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第12回芥川賞読書会

 日時:9月30日(日)21:30~

 場所:skypeチャット

 ホスト:安部

 作品:「ひとり日和」青山七恵(第136回)

 参加者: 緑川、イコ

 

 

KOUSAKU Abe:恐らく三人になりそうですね

イコぴょん:そうですねw

緑川:まあ参加は義務ではないし、三人寄ればなんとやらで

KOUSAKU Abe:ですねw……!!確かに

KOUSAKU Abe:では、はじめましょうか

イコぴょん:了解です

緑川:では、お願いします

イコぴょん:(実はあと十数ページ読めてない!)

イコぴょん:読みながら語るので、ちょっとレス遅くなるかもですが、許してください~

緑川:似たようなものです、私も >イコさん

KOUSAKU Abe:「ひとり日和」読書会、はじまりはじまりー

 

KOUSAKU Abe:で、早速、大まかな感想を、緑川さんと僕は述べましょうか。緑川さんも、もしかしてまだ全部読んでませんか?

緑川:あ、読んでますよ。読み込みっていう意味です

KOUSAKU Abe:おお、なるほど。ではでは、まあ僕としても、話しながら深めていければと思います。

緑川:タイトルとか、本の装丁に見られるような、そんなほのぼのとした小説ではなかったかなと

KOUSAKU Abe:「ひとり日和」の大まかな感想。まず第一印象に、とてもふわふわした作品だと、まあ、それは誰もが感じるだろうという印象を受けた。そして、そのふわふわ、繊細、というより素朴、ナイーブ(ある種の神経質)な精神が、周囲との奇妙に空いてしまった距離の中に迷い込み、微妙に傷付きながら過ごしていく一年の話だな、というのもまあ、誰もが感じるだろうという印象。

吟子さんの老練さと母性とかは、まあ最近の若いお年寄りと言う、形容矛盾的な印象を具えた現代的なお年寄りキャラの典型、そして藤田君の恬淡とし、簡単に済ませようとする一方で、それは自尊心をこじらせたり、ポスモ的諦念をそれとなくわかりながら、本当は理解できてないが故に、実存に対して冷笑的な青年と言う典型、まあ、主人公は一昔前を感じさせながら(それは中国へ行っている母のキャラクターの影や名前のせいかも)現代への違和と、性に対しての慣れからくる、自意識過剰なほどの意識の無さ加減を根拠とする乙女的な感性(ひそかに地味な日常への嫌気と、そこからのロマンへの遁走を夢見てる)そうした人格はまあ、典型かなって思います。この作品の書かれた年代が理由かもしれないけど。でも綿矢りさほど投げ槍でなくて、優しい作品だと思いました。とにかく現代という空間のねばっこさと透けた感じにたいする嫌気がさしていて、それに満ちている、しかもまあ乙女的反抗を繰り広げている、そういう、なんか苦労の多い作品かとも想います。孤独に向き合うところに最後はいきついて、ようやく世界と自分の距離感が埋まり、まあ、ロマン的乙女から、現実的なお姉さんに変貌した感じもしますが、まあ、まだ踏み込んだという、明るさを感じます

緑川:んと、では、安部さんの感想を、順を追って読みますね

KOUSAKU Abe:はい。すみません、一気にどんと書いてしまいました

緑川:ふわふわとした作品……

KOUSAKU Abe:なんというか、装丁とか行間の広さとか、そういう第一印象もあります。が、語り口もふわっとした印象を受けました。ほのぼのとは違いますが、なんというか、浮いた感じ、そういうとネガティブに聞こえすぎる気もしますが。

緑川:落ち着いた文章ですね

KOUSAKU Abe:ですね、落着いて淡々とはしてます

緑川:で、ふわふわとしてるっていうのはですね

KOUSAKU Abe:ええ

緑川:ざっと、いろんなブログの感想でも、そういう読みはたしかに多かったと思います。それで、私なりの感想ですが、このヒロインの一年、吟子さんの家での生活は、一種の異空間というか

KOUSAKU Abe:ええ、通過儀礼的なものを感じました。

緑川:彼女にとっての「青年宿」みたいなものだったのかなと

KOUSAKU Abe:なるほど、青年宿。

緑川:で、吟子さんがメンターです。だから、出た後にそこを振り返ってみると、たんに空間的、時間的距離というのではなくて、普通の日常とはちょっと異質な空間。だから、ラスト

>そこにある生活や匂いの手触りを、わたしはもう親しく感じられなかった

以下の文章が出てくる

KOUSAKU Abe:そうですね。確かに

緑川:仮りに戻っても、もうそこは彼女にとっては違う場所

KOUSAKU Abe:ええ、もう戻れない

緑川:そういうことだったのかなあと

KOUSAKU Abe:思い出みたいなもので

緑川:つい最近まで、そこにいたのに、すごく遠い思い出。いわゆる青春ってそういうものだと思いました。サナギの時期というか、だから、たんに、ほのぼのとして、ある意味退屈な小説だとは思えなかった

KOUSAKU Abe:確かにそれはそうだと思います、更にいえば、吟子さんの家は、モラトリアムを過ごす場所で、先を決められない主人公が足踏みするためのシェルター的な要素もあるかと。

だから、外の世界へ出るのが怖い主人公もずっとその中にいようと思えばいられた。けれど、結局保護下から旅立つ成長があるんだと思います、そこで外の世界しかない事に気が付く。世界は一つで、外に出られるなら外の世界しかない事に。つまり、たんに保護下にあって無自覚なだけだったんだって気付く。

退屈とは思いませんでしたよ。ほのぼのとか。もっとどろっとした悩みとか、主人公の違和感(嫌悪感まではいかないかも……)を感じました

緑川:庇護下。うーん……

KOUSAKU Abe:ああ、でも吟子さんの家は、そこまで庇護しないと思います。まあ、泳がせてもらっている。せめて帰る場所は与えられる。なんせ、親に突然頼れなくなった主人公は、戸惑うでしょうから、外の世界に

緑川:モラトリアムというか、ある意味、異質な世界じゃないかなと

KOUSAKU Abe:うーん、それは裏表ではないかと。

緑川:ちょっと違うけど、異質性では例えば泉鏡花の「高野聖」とか。あれ、異世界に迷い込む話ですけど、吟子さんの家も、そういう意味での、日常とはちょっと違う世界。極端かな

イコぴょん:よし、読み終わった。ログ追ってきます

KOUSAKU Abe:なんというか、僕もよく大人に言われて苛立っている事に、違う世界に住んでいるとか、現実に生きていないとか、そういう事があって、でも言いたいのは、吟子さんじゃないけど、同じ世界に住んでいるには違いないだろうって。質も、空間も時間も。けど問題は実存なんじゃないかって。だから、主人公の向き合い方が問題で、そこに主人公は摩擦を感じていると思います。だから僕はあえて異和感とか異質とかより、巣立ちへの躊躇い、モラトリアムと、表裏の言葉を使いました

緑川:なるほど。私と安部さんとの年齢差からくる読みの違いかも知れないですね

KOUSAKU Abe:何と言うか、現代的な教養小説に近いかな、って。でも現代の若者的に、そこまで勉学とか理性とか、高邁でもなく、もっと素直で、悪くいえば幼く、無欲に悩む。それは「時代の要求の無さ」(これはマンの『魔の山』で出てきた言葉です)が慢性的に、わたしたちの感覚に麻痺を齎しているからではないかなって。それはありそうです。僕、主人公と歳近いからつい投射します(つい自分本位な読みになりそう)

イコぴょん:吟子さんの家は、ホームのどんづまりにあって、一種象徴的な空間ではあると思います。似たような舞台設定でいくと、絲山秋子の「袋小路の男」

緑川:ああ、なるほど。「袋小路の男」ね

イコぴょん:でも、異空間、とまではいかないというのが自分の読みで、あくまで地続きだと思うんですよ

緑川:そこは、ですね。ヒロインの認識だと思うんです

KOUSAKU Abe:家、って現代では結構異質な空間の気もしますね

イコぴょん:主人公は、いわゆる人生のエアポケットにいる

KOUSAKU Abe:なるほど

イコぴょん:何を決めるのも自由なんだけど、その若さから、どうしても自分の人生に責任を追い切れないところがあって、単に「モラトリアム」とは言えない、だって勉強しないなら、働けっていう価値観が日本にはある。そういう、迫られるものに対して、アルバイトでなんとかしようとするし、男性と交遊しようとするけれども、何かが満たされない

緑川:異質な空間って、うーん、言葉の定義の問題かな。そういうふうに読むと、この作品、読みやすいと思ったんですけどね

イコぴょん:ふわふわしていると感じられるのは、そういう、ポケットのなかに入りこんでしまった人間の生活を、あからさまに作為剥き出しじゃなくて、とても自然に、すくっているからじゃないかな

KOUSAKU Abe:満たされ無さは感じますね。でも、それは虚無とは違うかなって思います。実存的な問題には向き合えずに終わりますし(ええとですね、同じ物理的空間とか、世界体系にありながら、それが通過儀礼ではその前後で変容させてしまう、ってことはあります。だから、表裏(基本的に同質)だと思いますよ)

緑川:頑張ってアルバイトしたり、恋愛したりしても何かが満たされない、っていうのも、いわゆる日常からは異質な場所に彼女が住んでいるから。虚無とはたしかに違いますね

イコぴょん:吟子さんは、師匠ってほどではないんだよな、なんか。人生の先輩って程度で

緑川:あぁ。メンターって、別に何かを直接教え導くっていう意味じゃなくて、その都度都度の、彼女に対する反応がじつに絶妙だから、そう呼びました

イコぴょん:通過儀礼って考えると、本当に、しっくりおさまってしまうところはね、あるんです。けどなんか、そういう枠組みにハメて納得する小説でも、ないように思うんですよね。

KOUSAKU Abe:イコぴょんの発言を引用

≪単に「モラトリアム」とは言えない、だって勉強しないなら、働けっていう価値観が日本にはある≫これは、ちょっと異論があって、主人公はバイトと正社員の二段階を経るわけで、おそらく勉強とバイトは同じラインに立ってます。

それは、単に主人公の実存の無さ、まあ、現代的な人間の不在が問題かなと。虚無と言うか、虚空。今日のために思ってたことがあって、フォンターネとかバルザックとか、昔の小説に比べて、今の小説って、登場人物が明らかに少ない。

イコぴょん:ふむ

緑川:ああ、それは

KOUSAKU Abe:この小説より短い小説でも、もっとたくさん人が出てくるんですよね。でも、もう最近のは出てこない。

緑川:例えばバルザックとの比較で言えば、作者の年齢もあるかなと。人生経験とか。この作者、まだ若いし

KOUSAKU Abe:たしかにそういう世界の狭さってあるとは思うんですが、例えば、この小説、駅とかではたくさん人がいて、実際人は溢れるほどいる(無論初対面とか偶然を排除して、割と頻繁に顔を合わせる、あるいは共存する機会がある、という程度の人間関係ももっとたくさんあるはあるはずです)。一方当時の上流社会は、社交界がありながら、そこにいる人間の絶対数は遙かに少ない

緑川:周囲にたくさん人間がいれば、たくさんの登場人物が書けるわけではないし。ああ、ただ、意図しているところが違うといえば、たしかにそうですね

イコぴょん:自分と、自分の周りにいる人々の生活や関係を、あくまで私的な目線でとらえようとする作品が多いので、そうなる傾向があるにはありますね。

緑川:バルザックの場合は、社会全体を描こうとしたというところがあるかと。いわば、人間曼荼羅みたいな感じで。おそらく、多くの現代作家には、そういう意図はないと思います

イコぴょん:現代人の様相を示しているのかもしれませんね。以前は日本でも、とにかく人の縁というのは大事にされたものですが、今は、「向こう三軒両隣」というような意識は死滅しているに等しいです

KOUSAKU Abe: 僕はこの小説、私的に捉えているように見せて、さっき僕が挙げたように典型的人間が配置され、なおかつ通過儀礼のような社会と青年の向かい方という、ある種の社会を描こうと狙っているところがあるように思えるのです。

曼荼羅っていっても、写実主義作家たちは、典型的人間を描くので、逆に大きな曼荼羅になれば、それだけ典型が多いってことでしょうが、小さな曼荼羅ならそれだけ典型的な人間が少ない(そこまで一貫性がなかったり、多様性が欠如している)のでは?

バルザックは人間喜劇という作品群では社会全体を書きますが、人一つの作品はより黒ずアップされてますし。

緑川:えと、安部さんから、賛同されてるのか、反論されてるのか分からない(^^;

KOUSAKU Abe:すみません、反論です。意図はあると思います。

KOUSAKU Abe:イコさんの言うとおり、特質が感じられる。

緑川:私は、特質がないとは言ってないと思うんですけどね

イコぴょん:そうだなぁ、なんか、ちょっと未整理なまま会話が繋がってる気がするなぁ

緑川:整理しますか?

KOUSAKU Abe:ですね。

イコぴょん:現代の(日本の?)小説の登場人物の少なさってところから問題提示がなされ、緑川さんは、作者の人生経験がそれにつながっているのでは、とおっしゃった。

自分は、そういう描き方を選んでいるからで、それは現代人の様相をあらわしてもいると言った。

安部さんは、この作家は社会を描くことに目を向けているとおっしゃった。ここまでは分かるんだけど、ここから先が少し分からなかった。

KOUSAKU Abe:つまり、どこまでも典型化されているということです。人は雑多に入るけど、とにかく複雑な社会から距離を置いて、より私的領域の単純性を極めて行き、その結果、社会の人間的典型を形成し、社会を明快に描こうとした、という狙いを感じます。

緑川:それは、どの作家のことですか?

KOUSAKU Abe:青山さんです。

緑川:人間が雑多にいると? ああ、骨子は

イコぴょん:たとえば駅にはもっと人がいるはずなのに、あえてそれを描かず、単純化してるってことじゃないですか?

KOUSAKU Abe:そういうことです >イコさん

緑川:KOUSAKU Abeの発言を引用して

≪より私的領域の単純性を極めていき、その結果、社会の人間的典型を形成し、社会を明快に描こうとした≫

というところですね。青山さんの狙い

KOUSAKU Abe:ええ。

イコぴょん:人生のエアポケットに入っている、こういう主人公みたいな人物は、けっこういますからね。典型と言えば典型だなぁ。

緑川:うーん……、出来の良い短編っていうのは、そういう作品が多いですけどね

イコぴょん:社会的に付与された性格は、典型だと思うんです。けれど、個人的な部分で見て行くと、決して典型とは思わないです。

緑川:で、私も作者が社会を描こうとしていない、とは言ってないですけどね

KOUSAKU Abe:ええ、で、僕はさっき肝心なところを言い損ねていたわけですが、それは、その典型の人間の数の少なさが、まさに現代的だってことです

緑川:ああ、つまり、人間の数の少なさが、私は作者の社会経験のせいだと言ったけど、安部さんは、現代的であると評価したわけですね

KOUSAKU Abe:書ききれない、誠実に向き合えば、書けない。私的領域がより距離感を詰められない社会っていう、吟子さんの家が異質なら、自分もまた異質な感じがしてしまう。っていう、フラクタル。藤田君もどこか似てるし

KOUSAKU Abe:そうですそうです!

イコぴょん:緑川の発言を引用して

≪ ああ、つまり、人間の数の少なさが、私は作者の社会経験のせいだと言ったけど、安部さんは、現代的であると評価したわけですね≫

すごくよく分かった。

KOUSAKU Abe:ええ、一発で纏めてくださった。

緑川:とすると、今まで10回くらいこの読書会やってますけど、どの作品も登場人物は少ないですよ

イコぴょん:(いいところですごく惜しいんですが、ちょっと、レンタルDVDを返してきます)

KOUSAKU Abe:(いってらっしゃい)

緑川:(はい。いってらっしゃい)

緑川:ただ、この作品の場合は、狙ってそうしたということですかね

KOUSAKU Abe:人数の少なさといったコード→現代的を表現したいと言うよりかは、

現代(の若者)を描く→現代的→人数の少なさ、っていう順番かもしれません。でもそれはまだ若いとか、人生経験の不足から現れるものではなく、どちらにしても現代の致命的な特質なのではないかと思います

緑川:ふむふむ。対立軸がなんとなく分かってきた。さっき、安部さんの言われた「藤田君も似てる」と。では、前の彼氏、陽平もなんとなく似てるし、これも、現代を描くためにそうされたということですか?

KOUSAKU Abe:そうだと思います

緑川:バリエーションというか、キャラクターの持ち駒の少なさはないですか?

KOUSAKU Abe ええ、それはあると思います。結局、イコさんがさっき、

≪ 個人的な部分で見ていくと、決して典型とは思わないです≫

って、言われた部分に通じると思うのですが、微妙な差異の積み重ねで、微妙に違う人間が出来るけど、結局同じような人間ってものが周囲にいるってことじゃないかと思うんです

緑川:では、青山さんがこれから年齢を重ねられて、作家として成長されていっても、やはり、結局同じような人間ってものが周囲にいる、ような作品を書いていかれると

KOUSAKU Abe:主題の変化さえなければ、そうだと思います。つまり、「アサッテ」的主題に青山さんが行かない限り、そうなると思います。それこそ

緑川:いろんな人、いますけどね。で、そんないろんな人を書ければいいなと私なんかは思ってますけど、なかなか大変

緑川:少し、話題を戻しませんか?

KOUSAKU Abe:ええ、そうしましょうか。

緑川:先ほどの安部さんの議論。この作品が社会を捉えているとして、出来の良い作品は、だいたいたしかにそうなんですけど、そっから先を読み込んでいきませんか? ていうか、言いかけてたのかな。安部さん

KOUSAKU Abe:そうですね、人間の不在の結果、私的領域をもつわたし、というものが社会との間で摩擦もなく、しかしフィットもなく存在してしまう。だぼついた身の丈に合わない服を着ているような違和感に満ちている。と思うんです。人混みに揉まれるといよりも、溶けてしまって、没自我の世界で、相変わらず私的領域が小石のように泳ぎ続け、おさまれない、けど拘束されるっていう、感覚が、主人公に苦しみを齎していると思います

緑川:うぅむ。ここに私とかイコさんじゃなくて、若い女性が参加しているとしたら、すごく大変な気がします

KOUSAKU Abe:たしかにそうですね。でも、明快になるかもしれません。

KOUSAKU Abe:なんというか、僕の同級生に、主人公に似た女の子がいて、彼女もなんか、過剰さを感じている、肥満さした感覚が、無意味なほどに傷を帯びさせてしまう。まあここまでは単に若いときとの自意識過剰だとは思うのですが、現代の人間の不在は、その肥満さえこえて、傷もなく、でもうまくいかない感じに囚われ続けて、達成は常に不満足でしかなくて、肥り続ける。でも肥ると、それが気になって仕方ない。その結果自傷的な傷を一杯帯びてしまう。

緑川:いわゆる肥大した自我が、主体に傷を負わせてしまうのが、安部さんの同級生の彼女で、しかし、現代の人間は肥大した自我そのままで傷もつかない。ただ、うまくいかない感じに囚われ続けて、結局たくさん傷ついてしまう

ということですか?

KOUSAKU Abe:すみません、最後まで同級生についてです。

緑川:つまり、結局、肥大した自我が主体を傷つけるのが人間不在の現代だと

KOUSAKU Abe:ですね

緑川:というのが、安部さんが「ひとり日和」を読まれて、分かったことですか?

KOUSAKU Abe:そうですね、分かったというか、思ったというか

緑川:常々、考えておられたことが、この作品に当てはまったということですかね

KOUSAKU Abe:そうだと思います

緑川:では、作品を読まれて、今まで自分が考えていたこととは違うことを考えた。というようなことはなかったですか?

KOUSAKU Abe:なんというか、考えの起点っていつもどこにあるか判らなくて、こう、自然に、いつの間にかそこに考えが置かれている、で、これ誰の? いつから置いてあるの? って感覚なので、何とも言えません

緑川:なるほど

緑川:私が小説を読んで面白かったと思うときは、今までとは少し違った見方で、周囲を見回すことができたとか、自分を振り返って、過去の自分に違う意味付けを与えたようなときです。まあ、そればかりではありませんけど

KOUSAKU Abe:なるほど。読んだ後と、読む前で、自分が変わっている感じがするという事ですか?

緑川:大きく変わることはめったにないですけど

KOUSAKU Abe:なるほど

緑川:自分のすでに知ってる感覚を読み取っても、たいして面白くないし。なぜって、発見がないし。発見がないと、わくわくしない

KOUSAKU Abe:そうですよね。いつでも自分以外の人間は面白いですし。ただ僕は発見と言うか、発明にちかい思いつき(思わぬ拾いもの)があります。でも、コレクションとも違いますが。

緑川:そうですね。コレクションではないです。人は少しずつしか変わりませんし。それこそ、このヒロインのように

KOUSAKU Abe:なんというか、図書館で地道に一冊一冊あたっていくのが発見的とすれば、検索で偶然的に本を狙っていくのが発明的と言える気がします。どうでしょうか。

緑川:んー、その例えはよく分かりませんが、どちらにせよ、自分なりに、作品から何かを読みっていくのを発見と言いました。読み取って、新たなものを見つけるということです。分かりにくいですかね

KOUSAKU Abe:なるほど

緑川:例えば、このヒロインも少しずつ、そうしてるんじゃないかなと。で、新たなものを見つけるって、この場合は、物の見え方も変わるということで。なぜなら、自分が少しずつ変わってるから、周囲との感覚も変わってくる。

この作品に関して言えば、最初の春

イコぴょん:(ただいま)

KOUSAKU Abe:(おかえりなさい)

緑川:作中より引用

≪白い花びらがこちらに散ってくるのがうっとうしい。春なんて中途半端な季節はいらない≫

緑川:(おかえりなさい)

緑川:それが、次の春、作品の終わりでは

≪もうすぐ春なのだから、すこしくらい無責任になっても、許してあげよう≫

たまたま、彼女がそういう気分だったというよりは、明らかに、作者は対比して書いているんじゃないかなと。そして、そういう気持ちの余裕が、ヒロインの成長なのかなと私は思いました

イコぴょん:すごいなぁ、たしかにそうだ。そういう変化が、実にさりげなく書かれているなぁ

緑川:上手いんですよ、この作者、いろいろと

KOUSAKU Abe:ええ、その通りだと思います。そして飾り気のなさ、さりげなさもその通りだと思います

イコぴょん:不自然さが、みじんもなくて、流れるように進行していく。この主人公の年を、きちんと描いている。地力がある作家だと思います。津村さんの「ポトスライムの舟」も同種のうまさがあったけれど

緑川:そうですね。言葉で「説明」するのではなくて、年をかけてゆっくりと、きちんと描いてますね

KOUSAKU Abe:そのかざりけのなさが軽さに繋がって、流れに乗って葉っぱが浮いて行くようなふわふわを僕は感じたわけです。ゆらゆらのが正しいかもしれませんが、そんなに動きがなかったのは、丁寧に書いてたからだと思います。書いてますね。着実で誠実です。

緑川:言葉で説明しちゃうと早いですけど、こまごまとした、よくあるエピソードや会話の積み重ねで、自然とそうなってるように見える。そこで、吟子さんの存在は、やはり大きいかなと思います。別に、教える―教わる、の関係ではなくて、ヒロインは勝手に吟子さんの言葉や態度を飲み込んでいく

母親―知寿、吟子―知寿、の関係も、ある意味対比的に書かれてますし……、うーん、如何でしょ? 対比、ではなくて、役割の違いかな

KOUSAKU Abe:ええ、そういう成長過程があったとは思います。そして、母親と吟子さんは、対比的だと思います。そして、二人はやはり微妙に似ている。でも、決定的に違う、主人公にとって、母親は遠ざかっていってしまう過去の人だし、吟子さんは自分が離れて行く(巣立っていく)ための現在の人

緑川:ただ、ですね。これからの知寿は、母親ともこれまでとは違う関係になっていくんじゃないかなという予感がします

KOUSAKU Abe:ええ、母子の関係は解消されていくでしょう。まあ、過去と同時に未来的。でも、未来はないんですけどね。二人の間には。

イコぴょん:すごく面白い話なんですけど、ちょっと話を変えてもいいですか?

緑川:私は良いですよ

KOUSAKU Abe:どうぞー

イコぴょん:この歳のおばあさんに会うことで、主人公は、自分が歳だってことに、めっちゃ意識的になりますよね

緑川:なるほど

KOUSAKU Abe:そうでしたね。肌見せちゃったり

イコぴょん:とにかく年齢ってことに、ものすごく言及してる

緑川:同質集団の中では、そんなことはあまり意識しませんし

イコぴょん:で、吟子さんの恋を見せつけられて、吟子さんの方が若いんじゃないのかって思ったりする。吟子さんって、この女の子が、自分というものを見つめるための、キーとなる存在なんだなあと思いました

緑川:そうそう。そうです

イコぴょん:で、自分を吟子さんより年老いてるって考えたりするのも、「あ、よくいるぞ、こういう若年寄ぶってるやつ」って考えましたね

KOUSAKU Abe:いますねww 年寄りというか、枯れてるだけなのに

緑川:(そういうキーとなる存在を、私はメンターって呼んでるんです)

KOUSAKU Abe:(ええ、理解していたつもりです)

イコぴょん:自分はなんか、通過儀礼とか、メンターとか、そういう言葉で、ぺたっと定着させたくないだけだったんですね。緑川さんがそれを使われる意味は理解していましたよ

緑川:なるほど

KOUSAKU Abe:なるほど

緑川:では、続けて下さいな

イコぴょん:あ、いえいえ、それほど広がる話じゃないんですけど、吟子さんの存在が大きいっていう話が出ていたので、そうだよなあ、って。自分がどういう存在なのかを考える時間って、すごく若者には大事だよなあって。でも当時歳の作家には、それを突き放して描くことはぜんぜんできてなくて

緑川:言葉で結論は出なくても、体に染み込んでくるような時期

イコぴょん:むしろ等身大の感情が、すごくあらわれていて、それはそれでいいと思うんですけど、この先、もっとまわりの人間もひとりの人間として、立たせてほしいなって思いはありますね

イコぴょん:イトちゃんとか

緑川:今のところ、予感にとどまってるのかな

イコぴょん:彼女の思惑は、どこに行ったんだ……っていう

緑川:あぁ、そっか。なんとなく置いてけぼりにしてるような

イコぴょんそうそう、彼女自身の思いはよくあらわれているけれど、周りの人はまだまだ、描けてるとはいえなくて、そのへんが、まだ世界が狭い感じがするなあと思ったところですね。作者は、ひとりの人間を描きながら、同時に、周囲の人間がどう考えているのかも、想像できる幅の広さが必要なんじゃないかと思ってしまう

緑川:作者が知寿とまだ未分化な部分が残っているということかな

イコぴょん:ああ、まさにそうだと思います

KOUSAKU Abe:確かに、未分化ですね

緑川:作者と主人公との関係でいえば、ドストエフスキーとか、その突き放し方がすごい。ラスコーリニコフの描かれ方とか

イコぴょん:ひとりの人間をクローズアップして書くことが悪いわけじゃなくて、まわりの人間が何かを思っていて、それは読者には知れて、でもそのまわりの思いは主人公には伝わらなくて、みたいなのに、いいなぁと思いますね。

緑川:なるほど。それは、読者として良い視点だと素直に思います

KOUSAKU Abe:その通りですね

緑川:あと、ちょっと積み残しになるかな。作中にところどころ、配置されてる「死」については如何でしょ? 冒頭にいきなり書かれてますけど、ネズミとか、昔の掘りごたつで猫が死んでたとか。列車の事故死とか

イコぴょん:あんまし考えなかったなぁw

KOUSAKU Abe:消えていくこととか、そういうものがずいぶん簡単な事というか、ありふれているという感覚主人公にはしているような気がしますよ

イコぴょん:死を埋めこみたいのかな、とは思ったけれど、それ以上考えなかった

KOUSAKU Abe 自閉的で、自分の身近なことと、そうじゃないことの距離感がアンバランスで

緑川:最初の方に、

KOUSAKU Abe:離れたことは「もの」的で、生そのものへの執着の無さ、無感動、無愛って感じですね

緑川:>小さな仏壇があったけど、そこはあまり見ないようにした。とか、私が商売柄、ん? って思っただけかも知れないですけど

イコぴょん:ひとんちの仏壇をあまり見ないようにするのは、けっこうありますけどね

緑川:何かテーマというか、作者が作品を重層的にしたくて、でも未消化だったのかなとか

イコぴょん:執着の無さ、無感動はあるなぁ

KOUSAKU Abe:でも、結局生きながら、自分の消えた時を思うと、堆積・埋没した死と言うのには恐れを抱く。ありふれた事件、アクシデントとしての目立つ死は、そのまま流れて行くのに対して、って感じがします

緑川:藤田君と見たんだったか、事故のところとか

イコぴょん:あ、もっと何かしら、「生きる」ということそのものへ言及する、大きな小説になる可能性も秘めていますよね

KOUSAKU Abe:でも、僕はこの小説に最後まで、それを諦めた感覚しか受けませんでした。実存にまで辿りつけない

緑川:生きる……、うん。意外にというか何というか、文庫に併録されてる「出発」にも感じましたが

イコぴょん:人や動物が生き死にするってことに、もっともっと麻痺しているような感覚を、前面に出せば、すごく社会的な緊張感をはらんだような気がしたなあ

緑川:虚無的なようで、けっこう前向きな作者なのかなと。前向きでも、安部さんが言われるように、現代社会では虚無の中でもがかざるを得ないのか

KOUSAKU Abe:はい、前向きだとですね、まあペシミズム的な前向き、キルケゴールとかカミュ、ヘミングウェイじゃないけど。でも、とにかくこの小説には欲がなくて、前も後ろも向けていない、だから、虚無でもくて、いうなら虚空で、不在なんですよ。どこまでも

イコぴょん:私事ですが都会に初めて行ったとき、電車のスピードに恐怖を感じましたもん。でもまわりの人間は当たり前に生きてて、人身事故が自分の車両で起こっても、完全に他人事。「あーあ、待ち合わせに遅れちゃうよ」っていらいらしてる。そういう小説にすることもできたような気がするけど、この作家はそういうことへの、社会的な目線は薄い気がしたなあ。なんか、死も漠然と扱っているような

緑川:(寝落ちしたらごめんなさい。面白いので、つい頑張ってしまってますが)

KOUSAKU Abe:(いえいえ、また明日月曜ですし、御身体優先でいきましょう)

緑川:>死も漠然……、作品を彩るアイテムでしかないのかな。今のところ

KOUSAKU Abe:例えば、僕が思うのは、TVで殺人事件とイチローが同時に報道される事です

緑川:前向きなんだけど、現代ではペシミズムになってしまうのかなと、私は思いました

KOUSAKU Abe:で、殺人事件には、かわいそうにと思うくらいでも、身近な人の苦しみには随分敏感になってしまう。モンスターペアレントじゃないけど。あるいはその裏返しとして虐待とか。距離感がアンバランスなんです

イコぴょん:はいはいはい、それめっちゃ分かります。>アンバランス。以前twi文で座談会やったなぁw

緑川:とりあえずTV、って人、多いですからね。で、アンバランスになってるってことに気付いてない

KOUSAKU Abe:なんというか、前向きの後にやって来るのは虚無ですかね。ショーペンハウアーや、キルケゴール→ニーチェ→現代って思えば判りやすいかと

イコぴょん:大震災直後の座談会……あのときも距離感が問題になった

緑川:前向きの後にやってくる虚無、俗に言う、大欲は無欲に似たりとは違いますか?

KOUSAKU Abe:ああ、似てますよ。消費社会のポストモダン的テーマなんです、 結局。それと精神病時代

緑川:ん、今に限ったことでしょうか?

KOUSAKU Abe:それがそうでもないんですよね。

緑川:ずいぶん昔から言われているような気もします

KOUSAKU Abe ええ

イコぴょん:(楽しいけど……、ごめんなさい寝ます……)

KOUSAKU Abe:だから思想家って嫌いで、ボルヘスが好きなんです

緑川:先日、この読書会でやった「杳子」もそうでした

KOUSAKU Abe:思想家というか、哲学者ですね。すみません、

緑川:哲学者……、うーん、例えば

イコぴょん:(おやすみなさいー)

KOUSAKU Abe:気になります。「杳子」

(おやすみなさい)

緑川:特定の思想家にはまってあれこれ言ってる人よりも、特定の作家にはまってる人の方が好きですね、私は

KOUSAKU Abe:よかった

緑川:(イコさん、おやすみなさい)

KOUSAKU Abe:僕もそうなのです

緑川:なんとなく分かってましたよ

KOUSAKU Abe:ありがとうございます

緑川:こちらこそ

緑川:思想家とか評論家にはまってるタイプは、ちょっと困る人が多くて(こんなこと言っていいのか分かりませんが)

KOUSAKU Abe:(いいですよw)

イコぴょん:ぶっちゃけトークだなw 面白くて寝れないw くそう、寝かせろっ

緑川:なんか、上から目線で教条的なことを言って、周囲をぶった切ります。だけど、作家にはまるってことは、自分の頭でその本の面白さをある程度を読み取った上でのことなので(例外あり)、その人が、それなりに自分の体で勝負してきてる、と思うんです。実作に重きを置いてる人然りです

KOUSAKU Abe:うん、うん。凄い共感できます

緑川:それは、嬉しい

KOUSAKU Abe:だから作品の扱い方ってだから難しくて、いまだにあんまり論理的に触れたくない、って感覚もあるんですよね。解体することにあまり楽しみを覚えれなくて、象徴を明らかにはしたくなかったり。イマジネーションをあんまり裸にしたくないなって、思っちゃうんです。でも、心理とか、精神とか、人間の所作の論理とか、イマジネーションとは別の、明確な統計的な動きについては読み取りたいと思って。

緑川:なるほど。では、ちょっと。聞き流してもらっても良いのですが、なるべく、作品に即した読み、を心掛けられればよいと思うんです。何やらの理論とかが必要なときもありますが、なるべく、自分なりに作品に直接向き合う。

素人さんは、恐れ気もなくそうしてまして、それはそれで、読んで物足りなさも感じますが、まずば、それが原点です。すごいことを言ってるような人でも、ほんとにすごい人は、その積み重ねなんじゃないかと思うんです

緑川:訂正「ほんとにすごい人は、そんな素朴な感想を、じっくりと積み重ねてきた人なんじゃないかと思うんです」

KOUSAKU Abe:なるほど。そうですね、こう、もっと時代的な重みを感じずに読んでもいいかもしれません。というか、そうやって読みたいです。素朴か……。僕って飾ってますか? もなんか、解消しきれない肩の凝りみたいなのがあって、その正体ははっきり言えば、時代とか社会とかそれそのもので、作品がそれにたいして無自覚だと、あけすけに見えてしまうんです。だから、集中すればするほど、肩こりが気になってしまう。これはある意味、作品との出会いがいる気もますが。

緑川:出会い……、うーん、自分が主体かな

KOUSAKU Abe:なんというか、そこは解離しているなって思うんです。僕はなんというか、必然的な世界を信じていて、あんまり主体ってものにこだわらないです。でもまあ、そこを主体にすり替えて行けばいいのかもしれませんが

緑川:社会的な評価を得ている作品でも、アマチュアが書いた作品(たとえば、月刊ツイ文の作品でも)、私は同じように、「私は、読んでみて、こう思いました」っていうのは、同じです

ところで、主体と必然的な世界、っていうのが対概念ですか?

KOUSAKU Abe:いえ、そうではないですね

緑川:ですよね。必然的な世界と、客観的とが同じかというと、違いますよね

KOUSAKU Abe:ええ、違います。

緑川:むしろ、作品を読む場合、必然と主体が近いと思うんですけどね。必然、って客観的に存在するわけではなくて、あくまで自分にとっての必然。まあ、その場で「これは、必然だ」って判断することって、むしろ、ほとんどないですけど

KOUSAKU Abe:しかし、必然の世界で自由意志を通す事には、他者の必然性もあるとは思うんです(じゃんけんで%勝てるのか?みたいな)。作品とは対話的に関係して、他者として意識しますが、どうしても作品によっては、それ自体があけすけで、虚構を強く意識することがある。虚構が自分にとって不条理として存在してしまう。すると、それがとたんに、僕を排除し始めて、社会的な肩コリを作られ、社会のあけすけな形を見せつけられてしまう。

それで、例えば、この青山さんの作品は、僕にとって社会が透け過ぎてしまって、読む作業は軽いのに肩が凝ってしまいました。

緑川:まあ、どんな世界でも自由意志を通すのは大変ですよ。必然であろうが偶然であろうが。他者の必然性は、まずは自分の必然性を主張した後でも良いのではないでしょうか。

作品を他者として意識するのは、まあ普通のこととして、それは虚構を意識するのとは対立しますか?

KOUSAKU Abe:します。

緑川:というと、虚構を意識するというのは、他者的ではないということですか?

KOUSAKU Abe:そうですね。

緑川ちょっと、よく分からないです。説明して欲しいですが、「虚構を意識する」とは、どういうことでしょうか? 私は、小説はもともと虚構だと割り切ってますが、にも関わらず他人事ではないと思うときに面白さを感じます。つまり、そうでない。明らかに虚構だ、嘘っぽい、出来が悪いというときに、虚構を意識するということでしょうか?

KOUSAKU Abe:そうですそうです。ジョージ・オーウェルでいったら、二重思考が出来る作品じゃないと、あ、これは嘘だってなると、無理になってしまいます。僕は、社会に呑まれます。それこそビッグ・ブラザーに狙われるように。

飲まれるというか、消される。

緑川:つまり、そうではなくて、「他者として意識されられる作品」が、安部さんにとっての良い作品ということでしょうか?

KOUSAKU Abe:ああすみません。そうです。

緑川:で、「ひとり日和」の場合、他者として意識されられる作品であったと

KOUSAKU Abe:これが、何とも言えなくて、やはり虚構を強く意識しました、こういうとあれですが、一ページ目で。

緑川:ふむふむ。ちょっと浮いてますね。1頁目、創作意図と、実際の作品との祖語がなんとなく感じられます。新人の作品としては、見逃しても良いかなと思われる程度の祖語かなと思いましたが

KOUSAKU Abe:なるほど。確かに、厳しすぎるかも。たとえばツイ文だったら、なんとか乗り越えようとしますね。

あと、これずっと言ってなかったんですが、三四郎的なものを感じました。これが、余計にこの作品を虚構として意識させて。三四郎、僕には無理な作品でした

緑川:ふむふむ。ここで、漱石が出てくるとは思いませんでした。どういうことでしょうか?

KOUSAKU Abe:この作品は主人公女子なんですが、

緑川:はい

KOUSAKU Abe:あの三四郎のもっていた、名古屋での性へ踏みきれないダメなわたし、や、「ストレイシープ」的なわたし、結局他者って何か分からない。(この作品にも、他人って分からないっていう言葉があったと思います)。こうしたことはイコさんもさっき言ってました。それで、

緑川:あぁ、なるほど。日本の近現代文学には多いですよ

KOUSAKU Abe:ええ

緑川:鴎外の「青年」もそうですし。もっと下って、たとえば、三田誠広の「僕って何」もそうですね。比べてみると面白い。他の作品と比べることも、作品理解への一歩です

ああ、そうか。三田誠広の「僕って何」って、本人が意識してるかしてないか分からないけど、あれ、戦後版の「三四郎」ですね

KOUSAKU Abe:うん、うん。そうですね。確かに。>戦後版三四郎。そうなんです。それで僕ってそう言う作品の中でも、この作品は結局最後まで分からないで終わっている、世界を外ととらえながら、外しかない状況へ主人公は身を投げてしまった。なんか、実存的自殺を行っている気がして。結局、読者の僕もおいてけぼりになってしまった。主人公については

緑川:私たちが知らない、「東京」がまだ、すごい重みを持っていた時代の作品です。ん? 安部さんが言われているのとはちょっと違うか

緑川:ここで、本音トーク。三田誠広は、ちょっとわざとらしい

KOUSAKU Abe:確かにww

緑川:しれっと「僕って何?」なんて、言ってますけど、しっかり勉強しして、本気でそう思ってなくても、それらしく言ってる感じがします

KOUSAKU Ab:確かに。気取りさえできなくて、衒いになってる

緑川:そうそう。二作目の「龍を見たか」とか、もろにそう

KOUSAKU Abe:ww

緑川:で、話を戻しますと

KOUSAKU Abe:ええ

緑川:安部さんの言われる「他者」が分からない

KOUSAKU Abe:ああ。それはだから、各々別の人生、別の気持ちをもっている人間たちの事です。どれだけそっくりな人でも違う、イコさんが個人的な~っていっていたあれです。その個人です。

でも、主人公は理解できないし、陽平も藤田君もわかってない(ように描かれるし、まあ多分判ってない。で、わかんなくて当然とか、わからなくていいとか、冷笑的)。

緑川:とことんは、どんなに近しい人でも分からないですよ。で、私たちは、日々の付き合いから、ある程度の了解事項を得ます。それすらもできない人が他者だと思うんですけどね。主人公、陽平、藤田君も、付き合い方次第では、了解事項を得ることは可能かなと思います

KOUSAKU Abe:ああ、そうだ。そう、だから人間っていうのは嘘で、本当は犬や神も他者です。

緑川:で、ですね。他者性っていうのは、固定してものではないんですよ。時間とか、関係性の中で見た方が良いです

KOUSAKU Abe:なんというか、いえ、その、別の視点を持っている個の主体という事です、僕が言っている他者は。そうした中で共有できる部分、出来ない部分あるのも緑川さんの仰るとおりです。で、それを得ようとしないんです、はなから、彼らは

緑川:で、自分自身に対してはどうでしょうか?

KOUSAKU Abe:これが、自分も僕は他者だと思うんです

緑川:はい。ということは、他者というのは、ごく当たり前の概念ですね

KOUSAKU Abe:誰でも、自分は、他者だと思います。で、彼らはその自分と言う他者にも向き合わない

KOUSAKU Abe:ええ、そうです。別に難しく言いたいわけではないです。ただ最も適切だと思いました

緑川:では、それはそれとして、でも、共通了解を得ようとさえしない、そういう人々が描かれていると、この作品では

KOUSAKU Abe:で、さらに、得ようとしないどころか、消えちゃうんです。もう、不在という形でしか存在できない。箱男的なエロさはここにはないですが。なぜなら視点をも消失してしまうから

緑川:それは、吟子さんでも同じですか?

KOUSAKU Abe:吟子さんもそうだと思います。実は。なぜなら、猫の写真、全部同じ名前なんです。ああ、象徴っていってしまうといやだけど、マトリョーシカ的なんです。

緑川:で、そういう吟子さんから、知寿は何も得ていないと

KOUSAKU Abe:そういう不在という形で存在する方法は得ています。知寿は、なんとかその不在という形の存在から、三文ロマン的にではありますが脱却したいと試みた。過去への憧憬をもって、自分の存在を確かめたり、恋愛したりバイトしたり。

緑川:脱却しようというか、ふつうに生活しようという頑張り、だったと思いますよ。恋愛もバイトも。で、そこから何かを得たなんて、彼女は取り立てて言葉にしない。でも、いろんな体験が体に染み込んでいる

KOUSAKU Abe:うーん、脱却と言うか、さっきの不満足の解消はしたかったんですよね。それはまあ、身体に沁み込んでいると思いますし、明言しなくていい。というか明言できていたら、彼女は解決へすすめたと思います。まあ。解決っていうのも、あんまりいい言葉ではないですが。

緑川:明言すべき時期ではなかった。これはたぶん、何歳になっても同じだと思うんですけど、経験と結論は、時間差でやってきます

KOUSAKU Abe:時期は何時でもいいと思います。そこがでも定められないというか、迎えられないのが「ストレイシープ」的ですし

緑川:えっと、わりと普通にそうですよ。理論があって、作品が組み立てられるわけではなくて、何かよく分からない作品が先にあって、その後に理論が出来てきます

KOUSAKU Abe:うーん、それは別にそれでいいと思うのですが、要は、そうした状況が結局結論にいたるまで、全般に漂っていて、あけすけだったので、無理な作品だと思ったという事です。その時間差は、読者にとってはどちらでも言い時間差です。

緑川:どちらでもいいかなあ。先に経験あっての理論だと思うんですけどね。この作品では、そうなってますし

KOUSAKU Abe ええ、勿論経験あっての理論というのは、人間の認知的にそうでしょう。ですが、また作品を作る時はどうなるかはその実判らない領域の話と思います。それは記憶と文法と創造がどのようにリンクしているか、っていうところなので。で、それも方法論もいろいろあると思います。

ですが、それは既にある作品に向きあう読者にはどうでもいい話です

先験知の問題もあるでしょうし、作者にとって、学習とか経験が先立つといわれることで、不愉快を思う場合もあるでしょう

緑川:あ、この作品の場合、そうではないです。結論を見せられても面白くはないです。それに、至る過程―経験を丁寧に描かれてるから面白い、小規模ではありますが、カタルシスをもたらす作品だと思います

KOUSAKU Abe:いえ、この作品は結論が見えます。だから肩がこるんです。見えてるのに、カタルシスで喜んであげなければならなくなる

緑川:(もうちょっと続けたいのですが、さすがに限界です。さすがに、る、さんが招いた人だと思います

緑川:(だけど、今日は、ここらで落ちますね)

KOUSAKU Abe (それはなんだか光栄な言葉かも知れませんww はい。体調が大事です。またよろしくお願いします!)

KOUSAKU Abe:では、おやすみなさいー

イコぴょん:今更、自分が寝てからの読書会のログを読んだけど、こんな面白いことになっていたとはw そして議論が途中で終わっていて先が気になるw

でも寝よ……