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引き裂かれる小説家――日本小説技術史を読む・第2章――

 

日時:3月8日20時~22時半

対談者:日居月諸、小野寺那仁

 

■馬琴の呪縛から逃れる四迷

 

日居月諸: それでは「日本小説技術史」読書会を始めましょう。
小野寺: よろしくお願いします。
日居月諸: 今回扱う二章とも関連するので、前回のおさらいから始めましょう。(12月号の対談参照)
小野寺: 了解です。
日居月諸: 第一章をざっくりと説明すると、著者は明治文学の起源を(滝沢)馬琴に求めていました。
日居月諸: 馬琴の小説にあまねく見られる技術が「偸聞(たちぎき)」、登場人物が他の人物の会話を盗み聞きする、というものでした。
日居月諸: この技術には、叙述を省略化するほか、様々な効用があり、明治文学を始めるにあたっては、これがネックとなっていた、と著者は説明します。
日居月諸: たとえば、坪内逍遥はこの立ち聞きから逃れようとしましたが、結局のところ彼の小説には、立ち聞きが頻出する通り、この呪縛からは逃れられなかったと言います。
小野寺: 逍遥は自ら「馬琴の死霊」に呪縛されていると言っています。
日居月諸: さて、第二章の話に入りましょう。
日居月諸: 第二章ではまず二葉亭四迷が呼び寄せられます。
小野寺: 「つまらぬ世話小説」
小野寺: 四迷は「浮雲」で故意に平凡なる不完全な人物を主人公としている。
小野寺: これは四迷の独創と言うよりはロシア文学をそのまま移植したために起きたのではないかと思う。
日居月諸: 四迷以前の小説では魅力的な主人公が登場しているのに、という話ですね。
日居月諸: たとえばヘーゲルは小説を近代市民の叙事詩と定義していました。四迷にはこの考えがどこかから移植されていたのかもしれません。
日居月諸: そうした明治以前の流れから切断された平凡な主人公と相即するように、四迷の小説「浮雲」では馬琴以来の「偸聞」がなくなっている、と著者は指摘します。
小野寺: 障子や襖は偸聞小説にとっては重要なアイテムなのだけど、話しているのに主人公が聴いていなかったり、聴いている途中で襖が開いてしまったりなど意図的に偸聞小説を破壊しようと試みている。
日居月諸: 「偸聞」のみならず、『浮雲』には「夢」も登場しない。徹底的に奇遇奇縁が排除されているのです。
日居月諸: ただ、『浮雲』には唯一文三が入眠していくシーンがあると引用されています。ここでは単に場面が引用されているだけで、その意図は説明されていませんが、後々の論点とも直結するので、あらかじめ言及しておきましょう。
小野寺: で、密着と置き去りに移るわけです。
日居月諸: 節がかわって論点が変わりますね。

 

■引き裂かれる四迷

 

小野寺: ここからは三人称多元視界の話になります。
日居月諸: 『浮雲』では三人称多元を使いながらも基本的には主人公内海文三の視点から物語が進められます。
日居月諸: そこで、著者は二つの内面描写の方法を引用します。
日居月諸: その一つは、「視点描写」。簡単に言えば、主人公の見る風景を描写しつつ、内面を間接的に描いていくものです。
日居月諸: もう一つは「内的独白」。「意識の流れ」に代表されるような、直接的な内面描写です。
小野寺: 三人称多元の定義は任意の一人物の視点へと随意に下降する上下移動、別人物に転じ変える水平移動(渡部)
日居月諸: これが(文三への)「密着」ですね。
小野寺: これについてはかなり詳しく論じられていますが、ここでは本筋を優先します。
日居月諸: 一方、「置き去り」は視点が別人物に移ることを指しています。そして、この「置き去り」は他の人物が文三を置き去りにすることだ、と著者は指摘します。
小野寺: (浮雲)観菊の場面は前段で文三に感情移入して読み進めるとまるで自分が置き去りにされて、恋人と恋敵が楽しく過ごしている様子を読まされるような感が起き、非常に印象付けられる効果を備えていると思います。
日居月諸: 実際、観菊の場面以降、三人称多元だった文章は、実質文三の内面描写だけが続くものとなっていきます。
日居月諸: 四迷の叙述のコントロールがつかなくなっていくと著者は指摘しているんですね。
日居月諸: それまでは文三以外の人物の内面もある程度描かれていたのですが、途端にお勢を始めとして、語り手は人物の内面を描けないと言いだすようになる。
小野寺: 文三の内面と言うよりも文三があれこれ妄想を抱いてそれをいちいち描写するものだからややこしくなるんですよね。
小野寺: それに二葉亭はお勢を活写してしまったから文三とのバランスがとても悪くなってしまう。
日居月諸: ただ著者は一概にそれを否定しません。むしろ叙述の方法と物語が上手くリンクしている成功例だとして評価している。つまり、三人称多元における視点移動による文三の置き去りと、実際の物語における文三の置き去りです。
日居月諸: とはいえ、四迷は『浮雲』を中絶してしまう。
日居月諸: 三人称多元だったはずなのに、文三の内面描写が肥大してしまったので、物語を進めるためのバランスが取れなくなってしまった、というのが著者の『浮雲』中絶の見立てです。
日居月諸: ここで著者は文三が「根なし草」になってしまったと言います。三人称多元からも分裂した、お勢からも切り離された、そして官吏もクビになってしまった。
小野寺: いきなり後藤明生にまで飛んでしまうんですよね。
日居月諸: それだけでなく、著者は話者である四迷を、物語を統御する事が出来なかった存在として定義します。要するに四迷もまた官吏失格となったんですね。
小野寺: 破綻した官吏とまともな官吏という対比が出てきます。もし後藤のように開き直って分裂した作中人物と分裂した書き手を四迷が引き受けるなら書き続けていたかもしれないけれども四迷はできず、筆を折ってしまった。
小野寺: ではまともな官吏とはだれかということで著者は鴎外を引き合いに出します。

 

■分裂を統制する官吏・森鴎外

 

日居月諸: まず、鴎外は日本における一人称の創設者として定義されています。それまでの一人称小説は単に「私」を主語としているだけで、実際は戯作などの説明役ポジションから抜け出せていなかったのですが、鴎外は見事に視点人物となる主人公を一人称で書きあげた、と紹介されている。これは意外でした。
小野寺: 私も意外でした。鴎外がトルストイを読んでいたということも。また一人称小説は源流を古典の枕草子や方丈記に置いていると思っていたので。
日居月諸: 語り手として統一された自我を鴎外は書き上げた。四迷の分裂した自我と違って。鴎外の処女作である『舞姫』も念頭に置きつつ、著者はこれこそまともな官吏である、と説明しています。
小野寺: 此処で鴎外の近代性として比喩の使い方が優れている点を挙げています。
小野寺: 大臣を屋上の禽に例えます。
日居月諸: ドイツ語では屋上の禽(鳩)の反対物として「手中の雀」がいる、という話を持ち出してきますね。
日居月諸: 『舞姫』の本文に「手中の雀」は出てきませんが、暗示的に描かれているも同然です。そして、この雀がエリスだと著者はいいます。
日居月諸: そして、『舞姫』の冒頭では実際に「飢え凍えし雀」が出てくる。エリスが冷遇されることを先取りしているんですね。このように、鴎外の比喩は有機的に結びついているのです。
小野寺: 石橋忍月の指摘で鴎外自身は肯定していないんですが、渡部さんはこの説を採用しています。
日居月諸: そしてこうした有機的な比喩は鴎外における夢の描写にも通じています。たとえば、『文づかひ』の夢も、小森陽一が合理的だと評するように、出てくるもの全てが象徴的な意味を帯びています。

 

 聞き畢(おわ)りて眠に就くころは、ひがし窓の硝子はやほの暗うなりて、笛の音も断えたりしが、この夜イイダ姫おも影に見えぬ。その騎(の)りたる馬のみるみる黒くなるを、怪しとおもいて善く視れば、人の面にて欠唇なり。されど夢ごころには、姫がこれに騎りたるを、よのつねの事のように覚えて、しばしまた眺めたるに、姫とおもいしは「スフィンクス」の首(こうべ)にて、瞳なき目なかば開きたり。馬と見しは前足おとなしく並べたる獅子なり。さてこの「スフィンクス」の頭(かしら)の上には、鸚鵡止まりて、わが面を見て笑うさまいと憎し。

(森鴎外『文づかひ』)

 

日居月諸: 著者はここで再び四迷を話題に上げます。
日居月諸: 先程も話に出した、四迷の唯一とも言っていい夢のシーンです。

 

(…)今まで眼前に隠見(ちらつい)ていた母親の白髪首に斑な黒髯が生えて……課長の首になる、そのまた恐(こわ)らしい髯首が暫らくの間眼まぐろしく水車(みずぐるま)の如くに廻転(まわっ)ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰(そうごう)が変ッて……何時の間にか薔薇の花掻頭 (はなかんざし)を挿して……お勢の……首……に……な……

(二葉亭四迷『浮雲』)

 

日居月諸: 四迷の夢の描写には首が頻出します。これはいわずもがな、馘首(クビ)の暗喩ですが、そこには象徴的な意味もなく厚みもない。
日居月諸: 四迷の夢のシーンを模倣したと思われる鴎外の夢の描写とは歴然たる差です。
日居月諸: 著者はこの四迷と鴎外の相克は、現代にも通じている問題だと言います。分裂した語り手と、物語に忠実な語り手。
日居月諸: あらすじはこんなところでしょうか。
小野寺: はい。
日居月諸: 小野寺さんは今回読んでみてどうでしたか?
小野寺: 感想としては小説を書く上で、想定読者を意識した場合、最高の読者はここまで読んでくるという感覚を得ました。それから明治期の作家たちが最新の小説を明治の現実を顧みずにチャレンジした点も興味深かったです。彼らは(一般的な)読者の存在を想定していなかったんでしょうね。
日居月諸: 私の感想としてはとにかく小説が書きたくなりました。あらすじを説明しましたが、割愛した部分が多いです。むしろ、そっちのほうに参考になる部分が多い。
小野寺: ありがとうございました。