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第1回合評会

合評会とは、部員の作品を皆で読み、それを批評しあう会のことです。

部員同士の切磋琢磨の場とするために定期的に開催される予定です。

第1回合評会は2010年12月の17日、18日の2日間を使い、Skypeのグループチャットにて実施しました。

全作品を通じて鋭い意見が多数飛び出し、侃々諤々の議論が交わされました。

終了後も余力のあるメンバーだけで延長戦が行われるなど、非常に熱気のある合評会になっと思います。

 

今回は内容をまとめるにあたって、議論のダイナミズムを楽しんでいただくことを主眼とし、各メンバーの印象的な意見、及びそれに対する対する反応を引用していくという形をとりました。

見やすさを考慮して多少手を加えた部分はありますが、雰囲気は伝わるのではないかと思います。

 

 

◆17日合評作品

・叢雲綺「左目の世界」

・小泉机「夏祭り」

・しろくま「ダイヤグラム」

・緋雪「白銀の使者」

 

参加者

だいぽむ、イコ、叢雲綺(途中退出)、緋雪、小泉机、しろくま(=クマの子)、プミシール(途中参加)

 

 

◆18日合評作品

・プミシール「ほうたれの木」

・ちぇまざき「文庫」

・だいぽむ「眼と虫」

 

参加者

だいぽむ、イコ、ちぇまざき(=chemazaki)、しろくま(=クマの子)、プミシール

 

 

◆【Skypeログ】

 

17日合評会

18日合評会

 

また、プミシールさんの「ほうたれの木」の合評中に、「文学の新しさ」についてちょっとした論争が起きました。

こちらも非常に面白い内容ですので、ぜひ読んでみてください。

 

「文学の新しさ」論争

 

 

 

17日合評作品

 

◆叢雲綺「左目の世界」

 

作品URL:http://sousakulovers.blog83.fc2.com/blog-entry-47.html

 

 

「左目の世界」と「ライオン」の解釈について

 

・イコ的解釈

 

イコ:

 おれは郷愁の世界、としてとらえました。厳密にいうと、海は現実的なニュアンスなんですが。その世界に、ものすごい存在感で君臨する、ライオンが、非常に「郷愁」のイメージなのではないかと。


イコ:

 (ライオンは)自己の精神と肉体の一致していた、子ども時代の「確かなわたし」のイメージなのではないかと思う。郷愁は、母親の風呂上りの臭いによってよびさまされます。その嗅覚の向かう先に、ライオンの存在がとらえられている気がする。


イコ:

 青年期になって、自分の行動に、疑問をもってくるわけですよ。今まで無条件で信奉してきた親とか、自分のファッションとか。そうして、不確かさをくぐった上で、人間は社会的な大人になっていくのですだからライオンは、不確かな自分との対比でとらえるべきなのではないかと思うんですよね。


だいぽむ:

なるほど。左目の世界=郷愁、らいおん=確かだったころの私、という感じでいいのかな?


イコ:

 そんなニュアンスかな。

 

 

 

・小泉机的解釈

 

小泉机:

 左目の世界=逃避、ライオン=完全性という風に最初は思いました。右目が現実、左目が逃避(というか、空想とか、非現実とか)。ラストでは右目が見えなくなって、左目の方に重心を置きに行くようになるっていうのは、まさしくそんな感じです。現実なんてどうでもいいよ、みたいな。


小泉机:

 左目の世界の方にライオンっていう完全性が入ってるから、さらにそっちの方に魅力を感じちゃうし。ライオンに触れることを阻んでいるのは、現実だ、と思って読みました。

 

だいぽむ:

ライオンは、逃避した先にある完全なもの、魅力的なものというイメージになるのか。完全になるとはどういうこと?


小泉机:

 とりあえず、「今の自分ではないものになる」という感覚です。

 


 

・だいぽむ&緋雪的解釈

 

だいぽむ:

 僕はライオンそのものが現実だと感じました。もっというと現実社会の中での生。そして左目の世界は死の象徴だと思いました。


だいぽむ:

 左目の世界は変化がない、そして夜。ここから僕は死を連想して、『水底に溢れる波に抗うわけでもなく、それなのに立ち続けている。倒れてしまえばいいのに。流されてしまえばいいのに』これはそのまま、序盤で書かれている文章と重なる。死ねばいいのに思いつつ生きてる。だから左目の世界の海は死だと思った。

 

緋雪:

 死ぬことに片足突っ込んでいる感じで、海は死だなとオイラも思いました。


だいぽむ:

 『ライオンに触れると硬くて、ゴワゴワした毛が私の指を刺す』『鼻をつくような、動物の匂い。生々しい、現実の匂い』こういう描写から、ライオンとは現実だと思った。その一部でありたいと思うことは、結局のところ、現実を諦められないということじゃないかなと思ったわけです。


緋雪:

 辛い、辛い、でも現実の中で生きられることに満足したいという願望が出ていると感じましたね。

 

 

 

・クマの子的解釈

 

クマの子:

 『左目の世界のもの』と「右目の世界のもの」という対立を考えました。「日常の風景」では左目の世界のもの=煙、右目の世界のもの=私。「狭間の海」では左目の世界のもの=ライオン。右目の世界のもの=私、そして挿入されたみかん。「自我」ではそれらがつながっていきます。まず、ライオン=煙ということがわかる。ライオン=みかんから、煙=みかんということもわかる。そして煙=私。

 

 

 

ラストの「はじまり」について

 

イコ:

 自分が右目も見えなくなっていくだろうこと、今立っている現実にいられなくなり、もうありえない世界に向かって行ってしまうだろうことを自覚している。それはつまり現実の時間軸上での肉体及び精神の死/明確な断絶であるが、断絶することによって主人公の実存は新たな局面のなかにいられるようになるのである。


だいぽむ:

 僕も死だと感じたねぇ。左目の世界はもともと死だと感じているから、左目の世界か現実味を帯びるということは、死ですね。

 

イコ:

 元々死の臭いは濃いですよね。夢も妄想も、生よりは死に近い素材です」

「右目の世界がなくなり、左目の世界が残る。そして全てのものが左目の存在になります。みんなが一つの世界のものになるのだから、それらはみな現実のものとなり、それは新しい始まりだ。


だいぽむ:

 右目の世界がなくなるということはどういうことでしょう」

 

クマの子:

 右目が見えなくなることで、見えない左目の世界と同じになると。吸収されるというか。

 

 

 

◆小泉机「夏祭り」

 

作品URL: http://musekininrikiba.web.fc2.com/short4.html

 


作者と作品との距離

 

緋雪:

 小泉さんの世の中に対しての主張を感じる文章だね。自分を持って生きてきた中で、途中で何らかの価値観が変わる出来事があった。それを世の中へ対しての主張に変えたと読めましたね~。小説というより、随筆みたいな感じで読んだ。

 

イコ:

主張を書いているように見えるんだけど、作者は小説のひとまわり外側に立っているんですよ。冒頭の、作者が憑依したように見える文章から、おれたちはこれを小泉さんの自意識の叫び、ととらえがちだけど、「おいおいおいおいお前ねりあめに何練り入れてんだよ……」この笑っちゃう会話で、すべてが崩れる。これを本当に作者は、自分と重ねて、没頭して書いたのだろうか?


小泉机:

 そういう自分がある、って感じでした。

 

イコ:

 たしかにそれは自分のなかの一部かもしれない、でも全体じゃないでしょう? 小泉さんの作家的観察力、これが小説を外側から見る、ということだと思いますよ。

 

だいぽむ:

 『僕の最後の言葉は、決して、届くことはなかった。当たり前だけど。』この2行か大きいと思うよ。ただの自意識爆発なら、『お前らみんな狂ってる!』で終わる。自分の主張が全てでないことを理解してる。

 

 


リアリティについて

 

だいぽむ:

僕は説得力の欠如というか、この問題が小泉さん以外の、僕らにも関わってくる問題であると、感じることができなかった。やはりあくまで小泉さんの中でのお話。リアリティをもって主人公の悩みを体感できなかった。


緋雪:

このリアリティのない妄想はあっても良いんじゃない。これは、ある程度歳を重ねると書けない文章だし。

 

イコ:

おれはこのリアリティのない妄想こそ若さなんだと感じたけどね。壊した先に何があるのか、主人公はわかっていない。世界に具体的なイメージがないから、抽象論で押しまくるしかない。その若さゆえの衝動を、うまく描けていると感じましたよ。おれたちがこの若さと自分を重ね合わせて読むことは残念ながらできないけれど。

 

イコ:

(問題点は)自我以外の現実世界との、距離感のとり方、かな。このような作品が主我から脱するためには、現実が正しく描かれていることが大事だと思うんだよね。正しくってのは、思想的な意味じゃなくて、現実に生きる人間のすがたや、世界のすがたを、作者が冷静な目で、克明に記す必要があるということ。その世界のなかに、若さを発露するひとりの青年を投げ込むわけです。そうすることで、より距離がとれるようになるし、単なる愚痴や自虐で終わらないようになりますよ。


だいぽむ:

ということは、この主人公の眼から見えるいようなゆがんだ世界を場として設定したことが間違いとなるのかな。


イコ:

間違い、とまではいわないけど、やっぱり主人公の「僕」以外の世界が、どこかに冷静に立っていないと、いけないと思いますね。

 

 


描写について

 

小泉机:

僕自身、具体的なものがうまく書けない、っていうのがあるんです。部屋の内装について書けって言われてももうものすごい困っちゃう。

 

イコ:

部屋の内装をすべて書く必要はない。そのときそのときに、カメラを誠実にあてていけばいいと思いますよ。誠実に、とは、ある意図をもって、熱を帯びた手で、しかし頭ではずっと冷静に、ということ。

 

クマの子:

『悲しい悲しい悲しい』と書くよりも、堕胎と書いたほうが、読み手に与える感情強いと思うのです。ただ、『痛い』という言葉を際ただせるには、10回書くよりも、ここぞというところで1回『痛い』と書いたほうが際立ちますよね。

 

だいぽむ:

壊したい、逃げたい、苦しい、そういうものをそのまま書くんじゃなく、表現してこその文学かなあとも感じるんですがね。

 

イコ:

レトリックへのこだわりがない、素直な文章は、好感がもてましたけどね。レトリックは、文学を装います。『車軸のような雨がすべてを洗い流した。』とか、なんだよそれって感じ。だからおれは、必要以上に使うべきではないと思う。この作品においては、むしろ、必要ないものだと判断した。

 

イコ:

この作品では『痛い』と十回言うことで、主人公の『痛い』が際立っていた。何度も何度も同じような文字列が繰り返されることによって、意味が分解され、おれたちの頭を上滑りしていく。ゲシュタルト崩壊っつーのかな。そういう表現の世界なんだと感じました。

 

 

 

◆しろくま「ダイヤグラム」

 

作品URL: http://jyunbungaku.exout.net/book/039/

 

 

※プミシールさん途中参加

 

 

作品の構造とイコ的評価

 

イコ:

 今回、いちばんおもしろく読みました。評価のポイントは、実存と構造をたくみにおりまぜていること。モラトリアムに悩む主人公A(大学生)と、世界と向き合おうとする主人公B(女子高生)のふたりの悩み(実存)を描きながら、それをたくみにクロスさせている(構造)。

 

イコ:

この作品は、交互に語られる交わらない2人の人生が、最終的に交わる形をとる。それまで語られてきた、すべてのことが、伏線のようにきいてきますね。「*」以降、二人はいわゆる「文学の園」にいる。そこでは、ゲイジュツの装いのもとに、蠅を呑むことすら許されてしまう。女子高生はすっかり酔っている。しかしそこに元カノからのメールが来る。主人公は一気に現実に帰ってき、そして女子高生に、自分がしてしまった残酷な事実に気付く。現実逃避の材料に、少女を使ってしまったことに気付く。これは、一見レトリック過多の、文学を装っているような作品なんですが、それすら、最後で主人公を現実に帰してくることによって、落としてみせているように思います。

 


 

レトリックについて

 

だいぽむ:

鈍行と急行のモチーフは分かりやすいですね。あくせくしている大人の急行、それを眺める宙ぶらりんの主人公。就職活動にいそしむ元カノも急行側と。

  

クマの子:

 レトリックが多かったですか? 自分自身では文学よりの文章が書けないと思っていて、そういった指摘に驚いています。

 

だいぽむ:

暗喩とかもレトリックですからね。蝿、かれる樹、急行鈍行など、象徴性の高いものを多用する感じがレトリックが多いと言われるゆえんかと」

 

イコ:

木の下を歩く場面。すっごくレトリックじゃないです?木の葉をメタファーとして使うなんて、これはすっごく文学的に酔ってるぞって思って読んでました。

 

プミシール:

紅葉の速度の違いが、テーマの一つである鈍行、急行、人間の歩みの流れの緩急と重ねられているってことですよね。でも『ついそこに人間を重ねてしまうと…』って書きすぎだと僕は思うよ。そこまで言わなくても、分かるよ。

 

イコ:

でも、このメタファーが、主人公の文学的なものへの陶酔を示していて、現実を考えているようでいて、実は考えていないっていう様子を表している。最後まで読んだからこそ言えるわけだけど、これはアリだと思いますね。

 

だいぽむ:

元カノのメールでその陶酔から覚めるわけだ。

 

 

 

蝿を飲むことの意味

 

イコ:

危険な一線を越える瞬間。

 

だいぽむ

危険な一線とは?

 

イコ:

文学的な装いが現実に影響し、現実的に見ればありえない行為に及ぶということ。女子高生という、妄想に酔っ払っている存在を、現実逃避の材料にしたことがわかる。

 

だいぽむ:

僕は、干からびたハエというのは鈍行の先にあるものと言う気がした。飢死。急行に乗れなかった人間は、没落していく。タクシー運転手だって、世間的には下に見られる職業。そしてそれを女子高生にのませ、二人とも満足そうにするというのは、そういう運命すら受け入れるという覚悟、と感じた。

 

プミシール:

ここでいう蝿は、女子高生の環境と重ね合わせられているかなと。蝿の「寿命じゃない、餓死した」という声は、自分から、死(止まること)を望んでいなかったのに、そうなった、ということですね。餓死は望んで死ぬことではないから。で、蝿というのは、イメージとして、忙しく飛び回っているイメージがあります。つまり、ここでいう「急行」的な存在と重ね合わせられます。文化祭の演劇に一生懸命になっていた女子高生は「急行」的存在でしたが、自分の脚本が選ばれず学校に行けなくなった。つまり、望んでいなかったのに止められた、ということで蝿と重なるわけです。蝿を呑んだのは、そのあたりの共感からくるのかと、思いました。以上です。

  

緋雪:

イコさんも言っていましたが、蠅を呑むというのは、現実的にはありえないシーンですよね。ここは確かに、女子高生を逃げの対象にしたシーンに感じました。

 

 

 

女子高生は存在するか

 

だいぽむ:

そもそもこの女子高生存在するんですかねぇ。大学生も主人公の作品の一部のような。

 

緋雪:

そうですね。大学生の想像の一部には感じます。

 

小泉机:

交互に主人公が立ち代ってたところで、最後に男で締めるっていう点で女子高生の存在が一気に抽象化する感じを持ちました。

 

だいぽむ:

だから蝿も飲みうるし、陶酔から覚めてからはいっさい女子高生の描写が消える。ハエを『飲ませた』という表現も。

 

緋雪:

不思議な安堵感に包まれたとき、女子高生は消えたのかなと思った。自分にしか見えない想像上の女子高生だと思いますね。

 

 

 

二つの瞳

 

クマの子:

ふたつの瞳は、彼女の瞳と、蠅の眼も重ねて書きました。それで二つの瞳です。

 

だいぽむ:

僕は作者の目かとも思った。クマの子さんの。急行に戻っていく自分を見つめる。

 

イコ:

この作品における作者の目は、酷くガタガタとは揺れていないけどなぁ。

 

 

 

女子高生の描写について

 

イコ:

作者は、主人公に近い存在、と感じましたね。でも女子高生は、想像で書いている。だから作者≒主人公>女子高生になるんですよ。

 

だいぽむ:

女子高生よりも大学生にリアリティがある。(女子高生は)ちょっと幼すぎる気もする。高3と言ったらもう大人だ。

 

イコ:

女子高生の書き方は、大学生のそれに比べて明らかに拙い感じを受けました。「~しちゃう」とか。男性が無理して女装している感じ…。

 

 

 

8章の脚本について


プミシール:

第八章って、他の子の脚本だということが最後まで読むまで分からなくしてますよね。それに意味があるのかな、と僕は思ったんですが、いかがでしょう。この脚本の内容って、女子高生の環境と重なるものがあると思うんですが、なぜ、それが唐突に出てくる他の子の脚本でなければならないのでしょうか。そして、それを最後まで明かさないことには、読んでいてどのような影響を与えるのかなあと思ったりしました。

 

クマの子

この子のキャラから、こういった唐突なことが起こる原因が、水面下にあることが想像できる。その帰結というか。そう考えました。

 

小泉机:

最初っから他の子の話だって思ってたら、結構軽く流すと思うんですけど、主人公の女の子の話かもしれないぞ…という含みを持たせてると、後のオチで一緒に主人公と落胆出来ると思います。『えー、あんなに頑張ってたのに・・・』っていう。

 

緋雪:

オイラは、完全に大学生の悩みが女子高生を通して出た脚本だと思いました。

 

 

 

 

緋雪「白銀の使者」

 

作品URL:http://daipon.xsrv.jp/bun/hakugin.pdf

 

 

各メンバーの読み方

 

だいぽむ:

最大のモチーフは馬ですね。どうやらこの詩には爆走する馬と、それと並走しようとする主人公がいるらしい。主人公は最初電車の中にいる。それは鉄の箱のようなもので、馬にとっての競技場、厩舎、檻みたいなものだと思う。そこから爆走する馬が見える。力強く、スリムなかっこいい脚で、見せつけるように走る。それを見て思わず一緒に走り出すと。ここから僕は、馬というのは、要するにライバル的な存在とらえ、ものすごい勢いで走っていくかっちょいい馬に、俺も負けてらんねえ! と並んで爆走していく、そんなストーリーを感じた。

 

 


イコ:

おれは馬=ロマンチシズムにあふれた自然、ととらえた。馬には躍動感・生命感のようなものはないが、かわりに、「たてがみを靡かせ」「スリムな足で」といった表現から、作者にとっての理想的な美のようなものを感じさせた。それが雪のイメージと連関する。

 

イコ:

白銀の使者、というから、季節は冬であっても、まだ雪がもの珍しい時期だろう。そんなときに、かれは雪を見る。雪にロマンを感じるわけだ。それが馬のイメージね。おれは馬に対して、それほど躍動感とか、力強さを感じられなかったけれど、それってやっぱり、ロマンチストな主人公の妄想の産物だからだと思うんだな。彼はいたたまれなくなり、衝動的に走り出す。おおざっぱにいうと、そういう詩だととらえました。

 

 


プミシール:

僕はこの詩は叙景詩だと捉えているので、心情の面までは触れません。詩を詠む?「場」が動く電車の中にいるというのがミソで、情景を描くというと普通止まっているイメージあるけど、動きのある詩になっている。で、馬のイメージだけど、使者というのもあり、冬の深まりをつかさどるものだと思います。電車の窓いっぱいに広がる馬のイメージ(窓の縁をなぞる、から)。窓外の景色も含んだ、馬のイメージだと思う。冬の雪の舞う空は灰色だ、だからねずみと呼ばれるのだろうし。で、雪がどんどん降ってくる。窓枠は雪が層を作っていって白くなっていく。これは、芦毛の馬の成長(灰色から、年をとると白くなるんです)を想起させる。耳障りな人工音→電車がホームに着いた。電車は止まっても冬は深まり続ける。だから、電車を置いて馬のイメージは疾走する。馬は主人公(詠み手)を通り過ぎて行ったけど、鳴き声が聞こえる。冬は深まっていく。みたいな詩だと思いました。

 

 


クマの子:

ロマンチックだとは僕も思いました。なんというか、感想としては、書き手自身の持つ頭の中のイメージと、それを表す言葉のイメージを、よくここまで的確に近くしようとすることができるなと、すごいと思いました。

 

だいぽむ:

詩は短いぶん、文章とイメージの整合性というのを小説よりシビアにとらえられますからねー。

 

緋雪:

いくつもの解釈を読者にしてもらいつつ、整合性も短い中で求められる。そこが面白いところですけどねw

 

クマの子:

先も出た「ねずみ」とは何なのか、「彼の枷」の彼とは、人のことか、馬のことなのか、「競馬場」ではなく「競技場」となっているのは、2連目では、馬を走る存在の象徴とはせずに、たとえば乗馬のようなものを含めた、馬というもっと大きな枠組みの象徴になっているのかなど、考えると、どうもどんどん勝手な思考が進んでいくのを感じました。最初「窓の縁をなぞる馬」は、霜のように、窓を白く結露していくのを、馬に例えているのかとか。そんな、どうも勝手なイメージを喚起されます。

 

 


小泉机:

全部風だと思いました。電車の窓から覗く風の姿。馬に見えたり、ねずみにみえたりする。人工的な電車の中から、そういった自然的で命を感じるものを眺めて心を躍らせる。そんで最後に電車から降りて、風の音が静寂の中で聞こえるのを聴いて、よりそういう自然を強く感じていく。人工物に対する嫌悪感と、電車の外の世界に広がった自然(蹄の音が飽和した、のような)との関係かな、と思いました。最後の蹄の音を考慮していくと、馬の存在が大きくなってくるんですが、やっぱり最初に「風だ」って思ったんで、逆に「どうして蹄が・・・!」みたいな感じになりました。

 

 

 

馬の描写について


だいぽむ:

凍りついた無機質なもののなかで、力強く走る馬に惹かれて、自分もそちら側にいきたいと走り出す詩だと思ったんだ。ただ、そうすると躍動感とかがあまり感じられず、もっとイキイキとした描写のほうがいいかなと僕は感じたんだけど。


プミシール:

僕も馬に躍動感・生命感は感じられなかった。生き生きとしたイメージは何か熱をもっているように僕には思われて、それが、冬の冷たいイメージとそぐわないからかなあと思いました。

 

イコ:

おれは以前、緋雪さんが読書会で、自分と三島由紀夫を重ね合わせていたのが気になっていた。三島由紀夫は理想的な美を追い求めた作家だったけれど、緋雪さんもそれに絡むんじゃないかと。力強い、獣性のようなもの、肉体感覚は、緋雪さんの表現の場合、必要ないのではないか。

  

 

 

解釈とイメージ

 

プミシール:

『共鳴する電子音』の解釈が分かりませんでした。みなさんどう解釈されましたか?


クマの子:

いま思いついた。もしかして踏切?

 

プミシール:

あれ、熱を帯びた足音っていうのは、じゃあ、馬の足音ですよね。電車の音じゃなくて。

 

イコ:

あまり細かい解釈に分け入りすぎると、逆に本質が見えなくなるかもしれません。ここでは詩をイメージとして、まずとらえるのが重要なのかな、と。おれたちはバックボーンについて考えすぎるけど、詩は結局、その衝動、呼吸、イメージの世界がとらえられればいいのかなとも思う。

 

緋雪:

詩はイメージなんですよ~。そもそも小説以上に答えはないもので。

 

 

18日合評作品

 

◆プミシール「ほうたれの木」

 

作品URL:作者の意向により掲載しません

 

 

文体について


だいぽむ:

方言にするとやはり、郷愁のようなものを誘われますね。古き良き時代というような。

 

chemazaki:

 語り手の文も方言だと、会話と区別がつきにくい気がちょっとしたかも。明確に「昔語り」のスタイルになれば読みやすいのかも?

 

だいぽむ:

たとえばクマの子さんやあやさんの小説と比べると、すごい勢いでよめたなぁ。思うに、逸脱するものが何もないからなんだろうと思う。

 

イコ:

 そもそも方言の語り口が生きるのは、それが聞いている人に、引き込まれるような感覚を与えるからでしょう。おばあちゃんの話に夢中になる子ども、とか。それっておばあちゃんの、身振りも含めた、表現豊かな語りがあるからだと思うんですよ。ではこの作者はどのような語り口を設定しているかというと、方言は使っているんだけど、どうにも説明くさくて引き込まれる、とまではいかないんですよね。

 

プミシール:

方言もテーマを強調させるための一ツールです。さっき「昔々あるところに…」なんていう話が出たけど、ドキッとしました。昔話にするつもりはないけど。

 

クマの子:

説明的になりすぎても、物語の筋ばかりになっても、それは書き手の力量が足りてないという印象に結びつきます。ここらへんが、ちょうどバランスのとれたところではある。そういった印象でした。つまり、書きなれた、上手な書き手さんだ、という印象です。

 


 

子供の描写について

 

イコ:

 平成の時代の子ども、としてみれば、リアリティはありません。これは、おれたちの郷愁のなかにのみ存在する、架空の子供像なんじゃないかと思う。

 

クマの子:

20世紀少年のよう。

 

イコ:

ほうたくん、メグ、のなちゃん、アベベ、チン太、それぞれの人物は、書かれているようで、書かれていない。計画する、実行するという大枠を底に敷いているのだから、もっと縦横に子どもたちの関係性を構築して、世界認識のちがいを明らかにし、それぞれの親の歴史までたどらせるようにするのがベスト。

 

だいぽむ:

子供たちの書きわけはできてると思うんだけど、深みがないね。

 

クマの子:

キャラクターがちゃんと立っていたので、浅い深いは問題に感じませんでした。どういう子なのか、どういう生活を送っているのか、小説外の想像もわいてきます。

 

プミシール:

今の子どもにもリアリティーということでなく、そういう「純」な部分っていうんでしょうか、そういうのがあると思うんです。僕もリアリティーがあるか、と言えばないと答えます。今の子どもたちとは絶対違うとおもう。そういう「純」な部分を信じたいし、それを抽出拡大して子どもの造形にしてもいいんじゃないかと思った。

 

 


懐かしさについて

 

chemazaki:

 懐かしさに訴える小説も必要と思うけどな〜。

 

だいぽむ:

懐かしいだけなら、文学である必要はないとおもうんだ。

 

chemazaki:

 でもたとえば「懐かしさ」という感情の探求までいけばそれは立派な藝術になるんじゃないか。

 

イコ:

読者に懐かしさを感じさせたいだけの欲求で書かれた作品なら、この小説はクレしんや20世紀少年のようなただのエンタテイメントではないか。これじゃあおれには、多様な解釈も何もないと思う。

 

プミシール:

(もちろん、懐かしさを感じさせたいだけの欲求では書いてないけど…)

 


 

新しさについて

 

だいぽむ:

僕はとにかく、常識的な子供たちが、常識的に仲良くなり、常識的に冒険をするという、その一連の流れが、文学的にはどうなのかと、感じたのです。

 

イコ:

素材自体がありふれたものであることは、まったく問題ないと思うんですけどね。それを言ったら、誰も「死」について語っちゃいけなくなっちゃうしね。

 

だいぽむ:

別に常識的な題材はいいとおもうんだけど、それならどこかに新しさを潜ませなきゃいけないと思うんだ。

 

プミシール:

(新しいもの、を打ち出そうとしたわけでないのは事実です。話に出てくるモチーフを使って、言いたいことを言いたかったというだけです、それは文学ではない?)

 

イコ:

おれは今回の作品が、もう名づけられている世界のなかで当たり前に呼吸しているように思った。それがどうしても、おれには刺激的にうつらなかった。 

 

 

※新しさについては延長戦にてさらに熱い議論が交わされました。詳細はこちら

 

 

 

テーマについて

 

プミシール:

(意図したテーマは)若者の成長(台頭)は「歴史」の深い理解、あるいは破壊、あるいは逃亡(敵のことをよく知る)である、ということです。

 

クマの子:

若者を、小学生にしたのは?

 

プミシール:

それは、もう一つのテーマ、「子どものはしゃぎ、遊び」を書きたかったからです。さっきのは裏テーマです。

 

クマの子:

小学生という題材が、さきのテーマに、かみ合うか、どうかに、疑問を思いました。

 

イコ:

これを若者の成長譚として読むのは難しいなぁ。

 

イコ:

歴史、とおっしゃいますが、それはどうしてあの時代設定でなければならなかったんですか。現代の子どもじゃいけなかった?

 

イコ:

情報をもっとしぼるか、もっと小学生たちの遊んでいる様子を、さまざまな場所を使って描くか。おれだったら小説の同一平面上で、ひたすら子どもの遊ぶ様子を描きますね。プミさんのおっしゃる、「遊び」「はしゃぎ」の様子を描くなら、もうとにかく遊ばせまくります。各人の説明は、その描写のなかにとかしこんでいくかな。

 

 

 

なぜ読みとれなかったか

 

だいぽむ:

秘密があるならあるで、僕が考える良い作品の要素の一つとして、そこにある秘密を何が何でも知りたいと読者に欲求を起こさせなければならない、というのがあります。それがどうも弱く感じた。

 

クマの子:

『あれ、なんでこういう流れになったのだろう』と、読み手に考えさせるきっかけとなるものがあったら、そこに書き手の意志が込められているのだと想像するので、深く読みとろうとする。(しかし)話の流れが始終自然だったので、気付けなかったのでは、と思いました。

 

イコ:

語り口もふくめて、過去を読者に意識させすぎるせいで、歴史が読みとられなかったのではないですか? 懐かしさ、的な文脈で語られてしまうわけですよ。

 

 

 

 

◆ちぇまざき「文庫」

 

作品URL: http://thewandering.jugem.jp/?eid=42

 

 

作品の構成について


プミシール:

『主人公が本をよんでいるという小説』を詠んでいる人が出てくる小説』を読んでいる途中である、という、入れ子状態であることをオチにしたショートショートだと思います。

 

だいぽむ:

小林泰三の「本」という作品があって、主人公が本を読むところからスタートするんだけど、いつの間にか本の中に登場人物が主人公になってて、その主人公がまた本を見つけて、それを読んでいるうちにまたその本の中の登場人物がいつのまにか主人公になっているというような話でした。ものすごいデジャヴュがw

 

 

 

表現について

 

クマの子:

表現。ラーメン屋の主人の描写などはとてもおもしろかったですよね。

 

イコ:

 貝屋さん、なんて言い方はおもしろいですね。

 

プミシール:

僕も語っていることは面白いなと思いました。その口調で全編やったらいいんじゃないかと思いました。

 

 

 

作品の狙いについて

 

だいぽむ:

叙述トリックということになるのかな。キホンテーマとしてはそれがやりたかったのかも。方法上の実験小説かなと思いました。それ以上のものとしては読んでいないんだけど。

 

イコ:

おれはいわゆる言語ゲームとして、この作品を読みましたよ。行間をとらえる必要も感じなかった。言語を使った、作者の遊び、という意味ですね。作者は読者に、そんな凝った懸賞パズルのような読み解きを期待していないのはよくわかった。

 

イコ:

これは頭を悩ませる必要がないんだとわかったから悩まなかった。肩コリをなおそうとする作品というか。価値の相対化をはかっているのかな、とは思った。

 

 

 

 

◆だいぽむ「眼と虫」

 

作品URL:http://daipon.xsrv.jp/bun/metomushi.pdf

 

 

文体について


chemazaki:

 文章がすごい冷たいよね。「お茶」すら「茶」になる。それが全編にわたって統一してる。癒しとか。提供するきないってのはすぐ伝わったかも。なぜ主人公(書き手)がそんなに人間嫌いなのか?が書かれてはいない。

 

イコ:

だいぽむの文章には強度がある。この強度のまま、自然をただ描くだけで、十分面白いと思うんだよね。

 

イコ:

おれがこの作品で、すごいと思ったことをあげますね。それは、「カエル」という言葉を、一度も使わないことです。カエルと書かないことによってかえって、自然物の存在感が増していると思いました。

 

クマの子:

描写についてですけど、だいぽむさんの小説は、一眼レフの解像度を想像しましたよ(笑い)それもだいぶ彩度をさげた写真でした。ぼやけてない写真ですね。

 

 


視点(非人称)について

 

プミシール:

私は、私は、という文章って、非常に感情的になると思いませんか?そういったことをまずこの「非人称」は排し得る。もしくは減じ得る。

 

プミシール:

非人称だと、上記と同じ意味で、「私は」というよりも感情を排し得るし、情景選択の幅が広がるわけです。「私」が人間なら、カエルの腹の中は見えないけど、非人称なら見える。つまり非人称を選んで自然を描写するという試みが見える以上、これは、冷徹な視点をもって自然を描写する小説だと捉えたわけです僕は。

 

イコ:

これは神の視点に挑戦した作品である。透徹な目で、対象を見ようとしている。だから、冷たい印象を受けるのももっともです。

 

 

 

解釈について

 

クマの子:

風景の小説と読んだので、情景は浮かぶのですが、自分から解釈はわいてきませんでした。読むことで解釈なり思想が自分の中にわいてくる前に、作品がおわってしまった印象でした。

 

chemazaki:

 「情景は主軸にない。「サンショウウオ」として、自分は読んだんだな。作品全体が比喩とかレトリックになってるっていう。(イコにどういう比喩と訊かれ) 大きい存在(カエル)に対して群がる羽虫の存在との対比。

 

※「山椒魚」は井伏鱒二の作品

 

イコ:

ふむ、「眼と虫」の「眼」はカエル、「虫」は羽虫、ですね。

 

クマの子:

最後の、「もっと大きいな存在」について膨らませるような描写があったら、と思いました。「猛然たる勢いで近づいてくる何ものか」のことです。ここに文学的解釈の広がる可能性を感じました。

 

プミシール:

これは、見ることの小説であるという風に僕はとるのです。自然をどのように見るか。だから、クマの子さんが探したような思想?というようなものも見つけようとはしなかった僕は。

 

イコ:

この作品は、羽虫と蛙、そして自動販売機という素材を、メタファーとしてとらえることを、許容してしまっている小説だと思いませんか。自然物になんらかの意味づけをする、この場合はなんでもいいですよ、たとえば労働でもいい。がむしゃらに働く労働者(羽虫)と、搾取する資本家(蛙)というとらえかたでもいい。このようにあるベクトルに向かう大小の存在を提示することによって、そのような解釈は許容されてしまうのです。作者の致命的な甘さは、そういうところにあるのではないか。

 

だいぽむ:

メタファーとかを使おうとすると、人間の意識のしん入は避けられないんだろうか。

 

イコ:

 メタファー自体が、人間の、自然物の勝手な解釈でしょう。しかし今回の作品は、完全な人間の目ではない。タイトルが、「眼」といっているとおりに、あくまで自然サイドを描こうという意識があるわけです。そこに人間の意識が侵入してしまうのは、考えものじゃないでしょうか?

 

 

 

作品の意図について

 

だいぽむ:

最初はカエルが自動販売機にひっついて、羽虫をパクパク食べてる光景を見て、なんか面白いと思い、ただ自然の一部として書こうと思った。ただ、途中で見たものをそのままスケッチするだけでいいのかっていう悩みが浮かんで、なんかこう、解釈できるように、手を加えちゃったというか・・・

 

イコ:

作者のとった立場が、つまり読み手の立場の振れ幅になっているのだろうね。

 

プミシール:

羽虫はそれ、(カエル)は彼になってない?その違いは?

 

だいぽむ:

(カエルは)人間というか、この場では神に近い。

 

イコ:

自然物の世界のなかでの、神的存在、ということか。この小さな自動販売機をめぐる世界のなかでの、ってことだね。

 

だいぽむ:

人間がいないときカエルは支配者だ。しかしその立場はあっさりとひっくり返る。それもまた自然かなと。