な色に塗られた部屋の壁。灰色。シルバーの輝く柱。ギラリ、と光沢。腰から上だけの女性。キュキュッとくびれた体の曲線を男は眺める。それを自らの舌で舐めまわし、汚したいという感覚に捉われて、ゴクリ、男は唾を飲む。赤、黄、緑、青、紫、その他諸々の色の混じった白に照らされて女の顔が見えない。唾を飲む男はその女の顔が見えないことを既に気にしてなどいない。最早ガラス球に映らない部分を詳らかにしようなどと感じることがない。そもそも、その女が誰なのか、何故部屋の中で腰から上だけを晒して生きているのか、どうでも良かった。汚したい。舐めまわして、恥辱、屈辱にまみれさせ、塗りつぶしてしまいたいのだ。その癖、男は腰から上だけの女の腰に向かい手を伸ばすことすらできない。距離がありすぎて届かない。ただ、男自身の腰も重かった。今まで顔ばかり見てきた生活に、顔の見えない女は刺激が強すぎた。そもそも、そんな女に何故好意など持つ。女の腰が、ガラス球に醜く映りなおされていた。
 部屋で覚醒した。部屋の天井では、男が首を吊っていた。その吊られた様子は力強く、活き活きとして眩しいばかり。部屋に安置されたソファに座るだけの男を、舐めてくる。舐める。男を舐める。舐められる。舐める舌が迫る。その裏の牙を剥く。部屋の虚空に風穴が開き、飲む。飲み込んでいく。その口中に部屋は捉われていく。部屋の一部でしかなかった風穴が、侵食する。される。食われる。いただきます。ごちそうさま。男は、男の顔も見ない。
 次に覚醒した。また覚醒した。男は光を見た。赤、黄、緑、青、紫。あぁ、相も変わらずこの人工の街に、やっぱり緑がない。気合を入れて頬を叩く骨と石ころは揃いも揃って顔の中に棒をねじ込みまわす。激痛は快感に。ねじっては、またまわし、ねじって。まわして。腰から上だけの、醜い女性。首を吊っている男も、また同じ。放たれる光がガラス球を穿つ。ガラス球を抉る。男は、色を見ることができない。
 更に覚醒した。き、と覚醒した。部屋に客が来た。男の前に座る。向かい合って、座る。何の挨拶もなく座る。ガラス球四つ。女のガラス球は黒い。二つのガラス球の前にガラス板。黒色の。女の全身をガラス球が舐め回す。腰から上だけの醜女よりも、首を吊った男よりも、視野の両端に鎮座する骨と石ころよりも、今まで見た何よりも実体を感じた。茶色の服に黒い上着を重ね、黒いパンツに纏われている足。頑丈に締め上げられている、足。男が、ガラス球が足にぶつかり割れる。首が胴体より泣き別れ、ガラス球が飛ぶ。さもなくば、……考えて男は立ち止まる。来客はあと一つ。かの女の足下にひれ伏す茶色の醜い珍獣。女に命綱で繋ぎとめられた珍獣は立ち止まった男に思いを馳せる。そのガラス球を噛み砕く。転がる首を玩具にしよう。液体に濡れたガラス球、さぁ、早くおいで。ガラス球。尾を振り振り珍獣がガラス球二つ、携えて。
 覚醒した。赤、黄、緑、青、紫。あぁ、閉塞感漂う部屋の外。緑に溢れて。天の啓示よ、聖なる存在、かくあれり。白い空間。虚空に広がる白い白いブラックホール。吸い込まれてく。吸い込まれて、何も残らない。貴方はいらない存在なの。冷たく突きつけられた白黒の記号の羅列はどんなに鋭利なナイフより、包丁より男の喉笛を深く醜く掻っ切って。不必要なの。いらない、の。ねぇ。悪いのは、あたしなの?
 また、覚醒した。部屋には傾斜ができていた。珍獣は未だに男の前に伏せっていた。珍獣の顔は見えない。ガラス球の前にガラス板、そんな女の腿の影。珍獣の居場所は相も変わらずそこだった。骨と石ころ、腰から上だけの女、首を吊った男、変わらず部屋の中にはそれらも一緒にいた。部屋の中は幾分斜陽の赤に塗れた光が這入り込み、部屋の色も赤く赤く塗りつけていた。部屋の窓から景色を見る。光は角度を変え、黄、緑、青、紫がどこかに吸われてしまって。そうやって、赤だけが残って。流線型に歪んだ建造物が別れを告げる。さようなら。さようなら。又会う日まで。そんな文言が、男の頭に浮かんだ直後に、また、食われた。
 食われては排便され、食われては排便され、そうやって男は何度となく覚醒した。繰り返し繰り返し覚醒し、ガラス球は光景を切り取り映し出す。赤、緑、緑、緑。大きな広葉樹の葉が映る。茶色い土が男を眺める。ギョロリ、ギョロリと男を舐めては、品定めして。吐き気がする。ガラス球二つ、横に向け、腰から上だけの醜女を映らせる。俺の顔。女の顔に、俺の顔。女の顔は、男の顔だった。女の顔が、男の顔であったのだ。体を震わせる。両隣の骸骨と石ころがグルリ、気味悪く回転して男を見る。間違いない。色とりどりに装飾されたその顔は、「お……俺の……」顔だった。
 青ざめていく男の顔を男が見ることはない。己の姿がガラス球に映ることは決してない。天井の首吊り男の顔は、意気揚々と身構え、自信に溢れたその顔は、どうしようもないほどに青から急激に色を失った男の顔でしかなく。男は口を開けては閉め、開けては閉めを繰り返すばかり。
 要らない。要る。要らない。繰り返される花占いのフレーズ。花一輪を楽しげに、そして哀しげに、花弁の一枚一枚を時間をかけ残酷に剥ぎ取ってゆくアップテンポでスロウで、激しく、沈痛な歌。その歌が謳われる頃、その光景を見やって、男は。
 部屋の中で繰り広げられている様相を、男は思い返していた。息が元に戻っていて、石ころの自分が何かを言っていることをガラス球に捉えてようやく知る。顔を背け、今度は骸骨の俺が同じく。その音が聞こえないのは、この部屋があまりにも静かだからか、五月蝿いからだろうか。男にそれがわかることはなかったが、珍獣が手を伸ばせばすぐ触れられる位置にいることだけは、確からしかった。予想通り、珍獣もまた、男と同じ顔をしていたし、命綱が一緒で、ガラス球の前にガラス板をはめただけでやっぱり同じ顔をした女も付いていたが、ガラス球は珍獣にしか焦点が合わなかった。
 珍獣の荒い息。男の手に触れられて、それでも大人しい。あぁ、そうだよなぁ。男は思う。珍獣は触れられることが気持ち良いのか、男と同じ顔をくしゃりと歪めて笑っていた。珍獣の命綱は、いつの間にか解けていた。これでお前も自由かい。そんな訳はない。決まっていることだ。何故ならばそれは命綱なのであって、そして、
「やぁ……。お前達か……!」

 男が部屋から出てから、空は暗かった。部屋を出てからも、相も変わらずやはり全ての生物の顔が男と同一であった。男の子、女の子、男性、女性、虫けらと罵り、忌避してきた全ての生き物達が、すべて同じ顔。だが、不思議と男は取り乱したりすることはない。あぁ。ここは、何ていう所なのだろうか。男は、今までの世界とは違う世界で生まれ変わったのだと、そう強く感じていた。
 ふと、泣き声が聞こえた気がした。男は部屋を出てから、いや、部屋に入って以降、この泣き声が初めて聞いた音のような気がしてならなかった。赤子の鳴き声とは違う、泣き声。ただ、まだ幼いことが、声色で判別できた。それを見遣ると、一人の子どもが泣いている。顔は男と同一で、だがしかしワンピースのスカートと、自分とはやはり大いに異なる子どもの泣き声から、その子が女の子であると、瞬時に判断できた。谷底に、大切なものを落としたらしい。もう諦めろ。諦めなさい。周りにいる、男と同じ顔がはやし立てる。谷底を男は見遣る。谷と呼ぶには浅すぎる。男の背丈と変わらぬ程の高さにしか、ガラス球には映らない。男は、飛び降りた。
 泣いていた同じ顔が落としたらしい大切なものは縫い包みだった。愛らしくデフォルメされたクマの、一抱えあるような大きな縫い包み。汚れを軽く払い拾う。それを男は容易く、男と同じ顔の子どもに渡した。後は、自分が這い上がるだけだった。……そこで男は驚愕する。谷は本当に谷になったのだ。手は壁にかかっても直ぐに剥がれ落ち、飛び上がることも叶わず男は、横を向く。とてつもなく獰猛な鳴き声が聞こえたのだ。肉を引き裂き、四散させ、跡形もなく全てを消し去らんとする獰猛な鳴き声。男の耳に入る音は、もはやこの鳴き声くらいなものだった。だが、それとは逆に男は先ほどまでの動揺がなくなってゆくのを感じていた。男は、見ていた。
 男と同じ顔をした男と、とてつもなく強大で、獰猛なのにやはり男同じ顔の珍獣を。男は両腕を広げた。どうしようもなく愛しかった。彼らが。この顔が笑っているのを、自覚していた。……そうして、男は。

(了)