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第1回読書会 三島由紀夫の「月」をどう読むか

 

 

 

 以下に掲載する文章は、2010年11月27日(土)の19時から、skypeのグループチャット機能を使って行われた読書会の様子をまとめたものです。テーマは三島由紀夫の「月」。誰もが知る大作家の隠れた名作を、4時間半にわたって語りつくしました。本稿はそれを第1部第2部にわけて紹介しています。

 参加者は叢雲綺(aya_kumo)、緋雪、プミシール、だいぽむ、イコの5名(敬称略)です。また事前にちぇまざき氏よりメールにて感想文を受け取っています。ホストはイコがつとめさせていただきました。

 またskypeで行われた実際のログも、最小限に手を加えた形ですが、公開したいと思います。まとめ、ログ共におそろしい分量なのですが(笑)、とても読み応えのあるものになっていますので、お時間のあるときにお読みいただければ幸いです。

 

【skypeログ目次】

 

第1部 「月」とはなにか

第2部 若い作家のための三島のテクニック

資料

 

*資料には、今回イコが読書会のために用意したレジュメと、ちぇまざき氏の感想文を載せています。併せてご覧ください。

 

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第1部(19:00~21:30)では、この小説を深く語っていくため、まず3人の人物像から迫っていくかたちになった。

 

【ハイミナーラの造形】――ビートの世界の「神」、現実を意識した悩める青年、「大人」になりきれない「子ども」

 

<ビート族の世界での「神」としてのハイミナーラ像>

 ハイミナーラは廃墟になった教会を見つけ、秘密の場所にしたかったピータアに対し、彼はそこをツウィスト・パーティの場として「分け与え」ている。これは神的行為と言えるのでないか。

 また、いつもサングラスをかけていて「表情がみえない」ことや、本名が分からないこと。ピータアやキー子に比べ名前のヒントになるようなものがないことも論拠としてあげられた。

 思い通りになる集団と、集団の無目的な動きが必要だった、という表記がある。「機械」と「動力」という表現も「神」としてのハイミナーラを裏付けるようである。またハイミナーラは「観察者」である。

睡眠薬からきている「ハイミナーラ」という名前のもつ響きは、インドかどこかの神様のようである。

 ピータアとキー子がハイミナーラの命令を一つも拒まない点も、かれらにとっての「神」を暗示する。

 

<悩める青年としてのハイミナーラ像>

 まずこの作品はビートの全面的肯定ではない。

 ハイミナーラが現実に苛立っている様子が猫の死体を見るシーンでわかる。キー子とピータアは、猫をむしろ嬉々としてこがしているのに対し、ハイミナーラだけはそうしない。それは死の臭いと残酷さ、つまり「現実」の臭いをかぎとっているからである。

 かれはサン・グラスをはめること、睡眠薬を飲むこと(自発的行為)によってようやく「現実」と隔たることができている。サン・グラス越しにしないと現実がみえてしまう。現実をかぎとっているから無自覚なものと比べ、「自発的に」現実から、自らを遠ざけているのである。

 ハイミナーラに関してだけは、現実の錘が常にかれの意思を決定しているのである。

 ラストシーン、ハイミナーラの「嘘を言ってやがる」は、むしろ現実に敗北したすがたのような、もう夢想を追いかけられない人間のすがたが描かれているように見える。

 

<「大人」になりきれない「子ども」としてのハイミナーラ像>

 ハイミナーラは「現実」の臭いをかぎとるという意味で、三人のなかでいちばん「大人」である。しかしかれは22歳である。ハイミナーラは決して「大人」になりきってはいない。でなければ地下室に入る行為を、そんなに楽しむはずがない。もういまや大人になろうとしているところで、ぎりぎり子どものままでいようとしている。

 だからサン・グラスをかけている。見たいものは見るけど、見えそうなものは隠そうとする 。

 地下室は「未知」である。大人よりも子どもの方がそういうものに近づくのではないか。

 

【ピータアの造形】――老人ぶった「子ども」

 

 ピータアもサングラスをかける場面があるが、これは若さの発露である。

 ピータアが恐怖を感じたのは、ハイミナーラに大人の匂いをかぎ取っているから。キー子が現実に片足突っ込んでいることもなんとなく知っている。

 ピータアは恐怖に対して守るものがない。(ハイミナーラはサン・グラスと睡眠薬で防御する)だからこそ、少しのことに対して過敏に反応しているのである。

 ハイミナーラから受ける「暗い圧力」は「現実」の匂いである。

 ハイミナーラは「大人」になった。

 ピータアは「大人」になろうとしている。

 キー子の唇は自分と関係のない遠い災禍だと思っている。でもそこから逃げ続けるにはハイミナーラのようになるしかない。その狭間の葛藤がピータアなのではないか。

 

【キー子の造形】――したたかな強さをもった夢見る乙女

  

 キー子は明らかに現実にもっとも近い。ハナからビートでもなんでもなく、流行に乗っかってるだけのように見える。彼女は単なる夢見る乙女で、男二人の取り合いを夢見たり、藷の真似ごとをする。だからちょっとした反動ですぐに大人になるだろう。

 女性の強さもあらわれている。男どうしの血みどろの戦いをのぞむことや、ラストの「いやな子ね。嘘つきもいいとこだわ」というセリフが象徴的である。あれはピータアへの無理解や、ビートへの否定である。

 また彼女はヘリコプターの広告が読めない。ハイミナーラとのずれが分かる。

肉体や性、血(現実的なもの)を期待しているところがある

 

 

三人の人物像も徐々に浮かび上がり、いよいよここから議論が深くなっていく。読みが真っ二つに割れるのである。

 

 

【「月」とは何か――ラストシーンについて】――夢想の象徴、現実の象徴

 

<夢想の象徴としての「月」>

 「月」は、実際の月が出てこない小説である。出てこないが、ここでピータアが見る月は、ある程度大人になったらわかる感覚であろう。

 月という美しいイメージと、この小説の中での現実のイメージとは背反する。闇の中を照らすイメージである。三人とも教会に差し込む光だとか、闇の中のろうそくの光だとか、そういうものを愛しく思っている。月もそれに連なるものではないか。

『しかし梅雨雲はなお垂れこめて、夜は深く、雨もよいの空を二人は知っていた』

 これは「お月様が見えるんだよ」という言葉に対する、二人の感覚である。月を「夢想」ととらえれば、この一文が意味をもつ。 「しかし」という表記もしっくりくる。「お月様」という呼びかけもやはり肯定的に見ている証拠である。子どもっぽさも出る。月が「現実」ならキー子やハイミナーラにこそ見えているべきものだという意見もあがった。

 月を現実の象徴という意見に対して、わざわざらせん階段とハシゴをのぼりつめてまで、ピータアが現実に近づく理由がわからないと反論が述べられた。恐怖を感じているのなら、むしろ逃げ出すはずである。またピータアが現実に取り込まれている描写がない。

 現実遊び→キー子もまた現実の象徴→恐怖→逃避→夢想を求める、という流れではないか。たしかにピータアは、真黒な憂鬱をときおり感じる。それはまったく現実が見えない、ということではないからである。しかしそれをのぞきこんで意識することはまだできない。だが現実遊びによって、その真黒な憂鬱が、現実的な女の肉体に託されて、顔を出す。よってかれは逃げる。しかし教会から出てしまうと、かれには行き場所がない。だから尖塔という、最も「教会」的な部分にのぼりつめる。教会は自分たちの価値観を保てる場所である。

 

<現実の象徴としての「月」>

 「月」はビートの世界でない世界=藷の世界=現実を象徴するものである。ビートは当たり前の理論を嫌っていた。当たり前のことを月並というし、その語は格言が出てくるところの描写にもでてくる。

 ラストシーンは、キー子やハイミナーラが、現実を直視したくないがゆえに、「嘘だ」と言っているようにも考えられる。

 尖塔にのぼるのは、キー子と手をふれあって、ピータアがむしろビートの世界から逃げ出し、現実に近づきたかった、ということである。

 キー子は「現実」であるがゆえに、ピータアは恐怖を感じる。それは自分が今までビートだったから、恐怖を感じているのであって、これが、一人でいるときに襲ってくる「真っ黒な憂鬱」と同じである。ピータアは若く、ビートに染まりきっていないから、そのような現実を感じている。そして「現実遊び」の際、キー子と手を触れたことによって、ピータアは現実に取り込まれた。

 ピータアは女だったら「白き手のイゾルデ」とたとえられるような存在である。「白き手のイゾルデ」は「トリスタンとイゾルデ」の中で、トリスタンと結婚するけれど、触れられず悩む女の人のことである。だから、それまで現実の影を「真っ黒な憂鬱」と感じ、ビートを演じてきたピーターは、キー子という現実とふれあうことで、恐怖を感じたけれども、結局現実に取り込まれ、むしろ地下室が恐怖として、逃げ出した。地下が怖いのなら、上へ、より上へ行く。だから上まで登ったのである。現実に取りこまれている描写はない。それはゆっくり描写すると、逃げ出すというアクションが遅くなるから、とばしたのではないか。

 本来夜にあるのが当たり前の「月」を、梅雨空ではあるが「見える」と嘘をつく。恐怖から逃れようと、現実にすがろうとしているのである。

 さらにはキー子の、「あの人もとから嘘つきなんだから」という言い方。 つまり、ピータアは「もとから」真っ黒な憂鬱に襲われていたくらいで、ビートに染まりきってはいなかった。ビートでなかった。キー子もまたビートであるとは言えないから、うそぶくのである。「いやな子ね。嘘つきもいいとこだわ」

 

「月」を書いた三島由紀夫とは、どのような作家なのか。テキストだけでなく、作家から「月」を読みとることはできないだろうか。

 

【三島由紀夫の作家性】――時代をこえる普遍性、二項対立

 

<時代をこえる普遍性>

 彼らはきちんと現実を知っているが、恐怖があるから、「自分たちの居場所」に居続けようとする。これはビートを扱っているが、現代の青年にも共通するんじゃないか。青年のモラトリアムな感情が、たまたま「ビート」という当時の流行になじんだだけである。

 昔も今も基本的な若者の行動は似ている。そのような普遍的なところを描いている意味で、月は今に至っても価値をもつのではないか。

 

<二項対立>

 三島由紀夫の文学性は、「美」と「現実」の二項対立で考えられるところがある。「美」とは、三島にとって象徴的なもので、現実から逸脱しているところがある。しかし三島は美のみを描く作家ではない。

 三島自身が葛藤して、「美」を追求しながら文学にも汚さと美を対極的に書いているのである。三島が求めたいのは、あくまで美なのだが、作家として、美を求める人間の悲劇を描く。それは肉体改造や自決など、自分自身のすがたとも重なっている。

 

 

 

第2部(21:3023:30)では、われわれのような若い作家が三島由紀夫から吸収できるものは何か考え、その具体的なテクニックの部分に迫る議論となった。その議論の半ばで、思わぬ考え方の違いも見えてきたところを、ぜひ見てもらいたい。

 

【三島のテクニック】――会話から書きだす、音感と一文の情報量、作家の視点、カタカナの嵐、皮肉の使いどころ、説明は過不足なく 

 

<会話から書きだす>

 この小説は、会話から始まっている。いきなり3人の会話から始まる効果としては、まず読みやすい。そして世界に入り込みやすい。さらにはセリフは登場人物の感情を表しやすいから、性格がわかる。「が言った」の連続もリズムがいい。

 この会話だけで、3人の性格がわかるようになっている。ハイミナーラは理論くさい。キー子はふざけている。ピータアは実際的な性格である。この造形は最後まで崩れない。

 

<音感と一文の情報量>

『モダン・ジャズの店を出た三人は深夜の十二時すぎにあけている煙草屋で、一本二十円の蝋燭を十本買った。』

 これは並の作家には書けない文章である。この時代や背景に生きていないのに、全部脳裏で映像にできる。音感が良い。詩とかうたのリズム感が出ている。数字の羅列はリズムがよい。

 短い文章にたくさんの情報を詰めているという意見もあがる。リズム感を保ちつつ、必要な情報を一文にすべて詰めている。

 

<作家の視点>

 一本二十円と書けば、リアリティが出る。またこれはあくまで現実を見ているという作者の態度表明かもしれない。

 また蝋燭の値段でこの時代の金銭面のリアリティをあらわしているのではないか。

 三島は現実を大事にしている感がある。作家として、主人公たちといっしょに夢想しない。自分の価値観は入れているけど、主人公たちにあわせているわけではない、つまり主人公たちと距離を取っているのが逆に読みやすさを生んでいる。

 

<カタカナの嵐>

 冒頭にカタカナが頻出する。「ビール」「コカ・コーラ」「ジン・パン」「トランジスタ・ラジオ」……どれもアメリカ的である。アメリカ発祥の「ビート」にかれらが共振しているような感覚が出ている。日本であって日本で無い場所をつくりだす。これも三島は狙っているだろう。

 ここでビートについての疑問がもちあがる。アメリカの「ビート」はそもそも物質文明を否定している。だからヒッピーたちに受け入れられたはずである。物質ではなく、むしろ人間らしさを求める運動だった。しかし三島のビートは「物」を崇拝している。

 これは日本版「ビート」なのではないか、という意見があがる。日本は無軌道という部分だけ都合よく受け入れられたんじゃないか。いわゆる日本的な借りパク精神である。それもまたリアリティにつながっている。

 

<皮肉の使いどころ>

『三人とも悲しくてたまらず、げらげら笑っていた。』

 悲しさと笑いをいっしょにした表現である。「しくしく泣いていた」なら凡庸な一文だが、このような記述によって、現実に背を向ける、皮肉な感じが出る。「今」を笑っている感じである。

 しかしわざわざ「悲しくてたまらず」と書くことによって、悲しんでいることを所与の条件にすることに疑問があがる。イメージの固定を免れ得ないところがあるのはたしかである。だが次の文章、真田虫が背広を着るくだりを読むと、本当に悲しいのかどうかも、わからないようなマヒしている感覚、ドラッグジャンキー的なイメージでとらえることもできる。悲しんでいるって書いてるにも関わらず、それをそのまま受け取らせないような工夫である。

 

<説明は過不足なく>

 夢のイメージからそのままハイミナーラの紹介に入る。しかしハイミナーラもキー子も、冒頭ではほとんど紹介されない。これが下手な作家なら、延々やってしまうだろう。作者はビート3人の空気感を出すことに専念している。かれらの雰囲気(無軌道でふざけている感じ)はよく伝わるし、読者も抵抗なく読み進められる。重要な情報(年齢など)にはちゃんと意味を与えている。『自分たちはひどい年寄りだと思っていた。』

 文学をやろうとする作者なら、いきなり読者がひくような説明はしないで、重要なことだけ、うまく表現のなかに織り交ぜて語ることが大切だということだろう。

 そのバランスが巧いのが三島である。

 

ここで話がテクニックから逸脱し、テキスト論のようになる。

 

【ビニールの鰐論争】――物質文明的なキーワード、常識的なものに対する反語、蝋の鱗との関連、「誰か」「彼ら」とは誰なのか? 

 

<物質文明的なキーワードとしてのビニールの鰐>

 ビニールの鰐は物質文明的である。

 アフリカ=ワニ、ビニール=パチモン という物質的な解釈ができる。

 ハリボテを怖がっている、ということではないか。

 

<常識的なものに対する反語としてのビニールの鰐>

 比喩が独り歩きしている。そして具体的に何を指しているのかよくわからない。しかしかれらの意識が、ふわーっと融けている感じを受ける。常識的なものに対する反語的な、そういうかれらの態度をあらわしている。

 

<蝋の鱗との関連>

 キー子の手に「融けた」ロウがついて、「固いロウの鱗を作った」という表現があるが、それとも関係するのではないか。

 鱗という語が、前の鰐と結びつく。ロウは、融けていたものが固まったのだから、現実的なものである。だからビニールの鰐との対比でキー子が現実的であることを示唆し、その直後に、藷の遣口の真似のような光景をキー子が夢見るのである。

 

<「誰か」「彼ら」とは誰なのか?>

 「ビニールのワニ」=「藷」ではないのか、という疑問が提示される。そうではなく、ビニールのワニはとけた状態(空想の産物)で、ロウの鱗はかたまった状態(現実の産物)であるという反論がなされる。

 ここで、「人は彼らを恐れるものだ」という文に目が向けられる。この「彼ら」とは、ビニールの鰐のことではなく、三人のことではないかという意見に対し、「合成樹脂の、冷たい野蛮な、無関心の生存の状態」という表現を、藷ととらえる意見があがり、場が混乱する。

 ここでいう「人」とは誰か。「誰か」とは誰か。「彼ら」とは誰か。なにが「それでも」なのか。しばらく話し合った結果、(くわしくはログを見てほしい)納得のいく決着を見た。

 つまりここで会話する「誰か」「人」とは藷である。そしてビート=ビニールの鰐=「彼ら」である。「誰か」は、アフリカ(遠いとこ)にはビニールのワニ(ビート)がいっぱいいるんですと言う。そういうふうに世間ではよくいわれるのにもかかわらず、それでも人は彼らをこわがるのである。合成樹脂なのに、こわがっている、ということである。

 

ここまできて、みなさすがに疲労してきた。三島のテクニックについて、もう少しだけまとめて場は解散となった。

 

【再び、三島のテクニック】--イメージの使い方、センスのよい会話 

 

<イメージの使い方>

 イメージの使い方がうまい。闇の中の光を想起させるものが色々とある。月もそのひとつであるという意見があがる。黒猫のガラスのような眼玉もそのようなイメージである。

 三島が視覚的なイメージを大事にしていることが分かる。

 この作品では、あまり嗅覚には言及しない。これも効果をあげている。それが無関心な生存の状態につながっており、だからこそ、猫の死体の表現(猫の燃える臭い)がきく。

 ふだんのかれらは、無臭の世界の住人(夢想の住人)だが、要所に、現実の臭いを侵入させるのである。

 

<センスのよい会話>

 三島は会話のセンスがよい。一文目が凄くいい。

『みんなうるさい、藷ばっかりだ、やつらは。』

 いきなり藷という発言が出る。ふつうならいきなりは書かない。

 名作家は会話も面白いものである。凡作家は会話がのっぺりしている。

 

ここまで話したところで、今回の読書会は終了となった。今回はひとつの視点からさまざまな部分に話がつながっていった。また、真っ二つに意見が割れたところでは、互いの読みを深めることができた。まさに知恵のぶつかりあいであったのではないかと思う。

 

 まとまらぬ長文、そして乱筆乱文をお許しください。(文・イコ)