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磯崎憲一郎『赤の他人の瓜二つ』

3月9日公開読書会@ニコニコ生放送

『赤の他人の瓜二つ』(磯崎憲一郎)

参加者:Pさん、6

 

〈第一部〉初めて読むような再読について

 

Pさん:はい、始めました。

6:こんばんは。

Pさん:こんばんは。

6:今から、twitter文芸部の読書会で『赤の他人の瓜二つ』磯崎憲一郎をやっていきたいと思います。

Pさん:視聴者のみなさん、今、聞けてます? ……これ誰のコメントだろう。

6:あ、「聞いてるなう」って誰か出てきた。

Pさん:誰だろう。誰なのかはわかんないんですよね。

6:謎の人物が「聞いているなう」と言ってくれました。これもしかしてPさんが「聞いてるなう」と打ったのかもしれないですけどね。

Pさん:基本、誰が打ったのかはわからない。

6:誰が打ったのかはわからないけれど、聞いてくれてる人がいると。それだけでもありがたい。

Pさん:……あ、もう二人来ていますね。

6:お、僕も入っているからね。

Pさん:じゃあ、そう、プラス1っていう形で。

6:一人聞いてくれているってことか。

Pさん:はい。まあ、イコさんかもしれないですね。

6:イコさんでしょうね、ここは。

Pさん:イコさんだとしたら、名前のあとに「@イコ」という感じで、アットマークのあとに自分の名乗りたい名前を名乗っていただければ。音量か、そっちで最大ですかね?

6:「音量上げて欲しいです」。

Pさん:そちらのプレイヤーで最大なのであれば、こっちで上げる方法がちょっとないですね、これ以上。僕の音量は上げられるけど、その場合、……いちおう最大にしてみますけど、これぐらいで。

6:僕の音量上げたらいいってことかな?

Pさん:それも出来たらお願いします。

6:しかし音量上げるっていうのがどうやってやるのかわからないんだよな。

Pさん:あ、もう6人来ていますね。

6:マジで?

Pさん:はい。

6:6人も聞いてくれているんだ。ではでは、そろそろ始めますか。

Pさん:「わこつ」っていうのは、入るときの挨拶でありまして。

6:なるほど。

Pさん:あと、うちのコミュニティーの人が今きております。たぶん Twitter からたどったんだと思いますけど。もう五分も経った。はじめますかね。

6:はじめますか。それでは、『赤の他人の瓜二つ』の読書会を始めたいと思います。

Pさん:いえーい、ぱちぱちぱち。

6:この読書会は僕たちが所属しているtwitter文芸部が発行している雑誌『Li-tweet』の春号に、読書会を載せようじゃないかという企画がありやることに決まりました。

Pさん:はい。

6:そして参加者は、磯崎憲一郎という作家を愛する、私6と。

Pさん:私Pとが。

6:やらせていただくということになります。磯崎憲一郎っていうのは、僕はデビュー作の『肝心の子供』と『眼と太陽』からずっと読んできた作家で、現代の作家において非常に、一番好きな作家と言ってもいいぐらいなんですけど、Pさんにとって磯崎憲一郎っていうのはどんな作家ですか。

Pさん:今の6さんとほぼ同じで、保坂和志っていう作家からの経由って言うのはありますけど、そう言っていいのかわからないけれども、弟子筋の一人としてデビュー作『肝心の子供』から、一応最新作(連載のは読めてないけれども)「往古来今」まで一通り読んだつもりでありまして。

6:そうですね。

Pさん:僕の中でも相当ベストに近いというか。

6:ほんとに?

Pさん:はい。

6:それは、磯崎憲一郎っていう作家が、いろんな作家がいる中で、ベストに近いって言う意味?

Pさん:そうですね。

6:ああ本当に。

Pさん:みたいな話ってしていませんでしたっけ?

6:いや、初めて聞いた。で、保坂和志は磯崎憲一郎のデビュー作である『肝心の子供』確か「身体性をもったボルヘスだ」という風に評したわけなんですね。磯崎憲一郎自身がボルヘスとかガルシア=マルケスとかラテンアメリカの文学をかなりたくさん読んできたとインタビューなどで答えています。『赤の他人の瓜二つ』というのはまさにそういったラテンアメリカの文学に影響されて書いた本であると、確か本人が言っていたと思います。

Pさん:ああ、『赤の他人』もそうだったんですか?

6:みたいですね。なんかPさんから話したいことはありますか?

Pさん:あー、ざっくりですね。

6:いや、ざっくりじゃない感じで具体的に質問してもいいのだけど。まず、さっきも言ったとおり、「読んできたつもりである」と僕たちは言いました。「読んできたつもりである」と言ったんだけれども、やっぱり『赤の他人の瓜二つ』は今回再読したときで、何て言うのかな、「初めて読むような気持ち」をお互い持ったわけなんですね。

Pさん:はい。

6:だいぶ忘れちゃってるんだなっていうのが改めてわかった。それは読書っていう行為一般がもたらす、内容は忘れるものだっていう特徴から来るものなのか。あるいはこの『赤の他人の瓜二つ』っていう作品がもたらす何かなのかって考えたときに、僕は再読したときに初めて読むような感慨を受けるっていうのは、『赤の他人の瓜二つ』っていう作品がもたらす何かっていう部分も、多分にあるかなと思うんですね。

Pさん:はい、それもまさにそうだと思います。今このプレッシャーある中で、けっこう思い出すのが難しいので、メモをたどることになると思いますけど。メモに「センテンスの単位でしか記憶に残らない。小説全体に対してセンテンスの方が重みがある」って書いてあるんです。

6:それはどういうことなのだろう。

Pさん:センテンスの単位でしか記憶に残らなくて、小説全体っていうよりもセンテンスの方が重みがあるっていう風に。

6:なるほど。

Pさん:普通はセンテンスの集合がこの本自体であると把えます。しかしこの本はその枠組みで把えきれないところがある。それこそガルシア=マルケスなどの小説家が試みてきたこともそういうことに近いのではないかなと思いますが、要するにエピソードの一個一個が本当に大きすぎて全体が見渡せないというか。センテンスの方が大きい存在になってしまって、全体としてこの小説が何であるかっていうのが記憶に残りにくいようになっているものであると思います。

6:じゃあまさにその、「記憶に残るセンテンス」ということを、具体的に説明するとするならば、この『赤の他人の瓜二つ』ないしは磯崎憲一郎の文章というのは、どんな特徴があると思いますか?

Pさん:一つには、というか。普通に言う俯瞰の視点の文章ってあるじゃないですか。

6:俯瞰の視点の文章……。

Pさん:何て言うんだろうな。例えば、ある普通の小説然としたストーリーが流れていって、ある所でふと、主人公がそれまでのことを振り返って、「今までのことは実はこうだったのではないか」みたいなことを述べたとするじゃないですか。

6:うん。

Pさん:そうすると、そこの文章が、少なくともそれまでの部分を俯瞰した、例えば一言なりセンテンスなりっていうことになりますけど、そのバランスがやっぱり磯崎憲一郎の場合は狂っているんですよね。

6:狂っていますね、そう。

Pさん:ですよね。

6:特にこの小説は狂っていますね。一つの物語が一つの記憶をずーっと一本の軸のようにたどって行くのだからこそ、前に何が書いてあったかっていうことをよく覚えている。しかしこの小説の場合は、その人生が一つ、物語が一つではなくて、幾筋もの物語と人生が、何本にも交錯し合うような構成を取っている。かつ、突然文章のとんでもない所で、ある視点人物Aに注目していたのに、それが別の人物に切り変わるみたいな瞬間が、突如として起こることがよくありました。

Pさん:はい。複数の視点人物って言いましたよね。さらに言うと、その並列しているものが、並列するべき人物ではないんですよね。この小説の場合。

6:うん。

Pさん:最初に現れてくるのが、あの少年の家庭。チョコレート工場に勤めている、親とその子供二人ですよね。子供と家庭っていうこの範囲がわかるわけなんですけど。で、次に出てくるのが、出てくるというか、主要な視点人物はクリストファー・コロンブスなんですよね。

6:あー。

Pさん:それが普通はそういう範囲で時間が動くものとは想定しない。

6:第一章っていうのはさっきPさんが言った通りチョコレート工場に勤めるお父さん、それにその奥さんとその子供である兄と妹の物語であります。妹の存在は何となく神秘的で、兄というのはどこにでもいる男の子で、兄はある日妹と一緒に遊んでいた時に、池に落ちちゃうんだけど、その妹が弱冠三歳にして兄を助けると。そんなことが起こり得るのかと。そんな風に幕開けていく。

それから少年(兄)がお父さんとの記憶について妹と第一章で話し合ってるんですね。第一章の最後の方です。その時に、お父さんが自動車の排気系の部品として使われるステンレス鋼板を家に持ち帰ったことがあると。そんなことがなかったっけって妹に言ったら、妹は何とそんなことはぜんぜん記憶になくて、「それはどこか別の知らない場所に住んでいる、血も繋がっていない赤の他人の話ではないの」と言っていた。

Pさん:すっかり忘れてました。

6:こういうところから「赤の他人」っていう言葉が、何回か差し挟まれていくわけなんですよね。第二章に入って、いきなり「ところでこのチョコレートというこの不思議な食べ物は人類の歴史の中で、いつどのようにして誕生したのだろうか」という文章で幕が開ける。まさかこんなところでチョコレートの話題に転じていくのかみたいな驚きをもちますね。普通の小説の期待の地平からすれば、第一章で書かれているこの家族についての物語がこれからはじまっていって、その家族がどうにかなっていくのを最後まで見届けるんじゃないかっていう予想が立ちます。しかし第二章でチョコレートについて話題が転じてしまって、今まで、どこにでもあるような工場に勤める長屋住まいの小さな家族の物語だったものが、一気にチョコレートっていう、人類の歴史の中で大きな存在であるチョコレートについて、歴史をコロンブスっていう視点を通して語られていく。一気に物語が大きなものを描いていくようになる。この感じなんですね。ここの辺りの転じ方も面白いなっていうのがやっぱりあります。

Pさん:ここがいわゆる転だとしたら、やっぱりずっと転なんですよね。

6:そうなんだよね。

Pさん:次の章は、コロンブスを中心とした史実もしくは史実に似せたパートですよね。

コロンブスを視点人物として進む話が終わると、カカオ自体を扱った章になる。次はそれをチョコレートに加工したチョコレートの使われ方をめぐるエピソード。まあ、ちょっと話が逸れるかもしれないけど、牽強付会的に見ると、「ところでこの、チョコレートという不思議な食べ物は……」っていうのは、すごい大きな挿話として見れちゃうんですよね。無理矢理挿入した挿話みたいな。ただ、やっぱりそういうのともバランスが違うんですよね。

6:この放送を聞いてくれている人っていうのは、たぶん読まれてない方が多いと思うんですよ。だから、あんまりマニアックな話ばっかりしすぎてもダメかなと思います。

……第二章からチョコレートをめぐる歴史に入っていくと。そしたら、そのあとにコロンブスが来て、そのあとにチョコレートの原料であるカカオのことに入って、で、メキシコでカカオっていうものがどういう風に扱われてきたかっていうことを世界史的な視点から描きながら、今度はメキシコを離れてスペインとかヨーロッパの世界に行って、カカオが加工されてチョコレートになっていくと。その時に当然チョコレートなんて高価な食べ物だから、貴族の人達が食べていた。で、今度はヨーロッパの貴族をめぐる歴史に入っていくという感じなんですよね。だから、さっき「転」ばかりあるみたいな感じで言いましたが、この最初の方は「転」ばっかりあるみたいな。何かが起こって、何かが転じていくような瞬間ばかりに立ち会うような感じですよね。

Pさん:普通のいわゆるエピソードだと、チョコレートの話になりまして、第二章って言えばいいのか「ところでこの、チョコレートという不思議な食べ物は」の後ですけど、「カカオは高温多湿の熱帯気候でしか育たない植物である。地理的には北緯二十度から南緯……」こういう風に例えば地質学とか、カカオがどういう生態を持っていたという説明に、半頁くらいは費やされます。で、その次の頁の、二十五頁ですけど、三行目あたりですけど「王朝のある支族の王が、小山のような波が幾度も繰り返し打ち寄せて、陸地の木々や村落をなぎ倒していく夢を見て、目を覚ました」って、ここからまた文章の質が変わるんですよね。この瞬間に。さっきはそれこそ百科辞典的な記述が続いていたのに、次は王、これは前作っていうか『肝心の子供』的な、王族とかそういうのを思わせる感じではありますけど、異質ですよね、急に個の経験に寄っていってしまうという。

6:そうですね。世界史的な視点で把えていくパートもあるんだけれど、こんなにも具体的に歴史上の人物を記載してしまっていいのかって時があります。その瞬間にやっぱり『肝心の子供』でも見せた通り、幻想的な風景などを歴史上の人物達が立ち会ったりするわけなんですよね。例えばコロンブスなんかは、かなり詳細に描かれていくんですけど、そのコロンブスがベアトリスっていう後の奥さんと出会う場面なんかは、非常に美しく描かれていますよね。まあちょっとそれを朗読させてもらうと、

 

ヒマワリの真ん中に女が一人、何も身に付けず、全裸で立っていた。――恐らく二十歳になるかならないか、日差しを遮るため右手のひらを夕日に向かって斜めにかざし、少しだけ縮れたヒマワリと同じ色の金色の長い髪は、もう十分に成熟した丸い両胸に解《ほど》かれている。全身に陽光を浴びているというのに女の肌は月のように白く、この地上の何者にも媚びることなく堂々とまっすぐに立ち、風に揺れる一輪の花が臍のとなりを撫でるがままにしていた。コロンブスは最初、この女は頭がおかしいのだと思った、だがそうではないとすぐに思い直した、なぜなら一人の男に見つめられていると気づくやいなや、女は目を伏せかすかな照れ笑いを残して、追いかける間も与えずどこかへ逃げてしまったのだから。夕日の逆光とヒマワリの中へ、白い肉体はたちまち見えなくなった。(単行本三四頁)

 

こんな詳細に描いていいのかっていうくらい、コロンブスとベアトリスの恋愛をまるで見たかのように描いているという場面も出てきます。

Pさん:ただ、批評的な視点を差し挟むとすればですよ、こういうのは、……時代小説みたいのあるじゃないですか。そういうのと本当に全く別質のものなのか、僕は別質だと言いたいんですけど、じゃあどう違うんだろうっていうのを考えた時に、読んだことのない人にどう説明すればこの感じがわかるかなあ。いわゆるラインとしての史実があって、それを肉付けするって意味では、差はなくなっちゃうわけじゃないですか。と思いませんか?

6:歴史小説と磯崎憲一郎が書く世界史に出てくる人物の焦点化はいかに違うのか、みたいなことか。

Pさん:無理矢理ですけど、言い方を一つしちゃうとすれば、やっぱり並列しているってことなんですよね。最初の、家庭と、次の視点人物の行動というか、その発見の場面ですよね。女性を発見する場面を並列することによって、一種の「これは昔の出来事で、これは今の出来事だ」っていう垣根をちょっと外す効果があるんじゃないかと言えば言えるとは思うんですけど。というところでそろそろお時間が。

6:すいません、ちょっとグダグダになってしまった感じもあって。また第二枠もはじめますんで良かったらまた聞いて下さい。

Pさん:まあ、あと二分です。

6:あと二分あるんだ。

Pさん:一応。

6:今何人が聞いてくれてるんですか?

Pさん:実際に誰が開いているかっていうのは本当はわかんないんですよ。何人が開いたっていうのはわかるんですよ。最初開いて、閉じたかどうかはわかんないんですけど、開いた人数は十七人ですね。

6:十七人が開いてくれたと。でも、それで何人が聞いてくれてるのかはわからないのか。

Pさん:ただ、僕が普通にニコ生やってるのでもあり得ないくらい、僕のツイートが全く関係ないところからリツイートされるし。

6:マジで?

Pさん:そう、今されてる。ヒルベルトさんって知ってますか?

6:僕の盟友です。

Pさん:ああ、そうなんですか。じゃあそのつながりで見てくれたのかもしれないですけど。この人数で来たこともないんで、おそらくそういうクラスターっていうとアレですけど、人が見てくれてるんじゃないかっていう感触はありますね。

6:なるほど。

Pさん:っていう感じで、はい。じゃああと一分となりましたので、とりあえずお聞き頂いた方はどうもありがとうございました。

6:ありがとうございました。

Pさん:じゃあ、次の枠も一応取りたいと思いますので、続きから? 一応そうですね、最初からの流れになってる感じですから、このまま順々に辿っていきますかね。っていう感じで、引き続き『赤の他人の瓜二つ』を6さんと、僕Pとで、話していきたいと思います。

 

〈第二部〉歴史を描くこと、風景を描くこと

 

Pさん:はいスタート。

6:はい、twitter文芸部がお送りする『赤の他人の瓜二つ』読書会、6と。

Pさん:Pです。

6:第一枠では、『赤の他人の瓜二つ』という小説をざっくりと紹介していきました。そしてPさんが提示された、磯崎の小説において歴史上の人物の描かれ方が世界史のような大枠で描かれることもあれば、詳細にその人物のことを描いていくようなパートもあるという書き分けられ方。さらにコロンブスのような歴史上の人物の描き方に一般的な歴史小説と磯崎の小説に差異はあるのだろうかっていう話にまで及びました。

Pさん:はい。

6:で、それについて今一度問いたいのですが、Pさんはその差異をどう考えていますか。

Pさん:確認すると、謂ゆる歴史を扱った、それをフィクション化した小説と、磯崎憲一郎の描く史実を扱ったパートとの違いっていうことですよね?

6:そうそう。歴史小説と磯崎の小説との差異は何か、みたいな。

Pさん:やはり本当に深いところに行っちゃうと感覚的なところでしかない気もしますが、……まあ、一つ分かりやすく言うと「個の感触」ですよね。

6:「個の感触」?

Pさん:歴史上の人物っていう、謂ゆる普通の把え方をしちゃうと、もう権威とかが与えられて、普通ではない人物になって。

6:なるほど。

Pさん:もう例えばカエサルとかいたら普通、触れがたい神格化された存在になっちゃうわけじゃないですか。

6:そうか……。

Pさん:メディアなどで庶民的な描かれ方をされたアインシュタインでも、それはそれで神格化なわけですよね。「実はこういう面白い人物だった」っていうのを、その理論のバックボーンとして見せたり。

6:そうか、歴史観を歪めずに書いているようなやつが歴史小説で、えっ、本当にそんな側面があったのかなって、意外性を持たせるのが磯崎の書き方だろうか。

Pさん:そうですね。というか、「個の感触」っていうのは、磯崎の面で言うと、本当に普通の人間として描かれる。

6:確かに、ブッダもそうでしたね。『肝心の子供』とか。

Pさん:僕が好きだから喩えとして挙げますけど、フランシス・ベーコンですよね。フランシス・ベーコンは、磔刑の場面、それこそキリストっていう、神格化というか神そのものですけど、その磔刑の場面を、物理的なものとして描いちゃうわけなんですよ。

6:あー、あの牛のやつだっけ?

Pさん:あれはテーマ的にはありますけど、実際『磔刑』っていう題名で、磔刑の場面を描いた三幅対があったと思うんですけど、それがやっぱり肉塊だったりするんですよね。

6:そうなんだ。

Pさん:フランシス・ベーコンの現在性で言うと磔刑の場面に例えばですけど(本当にそういう描かれ方をしてたかどうかわからないけど)ロレックスの時計が転がってたりとか、現代のプラスチックのハンガーが部屋の隅に掛かっていたりするわけなんです。そういう並列の仕方をして、もう明らかにこれは現在の空間であるのに磔刑であるという描き方をしているのです。それはここではコロンブスですけど、コロンブスがさも普通の人がそう見るように、ある女性を見ているというのに似ている気がします。

6:うんうん。

Pさん:メディチ家でしたっけ? メディチ家も、有名な貴族なんでしたっけ? 僕知らなかったんですけど。

6:世界史には出てきますね。

Pさん:世界史を寝ながらすっ飛ばした僕には、教養としては積み重なってはいなかったですけど。それはいいや。それで言えば不倫の場面でしたね。

6:医者?

Pさん:医者と貴族の婦人との。不倫ですけど、この不倫は昼ドラみたいな不倫というよりも、僕の中ではやっぱりムージルです。ムージルってすごい出てくるんですよね。

6:不倫が?

Pさん:不倫の場面。

6:へーそうなんだ。

Pさん:『愛の完成』がそうなんですよ。その『愛の完成』の感触に似た不倫の描き方をしていたり。その時代の医者や貴族の婦人を見る時の一般的な視点とは違う視点を使っていて、その視点っていうのはやはり感覚的な問題になってきちゃうと思うんです。

6:僕の中では歴史小説っていうのは、歴史を描くことが主題なわけですよね。しかし磯崎憲一郎の小説は、歴史を書くことよりも、小説を書くということにかなり意識を置いているんじゃないかな。時間を描く時にもまさに小説にしか出来ないような時間の描き方を使いながら、コロンブスなんかを描いてると思います。

それもコロンブスが主題じゃなくて、小説を書くにあたっての一つの材料として歴史を持ってきて、コロンブスを描く時にも「アメリカ大陸発見」の一番大事な所を切り取るのではなくてコロンブスが奥さんと出逢ったような、非常に小説的な小さな物語を掬い上げていく。磯崎は、歴史を描きたいのではなくて歴史を題材にしながらこれまでの小説がやってきたことを再現したいのだな、反復したいのだなと感じます。

Pさん:うん。大枠そうだと思います。

6:ですね。

Pさん:で、けっこう異を差し挟むようなことばっかり言って、アレなんですけど、そこで言う「小説的」っていうのが、やっぱり従来の小説観をそのまま当て嵌めちゃうと、やっぱり当て嵌まり切らないっていうところもあると思うんです。

6:ああ。そうだね。

Pさん:磯崎憲一郎を読んでいるとやはり小説って、「小説的」ってどういうことだろう? って考えざるを得ないんですよね、いろんな場面やさまざまなセンテンス、単語の使い方、ストーリーの組み立て方など全部。「小説的」という言葉に疑いが出てきます。

6:僕も「小説的」って言葉を使ってしまったけど、磯崎は新しいこともしていて、これまでの小説が積み上げてきた技術とか約束事とかを守りながらも、磯崎は明らかに更新しているという気がします。

Pさん:それで言うと、6さんの中では、守っている部分と更新したと思う部分って、それぞれどういうところですかね?

6:例えば、ずっと磯崎の風景描写について考えてきたわけですけど、いや、ずっとではないかな(笑)。例えば風景描写っていうのは、国語の授業で取り上げられるように、風景は登場人物の内面を映す鏡のような役割を担います。ある心情が仮託されて、その風景を読んでいくうちに、今この風景を眺めている主人公がどういう気持ちかを読者が推し量ることができる。つまり、悲しい場面では悲しそうな風景っていうのが出てくるわけなんですね。それがこれまで小説の歴史の中でさんざんやり尽くされてきた技術だったわけです。では磯崎憲一郎が風景をどういう風に使ったかっていうと、古谷利裕っていう批評家の人が書いた、『人はある日突然小説家になる』っていう本があるんです。

Pさん:はい。

6:この本に「お告げと報告、楽観と諦観――磯崎憲一郎論」という論文が入っています。これは主に磯崎の初期作品を論じながら、磯崎の書き方について評論していく内容です。その中で磯崎の風景描写の特徴としてブッダ、ラーフラ、ティッサ・メッテイヤなど、ブッダ一族の歴史が三代にわたって描かれる『肝心の子供』においても、あるいは『眼と太陽』においても、何か特徴的な一場面、一風景を見た瞬間に、主人公たちの気持ちとか人生とか運命というものが、全然違う方向に転じていくことがある。これまでの小説がそれまでの物語で積み上げてきた感情を、最後押し上げるように風景を使ったのに対して磯崎の小説は風景を差し挟むことによって、全然違う雰囲気に小説を転じさせていくというようなことが書いてあったと記憶しています。普通に風景の描くだけでなくて、それを小説的な技術に関係させながらも、これまでの風景描写との差異もしっかり作っていく、みたいなところがやっぱりすごいなあと。まあすごいしか言ってないですけど(笑)。本当にすごいなあと思いましたね。

突然何かを見た瞬間に、小説が転調していくのは象徴的に美しい風景の時もあるんだけど僕の中では多くの場面において、「何でもない風景」であることが多い気がする。特に『眼と太陽』は「何でもない風景」ですらも、登場人物たちの人生を転じさせていくような何かがある

じゃあ「何でもない風景」を見ることによって、どうして人生が変化していくのかっていうと、「何でもない風景」をただ見るだけじゃなくて、「何でもない風景」を見る瞬間、登場人物達はどこか特別な時間の中にいるんですね。特別な時間の中にいて、特別なことを考えていて、その時に「何でもない風景」を見たらそれが自分の今持っている感情と合致するものがあって、その風景によって、「あ、きっとこうに違いない」という風に思い込んでいく。それが『世紀の発見』においても、『終の住処』においても、やってきた手法だったと思うんです。

『赤の他人の瓜二つ』において、そういった風景描写っていうのは、たぶんどこかあると思うんだけど、それまでの磯崎作品で使ってきた手法を脱却しようっていう試みが見られるのです。それは何か。第一枠でも言いましたがこの小説はいくつもの物語の軸が交錯しています。そして「焦点化の離れ技」っていうのが随所に起きているわけなんです。つまり、Aの人物に焦点を当てていたのに、次の瞬間にはもうBの人物、Cの人物っていう風に、焦点がどんどん離れていくと。例えば最初のチョコレート工場に勤めていた家族の小さな小供に焦点が当たっていたものが、コロンブスとかメディチ家とか、その後の子供が青年期になった時とか、あるいは妹が大人になった時など焦点化していく人物が移りかわります。それはこの小説の書かれ方なんですが書かれている内容にも合致していくものがあると思います。「赤の他人の瓜二つ」と言うようにこの一本の小説を読みながら、僕らは他人の記憶とか、他者の人生を幾つも巡るわけなんです。それは読者もそうであると同時に、登場人物達も、ふいに思うわけなんですね。例えば、青年になった男の子が、実家に戻った時に、定年しているはずの両親が、なぜこの社宅で今も暮らしているのか?本当にこれは自分の両親だろうか?という風に問いかけをしたりとか。ありえたかもしれない自分の人生の、いくつものパラレルワールドを巡ってるわけなんですよね。ありえたかもしれない他者の人生を、瓜二つっていう言葉をキーワードにしながら幾つものこうだったかもしれない自分の人生はっていう風に考えながら、他者の記憶、他者の人生を経巡っていく登場人物達。それはまさにこの磯崎憲一郎が『赤の他人の瓜二つ』で書いている、焦点化の離れ技を内容レベルで体現している。書かれている内容も他者の記憶、他者の人生を巡るものだし、書いている形式としても、焦点化の離れ技をしていくみたいな所で繋がってくる。

風景がそれとどう繋がっていくかっていうと、自分の人生史において、この時代はこういう風景をたくさん見たなあっていう風に記憶しているわけなんですね。その記憶っていうのは、実は個人的な記憶ではなくて、一般的に共有される記憶でもある。例えば、桜っていうのは、桜見た瞬間に入学式とか卒業式とか青春とかそういったものを思い浮かべるじゃないですか。一般に共有されている風景のイメージみたいなものを、いくつもいくつも繋げることによって、時間の早送りみたいなものをしてるんじゃないかなあと思ったんですね。

Pさん:今のは『赤の他人の瓜二つ』っていう題名に寄った分析でしたけど、この「赤の他人である」っていうことにテーマ性として輝き出すみたいな、そういう印象で読み進めてなかった。

6:通じるかな? 他者の記憶とか他者の人生とか。

Pさん:言ってることはわかりましたよ。そっか、じゃあそういう小説なのか。単純に磯崎憲一郎の風景がすごい所はあるんですけど、風景って何だろう?てわかんなくなってきちゃうんですよね。保坂和志が『肝心の子供』「四十日間続いた婚礼の祝典が終わると妃は再び生家のある……」(文庫本十一頁)ここからの風景はすごいっていう風に言及していましたけど……

ここに例えば焦点を絞ると、まず岩が地平線から現れ、その次に「象ほどもある岩」が現れて転がされていく。今度は「本物の四頭の象」が歩いていて、その次は工事をしていて、ここでちょっと変わりますけど、「工事はいちいち滞った」……。ここで風景っていうこととズレる気がする。総じてこの辺は風景と言えば言えなくもない気はします。その後の地の文で「こういう風景の流れを、ブッダはじっと動かずに、ネムの巨木の陰に座って眺めていたわけだ」(文庫本十二頁)って書いてあるから、その前の段落は風景ってことになってるんですけど。これは風景自体っていうよりは印象としてもう、動きじゃないですか。

6:それが何なの、Pさん的には、動いている風景?

Pさん:要するに、磯崎憲一郎を、風景っていう切り取り方で切り取っていくと、どんどんまた違う要素がガンガン舞い込んできちゃうんです。もはや風景っていう一言でぜんぜん割り切れないものになっちゃっているんですよ。

6:わかるわかる。それは、その通りだと思う。で、初期の方が、風景をたくさん描いてたんだけど、最近は風景というよりかは、時間芸術みたいなものを意識してるような気がする。

Pさん:その言い方で言うと、時間芸術っていうのは、風景とそれほど異質なものなのかっていうのが今度はわからなくなってきちゃうんですよ。わかりますかね?

6:風景が、対物描写・対象描写なら、時間を主題にするというのは小説の構成について考えることじゃないかな?風景とは、一概には言えないけれど、対物描写についての文章力。時間芸術って言ったのは、全体的な小説の構成について頭を巡らせるようになったってことじゃないかな。

Pさん:んー。そうですね。今度じゃあ『赤の他人』で言う風景って言えるところってどこかなあと思って。

6:時間が加速する時に風景がよく出てくるんだよね、これでは。そんな気がするんだよね。特に後半は。

Pさん:切り換わる所ってことですかね?

6:かなあ。早送りされるみたいな印象を受けるんだけどな。

Pさん:それこそ保坂和志が『肝心の子供』の最後の方、最後の場面を、喩えたっていうか、フーコーの夢の分析における場面転換は、「所変わって」などの訳語が使われるけど、そういう所に本質的な意味があると言ってて。要するに磯崎憲一郎における場面の転換が、まるで夢において起こるそれみたいだということです。

6:はい。

Pさん:その切り換わる瞬間の前っていうか、その辺に風景と言われるものが差し挟まるっていうことですよね。今言ったことで言うと。

6:んー。

Pさん:違うかな。

6:どうなんだろうな。確かに夢の文法を使いながら、磯崎が書いているっていうのは分かるな。

Pさん:ですね。

6:例えば最後の方。朗読をさせてもらうと、

 

駅の近くまで散歩がてらせいぜい蕎麦でも食べるぐらいの話だが、彼は妻に平伏して感謝したい思いだった。葉が落ちて裸になった細いケヤキの木が続く歩道をエンジ色のセーターを着た妻は彼に並んで、腰の後ろで手を組んで、少しうつむき気味に歩いていた。かろうじて肩に着くか着かないかまで短くしてしまった髪にはやはり白髪が混ざり始めていた。あんなに若く、アメリカ人の少女のようだったかつての看護婦も、彼や妹と同じように老いてしまった

(単行本一四三頁)

 

単行本この辺りはどうだろう。

 

Pさん:ただ、磯崎憲一郎が本格的に風景を書きはじめると、この範囲じゃないですよね。書くとすごい所ありますよね。時間がまるで過ぎていないかのような風景が出てきたりとか。

6:出てきますね。

Pさん:磯崎憲一郎の描く風景とは一体何なのか。というところで。

6:もうあんま答えないんだけど、僕的には(笑)。

Pさん:僕も話題が散逸してきた感はありますけど。次あたりでちょっとケリつけますかね。

6:うん。

Pさん:というわけで。じゃあ次が最後という感じで。

 

〈第三部〉「社会的な通達」に対する確信の揺るがなさ

 

Pさん:はい、始まりました。

6:始まりましたか。『赤の他人の瓜二つ』読書会を、第一部、第二部にわたってお送りしてきました。なぜか放送中には自分の意見がまとまらないとご自身は仰るんですけど、Pさんは放送を切った瞬間に良いことを言ってしまうと(笑)。

Pさん:そうですね(笑)。

6:さっき放送終えた時点で僕としては、『赤の他人の瓜二つ』において磯崎憲一郎の大きな分岐点があるっていう風に言ってるんですけど、一方Pさんは『赤の他人の瓜二つ』の前も、後も、変わらないと。磯崎は一本の道を貫いているという風に言ってて、それがなぜなのかっていうのを今から話して欲しいと思います。

Pさん:はい。細かく言うと、6さんは『赤の他人の瓜二つ』という小説を、まさにこの題名の通りに読んだというか、「赤の他人」が「瓜二つ」であるということ、これが色々言葉を換えてこの小説の中で出てきますと。体験とか、流れとか、それこそ時間の流れを変えて、いろんな形で出てきますと。それこそ僕も良い場面だとは思うけど、もしかして、ここに自分がいなくて、全く他人である人生を辿っていたかもしれないっていう思い、それこそがこの小説の一番描きたかった所だという風な認識ですよね。

6:一番描きたかったっていうか、そういう特徴を持っているっていう感じかな。ありえたかもしれない他人の人生に、フッとこう入りかける瞬間っていうのが、何度も何度も訪れるみたいなものが、あると。

Pさん:その点で言うと、やっぱりガルシア=マルケス。ガルシア=マルケスってそういう所ってありますからね。

6:いや、僕はあれしか読んでないから。『予告された殺人の記録』しか読んでないから。でもあれも、一つの殺人事件を巡りながら、それが幾つかの視点によって語り直されるっていうような感じだから、まあ言われてみれば、この小説と似てるっちゃ似てるかな?

Pさん:そう把えちゃうか。そう言われると、僕は困っちゃうんですけど。あんまりそういう面はないと思うんです。

6:いや、僕はガルシア=マルケスは全然読んでないから、それはどんどん言ってもらいたい。

Pさん:『百年の孤独』で言うと、多重なのはむしろ世代なんですよね。多重っていうか、世代と世代によって似てきちゃうもの・同一であるものと全く似てないもの。名前の混同と言ってもいい。それはけっこう技術的というか、単純なところですけど、色んな面においてこういう思索的に、ふと出てくる面白さでは全くないと思うんですよね。

6:えっ、どういうこと?

Pさん:磯崎憲一郎がこの小説において、……やっぱりふとした思いって感じがあるじゃないですか? この中では。大して……。

6:ふとした思いによって、色んな時間軸の想像を巡らしてるような感じだよね。

Pさん:うん。やっぱりガルシア=マルケスとは違う。まあ、ある意味一緒なんですけど、一緒なのは、歴史との闘い方ですよね。

6:あー。

Pさん:史実をどう歪めるか。どうそれを小説として取り込むかってことに関しては、本当に参考にした所があると思うけど。

6:ぜんぜん違うんだったら違うと言ってもらっていいんだけど、僕が友達から聞いたガルシア=マルケスの一つの書き方の技術を話します。さっきPさんはガルシア=マルケスの多重性っていうのは、世代によって起き得るものだって言ったじゃないですか? 例えばガルシア=マルケスの小説の中に出てくる一つの小物、例えば瓶だとしたら、その瓶っていうのは、実はこのある登場人物の父方の祖父の妹の持ち物だったみたいな風にして、世代を通じて由来が一つの小物に定着させられている。それによって、小物がある脇道に逸れた時間を喚び寄せる、みたいな書き方をしてるとその友達が言ってて。それってやっぱり、今回の『赤の他人の瓜二つ』でも、まさに同じようなことをしてるんじゃないかな。

Pさん:それで言うと、ガルシア=マルケスは、その小物が磯崎憲一郎で言う風景と同じ役割をしてると、僕はそういう読み方をするのであれば考えちゃうんですよね。また風景が、僕の中でブレてきちゃうんですけど、僕の言い方で言うと、ガルシア=マルケスにとっては、その小物が風景なんですよね。そして僕も言いたかった結論の一つとして磯崎憲一郎においては時間の流れっていうものそのものも、風景と化している。もう、時間の流れと風景を作者自身が分け隔てしたくないというか。

6:まあ、風景を描きながら、時間の経過を示してるからね。

Pさん:一言で言うとそうですね。まあ話を戻すとっていうか……この小説における、何て言いましたっけ?

6:風景を描くことによって、時間の流れを……。

Pさん:けっこう前のところなんですけど。題名に呼応する書き方を技術としてというか……。

6:焦点化の離れ技が、形式として行われると同時に、これは登場人物達が、ありえたかもしれない他者の記憶とか他者の人生を巡る小説でもあると。だから、形式と内容が一致してるんじゃないかみたいな。

Pさん:あと6さんは、やっぱり、形式と内容が合致しているものが……。

6:いや、ごめん、それは言いすぎたな。合致してなくても良いものはあるな。

Pさん:というか、一番最初にこの枠というか、読書会の一番最初に言ったようなことで言うと、形式と内容って、全体とセンテンスと微妙に被るというか……。

6:いやー? そうかなあ。全体とセンテンス……。

Pさん:指し示してるものが全然違うんですけど。小説を二分する、それこそ万物に当て嵌るけど、形式と内容って言ったら、例えば……ハードディスクとその中のコンテンツみたいな。あ、どうも……知り合いの人が来た。どうでも良いんですけど。どうでも良いって言うと……(笑)

6:どうでも良いとか言うなよ、知り合いに対して(笑)。

Pさん:久しぶりだから、反応しちゃったんですけど。今読書会というのをやっております、で形式と内容っていう風に二分しちゃうと……。

6:あー、二分しちゃダメだと言うことかな。

Pさん:僕の中ではそういう風にもう読むべきって決めてかかる作家が何人かいて、ベケットも意識して形式とか内容とかそういうのをそれぞれから内破してったり、外から壊したりっていうことを試みている人達がいると思うんですよね。

6:いますね。

Pさん:そういう人達をそういう風に分けては意識して考えない読み方をしようって思ってるんですよね。それにもかかわらず、出てきてしまう形式っていうのもあると言えばありますが。

6:いや、僕ももちろんそうだと思うし、形式とか内容に分けて考えることのつまらなさとかは……。

Pさん:それで言うと、6さんはここで言う形式っていうのは、だんだん腑に落ちてきましたけど、視点人物の切換えと……。

6:視点人物の切換えが行われると同時に、たった一人の自分の人生であるはずなのに、幾つかの他者の人生が自分の人生に舞い込んでくるような瞬間が、何回もあるみたいなことが。

Pさん:他者の人生が舞い込んで来るか。他者の人生が舞い込んで来るって、形式ですかね?

6:いや、それは僕としては内容で把えている。

Pさん:内容ですよね。形式で言うとどこですかね?

6:だから、形式っていうのは、視点人物が切り換わるわけです。普通小説っていうのは、視点人物は一人でその人物をずっとカメラが追っていきます。焦点が移り代わるっていうのは小説において事件だと思うんですね。例えば、章を切り換えて焦点が変わることはあっても、この小説のように章を切り換えずに、次の文章でいきなり焦点化してる人物が変わるっていうのは、これは相当の技術がないと出来ない技だと思うんですよ。で、実際に青木淳悟が、『このあいだ東京でね』あるいは『私のいない高校』とかで焦点化の離れ技をやっているように、あるいは岡田利規が『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で焦点化の離れ技をやっているように、焦点化の離れ技っていうのは、やっぱり一つの小説でしか出来ないような「あ、これでしか出来なかったよね」みたいな独自の技術と内容と共に現れてくる。

Pさん:わかります。

6:わかる? そういうものなんですよ。で、じゃあこの『赤の他人の瓜二つ』の焦点化の離れ技っていうのが、どういう風に起きたかっていうと、「赤の他人の瓜二つ」っていう言葉をキーワードに、一つの人生で済むかと思いきや、自分の人生ってこう行ったらこうだったかもしれないなあっていう風な、妄想とか予感っていうものに、苛まれていくわけなんです。それと同時に起こっていく視点人物の切り換えっていうのが、すごくマッチしてていいなあっていう風に把えたんですよ。

Pさん:やっと腑に落ちてきましたね。何回も聞いてると催眠術みたいに、そうだなあって思えてきちゃったんですよ(笑)。

6:悪い人みたいじゃないですか(笑)。

Pさん:確かにその通りですね。ただ、さらに言うと、やっぱり……。

6:違うと。

Pさん:違うというか。小説に関して、もう技術っていう発想がなくなっちゃってるんですよね。今思ったのは。視点人物って言った時に、内容と関わらないのは、関わらないことがないのは当り前なんですけど……。

6:良い小説やすごい作家っていうのは、偶然的に似通った二つのものを喚び寄せてしまうと思う。二つでなくても三つとか四つのものを同時に一つの容れ物の中に容れ込んでしまうというような才能があると思うんですよ。

Pさん:それはありますね。

6:その時に、『赤の他人の瓜二つ』っていう容れ物は、そういった似た構造を持つものを、喚び寄せたんじゃないかなあという風に。……ところでこの帯に注目したいんだけど。

Pさん:帯取っちゃいました。

6:あ、そうなんだ(笑)。帯がすごい謎なんですよね。「血のつながっていない、その男は、私にそっくりだった。青年の労働の日々はやがて、目眩くチョコレートの世界史へと接続する――。芥川賞作家入魂の“希望の小説”」!っていう風に書いてるんですよ。で、僕はどこが希望なんだと(笑)。

Pさん:僕も同じ感想を抱きました。

6:何が希望なのかわからない。で、最後、本当に一番最後に取ってつけたように

 

ある日の朝、身なりを整えた初老の男性が二人、両親の家を訪ねてきた。市役所の職員と病院の院長だった。大変伝えづらい話がある、という前置きで説明を始めた。――娘さんが生まれた五十五年前の同じ日、同じ病院でもう一人別の女の子が生まれているのだが、じつは病院側の手違いで二人の女の子が取り違えられてしまった可能性がある、いや正確に、正直にいえば、取り違えられた可能性は極めて高い、まず間違いないといってもいい。――両親は黙って聞いていたが、とくに動揺した素振りは見せなかった。わざわざ来訪して説明してくれたことに礼を述べた上で市役所職員と院長をとりあえずいったん帰した。母の方が少しだけ躊躇したが、その日のうちにいまも山の家に一人で住んでいる娘に電話をした。すると娘は即座に、笑って応えた。「なに馬鹿なこといってるの? 私はお父さんとお母さんの子供に決まってるじゃない(単行本 一六七頁)

 

という風に終わるんですよ。これはあたかも温かなエピソードのように読めるんだけど、僕はこれがすごくグロテスクなものに読めた。

Pさん:ゾッとしますよね。僕もちょっとここの読み方が変わっちゃうから、この話がすごいと思うんですよね。「なに馬鹿なこといってるの?……」完全な一個の読み方というか、完全に取り違えだとして……。

6:血は繋がっていないけれど、いや、これまでの人生一緒に過ごしてきたから、やっぱり私のお父さんとお母さんっていうのは、あなたたちを措いて他にはいないってことを最後に言うんだけれど、でも最後ゾッとして終わるっていう。えっ、マジで? みたいな感じで。

Pさん:色んな把え方も出来ちゃうというか。これ取り違えじゃない可能性もないですかね? 取り違えじゃないというか、まるで、これ妹ですよね? 最初で言うと、妹がもう最初から、生きはじめたその時点から、こうであったことを知っていた感じも抱かないですか?

6:あーなるほどわかった。生まれた赤ん坊がその時点から取り違えられたことを知って暮らしていたと。

Pさん:そんなわけはないし……。

6:その読み方は、この妹が小さい頃に神秘的だったことと通じてくるものがあるから。

Pさん:そこと通じるんですよね。だけど、さらに他の読み方も出来る気もするんですよね。

6:なるほど、どんな読み方?

Pさん:読み方というか、全然理屈にはなっていないけど、病院側が手違いをしたって勘違いしてて。

6:なるほど。

Pさん:全然本当に娘だったっていう確信を持っているし、実際にそうだったし。っていうか、それが一番、娘の感覚を強く伝える読み方だと思うし、そこまで転倒させてしまうくらいの、今までのエピソードの積み重ねがあったとも言えるっていうか。

6:つまり、ありえたかもしれない他者の人生を、病院の事務スタッフですらも、思い描いてしまって、そのことを妄想してしまって、それを伝えに来たんだけれど、でも確信を持って娘としている妹にとってはそんなことはどうでも良かった、みたいな?

Pさん:あんまりこういう、読みを弄することはしたいわけでもないんですけど、とにかく力がある。

6:力があります、この最後の書き方は。非常に良い終わり方です。

Pさん:とにかく、良いっていうのは、良い話だみたいな良いではなく。

6:ではなくて、目眩がするような。

Pさん:すごい複雑なものを持ったものですよね。

6:え、これで終わっちゃうんだ!? みたいな感じ。

Pさん:力関係として、最後の手前くらいで、両親が契約書を、ちょっとこれは読んでない人には複雑な説明が必要かな。この二人の両親は社宅に住んでて、社宅が経年劣化、もう築四十年か、って書いてある、築四十年も経って、ついにもう違うのを建てるから、というか建て換えるから、立ち退いて下さいと言われると。ただ、その社宅を我が物のように両親は改修しながら暮らすのが、半ば生き甲斐のようになっていましたと。だけど、それが転倒しちゃうんですよね。この転倒とも最後がカブっているから、違う読みを胸の奥からしたくなるというか。その転換というのが、じゃあ読みますかね。

6:読んで。

Pさん:どこだっけな。どこから読めばいいかがちょっと良くわからないので。すごい半端なところから読みますけど。

6:何頁?

Pさん:一六〇頁から、これはすごい手前の方ですけど、これは息子が、これはだから立ち退きの事を聞いて、じゃあ立ち退かなきゃいけないんだって、息子っていうか、ほぼ主人公格の人ですよね。この小説の構造に忠実に読むと、これは誰だか分からないんですけど。それでも一応、今まで働いてきたっていう息子。

6:青年ですね。

Pさん:青年であった息子。年月の経年もあるから……。

6:いいから早く読んでよ(笑)。何が言いたいのか気になるからさ。いい問い掛けだと思うし。

Pさん:「しかしこれがほんとうに」一六二頁から読みますけど、「しかしこれがほんとうに総務課の、社有資産管理の仕事の範疇だろうか?」これは、(笑)この視点はあれか、立ち退きを言う人の視点か、これもすごいですよね。急にこの……

6:(笑)いやいや、止まってしまって、今すごい結論がかなり気になってるんですよ、僕としては。これを読むことによって、どういう風に最後の娘のセリフとつながってくるのかなあって、かなり気になってきてるのに、一個一個の単語に……(笑)

Pさん:はぐらかして(笑)。じゃあ読んで行きます。

6:早く読んで、その結論を言ってほしいなと思って。

Pさん:

 

とてもそうとは思えなかった。男は何事も徹底的にやらねば気が済まぬ性格だった、営業部署にいたときからそうだった、小売店が商品を引き取ってくれないときには、一ヵ月間毎日週末も休まずにその店に通い続けたこともあった。自らの取り柄は粘り強さだと思っていた、なのにどうしてその自分がいまはこんな閑職に甘んじているのだろう? 同僚たちはみな皆目理由が分からないといってくれた。男は三十歳になったばかりで、独身だった。「何度も来てくれて悪いんだけど、うちは引越しできないことになっているのよ」開き直るというよりはそれはむしろ、男を哀れむような口調だった。(単行本一六二頁)

 

ここでいったん区切っていいですかね?

6:うん。

Pさん:ここで、立ち退きを言い渡した男に対して、両親のどっちかちょっと今わかんないですけど、「何度も来てくれて悪いんだけど、うちは引越し出来ないことになっているのよ」この言い方がおかしいんですよね。

6:本当だね。

Pさん:ここで、しかもグッと来るところなんですけど、その後の所。

 

借家権を主張してきたとしても、この場合は社宅という会社の資産なので、通告からしかるべき期間を置けば退去させることは可能だが、ここはやはり双方の合意形成を優先して事を進めるべきだった。(単行本一六二頁)

 

ここは、やっぱりまだ普通の視点ですね。まだ立ち退きを言い渡せると思っている視点だけど、

 

「もう家からは出ないと決めてさえしまえば、雨の日をそれほど恨まずに済むものなんだよ」――何か一本取られたような、取り返しの付かない過ちを犯したような嫌な予感がして、男は急いで会社に帰って古い書類を調べた、そしてあの夫婦と会社が交わしている賃貸契約書を見つけてしまった、有効期限は契約日から五十年間、昭和八十五年九月三十日までとなっていた。さらにそのうえ驚いたことには契約終了時までの家賃は、もちろん月額七百五十円という今ではあり得ない低い金額だったが、全額あらかじめ支払われていたのだ。(単行本一六二~一六三頁)

 

ここで、けっこう卓袱台返しというか、立ち退きなんて言い渡せない契約を。実は両親、ここまではけっこうトボけてるというか……。

6:いや、僕もすごいグッと来た。これって、まさに最後と続いているなって、やっとわかってきた。

Pさん:そうなんです。だから、外部から通達を出来る側の、社会の側の人間が、引っ繰り返されちゃうんですよ。ここで言うと両親ですけど……。

6:外部からの通達が、引っ繰り返される。

Pさん:ここでは理屈が働いているんですよね、まだ。契約が、こういう契約だったから。続きを読むと「明らかに当時の担当者のミスだったが、弁護士と相談してみてもこの契約書が交わされている限り居住者の権利が保護されるだろうという見解だった、……」つまり、完璧に、まるで未来を見透したように、「この家は私のものだ」という契約がなされていたと。

6:すごいね。

Pさん:で、その、僕の言い方で言うと「バイブス」って言っちゃうんですけど、そのバイブスのまま最後を理解するとなると、やっぱり娘が圧倒的に正しいってなるんですよね。

6:本当だね。絶対的に社宅暮らしの一家が強かったってことになる。

Pさん:さらに小説の側の言葉で寄せられて言っちゃうと、「病院の院長だとか、そういう奴らの理屈なんて全然この娘の確信には通用しない」っていう言い方が出来る。

6:遠く及ばない。その通りだね。

Pさん:という風にラストは読みました、と。この辺でちょっと切りますかね。

6:これでもう終わりにしよう。これ以上はたぶん出来ないと思うし。

Pさん:ラストにやっと着きましたからね。

6:あと二分? あと一分三十秒くらいか。

Pさん:一分三十秒くらいですね。やっと言いたいことが言えました。最後のところは言いたいところだけど、ネタバレになっちゃうかなと思って、避けていたんですよ。でも言って良かったな。

6:社会的な通達によって、「社宅を出て行け」とか、「お前らは取り違えられた娘だ」って言われるんだけれど、でも思い込んでる、運命として受け容れている人達にとっては、そんなものはどうでも良いんだ、みたいな感じで、弾き返してしまう。この力の運動みたいなものが、最後二つの挿話に共通して終わっている。素晴らしいですね。

Pさん:はい。というわけで、途中ダラダラとしちゃった所もありましたが、『赤の他人の瓜二つ』公開読書会@twitter文芸部、これにて終了とさせていただきます。

6:ありがとうございます。

Pさん:ありがとうございました。 

6:論理的な胸騒ぎを覚えました。

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