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■「Li-tweet」(創刊号)第四回合評会

 あんな:「あの子の眼についての法則」

安部孝作:「青い非常階段」  


る(shiroyama): すみません遅れましたが今回このメンツで合評をしたいと思います

annaendo: 了解ですことこ: よろしくお願いしますことこ: はじめまして日居月諸: お願いします

annaendo: よろしくお願いします!

る(shiroyama): えとことこさんはあなパイ繋がりでLi-tweet を読んでもらったそうなので、今回お招きしました

ことこ: 普段は詩と短歌を書いてますことこ: おもしろそうなので覗かしてもらおうかな、と

annaendo: ありがとうございます→ことこさん

日居月諸: 歓迎いたします

る(shiroyama): 安部君ととーいさんからは遅刻の連絡が入っています

ことこ: よろしくです

る(shiroyama): ということで、始めますね。

る(shiroyama): 一つの作品(安部さんのものは作品群単位で)40分を目安にやろうと思います。

annaendo: はい

る(shiroyama): 順番は、安部さんがまだなので、あんなさんの作品からと言うことでお願いします。

annaendo: お願いします

 

 

あんな:「あの子の眼についての法則」


る(shiroyama): それでは、20時50分を目安に。前もって文章など纏めておられる方は貼ってください

る(shiroyama): というか、纏めて~、と言ってなかったので、いないかもしれないですね。

ことこ: (ないです日居月諸: すいません、手ぶらです

る(shiroyama): じゃぁ順番にお尋ねしていくと言う感じでいいですかね?

る(shiroyama): 日居さんから感想、批評などお願いできますか?

日居月諸: ざっくりとした感想ですが。詩が全く読めないもので、掴み所がなかったんですが、眼がどういうイメージへとつながっていくか、それを読んでいる分には楽しかったです

る(shiroyama): 眼にまつわるイメージというのは展開していきましたか?

日居月諸: 「眼を落したあの子」は死ぬ、「まんまるな眼球」は世界に包まれる、そういう言葉が並んだ時、他の言葉に比べて眼は自由だな、と

ことこ: ほう

日居月諸: それがどういうイメージにつながっていくのかは読みとれなかったんですが

ことこ: 普段結構詩は読んでいるのですが、あまり感想とか批評をまとめるのはうまくないので、単純な言葉で申し訳ないのですが、読んで素直に好きだなと思いましたことこ: あと、掲示板の6さんの感想を読んで、「最後は読者としても非常に心地が良かった」とあるのが、私とはちょっと印象がちがうかなと感じました

る(shiroyama): 参考までに6さんの感想も貼り付けておきますね

る(shiroyama): あんなさんの作品でこれまで読ませてもらったものはすべて捉え難いものばかりだった。それは公式にあてはめて読むことができない厄介な言葉の集成であった。それは難解な文章や言葉がちりばめられているという意味ではなくて、さまざまな場所にいくつもの「亀裂」が走っていたからだと思う。「亀裂」というのはこの作者にしか造れない「ひび」でもあったと考える。今回の作品も平易な言葉で綴られているにもかかわらず、単語と単語のおもわぬ場所で亀裂が走っており、「読むこと」をしっかり意識して読まないと振り落とされそうになる。だがこの作者の「亀裂」とはそういった意味レベルの「ひび」でもなくて、あらゆる意味での「転調」が用意されてある。以前にプミさんがおっしゃった「天然的な良さ」というのも作者の走らせた幾つかの「亀裂」の一つだったのではないかと思う。断続的に作品に「亀裂」が入ることは読者としても「不意打ち」を食らうように驚くことができて愉しい。ゆえに読者の「不意」をつく「亀裂」をいかにして、いつのタイミングで走らせるのかと言う<呼吸>がもっと大事にされるべきではないかと思う。そして「亀裂」は積み上げた塔に入るから面白いと思う。今回の詩は詩の部分部分が生き物めいた生温かさを保持しているかのように感じた。さりげなくクールに肉感的な言葉たち。そういう印象をもった。「眼」についての詩であるにもかかわらず、言葉の皮膚で呼吸するような脈動があったように感じた。その息づかいの途中である意味とても残酷に亀裂を走らせていた。背筋が冷たくなるような言葉の連なりが途中にでてきたと思う

そして塔をちゃんと作り上げると言う工程も見逃してはならないはずだ。今回の詩作品は短い言葉のなかにさまざまな色彩があり、色調があった。「言葉の皮膚呼吸」と「亀裂」の相互関係=(アン)バランスがとても良かった。だけど次に散文を書くときには「亀裂」を走らせるための丁寧な準備―塔―を作り上げることに意識を向けてほしいと思った。積み上げられた塔に「亀裂」が入るあの感じを期待する。

穏やかな波の中に誘われる最後は読者としても非常に心地が良かった。暖かい海(母なる海?)に行き着いたようで最後は安心に包まれた。

 

ことこ: 安心、というよりは、かなしさ、を感じましたね。私は

ことこ: まぁ、なにが正しいとかはないんですが。[日居月諸: <<< 他の言葉に比べて眼は自由だな>>>]というのはちょっと、考えてなかった視点なのですが、面白いかもしれないです

日居月諸: 単純に複数回出るから、色々な意味になる、というだけのことかもしれないんですが。ともかく、他の言葉は一度使われたら意味が確定されてしまうけれど、「眼」は捉えどころがないんですことこ: それは、この詩において、ということでしょうか?それとも、この詩に限らず?

日居月諸: この詩において、ですねことこ: なるほど

る(shiroyama): わたしもそれに関してちょっと思ったので述べますね。

る(shiroyama): まずタイトルが「あの子の眼についての法則」とありますが、これは二つの意味でとれるなぁ、と思いました。

る(shiroyama): 一つは、物理的存在としての眼、もうひとつは、「視線」という意味における眼

る(shiroyama): 前者は世界に包まれる物理的存在であり、後者は逆に世界を包み込む(再構築)するもののような気がします。

日居月諸: たしかに

KOUSAKU Abe: iPhone から参加します。遅れました。

る(shiroyama): (よかった、50分まであんなさんの詩についてやろうと思います

annaendo: こんばんは、よろしくお願いします。

日居月諸: (こんばんは)

ことこ: (こんばんは、よろしくです)

KOUSAKU Abe: (了解しました。)よろしくお願いします。

る(shiroyama): 特に最後のページの記述は、世界の中に包まれた「眼」と世界を包み込む「眼」という二義的な言葉を表現しているように思いました。

る(shiroyama): (そうそうですが安部さんもご自由に発言してくださいね
KOUSAKU Abe: 眼というのはしばしば錯覚の器官でありますよね。映画やテレビ、音は確かにそこにあるけど、映像というのは仮象を見せることがある。その幻をみてしまう眼の世界に対する捉えられなさの悲しみを感じました。

日居月諸: 1ページ目には二度「眼」が出てきますね

日居月諸: 澄みきった空気のみが許される下される罪の真下で含み笑いと苦笑いを一度見たことがあったあの眼プラットフォームで許されるだけの血を吐いて(それはとても美しくて)手を握ることがすべての午後だった

KOUSAKU Abe: 眼というのは物理的な表面しか見ることが出来ず、内面を見ることは出来ない。けれど情報量はおおくて、イメージは乱雑にときに調和的に、錯覚的に消え去る。

日居月諸: もうひとつ

日居月諸: あの子の眼についてはすでに様々な憶測がまんべんなく染みわたっていてすでに様々な空論が目の前で独りでにすぎていく花のうえ虫の喘ぎ空虚なあの子の前では星も崩れ手のうちを見せることもしない

とーい(10011040): こんばんは

日居月諸: 前者は世界に包まれた「眼」、後者は世界を包む「眼」と言えます

annaendo: とーいさんこんばんは。

日居月諸: (こんばんは)

ことこ: なるほどことこ: (こんばんは、はじめまして)

る(shiroyama): (とーいさんこんばんは、いまあんなさんの詩を合評中です)

とーい(10011040): はじめまして!>ことこさん

とーい(10011040): (すこしだけ、のぞかせてください)

とーい(10011040): あんなさんですか!

KOUSAKU Abe: 過呼吸気味な詩だと思いました。うえている、あるいはカードを引き当てようとしている。それは視覚的な満腹感への渇望で、みることー見られる物のあいだにある「はりついてとれない」ものを剥がしたい指先の力を感じました。こんばんは。

ことこ: タイトルは「あの子の眼についての法則」ですが、作品中で出てくる眼はすべて「あの子」の眼なのかどうだろうかと考えていました

とーい(10011040): 恋はもうひとりの自分を世の中につくること

とーい(10011040): ことこさんのことばで、ふとおもいだしましたことこ: 4ページ目に「きみ」が出てきますね。「眼は透明で、いつだって、そばにいる、きみが望むゆめの途中にいるよ」この「きみ」は「あの子」なのだろうか、とか

る(shiroyama): >安部さん 過呼吸的な~~ もうちょっと具体的にお願いできますか?

る(shiroyama): 広がりそう

KOUSAKU Abe: 君は現前してる、けどあの子は遠い、目の前の存在じゃないですよね。だとすれば、同じ人物でも見えいてるものは違う。私をみていないあの子、私の周りをみているきみ。

ことこ: ふむ

日居月諸: 「可哀想なのでもうひとつ眼をあげました」

日居月諸: だとすると、この2ページ目の一句、結構重要になってくる気がします

日居月諸: 全体を引用すればもう少し広がってくるかな

日居月諸: 昨日あの子に会いました昔から大事そうにしているものを見せてもらって可愛いので撫でてあげました経験に押し潰されそうな網膜は磁場が不安定だからしかたがないのです昨日あの子に会いました眼の真ん中が透けてました可哀想なのでもうひとつだけ眼をあげました無駄なことなんて何ひとつないことを説明した後でもう戦争が終わったことを教えてもらいました

KOUSAKU Abe: 過呼吸気味というのは、さっきも言った渇望とその空回り。眼というのは観察者であり、常に触れられない孤独と、確信のなさ、緊張感があると思います。そういう必死な感じが、言葉のきれかたとともに過呼吸気味な印象を受けたところです。

る(shiroyama): わたしはその部分は、「視線」をあげた、というふうに解釈しました>日居さん

日居月諸: うん、「視線」ですね。しかも、ここにも両義的な「眼」が存在している

日居月諸: 「経験に押しつぶされそうな網膜」が前者の、世界に包まれる「眼」。「もうひとつだけ眼をあげました」が、後者の世界を包む眼

る(shiroyama): なるほど>安部さん

KOUSAKU Abe: 細部に解体するのがまさに、経験位押しつぶされそうな網膜の防禦反応って感じがします。さらにいえばそれが過呼吸気味の根拠ですかね。

とーい(10011040): 生体反応と法則は同義?

KOUSAKU Abe: 類義でしょうね。

KOUSAKU Abe: なぜ眼を閉じないのか。ここが引っかかるんですよね。

とーい(10011040): 類義ですか。法則というのが、どこか客観的というかさめた視線をかんじました

annaendo: そろそろ時間ですが、質問などあればお願いします。

る(shiroyama): わたしは正直にいってこの詩に関しては、消化不良だったのですが。

annaendo: ほう…表現しきれてない感じですか?

る(shiroyama): 少女性を感じました。多分、「あの子」と想定されている人物にそういうイメージが付随しているのかなぁと。

る(shiroyama): 全体として透明感があって、世界観としてはひとつのまとまりのあるものが、提出されているように感じたんですが、対立項として、作者がこの作品から抜け出た(もう一つメタな視点に立った)ところからの言及が欲しかったな、と思いました。とーい(10011040): ブニュエル

る(shiroyama): ブニュエルは、眼を切りますね

る(shiroyama): まぁ他の方も、何かあれば。

とーい(10011040): よんでいて、おもいだしました>るさん

日居月諸: さっきちょっと言いそびれたことがあったので一つだけ

日居月諸: たとえば他に複数回出てくるものとして「海」があります。これは大抵、物にからみついたり、物を沈ませたり、そういう包みこんでいくものでしかない

日居月諸: それに比べて「眼」は少なくとも二つの意味はある。そして、この二つの意味を持った「眼」が、最終的には「海」によって消されてしまう、と考えると、ことこさんが仰ったように悲しげに思えてきます

日居月諸: 私からは以上です

annaendo: わたしのイメージなんですが眼って何か聖なるものっていうイメージがあって、しかしまた醜い世界とも繋がっていて、それは見る、という行為だと。そういうのを考えていたので視線という単語が出ておお!っと思いました。

る(shiroyama): それでは言い残したことは後に回して、次ぎいきましょうか

とーい(10011040): すみません、ケータイのバッテリー切れのため、おちます><

annaendo: 勉強になる指摘ばかりでした。ありがとうございます。るさんの言うようにメタ的視点を持って詩を書くことはまだできないようです。どうしても過呼吸気味になってしまう^^;

る(shiroyama): 了解です>とーいさん

annaendo: とーいさんありがとうございます

とーい(10011040): ブルーインクという表現がわたしは好きです

る(shiroyama): メタ的というよりも現実のあんなさんの視線も現れ出てくるとまた違ってくるだろうな、というくらいの意味でした。どういうふうに「あの子」の世界に入っていく作者を作品の中に描くか、というか。

KOUSAKU Abe: 吸い込みすぎている(見えすぎている)のが原因かと。細部にこだわるの履いけど、統合されきらないばあいがあります。


あんな:「あの子の眼についての法則」

る(shiroyama): あ、すいませんでは、22:58分を目安に安部さんの「青い非常階段」について話しましょう。

KOUSAKU Abe: よろしくお願いします。

annaendo: そうですね、もう少し消化して書いてみるというのは反省点です。

とーい(10011040): 余談ですが、万年筆好きなので、暗夜走行は表現そのものにグッと来ました

とーい(10011040): おやくにたてず、すみません><

る(shiroyama): (とーいさんバッテリー切れるまで全力で吐き出してください!)

る(shiroyama): ではまたもやトップバッターで申し訳ないのですが日居さんから感想窺ってもよろしいですか?

とーい(10011040): ピコピコいってますが、がんばりますw

る(shiroyama): 6さんの感想も貼っておきます

る(shiroyama): 七編が収録されており、その色合いはさまざまなものがあるなかで共通して感じられたのは「詩の語り手」の不在。私たちはふだん詩を読みなれてはいない。小説ならその語り手が誰かが明示されるはずなのに詩ではその音楽的な言葉の配列を誰が整えているのかを断る必要はないはずだ。つまり詩とは誰でもない者が書いた一つの言葉の集成でしかないだろう。その意味でこの七編の詩は多分に幽霊のような…奇妙な論理に基づかれた詩となっている。行き先を失った感情が言葉の峡谷の中でひびきあい、右往左往している。次の言葉を導くのは以前に置かれた言葉の配列に適応するもの。風景がありそれを見つめる者もいるはずなのに見つめる者が現れる前に詩は扉を閉めてしまう。「わたし」「僕」という一人称だけは現れても、そうした人称代名詞はもはや誰でもない「わたし」「僕」にしか過ぎない。荘厳な言葉とユニークな言葉の交響に私たちが感じたのはそういった詩がもつ当たり前のイメージであった。その意味でこの詩は王道を歩んでいるのかもしれない。

「のこりつづける」「住処」を境にして一人称が「わたし」から「僕」へ変化している。同時に「わたし」は人生を達観視したような感覚をもっているのに対して「僕」はあくまで自分の居場所を求めてさまよう若者を演じている。一つの詩のなかに二つの話者がいるところにどのような意味があるのか。「わたし」「僕」に共通しているのは「眠ろう」としているほかには殆どないように思えるが、二つの一人称の橋渡しは見事にされていると言ってよいだろう。


豊かな風景と色彩のイメージ。雄々しくも枯れた人生感。次々と代わる語り手。この詩を読んで思ったことはそういった中年の味わい深い男性の感覚だ。ウイスキーがなぜか読みながら頭に浮かんだ。熟成された言葉を導き出すのが非常にうまく詩の中に配列されることでさらに醸造されていくようにも見える。一級品の詩のようにも見えるが、既視感をぬぐうことができない。技巧も凝らされていて、詩的イメージをつくることも可能なのだがついどこかで見た詩だと感じてしまう。安部孝作という詩人はどこにいるのか。彼のオリジナリティがどこにあるのか行方を掴めなかったことが心残りだ。しかしこう言った批評を彼は常日頃から少なくともツイ文に置いては受けてきたはずだが。


★二つの詩は最後、両方とも「海」のイメージで終幕している。そこには「蒼」と「青」という違いがあるけれど、「海」をみながら世界と自己をみつめる姿勢は実に偶然な符合になったと思う!

 

日居月諸: 一番面白かった詩は「Ⅴのこりつづける」。わたしだったもの、という言葉から「せめて火にくべてください」の逆説的な表現へとうつるところが面白かったです

る(shiroyama): 燃える、というギミックとしては「Ⅶ 白犬」もそうですよね。この対比が気になりました

る(shiroyama): ことこさんは何かありますでしょうか?

ことこ: イメージの連鎖がおもしろいなぁと思いながら読んでました

る(shiroyama): 「Ⅲ そして蛾は生まれ」とかに顕著ですが、全体として視覚に訴えかけてくる詩篇ですね。

る(shiroyama): あんなさんはどうですか?

とーい(10011040): 老成してるなっておもいました。どこか達観している。けれど、空想でなく、からだを使うことへのあこがれをかんじました。希望がある

annaendo: 全体を通して淡々と進んでいく、という印象がありました。また、言葉の選び方が非常にうまく、6さんが言われているように、安部さんの年齢を考えるとやけに大人びた詩だなぁ、と感じました。

る(shiroyama): とーいさん、あんなさんともに、達観、大人びた、という感じがあったと・

ことこ: わたしはむしろ、特にⅢとか、ちょっとかわいいかんじだなぁと思いましたが

とーい(10011040): 3はかわいいですことこ: w

ことこ: 微妙に文体とか変えてるところが、あきさせないというか、最後までうまくつなげてるなと感じました

とーい(10011040): 老成していて3がきたので、希望やあこがれをかんじました

annaendo: わたしの中で語り手が完全におっさんだったのでこの詩でもおっさんが腹抱えてる図でした。すいませんw

ことこ: Ⅵ住処とかも、いいアクセントになっているなと

とーい(10011040): じぶんにとっては青春の詩です

とーい(10011040): 亜鉛の剥がれ落ちた粉のちらばる踊り場、という表現すきです

る(shiroyama): わたしも住処は特に若さ故の焦燥のようなものを感じました

る(shiroyama): ただ、作者を予め知らなかったらあんなさんと同じ見解になっていたかも

annaendo: 人称が僕に変わってからより青っぽいイメージが強くなったのはそのせいだろうか…

る(shiroyama): 日居さんとしては、全体通してどうでした?

日居月諸: 技巧を凝らしている、という指摘が6さんからありましたけど、随所にそういうところは見られますね

日居月諸: すくなくとも理解できない詩は一つもありません

日居月諸: この言葉がこういう意図をもって配置されているんだろうな、というのはよくわかる

日居月諸: ただ、その読者への親切めいたものが、6さんにとっては不満だったんでしょうね

日居月諸: 詩は理解できるか、理解できないか、という二分法で語れるものではないと私は思っているんです。単純に言葉が詩の中でどういう位置を占めているかということを示せているかが大事なだけで

る(shiroyama): 長文書くんで失礼。誰か進行頼みます

日居月諸: その点、簡単な解釈に落としこめるきらいは全体を通じて感じます

ことこ:  [annaendo: <<< 人称が僕に変わってからより青っぽいイメージが強くなったのはそのせいだろうか…>>>]

だんだん若返っていっている、というふうに読むと、おもしろいかもなーと思いながら読み返してみていました

とーい(10011040): 詩と読み手への親切の関係はきょうみがあります

ことこ: Ⅰで「わけへだてられる/わたしとわたし/遠くへと飛び去る」とあるのも暗示的な気がして

とーい(10011040): 恋愛っぽい

annaendo: 最後の二編がすごく好きです。一番尖っていると思う。素直にかっこいいと思った。

とーい(10011040): たしかにかっこういいことこ: かっこういい

KOUSAKU Abe: 恋愛っぽいと言うのは具体的に? >とーいさんかっこういだなんて、みなさんありがとうございます。

annaendo: 白かぶらのような水死体、かっこういい!!

annaendo: なかなか出てこない、この表現

とーい(10011040): 蛾は生まれが、とても恋愛っぽいなあと

とーい(10011040): わたし、お恥ずかしいのですが、最初は生命の誕生を描かれた詩なのかなとおもってました

KOUSAKU Abe: なるほど なるほど>とーいさん

とーい(10011040): 受精するところからはじまる

KOUSAKU Abe: <<< なかなか出てこない、この表現ありがとうございます。 >あんなさん

とーい(10011040): とにもかくにも、老成した表現のなかに、かくしきれない若々しい漿液をかんじました

る(shiroyama): この詩篇全体を通して、若者の苦悩、というものをかんじました。「Ⅲ そして蛾は生まれ」では「決して眠れなどしなかった」とされ、ある意味で、「不安と言う病気」の最初の兆候である「不眠」というものが描かれていて、「Ⅳ 眠れぬ夜」に接続されている。「Ⅵ 住処」では「自らの居場所の無さ」というものが描かれて、さらに、「マンホール」では「裏切られた子供たち」ときて、ここまで来ると、トリュフォーの「大人は判ってくれない」をイメージせずにはいられませんでした。そういう意味では、わたしは、この詩篇において一人称がただの記号になっているという印象は受けなかった。「大人は判ってくれない」という映画では、ラストシーンで主人公ドワネルが海を眺めるシーンが突然反転して海サイドからドワネルを描くという視覚的な効果がなされており、あの映画は若者の苦悩をもっとも端的に表現した名作だと思っているのだが、それは「理想」への憧れ=海を見つめる と その到達不可能性=海に見つめ返される、 という二つの契機によってなりたっているように思える。この詩篇の最後でもまた、「海」というものが描かれているが、この「海」もまた屈折したものである。希望と絶望の同居、その観念をひとつの物象として、「鏡に写ったくすんだ青」と表現したのは上手いと思う。で、そっからの話になってくるんだけども、この詩篇を、青春に捧げた詩篇で終わらすのか、その先まで描くのか、という点で。もちろんこの年代にしかかけないものというのは確実に存在するので、それを描くのは間違いではない、間違いではないとは思うのだが、そうなると結局中身勝負になる、いかに魅せるか、いかに面白いか、ということになるのだが、わたしの場合この詩篇に、圧倒的な技巧や、圧倒的な内容を見出すことはなかった。わたしは後者を目指すべきと感じた。「若さ故の苦悩」というおそらく作者が一番リアルに感じているであろう「形式」の脱臼、内部からの攻撃による、外枠の変形、そこまで狙って書ければ、すごいと思ったのだが、先述の通り、わたしのこの詩への接近は「トリュフォー的な」という言葉、で終わってしまった。という印象を持ちました。

 

KOUSAKU Abe: なるほど。長文感想ありがとうございます。より形式を意識しないといけませんね。

る(shiroyama): もちろん一意見ですので~

る(shiroyama): ということで大体時間にはなりましたので、なにか言い残したことあればどうぞ、作者も含め。

KOUSAKU Abe: 大体の意見として、主体のみえ無さというものに、僕個人はなかなか作者として納得できなかったのですが、最後にるさんがそこはクリアされているといってくれてすっきりした感じがします。あと、詩集ととしての構成に言及された感想が多かったのも、印象的で、逆にいえばやはり、一篇一篇の強さがまだまだ足りないな、と痛感しました。

KOUSAKU Abe: あと、大人びた感じ、というのは、どこからくるのかが気になりました。自覚できていない部分があると怖いので。

る(shiroyama): どうだろう、大人びた、というのは時折文語がまざるからではないかしら

annaendo: 漢字の使い方ですかね?しかしみなさんの意見を聞いて少し見え方変わってきてますが。

KOUSAKU Abe: なるほど。言葉の年齢ひとつひとつにもっと向き合おうと思います。勉強になりました。あと、トリュフォーのその映画、今度見てみようと思います。

KOUSAKU Abe: みなさんありがとうございました。

る(shiroyama): それではLi-tweet12月号最後の合評会をこれにて閉幕とさせていただきます。