はて、寝ても覚めてもぶんがくのことを考えているかというと、実はそんなことは間違っても言えず、仕事のことを考えたり、悩んだり、腹を減らしてごくごく水を飲んでいる若者です。若者っていってもあと、限られた期間しかその猶予はないかもしれないけどさ。
「月の光」―なんて優しいメロディなんだろう。
19世紀初頭のクラシック、それはいかにもクラシック的な音楽だった。バッハ、ベートーベンみたいな音楽室に貼ってある肖像画が代表する、堅固なメロディ。
対して、パリの万国博覧会でインドネシアの東洋音楽(「ガムラン」)に触れて、驚がくしたドビュッシーに代表される20世紀初頭の音楽は、そういった堅固な―西洋の建築物のような―メロディではなく、どちらかというと雲や水のような分子が寄り集まって自由に生成変化する流動的な音楽だった(※)
読書にも流動的にあってほしい。そうせめて学校のべんきょうみたいにならずに。
どこから初めてもいいんだよ。ガムランが音と音の響きによって、自らの音の立ち位置を決めて行くように。あの言葉に響いたら、つぎはこの言葉に、用意された文学史を無視してとってもミーハーな気持ちで本と戯れる。寝転がって読むこと万歳だよ。
ドビュッシーの音楽みたいに水のようにたゆたう言葉に波紋を感じながら、新しい風を水面にたててゆく。そんな読書をしてごらん。その風となってあなたに線を走らせる存在は、もしかしたら通勤電車で目の前のおっさんが読んでいる本の一節より、みつかるかもしれない。
受験の英語は堅い。単語をやって、文法をして、構文を覚えて、英文解釈の勉強をして、長文読解の練習をして、……そんな一本のレールで他の国の言葉を覚えても、さまざまな思想を持っている英語の使い手たちに太刀打ちできるのかな。
やっぱり世界って広いけど、自分の頭で考えることって大事だと思う。
本当に強いのは勉強だって誰かのレールにのっかってきたやつじゃなくて、自らの人生の中で出逢った何かに物語を宿せるかどうかだよ。海外ドラマで、英語を勉強したっていいじゃない。
作家だってきっとそうだよ。確かに文学史は重要だと思うよ。けど僕が出逢った中で本当に強い奴は、自らの人生史のなかでぶんがくと闘っているやつだった。
国語便覧に載っているぶんがくの偉い作家たちを沢山読むことは自慢にもなるかもしれない。けど、本当に強い言葉はたった一冊の中からだって生まれる。
一冊から生まれた作家もきっといる、偉大なテクストを熟読玩味することによって。
はじめて触れるぶんがくが中上健次でもいい。ロブ=グリエでもいい。
地図はいらない。物語は、あなた / わたしが作るべし。
って僕は思う……。
ドビュッシーの音楽みたいに
水のような、
雲のような小説が
現れることを、
一人の小説ファンとして
待っています。
※10月30日放送のNHK「“schola”坂本龍一 音楽の学校」で、教えてもらいました。