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「隆 ―― 蟬 ―― 」しろくま

 中央公園は住宅地の中にある。夜、公園を走る隆の耳には、家々から母親が子供を叱る声や、洗った食器を重ねる音が聴こえていた。

 隆は公園をぐるりと走り、一周する毎に噴水の所の大きな鐘のある時計を確認した。一周に三分かかるのが常で、時間を確認すると、今度は走りながら胸に手を当てて鼓動を聴いた。時々思い出すようにして、隆は走りながら心臓の鼓動を確かめていた。体はいたって健康なのだが、そうするのが癖だった。

 早いピッチにして、無理に走ることはしなかった。大学生活で、鈍った体を動かすために始めたランニングだった。少しずつ、じわっと汗が出てきて首元のシャツに滲み込んでいった。吐き出す息は蒸し熱かった。

 隆の走っている公園の中の道は電灯が立ち並んでいた。等間隔に並ぶ電灯は電球の四方をガラスの板で囲んだ物で、光に引き寄せられた虫が、コンコン、トントン、とそれにぶつかっていた。公園の道の、木に覆われた所に入っていくと、家の音や、向こうの道路を走る車の音が聴こえなくなって、林を抜けるまでの間は、夜の静かさと涼しさを感じることができた。

 そしてそのまま十周すると、彼は走るのを止めて、家に帰るのがいつもの習慣だった。走り終えて、きょうも同じようにして家に向かって歩き始めた時、足元で何かが動いているのに気が付いた。

 しゃがんで見てみると、それは蝉の幼虫だった。隆にとって、抜け殻でない物は初めてだった。隆が正面に居たので、幼虫は前に歩いていたのを止めて、後ろ向きに歩き始めた。幼虫の後ろに手をやると、今度はまた急いで前へ歩き始めた。

 道の真ん中だったので、蝉が羽化するために掴まる木は、幼虫の足では遠そうに思えた。隆は幼虫を捕まえると、持って行って木に掴まらせた。彼は家に戻って風呂に入った後、もう一度ライトを持って公園に戻り、さっきの蝉の幼虫を捜した。幼虫は隆が掴まらせた所から更に登っていて、じっと羽化を始めていた。頭から徐々に背中を割っていく様を、隆は手持ちのライトで照らしながら、静かに見続けていた。

 夏本番になり、昼はたくさんの蝉が啼き続けていた。夜が白けてくると、朝、日が昇って、まずは雀の囀りが聴こえた。そして一番蝉が啼いて口火を切ると、その他大勢も一気に啼き始めた。

 隆は夏バテを起こし、朝の五時頃まで眠ることができなくなっていた。そのため、寝床の上からも外の様子がよく分かっていた。蝉が啼き始めると、煩くてもう眠ることができないため、窓の外が少しずつ明るくなって雀の囀りを聴くと、ここで腹を括って眠るのだった。

 隆が起きて居間に下りてくるのは十時頃だった。起きてきた隆に、母親のさなえがこの日はおはようの代わりにこう言った。

「祐太郎さんが昨晩亡くなられたって、さっき電話があったの。葬式は明後日にあるんだけど、隆も行く?」

 隆の父俊作の兄である祐太郎は、ここ一年ずっと入院していた。肝臓の病だった。元々体の弱い人で、生前も常に先は短いと二人は聞いていた。そのため、話をするさなえもそれを聞く隆も、特に意外であるという様子を示さなかった。

「とうとう亡くなっちゃったのか。もっと、会いに行けばよかったかな……、葬式には行くよ。服はスーツでいいのかな」

「そうね。夏用のを出さなくちゃね」

 買っておいたリクルートスーツは、まだ袖を通したことが無かった。薄手の夏用の物だった。大学入学時に買ったスーツは冬用だった。こんな形でまず役に立つとは思っていなかった。

 葬式当日、隆は白いカッターシャツとスーツを着て、黒いネクタイ、靴下、革靴を身に付けて車に乗った。出掛ける時はまだ朝早かったが、空は雲が無く、いつも以上に日差しの強い日になりそうだと思った。車は俊作が運転し、助手席にさなえが、後部座席に隆が座った。

 亡くなった祐太郎は未婚者で、家からも出ておらず、祖父大助の家に住み続けていた。体が弱かったため、正確には実家に居続けることしかできなかった。葬儀は大助の家で行われた。俊作達が着いた頃には、何人か既に居て、葬儀の仕度が整えられ始めていた。

 大助が九人兄弟の長男だったため、親戚の多い家だった。隆も顔の知らない人が多かった。ただ相手は隆のことをよく知っていて、大きくなったね、とか、今は大学生か、などとよく訊かれ、その度に答えた。

 葬儀はしめやかに行われた。隆は子供の頃、祖父の家を訪ねた時に、よく祐太郎に遊んでもらっており、隆の持つ祐太郎の思い出のほとんどもその当時の記憶だった。子供の居ない祐太郎には、自分の子のようにして可愛がってもらえた。隆も祐太郎伯父さんのことが嫌いではなかった。ただ、大きくなるに連れて大助の家を訪ねなくなると同時に、祐太郎とも疎遠になっていった。

「隆君の結婚式まで生きたいなっていうのが、口癖だったのよ」と、祐太郎をよく看病していた三枝叔母さんが隆にそう言った。祐太郎は三枝と俊作の三人兄弟だった。もっと生前に会いに来れば良かったと、隆は後悔した。せめてもと、自分から、納棺された祐太郎を霊柩車に乗せるのを手伝った。

 火葬場は車で四十分の所にあった。知らない山道を車で登り、林の開けた所にそこはあった。

 最後のお別れをして、祐太郎は焼却炉の中へ送られていった。燃え切るまで一、二時間の待ちができたので、控え室で昼食の弁当を食べた。俊作や親戚のおじ達は跡継ぎの話をしていた。隆はそれを聞かずに、一人火葬場の中を目的も持たずにうろうろしていた。焼却炉から出てきた祐太郎は骨と灰になっていて、皆でそれを箸で骨壷に入れた。

 時計の針は午後二時を差していた。外の日差しはジリジリくる暑さだった。ただ、林の木々から抜けてくる風は気持ち良かった。空気が澄んでいた。

 ふと、木の根元を見ると、蟻の群がるアブラ蝉の死骸があった。蟻の中でも一際体の小さな蟻達が、無数に群がっていた。この蝉の死骸は、蟻の食料になり、そして土に返るのだろうと隆は思った。

 食物連鎖。蟻の餌になる蝉の人生とは何だったのだろうか。今も周りは蝉の啼き声が響いている。蝉は何のために短い人生を掛けて、あんなに啼くのだろう。

 また同時に、さっきの祐太郎の灰を思い比べた。振り返ると火葬場の屋根の煙突が目に入った。祐太郎が昇っていった煙突だ。結婚することも子供を持つことも無かった祐太郎。それが人生の全てだとは言えないが、せめて土に返してあげるべきだったのではないか。食物の栄養にすべきだったのではないか。

 人だけ自然の食物連鎖から離れた所に居るのだと知った。なら、燃やされて土に返ることのできない人間は一体どこに居るのだろう。人は、自分達の作り上げた社会に、食物連鎖と同じような体系を作って、その中に居るようだと思った。こちらも食う食われるの食物連鎖だ。祐太郎は、誰のための栄養になったのだろう。

 俊作を大助の家に残して、隆とさなえは電車で家に帰った。電車の中で、隆はさなえに「人の人生とは何なのだろう」と訊いた。「何なのだろうね」とさなえも考えていた。電車は一駅一駅人を乗り降りさせながらゆっくりと進んでいった。家に着いた時にはもう夜も更けていた。

 家に帰った隆は、この日も公園で走った。夜の公園は蝉も啼いておらず、静かで涼しかった。

 夜になれば走り始める自分と、昼に啼いている蝉のことを考えると、トランプの表裏のようだと隆は思った。隆の走っている道は公園の木の深い所に入っていった。隆はずっと林の中に居たいと思った。