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創作合評 『Li-tweet 2014春号』その4

Pさん: それではこれより「Li-tweet 2014年春号」、第四回合評会を始めたいと思います
Pさん: 皆様よろしくお願いします
小野寺: お願いします
Pさん: 彩さんはいらっしゃいますかね
彩: いますよ。
Pさん: ありがとうございます
Pさん: ふかまちさんも参加されるということですが、後からになりますかね
小野寺: あれ、いませんか
Pさん: 今オフラインです
Pさん: とりあえず始めたいと思います
Pさん: 順番は、勝手な裁量ですが、

安部「暗い部屋」(小)12枚
日居「古井由吉と「家ならざるもの」」(評)76枚
彩「知的遊技場」(エ)6枚

にしたいと思います
Pさん: それぞれ三十分程でよろしいでしょうか
小野寺: はい
misty8823: こんばんは
安部孝作: よろしくお願いします。
Pさん: こんばんは
日居月諸: こんばんは
安部孝作: こんばんは
彩: こんばんは
Pさん: それでは、安部さんの「暗い部屋」(小)12枚からです
Pさん: あらかじめ感想をご用意されている方は、貼り付けお願いします
日居月諸: 小説よりも詩に近い感覚で読んだ。決して読みやすい文章ではないがリズムがあり、それをつかめれば緩急がよく効いていると分かる。リフレインや「舌」のような小道具が繰り返し絡み合うことで逡巡しているような調子が出ており、読む上では心地よく読めたが、ややイメージに欠ける印象があった。名詞を中心に構成されているせいか
小野寺: まるで部屋の中を目を瞑って想像したような小説であって視覚よりも触覚に重点を置いたような身体的感覚の多い作品に思えた。暗い部屋のなかは外よりも遥かに充実し騒々しくさまざまな物質に溢れている。取り立ててストーリーはないようにも思えるが、それでも読ませる屹立した文章は緊張に満ちていて非常にいいと思った。
Pさん: 確かにこれは詩に近く、解剖的で、暗い部屋というだけに閉塞感のひしひしと感じられる一篇ですね
misty8823: 私からの感想を。2回読んでも良く分からない。最初から最後まで、例えばAという、ずっしりとして重厚なテンションが、ずーっと続いている感じ。 主人公がどうなったのかよく分からない。 ずっしりとした重さは好きだが、ば難解か、といった感じ。 敢えて言えば、これをもっと繰り広げるテクストこそ、求められていると思う。これは一種のマニュアルのようなもので。
日居月諸: 断片が並んでいてそれをいかにまとめ上げられていくかを書いた文章だと思うので、身体的感覚という言葉は当たっていますね。だからイメージがないのかもしれない
ふかまち: いくらでも自分の複製が、その薔薇の、無限に重なり膨らみ続ける肉襞のように存在することを忘れていたのだ
ここがとてもかっこいいなと思いました。暗い部屋にこういうものを咲かせられるのはみごとですね
彩: 私もすごく難しいな、と思いました。視点がどこに置かれているのかが理解しずらかったです。というか最後まで分からなかった。三人称かな、と思って読んでいたら、だいぶたってから私、って出てくるので、ああ違うのか、と思ったり。あと、最初に開かないカーテンの話をしてるんですが、結局開くのはカーテンじゃなくて扉なんですよね。そこがちょっとあれ、というか、普通にカーテンが開くと思ったので意外でした。
misty8823: 分裂、というか、増殖、みたいなのも、テーマなんですかね
小野寺: つねづね安部さんが口にしている「義理と人情の排除」というのが成功していると思います
小野寺: 私の言葉でいうと「情緒」の排除になると思うんですが、即物的イメージというか。
misty8823: 安直な質問ですが、「義理と人情の排除」と、「私の(無限の)複製」はどうつながっているのでしょう。
小野寺: それは無関係です
misty8823: そうですか。 なぜ舌が切れてもミミズのように自律性を持つのか、そういう説明がなかったからとても分からなかった・・・。
日居月諸: >誰かが来る、そう予感した。胃壁を食い荒らしている寄生虫が、げっぷをした。
日居月諸: これなんかはシンプルに緊張感から来る嘔吐感みたいなものなんだろうけれど、こういう心情を隠喩で捉えていく意匠が占めているんだと思います。
小野寺: そうですね。納得です。
小野寺: ただ、他者に伝わるかどうかとかはあまり顧みていないから
小野寺: でも、そういうアイテムなり文章なりが面白いと思うかどうかだと思うんです
小野寺: 面白いと思う人もいるだろうくらいで万人に伝えようとは思っていないし、面白いと感じた人にもすべてがわかるとは思えない。
日居月諸: 個人的には糸口くらいはつかめます。今回の文章。ちゃんと分析したら面白いだろうな、とは思う。問題はパズルのように読者側で組み立てる作業が必要だから、まあそれゆえにこの枚数なんだろうけど、ともかく糸口がつかめなかったらどうしようもない
日居月諸: 面白いだろうな、というのは社交辞令としてではなく、より明晰になっていったら面白いだろうな、という期待も込めているんですが
Pさん: たとえばXvideosから先のくだりは、性的なものから、それを昇華し時間という抽象概念に移り、それから「紅茶が熱いまま腐る」という、時間軸が透明に崩れながらまた腐敗のイメージに戻っていきますね
Pさん: そんな風に漠然とした流れを感じながら僕は読みました
彩: 私は安部さんが常に言っていることとかは分からないので、そのまま文章の感想になるんですが、ちょっとシーンが想像しずらいというか、あれ、この部屋って扉はいくつあるの? とか、鍵のかかってた扉と最後に出てった扉は別のもの? とか、決して気にしてはいけない問題が頭をもたげてしまって、何だかもうすいません…ってかんじでした。
小野寺: いえ、いいと思いますよ
Pさん: ここに出てくるものが、次々解体されていくように、イメージそれ自体も、立ち上げてはその場で崩すという作業をくり返しているからではないでしょうか
misty8823: Pさん > それがどういう面白さにつながっていくんでしょうか。これは聞いてみたいです。
Pさん: それを面白いと思える人には面白く感じられるということです
misty8823: Pさん > どういう面白さですか?
小野寺: ベケットの「モロイ」などは前言をひっくり返すようなことばしばしばでてきます。そういう作品もないことはないので
日居月諸: 動きしかありませんからね。その動きが面白いかどうかの問題になるということでしょう
日居月諸: 「モロイ」は確かに近いですね
Pさん: 意味や位置やイメージが確定的であるような文章ばかりで構成されている作品に飽きた人には面白く感じられるでしょう
Pさん: 僕も「モロイ」を思い浮かべました
misty8823: なるほど。
日居月諸: でもモロイは”おかしみ”があったからその点は程遠いな。安部さんがそれを目指しているかは別として
小野寺: ただそういう作品であっても「何か」は一貫性を保っているので、それを手繰り寄せるとわかる、もしくはわかったような感じになる
小野寺: それが身体的感触ではないのかと私は思いました
日居月諸: モロイは内省が主で、イメージは出てこないしただただ即物的だった。でも、安部さんはそれとは違って小道具を様々に使っていますね。こう言うと何だけど、分裂病者が机で遊んでいるような・・・
Pさん: ふつうの小説などは、とりあえず人間の肉体はある程度全体性をもって構成されていることを前提としますが、ここでは肉体が本当に構成されうるものなのか? という地点に立ち返っているのではないか
Pさん: と思いました
小野寺: なんか精神と肉体が離れているような気がしました
Pさん: 作者本人からは、何かありますでしょうか
misty8823: (申し訳ない。一度離脱します。ひとまずおつかれさまです!)
Pさん: お疲れ様でした
日居月諸: で、身体的感覚を仮託するのが蛭だとか寄生虫になると
小野寺: 気分の悪さの表現かもしれません
Pさん: 蛭や寄生虫も、言ってしまうと人間の身体の一部的ですよね
Pさん: だからこういう文脈に引き寄せられたのだと思っています
Pさん: 盛り上がったのでちょっと延長しましたが、他に何か意見のある方はございますでしょうか?
安部孝作: 「モロイ」を僕は読んだことがないので、方向性を比較して自己検証することはできないのですが、いずれにしても肉体と精神が不一致になる事で、精神からは肉体がばらばらになり、肉体からは精神がばらばらにならざるを得ない、ということが中心的であるとは、自分でも改めて思いました。その不一致がさらには増殖と崩壊につながっているのだろうと。
Pさん: なるほど
小野寺: ただ、私は共感はあまりしないですよ。
安部孝作: あと場面の不連続さは、暗さのなかでの視線を意識したものかもしれません。
Pさん: なるほど、暗いから触覚的になるわけですね!
Pさん: 僕も、総合的にいうと、それほどチャンネルを合わせられた気はしないのですが、こういう書き方はあるなあという感じで読みました。
小野寺: 共感する人がいたらめちゃめちゃ面白いと思います
Pさん: そうですね
Pさん: それではこの辺で締め切らさしていただこうと思います
安部孝作: みなさんありがとうございました。
Pさん: ちょっとブレイクして23:00くらいから次に行きたいと思います
小野寺: 了解です
Pさん: それでは
Pさん: 次の、日居さんの「古井由吉と「家ならざるもの」」に移りたいと思います
Pさん: みなさん用意している感想があればどうぞ
日居月諸: お願いします
安部孝作: まず、些細なことを一つ。前も日居さんに個人的には伝えたのだけれども、heimlichというのは、基本的に標準とされている高地ドイツ語では、少なくとも「秘密の」「他から隠された」という意味です。そしてシェリングが話していたドイツ語は、バーデン地方のもので、フロイトのオーストリアのドイツ語とは若干方言としての違いがあります。そして、オーストリアではheimlichでもheimischと同じく、「家の」という意味があります。この言語的な特徴が「家の」と「秘密の」というのも結びつける契機になったとすれば、全集を編纂した先生方の見解を知りたいところではあります。
しかしながら、精神分析というのはおそらくこの二つの密接な、相似的な関係を前提としているのでしょうから、些末なことではあるかもしれません。
つまり逆に、道徳と抑圧、無意識、というものが、自ずとheimから派生したこの二つの言葉の語源的な探索に役立つものかもしれないからです。
それで、古井諸作品の批評ですが、家ならざるものを家の内部を覗き見る視線や人物などに代表されるわけですが、一通り読んでやはり思ったのは、家ならざるものが、家とポジ・ネガの関係になっているように見えるということです。
抑圧されるものは回帰する方向性を常に持ち続けており、その力は家を構成する上で重要ではないかと言うことです。
例えば、何を語らないでおくかが、何を語るかを規定する場合があるように。
道徳が衝動を指示しているように。
そうなると家的な物自体がそもそもその存立に当たって崩壊の契機を用意していることになる。
家はそもそも抑圧的な方向性をもっており、始めから壊れかけた者なのではないかと。
家とは何か、と考えると、それは生物的な再生産装置と、本文でも触れられているのだけれども、男女の交わりというのはその端緒であり、その後はさらに経済活動が生物的な再生産行為の主たるものになる。
よく言われるのだけれど、産業革命前後で情緒的家庭が生まれたとされている。職と家庭が切り離され、公私の分かれ目が可視化されたためという。
それでは封建領主制やそれ以前では全くそういうことがなかったか、というと怪しいのだけれども、
情緒的な家庭の誕生は少なくとも、これまでの経済活動体以上の歪をもたらした可能性があるということです。
つまり、経済活動体であったとき、男女間での所有、被所有という性的紐帯、血縁的紐帯が成立していて、それはそれで歪みがあるのだけれど、
情緒的で大人と子供と、男と女と別れることである種の平等を獲得したとしても、その所有、被所有は引き継がれてしまうということです。
恋愛と言うのはまあ、純粋には妖精物語です。例えばゲーテは性的なものは娼婦に向けられるのみで、恋愛に性的な行為が持ち込まれることはありませんでした。
しかしながら恋愛が発明されるのは、この情緒的な家庭の成立と機を同一にしている。(少なくともそうされている)
そうなると、歪みは一層大きくなって、始めから壊れかけになってしまう。
だから欲望と言うのは隠蔽されなければならない。性的な行為も規律的になり、感情や欲望に奉仕するというよりも、再生産行為として割り切られることになる。
そうなると、役割分業的に男性性=経済動物として家庭の本質から転落した性にっとっては、ますます妻や子供との情緒的紐帯は倫理的な物となる。
逆に情緒的動物を押し付けられて家庭の本質に坐するようになった女性は感情過多に陥ることになる。そして母子の情愛はしばしば夫によって阻害される。
なぜなら二人を所有する存在としていまだに古臭く居座るからです。
夫婦間の行為はすべて(特に性的なもの)情緒的な交通の停滞に終わり、ヒステリーと家出、不倫などなどの現象を発見するに及ぶわけです。
結局家は初めから崩壊する契機を潜めたまま存立するのかもしれない。
そうなると、heimは他者の視線のみならず、内部の視線からも何事かを隠蔽していることになる。その皹に直面した場合、すでにその家にはいないことになる。
だが、家にいるものは初めから家にいないものなのではないか。恋愛は、まさに家ならざるものになる事でもあるのだから。
家を建てるということ、あるいは家をなすこと、これが私的ではなく、公的な行為になった点、家は誰からも不明のものにならざるをえなくなったのではないか、と。
こうしたことを改めて日居さんの評論を読んで思いました。
小野寺: 語ることが多いので小出しにしていきますが、これを検証するのは誠に大変でありまして、古井自撰作品集の1、3、5の読破を試みましたが、妻隠しか読めず、フロイドも中途半端にしか読めませんでした。で、その範囲で言うしかないのかもしれませんが、この切り口というのは非常に凄みがあって面白く感じました。
安部孝作: それから、この評論を読んで思い浮かんだのは安部公房の『砂の女』とミハル・アイヴァス『もうひとつの街』です。後者は特に、この評論の主題を別の側面から見る哲学的な示唆や、哲学的な通路を示唆してくれるに違いありません。
日居月諸: 経済の発達が家庭にも影響を及ぼすという視点は盲点でした。しかし、考えてみればフロイトもリビドーを経済的な構造として捉えた人で、いわずもがな、エディプスコンプレクスに代表される家庭が精神病を作ると考えた人です。今後の課題になりそうです
小野寺: 論文の方法という観点から私的な見方ではありますが、まず古井作品の「他者の視線」により家の秘密が暴かれる事例を挙げてからフロイト等の論を展開していったほうが読者にはわかりやすいのではないかと思いました
安部孝作: あと、欲を言えばイニシエーションとの関連づけも、今後してくれたらもっと面白いかもと、重圧を加えます。
小野寺: それから前半では、「不気味なもの」が家ならざるというのが精神構造の暴露のような視点だったのに、後半部では、本当の「家」のように思えました。つまり前者は隠喩だった家が、後半は実態を伴っている家のような気がして。これは古井が変わって来たのかもしれないので「聖」「親」等も読まなければならなかったのかもしれませんが、とにかく前半はスリリングな心地よさがありました。
日居月諸: 恋愛はもう自由恋愛が当たり前のように思われていますが、半ばイニシエーション、通過儀礼めいたものになっているところもあります。特に、恋愛と資本主義の関連はよく語られるところで、それを本来の通過儀礼と絡めて行けそうですね
安部孝作: そうです。注文もつけましたが、しかし、大変面白かったです。自分の研究を振り返る契機にもなりましたし、刺激を貰いました。ありがとうございます。
小野寺: そういう意味では坂口安吾や夏目漱石の作品の引用はどうなんだろうと思わないでもなかった。そういうものって分かる範囲だと思うわけです。
小野寺: 妻隠はやや病的でもあり(いや主人公は本当に病気なのかもしれないが)災厄は外側からやってくるんですよね。ただそれは主人公の思い過ごしのようなものであって、だから病的な雰囲気がまとわりつく
小野寺: 「杳子」の主人公はそれほど病的とは思わないけどそれが「妻隠」だと深化していってると思うんです
小野寺: で、それが今回の論はまさに「妻隠」については当たっていると思うんです
日居月諸: 内側にある「外部」的なものと、完全な外側にある「外部」をまぜこぜにしていますね、確かに
小野寺: あと、後半部分は「論」としてはもっともっと日居さんの言葉で論を展開していっても良かったのではないかと思うんですけどね。それはちょっと検証不足ではありますが。
小野寺: 古井作品とフロイトを読み込んでからまた感想をお伝えしたいと思います
日居月諸: それについては完全に古井に押し負けてるとしか言いようがございません。筋をなぞっているだけだという自覚は、書いてる最中からありましたので
Pさん: ずいぶんと、真っ直ぐ読むなあという印象でした
Pさん: そろそろ時間ですけど、他に何か意見のある方はいますでしょうか
Pさん: なければ、次の彩さんの「知的遊技場」に移りたいと思います
日居月諸: ありがとうございました。
Pさん: ブレイクは入れます?
日居月諸: 私はいりません
Pさん: 続けてやりましょう
安部孝作: そういえば、一つ聞きたいのですが、最後の引用文の最期の台詞、かたちをかえて、っていう台詞、どこからかの引用ではないですかね、どこかで見た覚えのある文章です。
日居月諸: 指摘箇所がどこかはわかりませんが、文中の引用は全て示したつもりです。でなければ、月並みな言葉ということでしょう
Pさん: 最後の引用って、夏目漱石ですかね?
安部孝作: そうです、漱石のです。
日居月諸: ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ
日居月諸: これですか。
安部孝作: そうです。
日居月諸: まあ、ここはしばしば引用される箇所ですので。それを読んだのでなければ、あとは漱石に聞くしかありません
安部孝作: もしかしたら、同様の文章が他の評論に引用されているだけかもしれません。すみません。
Pさん: それでは「知的遊技場」です
安部孝作: 読者と作家が手の内を探りあう、というのは「読むこと」の主体性を言い当てているのだけれども、当然それには作家の側からの仕掛けが必要となる。
例えば探偵小説というのはその関係性を生かした見世物だ。敢えて語らない事柄で反って読者を誘導していく。とはいえ、この作家が探偵詳説と一線を画すのは、探偵小説が所詮は書割で内部を蔽い隠しているに過ぎない(時間的にも、空間的にも、心理的にも)が、この作家の作品はおそらく、蔽い隠すわけではないし、明察してもらわねば置いていくというわけなのだから、むしろ読者と作家の疎通が可能になった時には共に小説世界を構成するような感覚になるのかもしれない。打倒されずに戦い続けるというのは、つまり、全く息が合っている、所作の同調ということになるのだ。それこそ読者の側に明晰なイメージを伝える方法となるのかもしれない。
誘導と言うよりも誘惑、だから資格が必要だというのも理解できる。
小野寺: すみません。佐藤亜紀さんはまったく読んだことがなくてそもそも男と思い込んでいました
小野寺: ただ書名は書店で見たことがあります。
小野寺: 今回の彩さんのエッセイを読んで興味が沸いたのは事実です
日居月諸: 佐藤亜紀の小説の中で唯一読んでいたのが「天使」だったのですんなりと読むことができた。確かにあれは設定叙述と言うものをほとんど排した小説であって、あとは読者が想像するだけだった記憶がある。それでも最後まで読むことが出来たのだから、描写が優れていたわけであって、継続的に読むことにはならなかったけれども良い作家だと思った。それから『小説のストテラジー』も読んでいたので手の内の探り合いという感覚は確かにあった。身も蓋もな言い方をすれば偉そうな人で、選民思想めいたところはあるけれど、考えてみれば小説と言うものは案外そう言うものでそのエッセンスめいたものをよく捉えている人だと思った記憶がある。何年か前に読んだきりで忘れかけていたけれど、そう言う事が明確に思い出せるエッセイだった
Pさん: フル動員って、総動員のことですかね?
Pさん: もうちょっと言葉をていねいに使って欲しいなというところがいくつかありました
彩: フル動員って使いませんか?
日居月諸: あんまり使わんですね
Pさん: フル稼働と混同しているんじゃないでしょうか
Pさん: まあ、瑣末なことですね
Pさん: 他に何か意見のある方はございますでしょうか
Pさん: これは短いエッセイなので、サクッといきたいなと思ったのですが、どうでしょうか
Pさん: 問題なければ、これにて第四回「Li-tweet2014春号」合評会を終わりたいと思います