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作品紹介の資料(レジュメ)

Skypeでの作品紹介で使われたレジュメを公開しております。更にtwitter文芸部を肌で感じるのにお使いください。

 

 

 

ここからプミシールのレジュメ内容

 

マヌエル・プイグ著「蜘蛛女のキス」について 

 

<会話による小説>

・地の文=描写がないことの問題 → 表情、動作、心情、場所(風景)

・語り手の不在 → 登場人物たちと読者との“等しい近さ”

・“読む流れ”の中断と感情移入

・語り聞かせと盗み聞き、クロースアップ

 

<映画>

・物語内物語の効果

・語られ方の変化

 

<映画「黒豹女」のあらすじ>

動物園の黒豹の檻の前で絵を書いている女がいる。そこに偶然、若い建築家の男が現れる。女は外国人であったが、やがて二人は恋に落ちる。しかし女の様子には少しおかしいところがあった。女は男に真相を話す。自分の祖国に伝わる、悪魔と密約をかわし、キスした男を黒豹に変身して食い殺した、黒豹女の伝説を。そしてその子孫が今も生きており、それが自分かもしれないと。男はそれでも女を受け入れ、やがて二人は結婚するが、女のキス(肉体関係)に対する躊躇は改善されない。男は女に精神科に通うのをすすめるが、女は精神科医の男が彼女を性的な目で見ているのに気付き、夫に黙って通うのをやめる。二人の間には誤解、すれ違いがおこり、女は、夫が同僚の女友達(実は男に恋心を抱いている)と浮気をしていると思いこんでしまう。嫉妬した女はついに正体をあらわし、悲劇が訪れる…という、ラブロマンス/ホラー映画。

 

<様々なテキスト>

・脚本のような対話

・手紙

・報告書

・脚注(後注)

 

<作者について>

1932年、アルゼンチンに生まれる。イタリアに留学し映画を学び、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルネ・クレマンなどの助監督を務めるなどし、自身も映画監督を志したが挫折。ニューヨークに渡り、処女長編「リタ・ヘイワースの背信」を発表。アルゼンチンに帰国し2作品を発表。その後は国外に脱出し、亡命生活を送りながら作品を発表し続け、90年に死去するまでに全部で八つの長編小説を残した。「蜘蛛女のキス」は第四作目の長編小説。

 

 

 

 

 

こちらからイコのレジュメ内容

 

流れにひそむ文学の「穴」を見つける 

~若い作家のための丸山健二

文責:イコ

対象作品:『夏の流れ』丸山健二(講談社文芸文庫)

 

【はじめに】 

丸山健二は1967年に表題作で第56回芥川賞を受賞している。丸山は当時230カ月で、これは2004年に綿矢りさに破られるまで最年少記録であった。当時の選評を見ると、やはり若さを買っているものが多い。しかし青年作家にしては冒険が少ない、との意見もある。しかしあえて言うのだが、この作品はなぜ「若さ」を中心に語られなければならないのか。若いこと、冒険が少ないこと、こんな文脈では選考会もさぞつまらないものであっただろう。丸山健二が後年、文壇ぎらいになったのもわかるというものである。「夏の流れ」には、まぎれもなく文学の言葉の連なりがある。また問題提起がある。さらには問題を深めるための、おそろしいまでのテクニックがある。ここでは表題作にまとをしぼり、「若い作家としての丸山健二」ではなく、あえて、「文学を志す若い作家のための丸山健二」を語りたいのである。

大枠を以下に示す。

 

・人を殺して刑務所に入った者は「人間」ではないのか?

妻の、「人間じゃないわね」という言葉。それに対する刑務官の、「人間さ」という言葉。一見平和な日常にまぎれこむ、細かいヒビのような対立から小説は始まる。本作はさらっと読めるので見落としてしまいがちだが、対立と問題提起がいたるところにひそんでいる。

・それでは死刑を執行する立場は、「人間」なのか?

気に入らない囚人に対して、「あの野郎のときは俺がやってやる」と述べる堀部。死刑囚を「人間じゃない」「人でなし」と言いながら、死刑の壇上に立たせる刑務官たち。法のもとに人を殺していることには変わりはない。それでは刑務官は「人間」なのだろうか? 

・死と生を意識させるいくつものエピソード

生きている子どもたちが刑務官の両腕にぶら下がってくる。「ぶら下がる」と言う何気ない言葉にひそむ、不穏な空気。生まれてくる3人目の赤ん坊の存在と、次に殺される死刑囚の存在。釣りをする刑務官。釣りとは、命をもてあそぶ行為である。その行為への無自覚さ。丸山はテーマを深くするエピソードを随所に盛り込んでいく。 

・3人の刑務官の立場のちがい―「私」「堀部」「中川」

「私」は中堅の刑務官である。赤ん坊の誕生を間近に控え、仕事をしながらも、生活のことを考える。そのなかで、死刑執行の立会という、臨時手当をもらえる仕事を増やすことを考える。「何を考えているんだ」と打ち消すシーンに、「私」の迷いが見られる。「堀部」はもっと快楽的である。気に入らない囚人を自分の手で殺してやろうと考える。立会に選ばれなかったことに対して、「代わってくれ」とまで言う。「中川」は二人を、一歩引いた目で見つめる若い刑務官である。かれはこの仕事を「下劣」と言い、二人がこの仕事を「好きでやっている」と言う。3人の立場のちがいが、作品の読みとりの幅になる。読者は誰に考えを重ねてもよい。幅をつくっていく、ということは作家にとって重要である。 

・文章を減らしていくことの意味(方法の選択)

本作の筋は単純で、文章も明快、量は少ない。ただ筋だけ追うのであれば、30分も要らない作品である。なぜこのような描き方をしたのか。読みやすさにひそむ、無数の穴を見つけなければならない。タイトルをもう一度見つめてみる。「夏の流れ」とは、一体どういうことなのか?

・流れを意識して描かれる停滞

「私」の一家や刑務官たちの会話、刑務所の外側の描写を見てみるとよい。風が吹くように、そして水が流れるように、あっさりとページは進んでいく。それに比して、刑務所内は重々しく停滞している。流れがとまっているのである。テーマを深くするために、さまざまなテクニックを駆使した小説である。 

・「で、何が言いたかったの?」に対する、結論のない終幕

文学は落語ではない。よって「オチ」も必要ない。「で、作者は何を言いたかったの?」という言葉を感想としてもらす読者は甘えきっている。われわれ読者は不安にかられながらも、そこに描かれていることそのものを呼吸すればよいのだ。作者がどの立場であるか、という事が重要なのではなく、そこからわたしたちが何を考えるかが重要である。作者としてのわれわれも、そう考えておくべきだ。立場の押しつけなど必要ない。