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創作合評(2014秋号その2)

日程:119日(日)20時~

小説「浸入」(10枚):深街ゆか

小説「ジェイコブの部屋」(24枚):小野寺那仁

詩「モスリン」:安部孝作


参加者:小野寺、イコ、日居、安部、Pさん、6


小野寺: よろしくお願いします

イコ: こんばんは。スマホです。反応少ないです

日居月諸: お願いします

安部: こちらですね

: いまのところ、小野寺さん・イコさん・日居さん・安部さんかな

: もうちょっと人が来てほしいな。

る(shiroyama: お願いします

小野寺: ふかまちさんどうしたんだろう

: るさんも。

: もう他の人、来ないかなぁ……。

: ではやりましょう。1作品30分から40分でいきたいと思います。

: まずは深街さんの「侵入」からスタートします。みなさん 感想をお願いします。

る(shiroyama: (すみません前半いません、ご飯食べてきます)

小野寺: 描写が緻密であって少女(なのだろうか)の目から見たシーン(昔の映画らしきもの)がとぎれとぎれで何故か物語に入っていけないもどかしさがなんとなく共感できる。確かに子供の頃は理解できない映画が多かったからである。で、ひとつの場面としてはなかなかいいと思うのだけれども小説ということではもう少し「展開」していってほしいと思った。ふかまちさんの詩は展開していくものが多いのでできない筈はないと思いました

日居月諸: 最近論理の筋が通った文章しか読めず、言葉の物質性にこだわった文章がさっぱり読めないんで、大分読むのに苦労しました。ゆえに感想らしい感想もないのですが、「最初から、在ると思い込んでいたものを紛失して途方にくれていただけの、演技者で、台本は、僕が演技者でない時間を作るための、僕がそれになるように誘うものと考えるようになったら、僕は僕のために眠る時間がこの世にはないことを認めなければならなかった」というフレーズが、虚構の意識を十分に盛り込んでいて、気に入ったフレーズでした。

安部: 楽しめました。けれども課題を汲み取ることができていません。慢性的な感覚ともいうべきこの楽しさは、僕はすきなのだけれども、というのもやはり自分に問っても重要な感覚だとおもっているからで、散文作品には必要な感覚だと思っているかで、けれども、なにか物足りなさを指摘するなら、急進的なものへの忍耐を打開する力をどうしても求めてしまうということで……。つまり、パヴェーゼの作品にもとめているものを、ここに求めてしまうということで……。

: 「文学的虚構を求めて」と題された特集において、作者はこれまで詩を書いてきたのにもかかわらず、小説特有の表現の描写に意識をおきながら書くという試みに攻めていると思いました。そしてそれは現実と映画の交錯する世界であり、そこにも二重のキャラクター性などが現れて面白いなと思いました。そして文章が、一つの時間で進むように見えない、いろんなものが混在するような感じも内容とあっているのではないかと思いました。そうした試みがいいなと思う一方で文章の中に何か流れや世界観に合わない単語があるようにも思えてそこが気になりました。一人の語り手の主観的な流れの中に、他人の意識や言葉が入るようなものが見えて、それについては疑問に思いました。

: 他の方の感想を読んで気になったことなどありませんか?安部さんの急進的なものへの忍耐を打開する力ってもうすこし説明をお願いできますか。

る(shiroyama: 私は、ざっくばらんに言えば、内容はよくわからなかったけど、雰囲気はよかったですね。

安部: つまり、ここには緩やかな下り坂があるのですが、穴がない、抹消、上昇への転換がまだ感じられない。だからこそ慢性的な、(すなわち虚構的な)状況を、これだけうまく描く必要があるのでしょうが。いや、だから欠点じゃないのですよ、この作品が虚構を主題としているのだとすれば。

る(shiroyama: ただ、読んでいて、小説とは謳っているが、詩だと思う意識は拭えなかった印象かな、これはよいとか悪いとかではなく

: なるほど。映画は、光を用いた芸術ですがそれと関連するのか分からないけどここにも光の描写がいろいろな形で出てくるのはいいと思いました。あと散文詩のようだという感想も、聞きましたがやはりこれは小説だと思いました。でも何かが足りないかも、という感覚はありそれを説明することはできない。

日居月諸: 流れるように書いていると思わせておいて、結構こだわりを持って書いているとは思います。ただ、そうしたこだわりが言葉の上ではわずかに姿を現すだけで、概念として置き換えづらい。それは多分いい意味で。真剣にやれば置き換えられるんでしょうけどね。ただ、私としては重要な言葉と思えるようなものを羅列することしかできません。

「わたしは、こんなふうに女優がシャワーを浴びるシーンを何度も繰り返し見たことがある」

「そこらじゅうについた指紋を、活字になったわたしの印象を、こそぎ落とせないということを知らなければならなかったんだもの」

「あれを自身の体験と認めるのに、そこらじゅうについた指紋を、活字になったわたしの印象を、こそぎ落とせないということを知らなければならなかったんだもの」

: あともう少しわかりやすい世界観があるなかで、時々こういうタッチを出すみたいな方がいいのかなという感想も持ちます。

日居月諸: 繰り返しにはなりますけど、やっぱり詩寄りの言葉だと思います。散文としてはシーンのつながりが薄くて、物語になりきれていない。

: 「こそぎおとす」とか同じモチーフが何度か現れるのは確かに重要だと思った。

: 他に感想はありませんか。

小野寺: 映画スターに対する関心や憧れをモチーフにしているのかなとも感じました

: では5分休憩後に、「ジェイコブの部屋」に入りたいと思います。それではそろそろ始めます。みなさんの感想をお願いします。

日居月諸: 大抵の不条理物(素人が書く、と但し書きをつけてもいいですけど)って展開が滅茶苦茶な上に文章の連なりが滅茶苦茶で、論理構成をまともにできない人間が食いつく最後の手段、っていう印象があるんですが、小野寺さんの小説はそれに反して意識が明晰で、展開のつながりもギリギリまで明晰性を失わないように最大限配慮されて、面白く読めました。本腰を入れて読めなかったので、断片的な感想しかいえないのですが、外国語を覚えるたびに人格が増えて、記憶が逸脱する、というモチーフは、非常に興味を覚えました。

: 設定も、展開も虚構じみていて特集の内容に合致する面白い作品だと思いました。わき道にそれていくことも含めて、ナンセンスなところが味をだしていて良いです。また言葉や本や経済、土地に関する小ネタや小道具も効果的だったと思います。難をいうとあきらかに読みにくい文章や誤字などがある点について惜しいと思いました。もっと推敲してこれを100枚ぐらいの小説にすればいいのにと思ったりもします。

Pさん: 途中参加ですがよろしくお願いします

る(shiroyama: 設定の分からなさから来る困惑というのはありましたが、文章はとても分かりやすかったと思います。むしろ設定上謎とされているものに対して、もう少し読者の関心を意図的に傾けてもよかったのかもしれないかな。 全体としてよかったと思います、私も外国語と人格の部分の着想がよかったかな、と。

Pさん: 語りの位置の操作がすごかったです。

安部: ここにはまあ根本的な問題があって、なにかというと同一性=虚構、という。だから、言語がじゃあ何をもたらすかと言ったら虚構で。なんというかとりわけ英語や、英語圏の作家を取り上げているのは、世界言語となった英語を使用する者たちの自我の問題が最も拡大しやすからであろうからで、つまり、英語自体もそれぞれ変化しているんだけれど、それは「部屋」に合わせてなのですよね、やっぱり。

安部: ジェイコブはちなみにヤコブですから、相撲をとるわけです。

安部: これは大事な個所だと思いました。

: 語り手や会話の発話者がどんどんずれていくのは、モチーフとしてもすごかったですが文章もそれにしっかりとついていくことができており、あれいつのまにすりかわった?というのが読んでいてマジックのようで面白かったですね。>Pさん

安部: さらにいえば、同一性の問題でいえば、読む人が否定性の問題にも触れてほしいです。

日居月諸: 殺人を犯している、という部屋に入る一歩手前で起きていることがどう関与しているか、と言う話ですね

Pさん: で、日居さんが指摘したように、こんな風なモチーフから夢とか溶融とかに傾いちゃうパターンもあり得るけどそうなっていなく、それぞれの層が維持されているのも良かったですね

る(shiroyama: 私はそんな高度なことがなされていることなんか全然気付かなかった・・

日居月諸: それぞれの層が精神の中でお互いを排斥し合う様子が、下手な書き手が書くと滅茶苦茶になるわけですけれど、しっかり区分けがなされている。ただ、完全に区分けされているわけでなくて、境界線が崩れるギリギリの地点に立っている

日居月諸: 政治的、という本文の言葉を引用してしまいますけれど、政治的な文脈がかなり抽象化されて書かれていると思います。

日居月諸: バイリンガルに対する考察が展開される文章が3ページの末尾にありますが、あそこは特に面白かった。あれを拡大していけば長いものは書けると思いますが、一方でこのギリギリの境界に立っている感覚を維持するのは難しいと思います。あくまで瞬間的に意識に上るからこそ、効果を有している

: 小野寺さんの方から何か聞きたいことなどはありませんか。

小野寺: 安部さんの否定性についての話をもう少し詳しく伺いたいかな

安部: つまり、書かれたものをどうして一連の話と捉えられて、一方でそれが虚構とわかるのでしょうか、ということです。だから、ある人のAという状態とBという状態をどうして結び付けられるのか、それは言語による所産なのだとすれば――しかし、この議論が自覚されていないならば、むしろ、語り手と虚構を並べることは不毛です。なぜなら、そういう議論では語り手が虚構を生産するということが、そういう物語/虚構がある、ということでしかないからです。

小野寺: っていうことは語り手にとっては真実であって虚構とはいいきれないということですか

安部: 物語を眼にした人や聞いた人は

安部: 物語をだって構築しているわけですよね。

小野寺: ああ、わかりました

小野寺: 構築ではなく経験から得たもので組み立てたものだから虚構とはいえない、殺人という小道具では俺はだまされないぞということなんですね

安部: そういうことです。

: 他の感想などどうでしょうか。

Pさん: この話続くんですか?

小野寺: いえ、これはこれで完結にします

Pさん: そうですか

小野寺: 投稿しようと思っていた作品の一部なので(この箇所は投稿しません)別の部屋に行きます

Pさん: 殺人との関係はロブグリエっぽいなと思いました

小野寺: するど

Pさん: 迷路の中で

小野寺: それは読みました

小野寺: 私の方からは以上です。ありがとうございました

: ではまた5分休憩後に「モスリン」にいきます。

: それでは「モスリン」の感想をお願いします。

日居月諸: 二十世紀の言語観において抜群の存在感を示した思想家にハイデガーがいます。ハイデガーは後期の思索において言葉を存在の家と定義することで、言葉を人間の元から切りはなしました。人間が言葉を語るのではない、言葉が人間に語らせるのだ、とするのです。

こうしたテーゼは言語論的転回を経た現代思想の潮流とも通い合っていたし、むしろその潮流を作ったともいえるでしょう。

ただ、その方法の着想はともかく、論旨の展開には難がありました。ハイデガーは人間中心主義的な世界観の転倒としてそうした思索を行ったのですが、彼は反動としてあまりに言葉及び存在を重視しました。そこにはいっそ、自然的なものの一切を包括しようとする、ある種のファシズムが宿っていたといってもいいでしょう。

とはいえその影響力はあまりに強く、あらゆる「語りえないもの」を神秘化されてしまったために、後続の思想家たちにとってハイデガーが本来持っていた問題意識を継承することを困難にしました。要するに、「語りえないこと」を語るにはどうすればいいか、という問題です。レヴィナスやデリダ、詩人だとツェランのつむぐ文章が読みがたいのはそういう理由です。同時代人ですが、ヴィトゲンシュタインも同じような課題を持っていたと言えるでしょう。

私は安部さんの詩を以上のような観点から読みました。この詩は退廃や消滅といったイメージを基調として成り立っています。

「かれていたチューリップ」「空き家になった建物」、こうした単語もさることながら、「新聞紙が傾いていた」から始まる句の連なりは注目を要します。新聞のような言葉を連ねた書き物、あるいは言葉によって話し合う人々は、「語りえないもの」であった遺跡が持っている神秘性を陳腐化してしまって、人々が「覚えていない」ほどにまで通俗化し、「黄ば」ませてしまうのです。

このようにこの詩は徹底的に言葉を唾棄してします(「<タペストリーとか、テクストとか、つむぐ、とか>どのようにもたとえればいいが」、「言葉みたいなゴミ」)。言葉を唾棄する詩が叙述する言葉は、ひたすらに「なにもうめられておらず、なににも蔽われていなかった、描かれず、ただ表面だけがあった、影はなく、照らされた場所もなく、ただ夢だけがあ」るような世界でしょう。

しかし、そうした努力によって生まれた世界創造もまた、徒労に終わるほかないでしょう。徒労、といったのは消え去るという意味ではありません。「犬たちの毛の短い首に巻かれた布」のように「よごされる」のです。政治によって、文学によって、なんと形容してもいいですが、なにはともあれファシズム的な奸計によって、通俗化されたものへと変形されるのです。

こうした文脈の中でこそ、序盤に出てきた句も意味を持ってくると思われます。「指先でも舌先でも感じることはできなかった。味を、まだ覚えているだろうか? 十年後も」。感覚こそが言語に先立つものだとされやすいですが、あいにく我々の感覚もまた言語化されてしまっています。言語化されなければ、そもそも意識には上らない。それでもなお、指先でも舌先でもわからない、スープの「味」を感覚できるか。

退廃的な印象に反して、この詩は十分に闘争的な意図を委ねられたものであると思います。

小野寺: イメージを表現する言葉の操作は完成度が高いと思うけれどもいかんせん共感を得るには情報量がすくなかったり設定がわかりにくかったりすると思います。

: 濃ゆい感想だ!

: 「かれている」という言葉から、やはりこの詩には独特の乾きのような雰囲気や世界観が漂っていて、成功しているように読めました。やはり日本語の詩というよりも、詩的感覚も含めて海外の文学のように思いました。「心のように」という比喩は自分としては、外国の感覚のように思えた。

: 他の方はどうでしょうか。

る(shiroyama: うーん、難しいなぁ

: 一つ目の※の下には夕方とか晩とか書いていないですね。

: イコさんやPさんからは何かありませんか。

Pさん: 「中東のI国(あるいはJ? S? 識別不可能」みたいな言語観、というか演出、というかは好きですね

Pさん: うすいフィクションじゃないフィクションの演出の仕方を学びたいです

Pさん: あと素材感がやっぱり良いですね

Pさん: このメッセージは削除されました

Pさん: 煤けた←→浮き彫り、とかスポンジとかタペストリーとかタールとかセラミックとか、触覚を惹起させられます

Pさん: そもそ小野寺: よろしくお願いします

: 日程:119日(日)20時~

小説「浸入」(10枚):深街ゆか

小説「ジェイコブの部屋」(24枚):小野寺那仁

詩「モスリン」:安部孝作

イコ: こんばんは。スマホです。反応少ないです

日居月諸: お願いします

安部: こちらですね

: いまのところ、小野寺さん・イコさん・日居さん・安部さんかな

: もうちょっと人が来てほしいな。

る(shiroyama: お願いします

小野寺: ふかまちさんどうしたんだろう

: るさんも。

: もう他の人、来ないかなぁ……。

: ではやりましょう。1作品30分から40分でいきたいと思います。

: まずは深街さんの「侵入」からスタートします。みなさん 感想をお願いします。

る(shiroyama: (すみません前半いません、ご飯食べてきます)

小野寺: 描写が緻密であって少女(なのだろうか)の目から見たシーン(昔の映画らしきもの)がとぎれとぎれで何故か物語に入っていけないもどかしさがなんとなく共感できる。確かに子供の頃は理解できない映画が多かったからである。で、ひとつの場面としてはなかなかいいと思うのだけれども小説ということではもう少し「展開」していってほしいと思った。ふかまちさんの詩は展開していくものが多いのでできない筈はないと思いました

日居月諸: 最近論理の筋が通った文章しか読めず、言葉の物質性にこだわった文章がさっぱり読めないんで、大分読むのに苦労しました。ゆえに感想らしい感想もないのですが、「最初から、在ると思い込んでいたものを紛失して途方にくれていただけの、演技者で、台本は、僕が演技者でない時間を作るための、僕がそれになるように誘うものと考えるようになったら、僕は僕のために眠る時間がこの世にはないことを認めなければならなかった」というフレーズが、虚構の意識を十分に盛り込んでいて、気に入ったフレーズでした。

安部: 楽しめました。けれども課題を汲み取ることができていません。慢性的な感覚ともいうべきこの楽しさは、僕はすきなのだけれども、というのもやはり自分に問っても重要な感覚だとおもっているからで、散文作品には必要な感覚だと思っているかで、けれども、なにか物足りなさを指摘するなら、急進的なものへの忍耐を打開する力をどうしても求めてしまうということで……。つまり、パヴェーゼの作品にもとめているものを、ここに求めてしまうということで……。

: 「文学的虚構を求めて」と題された特集において、作者はこれまで詩を書いてきたのにもかかわらず、小説特有の表現の描写に意識をおきながら書くという試みに攻めていると思いました。そしてそれは現実と映画の交錯する世界であり、そこにも二重のキャラクター性などが現れて面白いなと思いました。そして文章が、一つの時間で進むように見えない、いろんなものが混在するような感じも内容とあっているのではないかと思いました。そうした試みがいいなと思う一方で文章の中に何か流れや世界観に合わない単語があるようにも思えてそこが気になりました。一人の語り手の主観的な流れの中に、他人の意識や言葉が入るようなものが見えて、それについては疑問に思いました。

: 他の方の感想を読んで気になったことなどありませんか?安部さんの急進的なものへの忍耐を打開する力ってもうすこし説明をお願いできますか。

る(shiroyama: 私は、ざっくばらんに言えば、内容はよくわからなかったけど、雰囲気はよかったですね。

安部: つまり、ここには緩やかな下り坂があるのですが、穴がない、抹消、上昇への転換がまだ感じられない。だからこそ慢性的な、(すなわち虚構的な)状況を、これだけうまく描く必要があるのでしょうが。いや、だから欠点じゃないのですよ、この作品が虚構を主題としているのだとすれば。

る(shiroyama: ただ、読んでいて、小説とは謳っているが、詩だと思う意識は拭えなかった印象かな、これはよいとか悪いとかではなく

: なるほど。映画は、光を用いた芸術ですがそれと関連するのか分からないけどここにも光の描写がいろいろな形で出てくるのはいいと思いました。あと散文詩のようだという感想も、聞きましたがやはりこれは小説だと思いました。でも何かが足りないかも、という感覚はありそれを説明することはできない。

日居月諸: 流れるように書いていると思わせておいて、結構こだわりを持って書いているとは思います。ただ、そうしたこだわりが言葉の上ではわずかに姿を現すだけで、概念として置き換えづらい。それは多分いい意味で。真剣にやれば置き換えられるんでしょうけどね。ただ、私としては重要な言葉と思えるようなものを羅列することしかできません。

「わたしは、こんなふうに女優がシャワーを浴びるシーンを何度も繰り返し見たことがある」

「そこらじゅうについた指紋を、活字になったわたしの印象を、こそぎ落とせないということを知らなければならなかったんだもの」

「あれを自身の体験と認めるのに、そこらじゅうについた指紋を、活字になったわたしの印象を、こそぎ落とせないということを知らなければならなかったんだもの」

: あともう少しわかりやすい世界観があるなかで、時々こういうタッチを出すみたいな方がいいのかなという感想も持ちます。

日居月諸: 繰り返しにはなりますけど、やっぱり詩寄りの言葉だと思います。散文としてはシーンのつながりが薄くて、物語になりきれていない。

: 「こそぎおとす」とか同じモチーフが何度か現れるのは確かに重要だと思った。

: 他に感想はありませんか。

小野寺: 映画スターに対する関心や憧れをモチーフにしているのかなとも感じました

: では5分休憩後に、「ジェイコブの部屋」に入りたいと思います。それではそろそろ始めます。みなさんの感想をお願いします。

日居月諸: 大抵の不条理物(素人が書く、と但し書きをつけてもいいですけど)って展開が滅茶苦茶な上に文章の連なりが滅茶苦茶で、論理構成をまともにできない人間が食いつく最後の手段、っていう印象があるんですが、小野寺さんの小説はそれに反して意識が明晰で、展開のつながりもギリギリまで明晰性を失わないように最大限配慮されて、面白く読めました。本腰を入れて読めなかったので、断片的な感想しかいえないのですが、外国語を覚えるたびに人格が増えて、記憶が逸脱する、というモチーフは、非常に興味を覚えました。

: 設定も、展開も虚構じみていて特集の内容に合致する面白い作品だと思いました。わき道にそれていくことも含めて、ナンセンスなところが味をだしていて良いです。また言葉や本や経済、土地に関する小ネタや小道具も効果的だったと思います。難をいうとあきらかに読みにくい文章や誤字などがある点について惜しいと思いました。もっと推敲してこれを100枚ぐらいの小説にすればいいのにと思ったりもします。

Pさん: 途中参加ですがよろしくお願いします

る(shiroyama: 設定の分からなさから来る困惑というのはありましたが、文章はとても分かりやすかったと思います。むしろ設定上謎とされているものに対して、もう少し読者の関心を意図的に傾けてもよかったのかもしれないかな。 全体としてよかったと思います、私も外国語と人格の部分の着想がよかったかな、と。

Pさん: 語りの位置の操作がすごかったです。

安部: ここにはまあ根本的な問題があって、なにかというと同一性=虚構、という。だから、言語がじゃあ何をもたらすかと言ったら虚構で。なんというかとりわけ英語や、英語圏の作家を取り上げているのは、世界言語となった英語を使用する者たちの自我の問題が最も拡大しやすからであろうからで、つまり、英語自体もそれぞれ変化しているんだけれど、それは「部屋」に合わせてなのですよね、やっぱり。

安部: ジェイコブはちなみにヤコブですから、相撲をとるわけです。

安部: これは大事な個所だと思いました。

: 語り手や会話の発話者がどんどんずれていくのは、モチーフとしてもすごかったですが文章もそれにしっかりとついていくことができており、あれいつのまにすりかわった?というのが読んでいてマジックのようで面白かったですね。>Pさん

安部: さらにいえば、同一性の問題でいえば、読む人が否定性の問題にも触れてほしいです。

日居月諸: 殺人を犯している、という部屋に入る一歩手前で起きていることがどう関与しているか、と言う話ですね

Pさん: で、日居さんが指摘したように、こんな風なモチーフから夢とか溶融とかに傾いちゃうパターンもあり得るけどそうなっていなく、それぞれの層が維持されているのも良かったですね

る(shiroyama: 私はそんな高度なことがなされていることなんか全然気付かなかった・・

日居月諸: それぞれの層が精神の中でお互いを排斥し合う様子が、下手な書き手が書くと滅茶苦茶になるわけですけれど、しっかり区分けがなされている。ただ、完全に区分けされているわけでなくて、境界線が崩れるギリギリの地点に立っている

日居月諸: 政治的、という本文の言葉を引用してしまいますけれど、政治的な文脈がかなり抽象化されて書かれていると思います。

日居月諸: バイリンガルに対する考察が展開される文章が3ページの末尾にありますが、あそこは特に面白かった。あれを拡大していけば長いものは書けると思いますが、一方でこのギリギリの境界に立っている感覚を維持するのは難しいと思います。あくまで瞬間的に意識に上るからこそ、効果を有している

: 小野寺さんの方から何か聞きたいことなどはありませんか。

小野寺: 安部さんの否定性についての話をもう少し詳しく伺いたいかな

安部: つまり、書かれたものをどうして一連の話と捉えられて、一方でそれが虚構とわかるのでしょうか、ということです。だから、ある人のAという状態とBという状態をどうして結び付けられるのか、それは言語による所産なのだとすれば――しかし、この議論が自覚されていないならば、むしろ、語り手と虚構を並べることは不毛です。なぜなら、そういう議論では語り手が虚構を生産するということが、そういう物語/虚構がある、ということでしかないからです。

小野寺: っていうことは語り手にとっては真実であって虚構とはいいきれないということですか

安部: 物語を眼にした人や聞いた人は

安部: 物語をだって構築しているわけですよね。

小野寺: ああ、わかりました

小野寺: 構築ではなく経験から得たもので組み立てたものだから虚構とはいえない、殺人という小道具では俺はだまされないぞということなんですね

安部: そういうことです。

: 他の感想などどうでしょうか。

Pさん: この話続くんですか?

小野寺: いえ、これはこれで完結にします

Pさん: そうですか

小野寺: 投稿しようと思っていた作品の一部なので(この箇所は投稿しません)別の部屋に行きます

Pさん: 殺人との関係はロブグリエっぽいなと思いました

小野寺: するど

Pさん: 迷路の中で

小野寺: それは読みました

小野寺: 私の方からは以上です。ありがとうございました

: ではまた5分休憩後に「モスリン」にいきます。

: それでは「モスリン」の感想をお願いします。

日居月諸: 二十世紀の言語観において抜群の存在感を示した思想家にハイデガーがいます。ハイデガーは後期の思索において言葉を存在の家と定義することで、言葉を人間の元から切りはなしました。人間が言葉を語るのではない、言葉が人間に語らせるのだ、とするのです。

こうしたテーゼは言語論的転回を経た現代思想の潮流とも通い合っていたし、むしろその潮流を作ったともいえるでしょう。

ただ、その方法の着想はともかく、論旨の展開には難がありました。ハイデガーは人間中心主義的な世界観の転倒としてそうした思索を行ったのですが、彼は反動としてあまりに言葉及び存在を重視しました。そこにはいっそ、自然的なものの一切を包括しようとする、ある種のファシズムが宿っていたといってもいいでしょう。

とはいえその影響力はあまりに強く、あらゆる「語りえないもの」を神秘化されてしまったために、後続の思想家たちにとってハイデガーが本来持っていた問題意識を継承することを困難にしました。要するに、「語りえないこと」を語るにはどうすればいいか、という問題です。レヴィナスやデリダ、詩人だとツェランのつむぐ文章が読みがたいのはそういう理由です。同時代人ですが、ヴィトゲンシュタインも同じような課題を持っていたと言えるでしょう。

私は安部さんの詩を以上のような観点から読みました。この詩は退廃や消滅といったイメージを基調として成り立っています。

「かれていたチューリップ」「空き家になった建物」、こうした単語もさることながら、「新聞紙が傾いていた」から始まる句の連なりは注目を要します。新聞のような言葉を連ねた書き物、あるいは言葉によって話し合う人々は、「語りえないもの」であった遺跡が持っている神秘性を陳腐化してしまって、人々が「覚えていない」ほどにまで通俗化し、「黄ば」ませてしまうのです。

このようにこの詩は徹底的に言葉を唾棄してします(「<タペストリーとか、テクストとか、つむぐ、とか>どのようにもたとえればいいが」、「言葉みたいなゴミ」)。言葉を唾棄する詩が叙述する言葉は、ひたすらに「なにもうめられておらず、なににも蔽われていなかった、描かれず、ただ表面だけがあった、影はなく、照らされた場所もなく、ただ夢だけがあ」るような世界でしょう。

しかし、そうした努力によって生まれた世界創造もまた、徒労に終わるほかないでしょう。徒労、といったのは消え去るという意味ではありません。「犬たちの毛の短い首に巻かれた布」のように「よごされる」のです。政治によって、文学によって、なんと形容してもいいですが、なにはともあれファシズム的な奸計によって、通俗化されたものへと変形されるのです。

こうした文脈の中でこそ、序盤に出てきた句も意味を持ってくると思われます。「指先でも舌先でも感じることはできなかった。味を、まだ覚えているだろうか? 十年後も」。感覚こそが言語に先立つものだとされやすいですが、あいにく我々の感覚もまた言語化されてしまっています。言語化されなければ、そもそも意識には上らない。それでもなお、指先でも舌先でもわからない、スープの「味」を感覚できるか。

退廃的な印象に反して、この詩は十分に闘争的な意図を委ねられたものであると思います。

小野寺: イメージを表現する言葉の操作は完成度が高いと思うけれどもいかんせん共感を得るには情報量がすくなかったり設定がわかりにくかったりすると思います。

: 濃ゆい感想だ!

: 「かれている」という言葉から、やはりこの詩には独特の乾きのような雰囲気や世界観が漂っていて、成功しているように読めました。やはり日本語の詩というよりも、詩的感覚も含めて海外の文学のように思いました。「心のように」という比喩は自分としては、外国の感覚のように思えた。

: 他の方はどうでしょうか。

る(shiroyama: うーん、難しいなぁ

: 一つ目の※の下には夕方とか晩とか書いていないですね。

: イコさんやPさんからは何かありませんか。

Pさん: 「中東のI国(あるいはJ? S? 識別不可能」みたいな言語観、というか演出、というかは好きですね

Pさん: うすいフィクションじゃないフィクションの演出の仕方を学びたいです

Pさん: あと素材感がやっぱり良いですね

Pさん: このメッセージは削除されました

Pさん: 煤けた←→浮き彫り、とかスポンジとかタペストリーとかタールとかセラミックとか、触覚を惹起させられます

Pさん: そもそも「モスリン」がそうなんだけど

Pさん: 安部さんは視覚としてはクローズアップさせ、触覚に言葉を近づける努力をしているのではないか、なんて思います

Pさん: 前の「暗い部屋」だっけ? も、全体を一望出来ないような工夫がされていた気がした

: 安部さんからは何かありませんか。

安部: いえ

: では、これで本日の合評を終えたいと思います。参加いただいてありがとうございました。

安部: みなさんありがとうございました。

る(shiroyama: お疲れ様でした

小野寺: ありがとうございました

Pさん: これは本当に自分が手帳に書いたメモなんですか?

Pさん: 間がわるくてすいません、おつかれ様でした

安部: まあ虚構ですよ、

Pさん: 仮の書き手を構想したみたいな?

安部: そうです

Pさん: なるほど!も「モスリン」がそうなんだけど

Pさん: 安部さんは視覚としてはクローズアップさせ、触覚に言葉を近づける努力をしているのではないか、なんて思います

Pさん: 前の「暗い部屋」だっけ? も、全体を一望出来ないような工夫がされていた気がした

: 安部さんからは何かありませんか。

安部: いえ

: では、これで本日の合評を終えたいと思います。参加いただいてありがとうございました。

安部: みなさんありがとうございました。

る(shiroyama: お疲れ様でした

小野寺: ありがとうございました

Pさん: これは本当に自分が手帳に書いたメモなんですか?

Pさん: 間がわるくてすいません、おつかれ様でした

安部: まあ虚構ですよ、

Pさん: 仮の書き手を構想したみたいな?

安部: そうです

Pさん: なるほど!