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第9回読書会 後藤明生『挟み撃ち』

『挟み撃ち』読書会 会場

6: こんばんわ。

annaendo: こんばんわー

日居月諸: こんばんは

6: 『挟み撃ち』は後藤明生の代表作で唯一まだ本屋さんで手に入る後藤の小説(!)で文学ファンのなかでも人気の高い作品です。あらすじをざっくりというと……赤木という主人公らしき人物がお茶の水橋のうえで「山川」なる男を待っている。その山川を待つまでに赤木が回想する自らの過去や、それに合わせた文学作品の記憶を織り交ぜながら、進んでいく奇妙な小説というところでしょうか……。この小説はほとんどが回想シーンというとんでもない構成のもとにつくられていることにも驚嘆しました……。

みなさんの感想はどんな感じでしょうか。どんな切り口でも大丈夫なのでどんどんおっしゃってもらえればと思います。

annaendo: 6さんのおっしゃるようにほとんどが回想シーンで、しかも時間も人も場所もあっちこっちに飛ぶのでかなり読むのに苦戦しました(汗)

6: そうですね……しかも脈絡なくて思いつきか!っていうぐらい迷路のようにうろうろしますね。

日居月諸: 現在のシーン(たとえば蕨町に向かう場面)と過去の回想がないまぜになっていきますね。

6: でしたね…戦時や終戦直後の記憶が出てきますよね。

日居月諸: 昔なじみのある土地に行く場合などはよくあるんですが、頭は昔のままで、けれど目は現在を見ている。そのギャップに戸惑う事が多いのですが、非常にそのギャップを描くことに長けている。中仙道に行き当たるシーンは特徴的です。

6: その中山道に行きあたるシーンをあらすじも含めて、また日居さんの印象に残ったポイントと共に紹介してもらっていいでしょうか。

日居月諸: ちょっと原典を確かめる余裕がないので、間違っていたら失礼します。主人公は「山川」なる男と待ち合わせをするのですが、その前に時間があるので、外套の在り処を求めるために昔下宿していた家に向かいます。そして中仙道への道に着く。けれども建物やらなにやらが昔とは違った配置になっているから、自分が中仙道を歩いているのか、それとも中仙道に行き当たる道を歩いているのかわからない。

6: (河出文庫版だと70Pぐらいかな)

日居月諸: それから回想シーンが挟まれる。飲み屋で酔っぱらった帰りに、ゴーゴリの小説を思わせる女性の後ろ姿を見て、神社まで追いかけるシーンです。ここの叙述が特徴的で、普通回想する場合は説明するのですが、あたかも実況中継するような描写をするんですね。たえず疑問符を並べたりして、現在自分がその女性を追い掛けているような印象を作る。

ここがあくまで過去は過去ではなく、現在とひとつながりだという印象を生むのです。

6: ピスカーリョフがネフスキー通りでみかけた黒髪(ブリュネット)女性と重ね合わせながら、赤木はベレー帽の女性をおっていましたね。そうでした!このやりとりはいろいろ不可解でしたね、火をかりようとして時間を尋ねられる……女はなぜか時間をきいておきながら……赤木をのこして歩き去ってしまおうとする。

日居月諸: 回想から現在に戻るシーンも特徴的で、街灯の下で振り返った女性のもとへと走っていく、という行動と、信号を無視して道路に飛び込みかけた行動をリンクさせている。警察官が肩をつかんでくれたことで立ち止まり、現在に留まるわけですが、おそらく主人公は中仙道にいる=過去にタイムスリップするかのような心地でいるんだと思います。それくらい過去と現在の区別がついていない。

annaendo: たしかに読んでて混乱してました。過去のことなのか現在のことを書いているのか、わかりづらかったです。

6: この書き方にも他にも沢山言えるのですが…過去と現在と何かその片方または両者にまつわる文学作品との混ぜ方がこの人にしか書けないような「天然」みたいな文章ですごいですね。なかなかこの方法を真似ようと思っても難しい……。

日居月諸: 饒舌な語り口をしているのですが、自我は薄い。自分に関するこだわりはみせないんです。疑問符を使うにしても、あの時は何故こんな行動をしたんだ? ではなく、なぜお茶の水なんだ? といった具合に、外側のことにこだわる。

日居月諸: 自分が外側の物事に取りさらわれていくことに恐れがないんだと思いますね。

6: わりと序盤の方で赤木という語り手がゴーゴリや永井荷風のように「名前のある橋」をわたしも小説の中に散りばめたかった!と羨ましがるシーンがありましたね。

東京の路線名をそれを言った後だったかな……たくさん小説の中にだしているんだけどものすごく記号めいていて、ゴーゴリや荷風の使い方とは異なっていたと思う。

ゴーゴリや荷風はまだ「名前がある」時代というか、そういうもののなかで小説を書いていたけれど自分はそんな時代に生まれなかったから幾つもの名前のない橋―歩道橋―を小説に出すほかはないみたいな諦念をしていました。

ただ一方で赤木(=後藤?)は第二次大戦という時代を生きていて、北朝鮮や終戦を迎えた筑前ででてくる地名などにはとても「名前がある」感じがして羨ましくなったのです。

日居月諸: 地名を出す時、人は普通右、左と言った感覚で述べているんだと思います。つまり、肉体に地名がしみ込んでいる。少なくとも東京の路線、および地名は彼にとってなじみがないんでしょうね。知名度だとかそういう以前に、主人公にとって使うと居心地が悪くなるというか。

6: そしてさきほど日居さんもおっしゃったのですが、こだわりはほとんどない…すくなくとも歴史に残るような事件に対して自分の考え方も意見も持たず、どうしようもないぐらい個人史的な「外套のゆくえ」ばかりを気にしています。または映画館の旧式眼鏡時計や、外套のポケットの中にあったピーナツとか些細なことばかりを気にするように見えました。

日居月諸: 戦争に関する意見も、素朴すぎて目新しさを覚えました。幼年学校(陸軍の教育機関)に受験できなかった話があるんですが、御国のために働けなかった、だとか、無駄な戦争に巻き込まれずに済んだ、というよりも単純に忸怩たる思いを抱えているような感がある。

6: そうですね、兵隊になりたかったとしきりに出てきますね。

annaendo: 読み手は外套のゆくえを探す、というただひとつのストーリーだけを頼りに読むんですが、それが読ませるために設定した罠だということにラスト数枚で気づかされました。というか外套探し自体が作者が意図して設定した暗喩だったような気がします。

6: そうですね、いったい外套にどうしてそこまでこだわるのか……。山川という人物はいったい何者なのかを頼りに読もうとしていましたが最後に手品の種をみせられたかのようにあっけないおわりを見ました。でもそこで腹をたてたのではなくて、笑いました。

annaendo: 山川の存在、橋、外套の三つは自分には過去の不確かさの象徴のように読めました。特に、橋は冒頭とラストに出てきて、渡るという行為が、過去と現在を表しているような。

6: なるほど…。よくは知らないのですが「日本の橋」というのは昔から冥界などへの入り口として「お墓」の入り口などにあったんじゃなかったかな。。

annaendo: 名前がなくて格好がつかなくとも向こう側に渡るにはみな名前のない橋を渡って生きていかなければいけない……みたいなのが冒頭にあって、後から読み返すと意味があった気がします。

6: なるほど……そう考えると最初にでてくるお茶の水の群衆とかもなんかちょっと怖い感じがしますね。

日居月諸: 『しかしいまさら愚痴をこぼしてもはじまる話ではない。こんな名前もないような橋など、誰が渡れるものか、というわけにもゆかない。自動車の波を手足でかき分けることが出来ぬ以上、誰もが名前も無い橋を渡らずには生きてゆくことが出来ないわけだ』これですね

annaendo: そういう中でピーナッツとか時計とかが、対比で確実なものとして出てくる。最後におばさんがピーナッツで思い出すけど、外套のことを思い出した訳じゃなく。結局外套のことは分からずじまいで。ピーナッツだけは確実に存在していたというのがわかる。

annaendo: そこです!ありがとうございます!>日居さん

6: 不確かなものと確かなもののバランスみたいなものがあったんですね。あのピーナツがころころと出てくるシーンはとても面白かった…。言いようのない面白さ。言いようのない面白さと言えば、兄と一緒に穴をほって蓄音機で音楽を聴きながら、それを一枚ごとに割って穴の中に入れていくシーンはこの小説の中で一番好きなんですが妙な悲しさというかムードがなかったでしょうか。

annaendo: あれなんで割ってたんでしたっけ??

6: 処分するためです。北朝鮮から引っ越して行かなくちゃいかないから、家財道具などを処分していて、その一場面として出てきました。155Pぐらいかな。

日居月諸: 念入りにタイトルも記されていきますね。韓国語も交えられている

annaendo: そうでした。。

6: 兄と二人で軍歌を歌いながら、悪ふざけのように会話する場面がとてもよかった…。そんな好きな場面などお二人はありませんでしたか。

日居月諸: 穴へと処分している場面を振り返って、脳髄にへばりついている様子を兄が(地の文、つまり脳内で)茶化しますね。まさに掘り返すのはよせといっている。それかそれにあらがって饒舌になっていくところは、確かに言い知れぬ趣がある。

annaendo: 脇毛の女子高生のとこは面白かったです。133P

6: とつぜんが当然だという問答の場面ですね>日居さん あそこはこの作品の中でももっとも文章が乗っていると言うかうっとうしい記述に溢れていますねw 脇毛の女子高生についてはわりと繰り返し出てきた気がしますw

annaendo: なぜそんなこだわる、とw

6: そうですねw めっちゃこだわっていた。よっぽど見たかったのか……。

annaendo: 全体的に繰り返しが多かったように思います。早起き鳥~とかも何度も出てくるし。

6: 反復はめちゃ大事なテーマですよね。この小説の中において。

日居月諸: ゴーゴリの引用も再三再四出てきますね。しかもその後に現実の事柄とは違っている、と強調したがる

6: 外套をさがしてさまようという構図自体が『外套』の反復でもあるし、アカーキーに対しての赤木とかもやりすぎなんじゃないかと思ったw

annaendo: 出てきすぎてゴーゴリ読んでしまった。面白かった!

6: 引用は後藤明生、すごく好きな気がする……。

annaendo: アカーキーって名前がもう好きなんでしょうね。

6: そうですね、どうしても赤木にしたかったんでしょうね。引用もそうなのですが後藤明生は過去の先行作品に対してのオマージュ的なものをよく書いている気がします。オマージュを書こうとして、ぜんぜん違うものが誕生する作家!というか何と言うか。

日居月諸: 語感が完璧ですもんね。ぜひとも日本で翻案してくれと言わんばかりに。そういう誰もが思いつくくだらない発想に飛びつくことを恐れないんでしょう。

6: おバカな場面もけっこうでてくるし、笑えるんですよね。

『小説―いかに読み、いかに書くか』(後藤明生 講談社現代新書)と言う本があり、これは後藤が描いた小説創作の指南書のようなものなのですが、面白い文章が幾つかあるので紹介します。

 

「パロディー」という言葉は、文学に限らず、いまでは日本じゅうに氾濫している。それは、現代はパロディーの時代だといってもいいくらいの氾濫ぶりで、小学生でも知っているのではないかと思うが、わたしはこれを「読む」と言う意味に解釈している。(後藤明生)

 

6: 「書く」という行為よりも時として「読む」という行為の方がエネルギーを使うのではないかという後藤の「読む」という行為の説明。受動的な行為ではなくて、小説を読むという行為は「パロディ」。とても創造的なことなんだと言ってました!

 

わたしはキリスト教徒でも回教徒でもない。また、いわゆる神秘主義者というものでもないと思うが、小説家というものにも、憑依状態になった巫女のような状態が、体験されているのではないかという気がする。これは、禅でいうところの阿頼耶識(あらやしき)の状態に似ているのかもしれないという気もする。正確にはわからないが、とにかく、平たくいえば無我夢中、一心不乱といった「無意識」の領域を考えれば、そう見当はずれにはならないと思う。

そして小説におけるそのような領域を体験するのでなければ、小説を読んだことにはならない。いわゆる肝銘したとか、感動したとかいうのは、そういう体験である。また小説の醍醐味を味わうということも、同様の体験だろうと思う。(後藤明生)

 

6: この文章も凄い。読むと言う行為のすさまじさについて書いています。何故あなたは小説を書くのか―と言う質問に対して後藤の解答はつねに「小説を読んだから」だというものだったそうですが、この『挟み撃ち』という作品もまた過去の尊敬するべき作品へのパロディであると思いました。

日居月諸: 散文の起源を聖典(韻文)の翻案、翻訳としていた批評家がいたんですが、おそらく後藤にとって原典は現実に存在している物事全てだと思うんです。すべてを翻案、翻訳している。そして原典と翻訳のズレに身を置いている

6: 挟み撃ちですね!

annaendo: おお!

日居月諸: 恐らく(典型的な)小説と小説を作り出している自分、という区別もあるんだと思う。ゴーゴリと現実があっているかという比較もそうなんですが、それと相即して、自分が小説の主人公になれるかどうか、絶えず噛みあわせを確かめるような感覚がある。そして、最終的には失敗する。

6:忘れちゃうからw 失敗してばかりなんだけどそこがいいところなんですよね。後藤作品の。思いつきで書かれたような変な脈絡のない文章何だけど読んでいる方はそれこそ憑依しているようにこれまで体験したことのなかった「読む」という行為の中に没頭できる。

annaendo: 「書く」ことから始めた作家、というのが蓮實重彦のあとがきにもありましたね。

6: ありましたね。。。あれも面白かったです。

日居月諸: あえてキツく言うなら、失敗芸を広めちゃうことでしばらく日本文学を失語状態に置いちゃったんじゃないかとも思う

annaendo: この作品が出た当時ってどうだったんでしょう?かなり注目されたんですかね?

6:「内向の世代」の作家の一人であり、事物や人間の関係性へ意識を向けた批評的でユーモラスな作品を著した。「グロテスク」という観点からニコライ・ゴーゴリとフランツ・カフカに影響を受けており、ゴーゴリの『外套』を起点とした『挾み撃ち』(1973)は秋山駿、柄谷行人、蓮實重彦に評価され、文壇での地位を確立した。(後藤明生のwikipediaより)

6: でも売れはしなかったと思いますw

annaendo: 一般受けはしなさそうですしねw

日居月諸: 私はこの小説を読んでいて世界の成り立ちと言うか、作品世界創造の方法を教わった気がします。通常、小説は視点人物がいて、その他の人物は中心に引き寄せられる形で存在する。つまり引き立て役として存在するわけですが、この小説は逆ですね。主人公が考える以前に世界が存在する。そんな感覚があります

annaendo: 一回読んだだけではまだ理解したとは言えない感じですし。つかみ所のない作品っていう感じがしました

6: なるほど…そんな気がします。すでにある世界かー。

僕も初めて読んだ時は何が書いてあるのかさっぱりわからなかった…。

日居月諸: 実はしばらく前に読んだから覚えているところがほとんどない

annaendo: こんなに主人公に共感できない小説もめずらしいですよ。それだけ主人公は何も考えてないし、為すがままなんですもん。

6: たしかに共感はできないですね。でもその為すがままの行動のゆくえを追うことにはすごく興味を持ちました。何でもないただのおじさんなのに。

日居さんの失語状態というのは二次創作的な小説がでてくることによって一次創作的ながちの文学を書くことがカッコ悪く見えてしまったってことかな。

annaendo: 世界>主人公というのは勉強になりました

日居月諸: 同時期(七年後くらい)に小島信夫の『美濃』が刊行されるんですが、これも自分のルーツを探っていく話なんですよ。400ページくらいで、後藤明生以上に脱線していく。それを思い出しながら、自分のルーツを探っていって失敗するのに、根源には翻案すべき原典があるんですね。そんな撞着めいた状態を生み出して行ったのではないかと思うのです。

6: 失敗しちゃう文学ということですね。軽はずみに何かをやり遂げてしまうようなものが書けなくなってしまったと…。

日居月諸: それもあるけれど、文学が文学を真似るというのも危険がつきものなのに、パロディ文学がパロディ文学を真似るというのは最早先細っていく

6: なるほど…それは文学の世界に限らない悩みだったんでしょうね。

日居月諸: ぱっと思い浮かぶだけでも80年代ってパロディに満ちた時代だったと思うんです。高橋源一郎、島田雅彦、筒井康隆、中上も大江もパロディをやっていた。ボルヘスが翻訳紹介されたのもこのあたりだったんではないですか。

日居月諸:一応ここに挙げたのは今も生き残っている、成功例を生み出した作家ばかりですが、そういった潮流の中で埋もれていった作家も多数いるんです。特にこの時期は芥川賞の該当者なしが続いた。全部とは言わないまでも、パロディを強いられて痩せ細っていった作家は多かったんではないでしょうか

6: なるほど…。パロディは好きだけどみんながパロディに走ってしまうのは何だか嫌ですね。他に『挟み撃ち』の内容について何か気になるところなどはありませんでしたか…。

あ、そうだ蓮實の解説について語りましょう。

「書く」ことからはじめた作家。このときの「書く」という言葉は「書く内容をイメージしてから筆をとる作家」「とにかく筆を走らせながら考えていく作家」として出てきます。つまり後藤明生は圧倒的に…後者であると蓮實重彦は言ってますね。

小説と言うのは言語芸術であって、決まりきった形などないはずなのに、前者の手法で書く作家が非常に多くて、まず書いてみて書くことの実験性に書けた作家と言うのはごくわずかだと言ってました。

小説を語ると言う行為はある特権的な資格をともなうものなのに、挟み撃ちの語り手はそういった特権性をほとんど持たない。語り手がもつ絶対的に優位な立ち位置というものに疑念を持つことの正しさを証明してみせる小説であると言ってますね。

どこへ行くのか作者すら判らない小説と言うのはやはり読んでいてわくわくするし、作者の力量が試されるところであるので、ぜひそういった書き方で小説を書いていきたいと思いました。

さきほどの話ともつながってくるけど20世紀の文学と言うのはすでに過去の作家たちに書きつくされてしまったものをどう書きかえるかと言う点に重きをおいた。すでに書かれた言葉と共にどう生きるのかということを真剣に考えた。それが後藤のような作家にも見られると言ってます。ナルシシズムをもって、何かを語ろうとしてもそれはすでに誰かが書いてしまっていることなのだから、それを自覚して、どう発展させていくのかみたいなものを考えねばならないとおっしゃっています。

でも僕自身はやはり少しぐらいナルシシズムを持たないとやっていけないと思うんですよね。ニヒルになっても面白いものは生まれるかもしれないけど、すでに書かれた言葉以外をみつけることにも価値はきっとあると思う。

だから蓮實さんの意見はすごい的確だけど影響を受け過ぎてはだめだと思う。

日居月諸: ナルシシズムを持ち出すなら、小説を書くにあたって自分のテリトリーを作ろうとしないんでしょうね。本当の意味で素直に対象を描写していると思います。特に時代の雰囲気がそこここに匂っていた。

6: おもったままに書いていますね。ぜんぜん奇をてらっていなくて、わりと幼稚なというか近所のおっちゃんぽいような素直さがありますねw

annaendo: 気ままに書いているように見えて、客観的に書いているような不思議な読後感

6: 読後感はたしかに何か不思議でした。奇妙な男の一日に付き合ったような。

これって考えて見れば250Pぐらいあるのに1日の話なんですね。その分、回想で何十年と言う月日を行き来している。時間の伸縮がひじょうに極端でありながら、どこか繊細に書かれていて良かった。さてではそろそろお開きにしましょうか。

annaendo: また10年後くらいに読みたいですねw なんか変な苦しさがありました、読んでいて

6: 10年後wどんな苦しさですか。

annaendo: どこに身を置いていいかよくわからない苦しさです。読書経験が少ないからだと思いますが、どうしても外套を探してしまいました。とりあえず外套どこいった、と。

6: 外套どこいったw 赤木よりも外套に執着する読者!

日居月諸: 花はどこへ行った的な……。

6: 花?

日居月諸: そういう反戦歌があったんです

6: ふーむ

annaendo: 悲しいお知らせですが、読書会中にスーパームーンは終わりました

日居月諸: 仙台だとそんなに大きく見えなかったっす

6: スーパームーンて月が大きく見えるんですか。

annaendo: 月が地球に一番近づく日らしいです

6: あ、そうなんだ・・・次に期待!生きてるかわからないけど。

日居月諸: 去年もありましたよね。たぶんしょっちゅうあるんですよ(適当)

annaendo: 一年に一回だった気が

6: あ、そうなんですね、でも多分あした見てもわりと大きめなんじゃないでしょうか。

日居月諸: >なお次回のスーパームーンは、2014811日とのこと

6: お盆か。

日居月諸: 月くらい好きな時に見たいもんです。ま、てことで御開きということで・・・二次会に移行いたします