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『Li-tweet』(2013冬号)創作合評その3

 ■第三回合評会 3月2日(日)21時~ ホスト 小野寺

 

参加者:イコ、Pさん、常磐、蜜江田

 
小説「I believe your brave heart」:常磐 誠

詩「竜のなみだ」:新嶋樹(イコ)

詩「たとえば庭で、落下して」:深街ゆか


詩「鳥の鳴く街」:る

*第三回創作合評会 

小野寺: こんばんは。

P: こんばんは。

小野寺: よろしくお願いします。

蜜江田: こんばんは。

イコ: こんばんは。

ふかまち: こんばんは。

小野寺: 今日はたくさんのひとにお集まりいただきましてありがとうございます。では合評会を始めたいと思います。

蜜江田: はい。

小野寺: では常磐さんの作品から。はじめます、「I believe your brave heart[について]。感想のあるかたは貼り付けお願いします。

イコ: まずは常磐さん、完結おめでとうございます!

連載をきちんと終わらせる体力・精神力というものに感動しています。話の軸はたったひとつで、豪と望の殴り合いの喧嘩が中心に据えられている。スポーツを扱った小説だけれど、試合に勝つか、負けるかではなく、思春期の少年少女の思い(悩みや葛藤)が描かれている。

心の面を丁寧に扱おうとする作者のブレない筆が素晴らしいと思った。あることに対して、色んな人が色んなことを考える。けれど「誰も諦めてはいない」とする結末には、すがすがしさを感じる。

全盲であったり、アスペルガーであったりと、常磐さんは、バランスが悪く、社会からこぼれ落ちていく人たちをどう認知していくかという問題を他者の目から誠実に描こうとする。むしろ常磐さんの小説世界ではバランスが悪く見えるのは他者の方であって、つきつめて考えるとみんな一緒だよな、という思いにいたる。だからラストシーンの言葉は、ぴたりとハマっている。

問題は情報の整理にあるのではないかと思う。説明的で過剰に装飾気味な冒頭は読者を突き放してしまうだろうし、説明されていない箇所では、かれらの関係性がつかめず混乱してしまうだろう。立ち止まらせ、考えさせる、というのはいいと思うのだが、誤解してしまうような不必要な立ち止まりが多いように思われた。推敲すればするほど、いい作品になっていくような気がする。もったいない!

 ふかまち: 常磐さんの文章はテンポよく一語一語がていねいにおりこまれていてとてもよいなと思います。ただ、登場人物のせりふがあまり魅力的でないのがおしいなとおもいました。

 (イコ: 常磐さんを追加しました!)

常磐: ありがとうございます。

小野寺: 私は推敲を含め何度この作品を読んだのかわからないくらいですが、人間関係の複雑さに、この作品がどういう人物配置になっているのかさっぱり掴めませんでした。とにかくかなり複雑な関係であって、これは読むうえでの大きな障碍になっていると思います。

P: 僕は相関図を書きました(笑)。

蜜江田: 相関図(笑)。

P: でないとなかなか理解が難しかった。

小野寺: 感想のあるかたは貼り付けお願いします。常磐さん申し訳ないです。ですのでもう少しわかりやすくしていただきたいです。ドストエフスキーより難しいです。

蜜江田: 読んでいない私が言うのもなんですが、イコさんの感想はとても細かいですね。

小野寺: イコさんは読み手としては非常に優れた方です。

イコ: ありがとうございます。嬉しいです。

イコ: 読み手としては(笑)。書き手としても優れたい……(笑)。

小野寺: ただ読者はイコさんほど優しく親切ではありません。あと気になったのはガーゴンがいきなり現れたりの点ですね。他の作品の人物が現われるのはちょっと困惑します。

P: たしかに、番外篇を前提としているようなところがありましたね。

蜜江田: 読んでいない私が言うのは本当におかしいのですが、常磐さんは複雑な人間関係を書くことで、何を表現したかったのですか? 単刀直入な質問です!

常磐: いつもこの細かさに感謝しっぱなしです。ドフトエフスキーよりも!? 難しくないつもりなのに、めっちゃ難しくなるんですね……。簡単にする。バランス感覚がないものだから説明し過ぎたり逆に説明しなさ過ぎたり。

自分の中で複雑すぎるとは思っていなかったり。というか、複雑ではあるけれど作品の中で読んでいけばわかるくらいにはできていると思っていたんです。

小野寺: この得体の知れないわかりにくさは主観と客観の混乱からくるのではないのでしょうか?時として「豪」が主人公かどうかも怪しくなるような。

蜜江田: ほうほう。それは逆に興味をそそる話でもありますね。

小野寺: 豪の内面が書かれる場面と豪を外側から眺める視点と人物関係を説明する文がごっちゃになってる。

蜜江田: ただ、主観と客観をまじえる作品でも、その区別を文体で分けたり、段落を変えたり、何らかの処理はなされるのが普通ですよね。

イコ: 主人公の話ですけど、主人公は中学生全員のような気がしました。勇邁の視点も描かれていましたし。常磐さんは誰かに肩入れするのではなくて、全員に等しく愛情を注ごうとしているような気がしました。でもそうすると逆に小野寺さんのおっしゃるように、語り手の立ち位置が難しくなりますね。

常磐: 『常磐さんは誰かに肩入れするのではなくて、全員に等しく愛情を注ごうとしているような気がしました。』こう言っていただけるとありがたいです。>イコさん

語り手や主人公の問題ですね。一人称で書いているのか三人称で書いているのか、自分でも微妙なものがあったんですよね。

常磐: 一・豪を主人公に三人称。

蜜江田: でもそれだとたんに話がわかりづらくなるだけですよね(厳しいことですみません)。

常磐: 二・椿を主人公に一人称。

三・勇邁を主人公に一人称。

四・豪を主人公に一人称。

で書いているつもりでしたけど、これどこかで乱れてたような……。

イコ: ぜんぶ一人称にするか、ぜんぶ三人称にするか、どっちかにされた方が分かりやすかったかもしれませんね。

小野寺: 真琥は、地の文なのに、さん付けもあってこれもややこしくなる要因かとも思います。

常磐: 『でもそれだとたんに話がわかりづらくなるだけですよね(厳しいことですみません)』いいえガンガン思った事を仰ってください。

P: 三人称か一人称かには僕は特にこだわらないですけど。重ねる度に、視点人物を変えることについては、やり方しだいではどうにかなったかもしれないですが、話の進行からいうと、やはりしない方がよかったのではないかと思います。視点人物を変えるというのは、不安定になる要素の一つです。すごいベタな例を出せば、「薮の中」みたいに、全く同一の時間軸、と、同じ舞台を繰り返しながら、視点人物をコロコロ変えていく、というのなら、なんというか、バランスが取れます。しかし、この話の進行からすると、いろいろなところに舞台が飛び、つまり設地自体が飛び飛びになるわけです。

常磐: 個人的に三人称の練習をと思って、やっぱ厳しい!ってなって折れた覚えがあります(情けない話……)。ずっと豪のままでいた方が良かったですか。

「不安定になる」のは、具体的に何が不安定になったということですか?>Pさん

確かに『全く同一の時間軸、と、同じ舞台を繰り返しながら、視点人物をコロコロ変えていく』っていうものもあったなぁ……。

P: 読んでいる人は、二重の不安定さ(視点人物、場所)をかかえながら、読むことになります。

蜜江田: Pさんの指摘は分かりやすいですね。

常磐: はい。わかりやすいです。ありがとうございます。

P: 不安定というのは、読者が、ここに心を置いて読もう、と思わせるような一種の安心感がなくなることといえばいいですかね。

常磐: ありがとうございます(Pさん)。

P: 三人称にしろ一人称にしろ、その視点人物を変えずに、かついろんな人々にフォーカスを当てていって、話を進めるというのが、ベタですけどエンターテイメント小説のよく取っている手だと思います。それには一応このようなバランス的理由があると、僕は思っています。

小野寺: 登場人物が一様に他者を思いながら自分を大事にしようとする葛藤、これがそれぞれの人物にあるように思えて、結局根は同じだから個性が伝わりにくい部分があると思うんですよ。

P: 逆に、空間や人間関係に、書き手と読み手ともども、ガッチリとした安定感があったとしたら、あるいは視点人物の変更は、生きたかもしれないですね。

常磐: 『エンターテイメント小説のよく取っている手』確かにベタですけど、でも確かについて行き易いのは確かですね……。

今回の私の作品だと、不安定でわかり辛い空間・人間関係に、不安定な書き方(視点人物の変更)をしたものだからドツボになった面があるってことですね。

P: マイナースポーツをフィクションで掬い取ろうという意気は、僕は良いと思いました。

常磐: 『結局根は同じだから個性が伝わりにくい部分』皆それぞれに個性があると思って書いているもので少し刺さりました……。個性的な人間が描けていないのかな……? 今後の課題。心意気だけでも感じ取っていただけたら御の字です。皆の気持ちというか葛藤をもっと読み手にはわかり易く伝えていけるようになろうと思います。

P: 力士がトレーニングするのにまずヒザのフォローから入る、なんていうのは、妙にリアルで良かった。

イコ: 根は同じだけど、自分は個性、感じられましたよ。人物の問題というより、語り手≒作者の問題だな、と思いました。一人称の語りに、三人称的な語り手の目が食いこんでしまってて、人物ひとりひとりの語りが、平均化されてしまってるという感じでした。

イコ: でも人物ひとりひとりには、書き分けと奥行きがあると思いました。常磐ファンの贔屓目かもしれませんが(この作品の登場人物が出てくる他作品を読んでいるからというのもあるかもしれない)。

常磐: 『力士がトレーニングするのにまずヒザのフォローから入る、なんていうのは、妙にリアルで良かった』細かい部分をありがとうございます(自分が巨体だったりするもので)。人物一人ひとりの語りが平均化。どういう所が食い込んだ部分として感じられましたか?>イコさん

イコ: 例を出そうとしたらクロムがフリーズしました(笑)。進めていてください。

小野寺: それではそろそろ時間になりましたのでこのあたりで次作品に移ろうと思いますがいかがでしょうか?

P: ちょっと、一言だけ……。

P: アスペルガー症候群というのが、僕はそもそも本当にあるものなのかどうかが疑問です。そして、僕の見方では、そういう人々から受ける印象と、望の感じは、微妙に食い違っていました。たぶん、こういう症状について、それなりの考えはあるのだろうとは思いますが、僕はフィクションの中で、これを症状として出すこと自体、世の中の「症状化」を加速させるような気がするので、出さない方が良かったのではないかと思っています。以上です。

常磐: 例の方は出せたら掲示板に貼付けておいていただけますか?すみません。私が二十二十五分に席を立たなければならなくなってしまいまして……。我侭言ってすみません。>イコさん

確かに発達障害は作られた障害、と最近言われていますしね。望については確かに違いますね。

・球技が苦手な人が多い(腕等の感覚障害に近いものをもっていたりするため)中、超人的な力がある。とか。その他諸々。

考えた方が良い問題なのかもしれませんね。難しい問題ですけれども。

蜜江田: Pさんの言ってることはちょっと疑義を感じます。「世の中の症状化」のために実在するかもしれない病気を表現してはいけないというのは、少しおかしい気がします。社会問題として問題提起するという倫理性としての問いかけ意識があれば、作品としてはまたそれもありなのではないでしょうか。まぁ所詮読んでいませんので、あまりお気になさらないでください。

P: ちゃんと言うと長くなるので、これで……。

常磐: そうですね。ここでやると他の方の作品が話せないです……。

イコ: 一章:三人称が比較的三人称ぽいところ

 『豪はいつも通りの軽口の応酬を聞いていて、兄妹の愛情というか、信頼みたいなものを感じていた。』

 『一息に椿にぶつける言葉。自分よりずっと華奢な女子の体でしかない椿に、学年でもずっと体の大きい豪がこうした態度をぶつけるのは異常なことだと、頭の片隅で豪は理解できていた。それでも、それでもまるで椿の態度はその通りでしかないと言っているように思えた。悪いのはお前なのに、逃げてるんだと指摘しているように思えた。』

二章:一人称がどうも三人称ぽいところ

 『家が近所で幼馴染。こういう関係は学校では実に便利だ。お互いどちらかが休めば片方がプリントなり連絡事項なり明日の時間割なりを渡しにいける。望がそういう時に役に立つかどうかは微妙な扱いだが、そういう時は兄か弟が違うクラスにいるのだから、そちらに頼めば良い。似通ってはいないが三つ子である私たちは三クラスのそれぞれに振り分けられていて、望とも確実に誰かが一緒のクラスになっていた。』

一章からは三人称らしいところよりも一人称ぽいところを見つける方が簡単ですが、三人称の文体で一人称らしい感慨をもらすやり方はとてもありふれており、読者を物語に引き込むテクニックとして機能すると思いますが、逆の場合(一人称なのに三人称ぽい)は、どうも説明くさくなって、変に感じます。

たとえばこういうところが一章とそれ以降できちんと差異化されていないために、奥にいる統率者(語り手)の存在が表にあらわれてくるように見えます。

(常磐: 復活されたんですね! ありがとうございます。)

P: 僕も、その辺がちゃんと考えられた末に俎上に上げるのならば、良いことだと思っていることには変わりないです、と最後に。

蜜江田: Pさん おっしゃること分かります。

常磐: ありがとうございます。>Pさん、みすてぃさん

蜜江田: 次いかないんですか?

小野寺: はい。では次の作品、詩「竜のなみだ」:新嶋樹(イコ)[について]。感想のあるかたは貼り付けお願いします。

蜜江田: 僕はとても好きでした。竜というファンタジーの生き物に、切ない描写が加わって、独特の読後感を味わいました。

P: まさに子供の幻想の世界ですね。で、そこに、にきびがつぶれる経験とか、涙とか、大人の手とか、通過儀礼的なものが貫入している。

常磐: (すみません。外に出なければ行けなくなりました……。申し訳ないです。感想などは後日掲示板に貼付けます(今用意出来ていなくてすみません))。

P: みたいに読みました。

ふかまち: にきびという言葉で思春期の世界をかいているのかなとおもいました。一連目から透明感があっていいなと思いました。

P: (常磐さんお疲れ様でした)

イコ: (常磐さんおつかれさまでした!)

蜜江田: 「かつての美しい声はなく/きらめいた鱗は剥がれ/ひるがえる翼はもがれた/そこに何がいるのか/子どもは知りたくもなく/両眼をつぶして出ていった」こことかいいです。

小野寺: この詩は私はよくわからなかったです。竜がお祭りのハリボテで子供にずたずたにされて庭に転がっている印象です。

蜜江田: 転がっているというか、土の中に眠っているんですよ!

小野寺: ああ、そっか。

P: 祭っていうのは、どこから来たんですかね……。 

小野寺: 「かつては竜が飛んでいた」とか「大人らの歓待の腕」などからです。

蜜江田: まぁ人間につかまっちゃった竜のかわいそうなお話なんですよね。

P: 既に三様の読み方がある!

蜜江田: しかし小野寺解釈は笑いました(笑)。

イコ: 小野寺先生の読み方はいつも楽しませてもらっています。

ふかまち: 「ただの積木がそこまでになるとは/誰も思わなかったろう」このフレーズもとても素敵で思春期の青年の内面をあらわしているのかなって。ただ、竜というのが何の比喩なのかよくわからなかったです。よくわからないまま読み進めていってもなんとなくよくて清涼感があるのはグッドですね。

P: 僕はそこは、単に積木を龍と見立てている少年の空想の中での龍と思いました。

P: 少年は、たった二つか三つの直方体を組み合わせるだけで、頭の中に龍を創り出すことができる。

P: 的な。

小野寺: なかなかいいですね。

蜜江田: 正直、自分はにきびの花のくだりはよくわからなかったので、「強い」象徴の竜が打倒されるという「悲しさ」の描写、とだけ読みました。それだけでもふかまちさんのおっしゃられるような清涼感があって、とてもいいとおもいました。

小野寺: みなさんの解釈。

ふかまち: なるほど。>Pさん

わたしは積み木は日常でのネガティブな感情やらを発散せずに放っておいたものと見ました。竜は青年(語り手)が大人になるにつれて諦めなければならないものとかそういうものかなって。

蜜江田:うーん。

P: そこは同じです。<竜は青年(語り手)が大人になるにつれて諦めなければならないもの。ただ、ニキビがつぶれることに涙を流すというのは、なんか、少女的じゃないかと思ったんですけどみなさんどうでしょう。

蜜江田: まぁ確かに。

P: だから、僕の頭の中で少女か?少年か?というところがネックになりました。

蜜江田: なるほどー。 

P: 庭の花とカブせるのはうまいと思いますが。

小野寺: 少年のようですが内面の豊かな子供なのではないかと思います。

P: もちろん、ニキビと涙の間に因果関係がないのかもしれないですが。

蜜江田: みなさんの読みに脱帽です。精読すると詩って違うんですねー

P: 時期的な重なりであって。

小野寺: 年齢は低学年なんでしょうか?

蜜江田: 十二歳くらいじゃないですか 中学生かも?

蜜江田: ニキビで十二はないか……。

小野寺: ニキビだから中学生なのか。

小野寺: つまり積み木が竜になったのは小学生低学年の頃なんですね。でもその頃の内面はまだ残っているよみたいな感じなのかな。

蜜江田: 話を総合すると、これはまぁ青少年が大人になることへの不安とか、そういう物語だと。それなのに、この残る清々しい透明感は、やはり不思議ですね。面白い。

小野寺: 少し、距離を置いてコミカルに描いている気もします。

P: 「棄てられる」「つぶして」「踏まれた」などの言葉から、僕は清々しさは感じられなかったです……。

蜜江田: にきび、ですもんね。

イコ: (笑)

小野寺: この詩に関して作者に問いたいこととかありますでしょうか。

蜜江田: 解釈できる自由があったので特に僕からはないです。

小野寺: なるほど。それでは少し休憩をいれたいと思います。よろしいでしょうか

蜜江田: はーい。

小野寺: 四十分より再開します。

ふかまち: はーい。

P: 了解です。

イコ: ありがとうございました……。意外でした。自分では納得のいかない詩だったので笑 書いた瞬間は満足していたのに、だんだん満足できなくなってきてしまった。

小野寺: イコさんの現代詩フォーラムのは素晴らしいです

P: 次ふかまちさんのですよね?

小野寺: はい。

小野寺: イコさんは成長する詩人歌人になりつつありますね。

ふかまち: おおー!

小野寺: ふかまちさん、現代詩フォーラムの読みましたか?

ふかまち: ひとつよみました。

小野寺: いいですよね。小野寺: 本屋で売っててもおかしくないと思った。

蜜江田: それ読みたいな。

小野寺: イコさん貼りましょう。

ふかまち: イコさんがかく詩はなんだろう、イコさんですね。

蜜江田: ふかまちさん、というのは?笑

イコ: いやあ、自分はこのところ詩を書いて、逆にるさんやふかまちさんのつむぐ詩の言葉の強さみたいなものを実感しましたよ……。どうとも言葉にしづらいんですけど。

ふかまち: んー言い表せないんですが、あ、これイコさんの作品だなってわかるかんじ。何を書くかきたいかきまっているんだろうなって文章だなと。

小野寺: ではそろそろ次作に移りたいと思います

 蜜江田: なるほど、イコ・ザーワールド。

イコ: ありがとうございました。

小野寺: 詩「たとえば庭で、落下して」:深街ゆか。

小野寺: 感想のある方は貼り付けお願いします

蜜江田: 全体で何を伝えたかったのはわからなかったのですが、それは別に構わないです(僕はそういうのを好みます)。部分的な話をすると、たとえば「中庭で、朗読をします」という言葉を、どもらせるあたり、センスを感じるというか、好きです。あと、改行もいいですね。言葉のテンポ、重みが段落ごとに違って、言葉を食べているみたいです。

P: 詩でやるメタフィクションと読みました。とりあえず、それだけじゃないですけど。

 (小野寺: 改行に関しましては作者に謝らなければなりません。記事はうまく反映できてなかったですね。ごめんなさい。)

イコ: どう話そうとしてもうまく話せないので、みなさんの解釈を色々うかがいたいと思います。

とりあえず、うまく話せないのを断った上でがんばると、庭は猶予の象徴かなあと思いました。

「わたし」は外と接続しない、詩を朗読していられるような庭にいるんだなあと。この場合の詩は、若さをあらわしているようにも見えました。

小野寺: 言葉の組み合わせが狂気じみていて少し怖い、迫力がありますね~。

蜜江田: 「“くすんだプレパラートを何枚も重ねたような記憶”→“くすんだプレパラートの記憶”」。対象も半ば破壊的にすり替わってるのであり、記憶の混乱、ないし錯乱、気持ちの問、非常に破壊文学的な? 気持ちよさがありますね。断片的な思考に酔いしれるところがあるというか。

蜜江田: 言葉の畳み掛けもいいと思いますし……。

イコ: モッコウバラの萼をむしりながら流行歌を歌ったり、詩の朗読をしたり、というのがイメージとして好きでした。ちょっと残酷な感じも漂っていました。

イコ: 「たとえば」って、具体的な話をするときに使うのに、それが繰り返されればされるほど、どんどん遠くなっていく感じもいいと思いました。

蜜江田: 「たとえば」の使い方が面白いですよね

小野寺: 面白いですね。

P: 「たとえば」の語は、詩や小説におけるフィクションの立ち位置ではないかと思います。詩という中庭に、たくさんの「たとえば」が埋まっている、みたいな。

小野寺: ああ、なるほど。気が付かなかった。

P: それが「たとえばの庭」なんでしょう。

小野寺: この人の日常はボランティアでそれは詩を読んだり書いたり思い描くことという感じでした。

イコ: なるほど。Pさんが上でメタフィクションだとおっしゃっていたのを、もう少し詳しくうかがいたいです。

庭がメタファーであることに、自覚的であるということかなとも思いました。

P: 小野寺さんの解釈はいつでも直接的ですね。

蜜江田: まぁつまり、ここでいうたとえばはifの世界、想像の世界なんだけど、それは明らかに過去を一方で、引きずってもいるし、なかなか神秘的で暗くもある世界を描いている、みたいな感じなんでしょうかねぇ。「たとえば」を持ち出すことで、いまここの現実とは少し距離を取るというか……。わかりづらくてすいません。

P: 詩の中で詩の立ち位置を語っているという意味でのメタフィクション、ということで、別に深い意味は……。

小野寺: すみません。

P: いや、小野寺さんの感想は面白いです(笑)。

P: ただ、落下がぜんぜんわからない。有用なイメージの結びつきを僕は生み出せないです。

P: 自殺のこと?

蜜江田: そこまで具体的には作者はイメージしていないのでは。

小野寺: 受精して詩を読めなくなったんじゃないのでしょうか。

蜜江田: 何となく落下という、こうストンと身体がいまここから抜け出ていく感じを表すという。

イコ: 現実と距離を取っている感じは受けました。いずれ立ち向かわなければならないものから、猶予されているというような。

ではいずれ立ち向かわなければならないものって、この詩においては何かな、と考えてみると、「受精」って言葉から、女性の妊娠を想起させられました。「世の常」というのは「女は子どもを産んで育てるもんだ」みたいな社会の見方。

小野寺: そう。

蜜江田: ほうほう。

小野寺: 私もそれを思い浮かべた。いずれ落下するという想定。

蜜江田: とすると最後の「さよなら、残像にもなれなかったあなた」はどういう意味でしょうか?

小野寺: そうなったら私たちは残像にもなれないという。それは詩を読むこと書いたことさえ忘れてしまうということじゃないのでしょうか。

 <<  それは詩を読むこと書いたことさえ忘れてしまうということじゃないのでしょうか なるほど。

蜜江田: 「あなた」というのは?

小野寺: あなたは私と詩を愉しんでいた誰かですね。

小野寺: はじめはわたしたちだったから。

蜜江田: なんかよく分からんくなってきました。

イコ: 落下というのは自分もよく分からなかったんです。

ひらりと落下している、その軽さから見ると、どうも外に出ていきますよ、という感じでもなく、かといって庭にいつづけるわけでもなく。

一体どこに行くんだろう?

P: 落下するものは、自分なのは確定なんでしょうか。

イコ: ほう。

P: じゃあ自殺? 受精することによりある意味での自殺が行われたみたいな?言っててわからないですけど。

イコ: 難しいですね(笑)。悩む!

蜜江田: 自分がヒョイっと消えてしまいたいってことなのかなぁ。

小野寺: 落下すると日常に埋没するってことかなあ。

イコ: もっとかるーい、こだわりのない世界に行くってこと……とか。

小野寺: 中庭は空中にあるとか。

蜜江田: ラピュタですね。

小野寺: 事件の中に埋没という言葉もあります。

蜜江田: そう、事件というのは突発的に出てきて、よくわからんですよね。まず、最初の大前提として、この詩は読者にそこまで優しくないから……。

P: これは近接しているから「詩を読む」ということが事件なのではないかと思いました。なんか、そう言ってる人いませんでしたっけ。

蜜江田: 中庭でわたしたちは、詩の朗読をしています。「詩の中に中庭があります、中庭で私たちは、わたしたちはわたしたちと目が合った

わたしたちは詩を朗読していた、遠浅の緑の詩の中、わたしたちいつまでも帰ることができない」非常に複雑な構造です。

P: クラインの壺のようですね。

蜜江田: 事件というのは、帰ることができないというところかもしれませんが、そもそも朗読している詩の中に庭とわたしたち自身の姿があって、邂逅してるんですかね。

小野寺: 次の作品に移りたいと思います

ふかまち: ありがとうございました。とてもていねいに読んでいただいて。

イコ: みすてぃさんよかったですか?

蜜江田: はい。

小野寺: 何か作者に訊きたかったのでは?

蜜江田: まぁ、またあとでいいいです。

P: そういえば、唯一のかぎカッコが、対応していないようですが、これは意図してのものなんでしょうか。

ふかまち: そうです。>Pさん

P: ここからの四行は僕も好きです。

ふかまち: ありがとうございます。

P:急に唱和をはじめたようで。僕は他にはないです。

イコ: るさんの詩、いきますか。

 (蜜江田: 日付変わるまでには終わらせましょう)

 (イコ: 今日の合評は、twi文初年度を思い出す……あのころ、日付が変わっても合評してた)

 (蜜江田: まじすか)

 (イコ: ひとりずつ疲れて脱落していくんです)

 P: 合評デスマッチですね)

 (イコ: 死屍累々でしたね。でも楽しかった笑)

小野寺: では次作に行きましょう。すみません。

イコ: この詩は印象をとても言葉にしづらい詩でした。なんかでも、何度も読んで、今もう一度読んだら、思った以上に、

 『羽を持たない全ての生き物は眠る/あらゆる間違いを眠りながら/風に触れようとする指先に/二つの心根を赦して』という最終連が、切なさを帯びて立ち上がってきました。

小野寺: うーん難解だなあ。

イコ: ポロネーズを聞きながら読むと、わりとユーモラスな感じも漂ってきました。

蜜江田: オシャレな読み方ですね!

ふかまち: 月が歪な歌を口遊んでいて鳥たちがカスタネットでリズムを刻んでるのかな。アルコールが全ての男たちの母となっているからベッドの上で少女は蒼褪めたままでいて。どの材料も材料をつなげるための材料のようだなと思った。

小野寺: るさんにしては虚飾に走っているようにも思える。るさんは曲がりなりにも生活を反映させていたと思う。

イコ: これは妻の読みですが、「帰巣本能をわすれた鳥」が、歓楽街をたむろする男たちで、「羽を持たない全ての生き物」は、帰らない男を待っている家族。「ベッドの上で蒼褪めたままの少女」は、お父さんがどうして帰らないのかを知っていて、もう母性的なやさしさを持ちつつも、かなしんでいる。

蜜江田: フランスかイギリスかのイメージ。

小野寺: なるほど。

イコ: 自分が悩んでおりますと、「他のるさんの詩にくらべると手掛かりがある」と妻は言っておりました。

小野寺: 奥さんの解釈はいかにもるさんって感じがしますね。

蜜江田: じゃあ僕の読みは大外れだな。「羽を持たない全ての生き物は眠る/かなしさとやさしさをないまぜにして/ベッドの上で蒼褪めたままの少女は/鍵穴から聞こえた悲鳴を/身体に篭る冷たさに奏ねる」。

P: 外れちゅうのはないでしょう。

蜜江田: ここなんかは、家庭崩壊チックなものへの嘆きというか、批判みたいなことですかね。

イコ: うん、るさんは限定的な描き方をしてないと思います。夜のくらい感じは、自分も受けました。

小野寺: そうですね。

イコ: 妻の読み方をすると、なるほど、そうだなー、と思いました。

P: ところが僕はもはやなんの手掛りもありません。

 <<< ここなんかは、家庭崩壊チックなものへの嘆きというか、批判みたいなことですかね なんもわからない……。

小野寺: ただ私はふかまちさんに近い印象だなあ。どうも言葉が滑っているように思える。

蜜江田: すごいフランスかイギリスの夜の街ってイメージなんですけどね。

小野寺: それが何か虚構じみていて。

イコ  自分も同じように言葉が滑っていると思ったんですけど、るさんの詩ってずっとそこからブレないから、そういう芸なんだろうなと納得してしまってます……。

小野寺: あんまりそういうのは私は受け入れられないですね。

蜜江田: 厳しい小野寺批評。

P: でも食傷しました、そろそろ。今までの作品から、単語の使い回しが多い気がします。

イコ: 外国ぽいってのは分かります。日本だったらポロネーズじゃなくて八代亜紀が流れるでしょ、って妻が(笑)。

P: 新しいイメージや構造化に欠けるというか。

小野寺: 新しいイメージか……。いいですね。

ふかまち: イコさんの奥さんの読みすてきですね。イコさんの奥さんのような読みやみすてぃさんのような読みをするような作品なら、読んだひとがフレーズ単位でおぼえてしまうようなものをかけないとかなって思うんですけど。この作品は言葉に使われていてさくひん自体が残らないよなって。

小野寺: 俺より厳しいっつうの。

ふかまち: へへへ。

小野寺: ()

イコ: るさん作品へのみなさんの辛口批評は珍しい気がする。

蜜江田: 僕はるさん作品初めてなので、逆に今までみなさんの期待をおおくせおってきたひとなんだなって今思いました(笑)。

イコ: るさんは、ひょうひょうと書いてるように見えますけどね……(笑)。

小野寺: だいたい合評にはるさんきてまして今回欠席は珍しいのでは。

 <<< 読んだひとがフレーズ単位でおぼえてしまうようなものをかけないとかなって思うんですけど。これは欲しいです、自分も。

小野寺: それはすごい詩人ですね。

イコ: そういうの書きたいもんです……。

 小野寺: 文字を読まない人でも昔の人は石川啄木の詩とか口にしますからね。

蜜江田: 書きましょうよ。隣の客はよく柿喰う客だ。

小野寺: 働けど働けどとか。

ふかまち: 悲しみが汚れてるので無理です。

イコ: 書こうとしてるけど書けてないんだ!笑

蜜江田: 終わりますか?

ふかまち: そうですね

蜜江田: 疲れましたぴよぴよ。

イコ: 疲れますよね合評。

小野寺: ではこれで終わりにしたいと思います。

P: 最後にいいですか。

蜜江田: はい。

P: 「奏ねる」。これ何て読むんですか?

小野寺: 疲れますが明日の糧にしていきましょう。合評参加はツイ文の勲章です。

蜜江田: やった勲章げっと!

イコ: 読めないすよね笑→「奏ねる」。

ふかまち: よめないです!

蜜江田: かねる(笑)。

P: 調べても出てこない……。

イコ: もうイメージは伝わるからいいやって思ってました(笑)。

P: ご本人を見つけた時に聞いてみます。以上です。

ふかまち: ありがとうございました!おつかれさまでっす。

小野寺: ではこれにて終了にします。

 (了)