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追憶の晩鐘:七夜月尚

「露ちゃん。わたくし、もうすぐね、神様の御国へ旅立つのよ」

仄白き小さいお顔を真っ直ぐに私のほうへ向けて、震える声でお姉様は仰るのです。

季節は、あれほど待ち侘びた春でした。

病室の窓から見える、咲き綻んだ染井吉野の花弁が、繊細なレース編みの小物のように儚げに重なり合って、省線電車の線路沿いを飾り、たった今まで私たちの目を楽しませていた筈でした。

「どうしてそんなことを簡単に仰るの!そんなことをおっしゃっては嫌!」

一番お辛いのはお姉様なのだ、と頭では分かっていても、もう何もかもを悟っていらっしゃるようなお姉様の眼差しが悲し過ぎて、堪らず私は大きな声で責めてしまったのです。

お姉様の病の床は、省線を臨む丘の上の慈善病院―とは名ばかり、結核患者を隔離しておくための施設の四階、東の角にありました。

あゝ、私のたった一人のお姉様!二つ歳上のこの美しい姉を想う気持ちにつける名を、私は知りませんでした。また、知りたいとも思いませんでした。

お姉様が今日も私と共に在る。それが、十五歳の私の幼い人生の全てだったのでございます。

 私の物心がついた頃には、菫の香水馨る白いうなじを淡い面影に遺して、お母様はこの世を去っておられました。お父様は、私たちの知らない何処か遠い外国で、商いをしておられるようでした。そして、日本へは、お母様を亡くしてからは特に、滅多にお帰りにはなりませんでした。お姉様と私とは、お姉様が五歳、私が三歳のときに母方の伯父様の家に預けられました。伯父様は、帝国大学をお出になった後、お嫁さんもお貰いにならず、英吉利やら亜米利加の本を翻訳することを生業にしておられました。一日中書斎に籠りきりで、偶に廊下などで顔を合わせても、「おお」とか「ああ」とか、口の中で、もごもご仰るだけの伯父様でしたが、それでも、私たちを見る目には、憐憫と愛情らしきものが混ざっていました。この家には伯父様のほかに、おばあ様の代から仕えている、およねという無口で背中の曲がった女中さんがいました。およねさんは料理や掃除や、こまごまとした家の中のことを一手に引き受けていましたが、なかでも料理の腕前は確かなもので、三食のお膳には、彼女の、哀れな親なき子らへの思い遣りを感じずにはおられませんでした。

淋しく侘しい気持ちは、川底の小石のように常に在ったものの、周りの静かな愛情を受けながら私たちは育っていったのです。幸いなことに、お父様は、養育費だけはたっぷりと、本当に、たっぷり過ぎるくらいに送金してくださいました。着るものや持ち物で、なにか周囲に引け目を感じたことはありませんでした。県下では名の知れた中高一貫のK女学院に揃って通うことができたのも、お父様の藩主にあたる、とある伯爵家から奨学資金のようなものを受けたからですし、「女に学問など不必要だ」などと五月蠅いことを、お父様はおっしゃいませんでした。実際には、娘たちに適当な嫁ぎ先を探すことさえも煩わしいくらいに、ご自分のことに忙殺されていただけだったのかもしれませんが。

お姉様は病に伏すまでは、古い陰鬱な邸の隅にあてがわれた一室を、姉妹のささやかで可愛らしいお城に整え、母の遺せし紫檀の姿見の前に私を座らせて、毎朝、色素の薄い、癖のある髪をくしけずり、細い紺色の天鵞絨のリボンを、こめかみの位置に蝶々結びがくるようにして丁寧に結んでくださったものです。お姉様の、長く、ものさしで引いたように真っ直ぐな髪は、英吉利の女王が葬儀で身に着ける希少な黒い金剛石よりもなお黒く輝き、楊貴妃を飾ったという錦よりもなお艶めいて、華奢なその肩に更々と揺れるのでした。

「お姉様の御髪(おぐし)、なんてきれいなんでしょう」

と私がため息交じりに感嘆の声を上げると、

「有難う。でもね、露姫の髪、わたくしとっても好きよ。お日様の光みたいに柔らかくてラファエッロの天使様のようじゃないの」

とお姉様はこの上なく優しく、私の癖毛を梳いて下さるのでした。そうして、海老茶色の袴に菖蒲の柄も鮮やかな銘仙を合わせ、私のすぐ横に並んで女学校までの道程を歩いてくださったお姉様は、観音様の化身に見えたものです。師走の声をきくまでは、そんな平穏で幸福に満ちた日々が続いておりました。

十一月の最終金曜日。

その日、授業がすべて終わり、教科書やら帳面やらを鞄に片付けていたときに、私は自分の机の中に小さく畳まれた水色の紙片を見つけました。校章が小さく印刷されたその紙を広げてみると、ブルーブラックのインクでただ一言

『汝ヲ神ノ人ガブリエルニ任命スル』

とだけ書かれていました。

私はすぐに、その意味するところを理解致しました。私たちの学校では、毎朝の通常礼拝の他に師走の十八日から一週間、基督様の御生誕を祝う礼拝が行われるのですが、丁度、御生誕日の前日にあたるイヴの日に本格的な生誕劇を礼拝堂で行うのが歴史ある伝統行事だったのです。劇の配役を決める上では幾つかの不文律のようなものが存在しておりました。

それ即ち、

一つ、羊飼い役とヨセフ役は最上級生の中から最も健康で背が高く下級生の尊敬を集める仁徳者を選ぶべし。

一つ、東方の三賢人役は高等部の中から成績優秀で品行方正な者を選ぶべし。

一つ、受胎の告知天使ガブリエルは中等部の中から最も目方が軽く愛らしい見た目の者を選ぶべし。

一つ、聖母マリアは高等部のなかから最も見目麗しく色白の者を選ぶべし。

というものでした。

生徒たちの意見を取り入れつつ、学校側が配役を決定し、年若いシスターがこっそりと気付かれないように該当の生徒の机に紙片を忍ばせておくのが慣例でした。実を申せば、私がガブリエルに選ばれてしまうのでは、という危惧は前々から抱いておりました。なにしろ私ときたら中等部の三学年に上がっても背丈は新入生とさして変わらず、目方も十貫あるかないかといった具合で、料理上手なおよねさんが拵えてくれるお膳も、少ししか食べられませんでした。心配したお姉様がこっそりと百貨店で買って来てくださる、舶来のボンボンやチョコレイトは嬉しかったけれども、そんな心尽くしのお菓子も、私の身をちっとも太らせてはくれませんでした。そんな訳で目方の軽いことに関しては仕方ないと諦めるしかなかったのです。しかしながら、愛らしい見た目という点については、私はいくら級友たちが褒めてくれても、自分の貌が全く好きではありませんでした。

目はどう見ても大きすぎ、団栗がひっくり返ったみたいだと常々思っていましたし、鼻と口は逆に小さすぎて玩具のようでした。髪の毛にいたっては色素が薄いうえに始末に負えない癖毛でしたから…。この見た目のせいでお姉様のお下がりの可愛らしい銘仙も袴もちっとも似合わないんですもの。けれども、購買部で安く買うことのできる御絵(これはシスターたちがおつとめの一環として描いておられるものでした)に描かれる告知天使の御姿が、級友たちの指摘通り私に似ているらしいことは、どうやら認めないわけにはいかないようでした。その迷惑な御絵が出回ったおかげで、下級生たちの一部からは「ガビィ様」などという甚だ不敬な綽名を付けられてしまい、生誕礼拝でガブリエル様を演じるのはほぼ確定、と周囲にもそれとなく囁かれておりました。そんな訳で、落胆はしましたがそれほど驚くことはなく、ため息とともに紙片を仕舞い、役を頂いたことを報告しに、お姉様の教室に赴いたのでした。いつも通り、教室の一番後ろの、銀杏の木が美しく見える窓辺で待っていてくださる筈のお姉様はしかし、教室の真ん中で沢山の級友に囲まれて困惑した様子で立ち尽くしておられました。

「うれしいわ、佐伯さんが選ばれるなんて!」

「我がクラスの誇りよ」

「あら、最初から佐伯さんが選ばれることはわかっていてよ」

口々に興奮した様子で騒ぎ立てている人たちに、曖昧な笑みを浮かべていらしたお姉様は、ふとお顔をお上げになり、所在無げにしていた私に気付いてくださいました。

「露ちゃん。待たせてごめんなさいね。では、皆様……。妹が参りましたのでわたくしはこれで。ごきげんよう」

小走りに駆けていらしたお姉様は、私の手をお取りになり、そして教室の方に軽く会釈をなさったあと足早に学舎の外にお出になりました。校庭の銀杏の木々は、黄金の舞扇のような豪奢な葉をたっぷりと揺らしておりました。冬の到来を告げる、しんと澄んだ冷たい風が時折、私たちの頬を撫でてゆきました。お姉様は、つとその細い指先に一枚の落ち葉をくるくると踊らせながら、無言のまま歩いておられましたが、焦れた私が

「お姉様、先ほどはクラスの方々、何を騒いでおられましたの?」

と訊ねますと、

「露ちゃん、困ったわ。わたくし、御生誕礼拝のマリア様に選ばれてしまったわ」

と頬を少し染めながら小声で仰いました。

まあ、では私が救い主のご懐妊を告知する聖母様は、お姉様なのだ!

私は先程まで、自分が任命されて困っていたこともすっかり忘れ、

「お姉様がマリア様なんて素敵。お姉様には永遠の処女(おとめ)がぴったりですもの」

とはしゃぎました。

「お姉様、露ね、露はガブリエル様を演じますのよ。お姉様に神さまのお声をお伝えしますのよ。さっきまでそんなに目立つことをするのは嫌で仕方ありませんでしたけど、お姉様も一緒なら露は喜んで、このお役をつとめてよ」

お姉様はそのシリウスの如き瞳を一瞬見開かれ、そして、わずかに三日月のかたちの眉を顰められました。

「露姫が天使様に選ばれることは、ねえさまにもわかっていたわ。露路はほんとうに愛らしい自慢の妹ですもの。その栗色の巻き毛も、さくらんぼのような唇も。笑うとクリームを窪ませたようなえくぼが出来るところも。だけど、ねえさまは体も弱いし、こんなに日本人的な顔をしているのにマリア様だなんて滑稽だわ。困ったわ」

お姉様がご自分のことをねえさまと言い、私の名前を呼び捨てになさるときには、本当に怒っていらっしゃるときか、困っていらっしゃるときなのです。ですが、お姉様は本当に、ご自分の美しさを分かっていらっしゃらないのだわ。K女学院の佐伯薔子(そうこ)といえば、峰の桜か谷の百合か、と謳われるほどの麗しき眉目であるものを!お姉様は、私と違ってすらりと背が高く、居間に飾ってあるジュモーのアンティークドールよりも白き、陶器の肌をしておられました。月光注ぐ庭の鬱金桜を背に、露台(バルコニイ)の欄干に凭れ、テニスンやブラウニングの詩集を繙きながら涙さしぐんでおられる御姿は、アルテミスと見紛うほど、凛々しく神々しく、お姉様のそのような、心ここに在らずといったご様子、学校では絶対にどなたにもお見せにならないご様子を目にする度に、胸がきゅうっと締め付けられるような幸福に、目眩がしそうな気がしたものです。学校には、お姉様の強烈な親衛隊も幾つか存在しておりましたし、お姉様の御机には頻繁に、小さな花束やらお手紙やら刺繍の入った(ハン)(カチ)やらが入れられておりました。私は、妹であるという一点のみにてお姉様の愛情を独り占め出来ていることを、重々承知しておりました。でなければ、お勉強も余り出来ず、かといって運動のほうもそんなに得意ではなく、お姉様に面倒を沢山みていただいて、やっと日々の課題をこなす味噌っかすの私など、お姉様の腰元として相応しくないのは、誰の目にも明らかでしたから。

さあ、そうして、聖劇に向けての練習がはじまりました。

ガブリエル様の出番は三回あります。

一度目は、マリア様に救い主の懐妊を伝える場面。

二度目は、羊飼いたちに救い主の誕生を知らせる場面。

三度目は、無事に厩でお生まれになった御子を祝福するクライマックス。

マリア様に受胎告知をする場面の練習が、とても大変なのでした。

裏方の生徒が天幕の裏で、背の高い梯子を支え、私はその上で腹這いになって上半身だけを、さもたった今、天空を飛んできたような涼しい顔で出して、マリア様にお声を掛けるのです。緋色の緞帳をうまい具合にして、梯子と下半身が見えないように上手に上半身を神々しく(・・・・)出さねばなりません。目方は軽いものの非常にどんくさい私は、梯子のてっぺんから落ちそうになるわ、着物の裾を梯子の金具に引っ掛けて倒しそうになるわで、裏方の先輩方をはらはらさせっぱなしでした。

「佐伯さん、あなた、少しはバランスをとる努力をして頂かないと!私たちもあなたも怪我をするわけにはいかないんですよ。大事な聖劇を前に!」

道具係のまとめ役をなさっている、うるさがたの先輩、高等部の二年生、水内さんにお小言を戴く度に、私は舞台上で、淑やかにマリア様の動きをおさらいされているお姉様の方を、ちらちらと盗み見ずにはいられませんでした。お姉様がそんなことを思うはずはないと思っていても、いい加減、私にがっかりなさるのではないかと、気が気ではなかったのです。ですが、お姉様は真っ直ぐに前を向いて、熱心にヨセフ様役の最上級生―佐々野珠湖さん、最上級生のなかでも特に背が高く、涼しげな眼差しと物静かな雰囲気をお持ちの佐々野さんと、ベツレヘムへと向かう旅路の困難さを歌う聖歌に合わせてお動きになる練習をなさっていて、私の情けない様子には、ちっとも気付いておられないようでした。ほっとする反面、私は、いかにも仲睦まじい様子を演じておられる、マリア様とヨセフ様になんとも言えない淋しい気持ちを覚えました。それは一つには、お姉様が私以外の人間にあんなに長く寄り添っておられるのを、初めて見たからでもありますし、お相手がなんと言っても、あの佐々野さんなのですもの!

佐々野珠湖さんは、お父様は大学の教授で、お母様はピアノの先生をなさっているという噂でした。浅黒い肌に、頸のあたりで揃えた黒髪、理知的な瞳の輝くお顔は、彫が深く、その秀でた額に星をいただいた様なご様子は、例え、御本人がいかに控えめに、静かに振る舞っておられても却って際立ち、まるで異国の王子のようだと感嘆せずにはおられませんでした。佐々野さんを慕っている下級生は沢山いるけれど、私のお姉様にするように、お手紙を熱心に書いたり、小さい贈り物を届けたりする者はいないようでした。温厚で、どなたにも親切な方でしたが、どこか侵し難い空気を、佐々野さんは纏っておられましたから。

佐々野病(ササノシック)に罹った生徒は、静かに溜息を吐くしかないようなのでした。

お姉様と佐々野さんの舞台上での様子はたちまち評判になりました。

何しろ、K女学院の至宝二人が揃ったのですから無理もないのです。

「素敵だわあ。宝塚もあれじゃあ人気落ちるワ」

「誰かこっそりブロマイドを撮って頂戴よ!」

などと教室内では絶えず級友たちが騒いでいますし、

「聖書の裏に署名(サイン)いただきたいワア」

などと不届き千万なことを言う輩もいたりして、私は少々うんざりしておりました。

御生誕礼拝が終わるまでは、この馬鹿げた騒ぎは収まりそうもありませんでしたが。

練習がはじまってから、しばしば、私は一人で帰宅せねばならないことが増えました。

お姉様は、佐々野さんと練習を通じて親しくなったようなのです。学年もひとつしか違いませんし、御本の趣味が合ったとかで、良く貸し借りをされていました。私には、お姉様や佐々野さんのお好みになるような難しい御本は読めませんし、お姉様がお友達と楽しそうにされているところなど、余り見たことがなく、日常的にお姉様にお世話を掛けていることも引け目で、

「いっしょに帰って」

とわがままを言うのも気が引けました。

お姉様が、いつも律儀に私の教室まできて、

「露ちゃん。ごめんなさいね。今日は佐々野さんのお宅で、御本を見せていただくの」

と断りに来て下さるのも却って淋しくて、

「お姉様、私も忙しいですし、劇が終わるまで、別々に帰りましょうよ」

と言ってしまいました。

ある日の夕方、お姉様の帰りを待ちながら居間でお茶を飲んでいると、伯父様が、

「なんだ。露は、ひとりでいじけているのかね」

と優しくおっしゃいながら、美しい挿絵がたくさん載っている、ウマル・ハイヤームのルバイヤートを下さいました。私は、伯父様の下さる、静かなお気遣いが嬉しくて、それなのに、お姉様のことばかり考えてしまう自分が惨めで涙ぐみました。

「薔子も、少しくらいは息抜きが必要なんだよ」

と伯父様は私の頭に手を置いて、おっしゃいました。

「伯父様、御生誕礼拝には来て下さる?」

と私は、涙をふいて、明るく尋ねました。

「きっと、行こう。およねも連れて、ね」

伯父様は約束してくださいました。

ばたばたと慌ただしく熱に浮かされたような日々が過ぎ去り、とうとう御生誕礼拝の朝になりました。私は、お腹にいくつか小さい痣を作りながらも、なんとかそれらしく、告知天使を演じられるようになっておりましたし、お姉様はもちろん、完璧にお出来になるのですから、心愉しく安らかな十二月の朝でありました。

お姉様はいつもより熱心に私の髪にブラシをあててくださいました。

「露ちゃんの髪は本当に天使様のようになったこと」

とおっしゃりながら。

「お姉様、今日の礼拝には伯父様も来てくださるんですって。およねさんも!うまくできたらご褒美をあげましょうって伯父様いってくださったわ!お姉様、欲しがっていらした仏蘭西製の聖書をおねだりなさったら?」

と私は、お姉様に提案しました。

街の本屋のウィンドウに飾ってあった、小さな聖書に、お姉様が眼を奪われていらっしゃるのを知っていましたから。それは、通常の聖書より一回り小型のもので、何ともいえず優しい、クリィム色の布で装丁が施されていました。菫や鈴蘭や十字架が、上品に型押しされた表紙を、そっとめくると、石版印刷の見事な挿絵と、飾り文字で記された主の教えが仏蘭西語で印刷されているのでした。清潔でありながら、コケットリィでうつくしいその品は、お姉様がお持ちになるに相応しいものでした。

「まあ、そんな。伯父様にあんな高価なものおねだり出来なくってよ。でも、そうねえ、あの聖書がわたくしのものになったら、どんなにか素敵でしょうねえ。そうしたら、露ちゃんにも時々貸してあげましょうね」

お姉様も、珍しく、とてもはしゃいでいらっしゃいました。お姉様のひんやりとした細い指を、私は握りました。お姉様も、きゅっと、私の手を握り返してくださいました。冬の朝の陽が、銀を刷いた淡い藤色のシフォンのように、私たち姉妹を包んでいました。

学校に着くと、簡単な朝の礼拝の後、聖劇に出演する生徒は講堂の裏手にある小部屋に集められました。劇のための着替えを行ったり、本番前最後の確認をするためです。

羊飼いたちは、腰の部分を麻紐で結わえる形の、粗末な織りの木綿の服を着て、オリーブグリーンのバンドで留めた粗末な頭巾を被り、羊を追うための棒を持ちました。三人の東方の博士たちは、光沢のある色鮮やかな生地で仕立てたガウンを羽織り、頭には孔雀の羽飾りのついたターバンを巻き、乳香、没薬、香油を携え、王たる幼子キリストに捧げる練習を部屋の隅でおさらいしています。私は、袖と裾にドレープをたっぷりとった、丸く首の空いた人絹の衣装を着て、頭には光輪の代わりに、金に塗った造花の冠を被りました。そして、道具係の水内さんの苦心の結晶である、純白の羽、曲げた針金に薄い木綿を貼り、人造の羽毛を縫い付けた翼を背負いました。この大作は、根元が背負子のようになっていて、細めの皮紐がついており、背負ってから袖のドレープの中に隠すようになっているのでした。私の、出来上がった天使姿を見て、道具係の方々は、歓声をあげ、水内さんは満足気に鼻を鳴らしました。

「佐伯さん。とってもお似合いよ。少し神々しさには欠けますけどね。でも、(エロ)()()には見えてよ。」

水内さんは言いながら、小部屋の窓辺を指差しました。そこでは、お姉様と佐々野さんが、お互いに衣装の着付けを手伝い合っておられました。佐々野さんは、深い翡翠色の貫頭衣を纏い、上にゆったりとした丈の長い灰褐色のベストを着ておられました。濃い眉の下で、思慮深くきらめく瞳が、木の椅子にお座りになったお姉様の頭の上に注がれていました。まるで、教会のフレスコ画のような佇まい。纏う空気さえ違うようなその様子を見ていますと、ふいに、私の心を御しがたい恐怖が襲いました。そして、

「まるでヘルメスとアフロディテね。」

という水内さんの呟きを聞いた途端、思わず、

「お姉様!見て!」

と部屋に響くような大きな声でお姉様に呼びかけてしまいました。

しまったと思うより先に、お姉様のベールをピンで留めようとされていた佐々野さんが、手をおとめになって、こちらを向き、

「薔子さん。貴女の天使がおいでよ」

と微笑みながらおっしゃいました。

お姉様は、緩やかな淡い紅のローブをお召しになり、紺に近い青金石色のケープを古代金の丸いブローチで留めて羽織っておられました。楕円形のベールは乳白色で肩に流れる柔らかなその布は、いつもは切り揃え、垂らしていらっしゃる前髪をあげておいでになるからでしょうか、お姉様の花のかんばせを、更に端正で、更に侵し難く、美しいものにしているのでした。

「露ちゃん。まあ、なんてかわいらしい天使様なの!わたくしにもっとよく見せて頂戴」

お姉様は、私に優しく手を差し伸べられました。

そして、今、気付いたというように、ふと顔をお上げになり、

「露路。妹ですの」

と、佐々野さんに私を紹介なさいました。

私は、佐々野さんに直接口を利くのは、勿論、初めてでしたから、緊張して、自分でも可笑しいほど赤くなってしましまいまいました。

「…初めまして。佐伯露路です。中等部、二年生です。姉が…いつもお世話になっております。今日はよろしくお願いいたします」

やっとそれだけのことをつかえつかえ、蚊のなくような声で言ってしまうと、下を向いてしまいました。佐々野さんは、そんな私の様子などちっとも気になさらない風で、私の目の高さまで腰を落とされ、

「初めまして。高等部三年の、佐々野珠湖です。大切なお姉様を、ちょっとの間、お嫁さんにするけれど、許してね。とても素敵なガブリエル様ね。今日の聖劇に祝福を与えてくださいね」

と低い甘い声で、私に仰るのでした。

私はもう、ただびっくりするのと、緊張とで、佐々野さんの言葉にコクコクと頷くことしか出来ませんでした。

「あら、露ちゃんたら、珠湖さんに緊張しなくってもいいのよ。とってもお優しい方よ」

お姉様に小声でそっと囁かれ、おそるおそる顔を上げると、佐々野さんの静かな、湖面のような目にぶつかりました。その目は、何かを語っているようでもあり、感情がないようにも見えました。その目で真っ直ぐに見詰められると、嘘が吐けないような、すべてを見透かされているような気持ちで落ち着かなくなり、私は佐々野さんから目を逸らしてしまいました。ただ、私に向けて下さった思いやりの言葉には、何の偽りもないことは分かりましたので、私もようやっと、少しほほ笑みを返すことができました。お姉様は、私の天使の扮装をとても喜んで下さり、早速、私の髪を直したり、羽を真っ直ぐに整えたりして下さり、

「がんばりましょうね、わたくしたち。終わったら、冨屋で温かいおぜんざいを御馳走してよ」

と私の手を握って下さいました。

お姉様の手首からは、お母様の菫の香水の匂いが微かに立ち上っていました。説明の出来ない、黒雲のような思いが、胸の中を虚しく去来しておりました。

準備が全て整いました。

既に、たくさんの保護者が入堂されているのが、舞台袖から見えます。講堂の、全ての分厚い遮光カーテンが引かれ、電気も全て落とされました。この世の混沌と夜を示す暗闇の中、聖劇が静かに幕をあけました。

聖歌隊が、微かな炎を灯した蝋燭を掲げながら、厳かな足取りで入場し、舞台の横に設営された専用の場所へと歩を進めます。聖劇は無言劇ですので、聖歌隊の方の聖書朗読とパイプオルガン演奏に合わせて、演者は舞台を動きます。私は、梯子の傍らで出番を待ちながら、緞帳の隙間から、乙女マリアの登場をこっそり見ておりました。

バッハの『Wachet auf,ruft uns die stimmeBMV六四五』がパイプオルガンで演奏されます。

お姉様が登場され、その白いお顔にスポットライトが当たります。聖歌隊が、聖書を読み上げ始めます。私は、高鳴る胸を押さえつつ、ゆっくりと梯子を登り始めました。

【天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである、おとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった】

今です。お腹を梯子の上に固定し、胸を張って、顔をあげて、緞帳の隙間から私は登場しました。

【「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」】

出した右腕を、ゆっくりとお姉様のほうに差し伸べます。

【「恐れるな、マリアよ。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その人は偉大な人になり、いと高き子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。神は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」】

お姉様は、驚愕した表情をおつくりになり、膝を地面につけられました。そして両手を胸の高さで組み合わせ、私のほうをじっと見つめて、ほんの微かに頷かれました。

【「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたくしは男の方を知りませんのに」】

【天使は答えた】

【「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない」】

【天使は去って行った】

私は、素早く、緞帳の内側に身を消しました。梯子を降り、額の汗をぬぐいました。

次は、羊飼いにイエスの誕生を知らせる時に、別の場所から登場するので、梯子を道具係の方が移動させました。水内さんが、

「これぞ天使の梯子ね」

と下らない冗談を言いながらも楽しそうに私の横を通りぬけていきました。緞帳の裏では、お姉様と佐々野さんがベツレヘムへの旅路を寄り添って歩まれていることでしょう。ほんとうの夫婦のように。羊飼いに告知をして、去ったあと、水内さんは、道具係にクライマックスのために、梯子を中央に設置するよう指示を出します。旅路の途中でイエスがお生まれになり、東方の三博士が贈り物を捧げにやってきます。羊飼いたちも厩に着き、天の大軍勢が加わり、神を賛美しました。祝福を表すハンドベルが一斉に、高らかに鳴り響きます。私は、緞帳の裏から両手を広げて再び登場しました。舞台中央には幼子イエスを抱いたマリア様、その傍らにはヨセフ様。聖家族を取り囲むように羊飼いや三博士が立っています。いよいよ、礼拝のクライマックス、讃美歌二六四番きよしこの夜の斉唱です。最後は、客席の生徒や保護者も全員が参加しての大合唱で、聖劇は終了です。熱気とアーメン、が講堂に満ちました。講堂に集う皆の顔は、たった今救い主の誕生に立ち会い、それが今宵だけの幻だとしても、清らかに輝いていました。校門から講堂までの道に並んで、帰宅されるお客様を聖歌を歌いながらお見送りして、私たちはやっと解放されました。教室で帰り支度をして、外に出ると、校門の外で、伯父様がおよねさんを伴って待っていてくださいました。

「いやあ、すごかった。あんなに本格的だとは思わなかった。薔子、露路、とてもよく頑張ったね。おじさんは誇らしかった。私は、もっとよくお前たちの学校のことにも目を向けなくてはならないのだなあ」

伯父様は、大きな手を私たちの頭にのせて、これ以上ないほど褒めて下さいました。

そして、なんでもご褒美に買ってあげよう、とおっしゃいました。

「ほんとに…ご立派になられて…おきれいになられて…およねはうれしゅうございますよ」

およねさんは羽織の背を丸めて、(ハン)(カチ)で涙をぬぐいながら喜んでくれました。

私たちは、並んで、仲良く、心穏やかに家路につきました。

それは、私たち家族の、一番しあわせな夜でありました。

聖劇のあくる日は、学校はお休みでした。

お姉様は約束通りに、私を冨屋に連れて行って下さいました。

お餅の入ったあたたかいおぜんざいは、私の好物で、ほの甘い小豆の味が、疲れた体にしみいるようでした。お姉様は、お抹茶と干菓子をお取りになったもの、時々、軽く咳き込まれ、私の顔の辺りをぼんやりと見つめておいででした。

「お姉様、おぜんざい、少し召し上がらない?」

お抹茶も落雁も少ししか手を付けておられないお姉様が心配になり、私はおぜんざいの器を、お姉様の方にくっと押しやりました。

「ありがとう。美味しそうね」

お姉様は笑顔を見せてくださいましたが、そのお顔はいつもよりも更に蒼白く、おぜんざいを一匙すくって口にお入れになっただけでした。ぼんやりとしたお顔のお姉様を見ていると、私の心は不安にかられるのでした。お姉様は佐々野さんのことを考えていらっしゃるに違いない。私などと、おやつを召し上がるより、佐々野さんと御本について語らう方がいいに違いない、と。思えば、このとき既に、おそろしい病魔はお姉様の体を虎視眈々と狙っていたのです。自分の気持ちばかりにしか、注意がいっていなかった私が、お姉様を病気にさせてしまったのです。

冬休みに入る前の日、終業式の朝のことでした。

お姉様は咳が出るし頭が痛むの、とおっしゃって、学校を休まれました。私は、聖劇以来、元気のなかったお姉様が心配でしたので、

「露も休んで看病する」

と言いました。

しかしお姉様は、

「だめよ、露ちゃん。わたくしの風邪がうつったら困るでしょ。先生にお休みを伝えて頂戴な」

小さなお顔を、縮緬の掻巻から少し覗かせて、仰るのです。

「今日は、お髪といてあげられなくて、ごめんなさいね」

お姉様のか細い声を背に、私は渋々、学校へと向かいました。お姉様の担任の先生に、

「姉は、体調が思わしくないので、今日は休ませていただきます」

と伝えると

「佐伯さん、いろいろと劇の準備でお疲れになったのね。貴女も、お姉様に心配をおかけしないようにしっかりおうちのことをしてくださいね。佐伯さんには冬休みの間、しっかり体を休めるようにお伝えくださいね」

と気遣って下さいました。終業式も終わり、急いで家に帰りますと、およねさんが、小さな盥に水を張って、お姉様の枕元に置いているところでした。

「薔子お嬢様は、熱がずいぶんとおありになるのでございますよ。今、お医者様を呼びますから、露路お嬢様はお部屋に入らないようになさってください」

と言うではありませんか。ほどなくして、お姉様の診察に訪れたお医者様は、伯父様をお呼びになり、眉間に皺を寄せて何事か話されていました。居間にいるように言われた私には、途切れ途切れにしか聞こえなかったものの、

「……はあ……そうですね……私の妹も……はい、似た症状で……はい。熱が……はい」

と伯父様の心配そうな声を聞いていますと、しんから冷えるようでした。

お医者様が帰られたあと、

「三日、熱が引かなければ、入院だそうだよ。露路は、今日は客間で寝なさい」

と伯父様が仰るのを聞き、胸の中が恐怖と悲しみでいっぱいになるのを私は感じていました。それからのことを、私はよく覚えていないのです。お姉様の咳が、日に日に苦しそうになってゆき、早く治ってください、と祈ることしかできなかったのはぼんやり記憶にあります。きっと、覚えておくことを頭が拒否したのでありましょう。三日後も、お姉様の熱は下がらず、入院になりました。

結核でした。

入院先は、省線電車で病院前の駅で降りて半時間ほど歩くか、車を呼んで二時間ほどかかる、丘の上のサナトリウムでした。街の中よりは空気がいいし、薬で熱を下げて栄養をつけたら治りますからね、とお姉様と同い年くらいの、若い看護婦さんが元気づけてくれました。およねさんはいい顔をしませんでしたが、私はお姉様と離れるのはいやだ、うつらないように気を付けるから、冬休みの課題もきちんとこなしますから、と無理を言って、空いてる時間は、冬休み中、お姉様に付き添うことにしました。薬を点滴すると、ほどなくして、高熱は下がりましたが、すっかり痩せられて、弱ってしまわれたお姉様は、年越しも病室で迎えることになりました。私は、

「私の分のご褒美は要りませんから、お姉様に差し上げて欲しいものがあるの」

と、伯父様にお姉様の憧れていらっしゃった、聖書をおねだりしました。

伯父様は、早速、本屋に出掛けられ、売り物ではないのですが…と渋る店主を説き伏せて、あの芸術品のような聖書を買ってきて下さいました。眠っていらっしゃるお姉様の枕元に、聖書を置いて、私は天のお母様にお姉様の恢復を祈りました。翌年の一月も半ばになると、お姉様は、微熱は続くものの、体を、枕を背に起こせるようになっておられました。お姉様の担当になった、あの若い看護婦さんが、病院の庭に自生している待雪草を小さなコップに挿して、窓辺に飾ってくれました。病み臥していらっしゃっても、お姉様の清らかな美しさは、誰をも魅了せずにいられないのでした。お姉様は、聖書をとてもお喜びになって、私が行くと、表紙の細工の素晴らしさや、飾り文字の優美さについて本当に嬉しそうに語っておられました。そして、気分のいい日などは、ベッドの脇に私を座らせて、髪を丁寧に編んでくださるのでした。このまま、きちんと治療さえすれば、また必ず一緒に登校できる。私は、そう信じました。

二月に入った、ある土曜日のことでした。

お姉様を見舞って、夕方に家に戻った私は、居間で、学校の課題をしていました。木枯らしがつよく吹き、ガラス窓を鳴らしておりました。去年の暮れから、あまりきちんとおさらいが出来ていなかったので、お姉様が帰っていらしたら叱られてしまう、と思いながら、筆を動かしていると、

「ごめんください」

聞き覚えのある声が、玄関のほうでしました。出てゆくと果たしてそこには、佐々野さんが立っておられました。寒い日だというのに、すっきりとした深緑の袴に矢絣のお着物をお召しになり、薄いショールを羽織られただけの御姿は、凛々しい若木のようなのでした。

「こんにちは、露路さん。学校でお借りしていた本をお返しに参りましたら、薔子さんが御病気とうかがって。お見舞いをしたかったのですが、病院に出向くのは失礼かと思いましたので、こちらに伺いました」

佐々野さんは、真っ直ぐ私を見て、そう仰いました。

「…あの、わざわざ、ありがとう存じます。お入りになりませんか。狭い家ですが…。」

と、私がぎこちなく、儀礼的に言うと、佐々野さんは、少し微笑まれました。

「いえ。今日はお暇します。ただ、これを薔子さんにお渡し願えますか?お借りしていた本と、ちょっとしたお見舞いの品ですの」

佐々野さんが差し出された風呂敷包を、私が受け取るのを見届けると、

「では。薔子さんによろしくお伝えください」

と佐々野さんは一礼して帰っていかれました。

翌日、お姉様に佐々野さんがいらしたことと、お見舞いの品を言付かってきたことをお伝えしました。風呂敷包のなかには、千代紙できれいにカバーがかけられたお姉様の御本と、青い天鵞絨のサックに入った小さな品物が出てきました。

「まあ、こんな良いものいただけないわ、どうしましょう」

お姉様はサックを開けるなり、小声で驚きの声を上げられました。

それは、洋墨と万年筆を一緒に立てておける、銀製の洋墨スタンドでした。きっと、百貨店の文具売り場で一番いいのをお求めになったのでしょう。お姉様のお机に置いて、飾りにもなるような品物でした。

「すてきねえ」

と思わず、私も感嘆の声をあげました。

御本の間に挟んであった便箋に

『我らが学舎の窓辺に白薔薇の帰還を祈りて T』

と書かれていました。

お姉様のお顔にさっと朱がさしました。

「佐々野さん、お姉様のためにお小遣いはたいちゃったのねえ」

と、わざと乱暴に私が言うと、お姉様はそんな私には気付かない様子で、

「そうね、そうね」

と仰って涙さしぐみながら、何度も頷かれるのでした。

お姉様は、なかなか、退院できるほど良くはおなりになりませんでした。熱が少し下がっては、また上がり、咳もひかず、ますますお痩せになられたようでした。

「熱が高いときには、世界が、ふわふわと淡く見えるわ。なにも確かなものがないような…。露ちゃんの髪を編んだり、あの聖書を読んだり…そういう時間がわたくしの時間なのに」

と仰りながら、枕に頭を沈めていらっしゃるお姉様。

(佐々野さんとの語らいがお姉様のほんとうの時間なのでしょ!)

そんなことを強く思ってしまう度に、つぐないのように花瓶の水を替えたり、お姉様のお布団を直したりする私に、

「ほんとうに露ちゃんは天使様ね」

とお姉様も看護婦さんもにこにこしてくださるのです。違うのに。なにもかも違うのに。

「春になったら、桜がそりゃあ、きれいに咲くんですよ」

と看護婦さんがお姉様に教えると、

「見られるかしら」

と儚げにお姉様は笑われました。

「見れますとも。ぐんぐん良くおなりになって、退院されたら無理ですけどね」

と元気な看護婦さんは、お姉様を励ますのでした。

「がんばって、妹と一緒に見ますわ」

とお姉様は私たちに約束してくださいました。

桜は見事に咲いたのでした。

約束通りに、私と、お姉様と窓辺から見ている景色は確かなものなのに、お姉様の御心は、もうこの地上にはないというのでしょうか。

「きれいね、ほんとうに。聞いて。露ちゃん。わたくしね、神様の御国に行ったら、露ちゃんをずっと護ってあげる。あゝ、そんなお顔をしないで頂戴。…わたくし、とっても幸せだったの。わたくしほど幸せな人間は、きっといなかったわ。伯父様も、およねさんも、露ちゃんも、遠くのお父様も、おともだちも、みんな、わたくしの幸いだった。お母様に会って、どんなにか露ちゃんがいい子なのか、よくご報告するわ。きっとよ……」

お姉様の目は澄みきっていました。怖いほど透明な、深淵でした。

「そんなことご自分で仰る方は、絶対に神様の御国になんて行けやしないわよ!お姉様の馬鹿!」

と私は悲しく言い返しました。

「ほんとね。天使様に怒られてしまったわ」

お姉様は、微笑んで、私の手にそっと触れられました。

桜を見た二日後のお昼に、およねさんが苦労して手に入れてきたのであろう鯛の塩焼きを、一口でも召し上がってほしいからと、お姉様に持ってきました。

お姉様は、

「美味しい、美味しい」

とおっしゃって、一切れペロリと召し上がりました。随分、久しぶりに、お姉様が、ものを召し上がるのを見た気がいたします。そして、喜んだおよねさんと、私とお話をされているうちに、

「少し眠いわ」

と仰って。そして、そのまま息を引き取られたのでした。

お姉様が一番大事にされていた、薔薇のお着物を着せておくりました。

これは、お母様の形見だから、きっとすぐに、お母様が見つけてくださるでしょう。

お父様が日本にお帰りになって、伯父様と話し合われました。私は、お父様について、外国に行くことになりました。お父様が、お姉様の死をどう思われていたかなど、私はどうでも良かった。ただ、ここを離れなければならないことは、分かりました。遺品を整理していたときに、あの聖書が目に入りました。

そっと、表紙を開くと、お姉様の字で

『Tへ捧ぐ』

とありました。

私は、学校の住所録で調べて、佐々野さんを訪ねました。佐々野さんは、私を自室に通してくださり、お悔やみを述べられました。

「これを。姉は、あなたにこの聖書を遺しました」

と差し出すと、佐々野さんは一度、受け取られ、そして、しばらく沈黙されて後、

「いいえ。これは、あなたに遺したのよ。露路のTよ、きっとそうよ……」

と仰いました。

そして、何度言っても聖書をお受け取りにはなりませんでした。

私は、退学すること、外国へ行くことを簡単に伝え、慇懃に今までのお礼を述べて佐々野さんのお宅を辞しました。

 

お姉様、見えますか。春なのに、雪が降っています。

私、船で遠くの国へ行きます。お姉様の御住まいよりは、交通の便がいいところだと思いますけれど。ここは、すでに洋上ですの。手には、あの聖書を持っていてよ。

お姉様は、『無原罪の聖母』でした。ひたすらに清く、汚れや咎を知らず、石榴と星に飾られ、月を従えた乙女でありました。あらゆる罪から免れ、白い薔薇のまま召されたのです。

でも、私は違います。私は、(エロ)()()などではないのです。ましてや、告知天使などではないのです、お姉様。

私の羽は、純白の恵みではなく、漆黒の呪い。お姉様に祝福をもたらす者ではない。醜い嫉妬にまみれ、毒薬で満たされた心を持った、ハルピュイア。

欲する物全てを喰い散らかさずにはいられない、この上なく惨めで下品で不潔な怪物なのです。

それでも、欲さずにはいられなかった。

貴女の眼差しを。貴女の声を、髪を、匂いを。

愛情が欲しかったのかと問われれば、少し違う気も致します。

恋慕かと問われても、なにかいまひとつ、ピンときません。

あゝ、正直に言いましょう。

あんなに美化していた貴女が、本当は私よりも偏食がはげしいことも、人に強く言われると、すぐになんでも引き受けてしまう、八方美人なところがあったことも知っています。

きっと佐々野さんに親しくしていただいて、内心では得意で仕方なかったのだろうなということも。

ずっと一緒にいたから。貴女を見ていたから。見たくないときにも、見ていたから。

ただ、私には貴女しかいなかった。

私が、此処にいられたのは、貴女が名前を呼んでいたから。

私が、此処と繋がっていられたのは、貴女の名前を知っていたから。

海の風が、聖書の頁を躍らせて、私は、磔刑の場面の挿絵に薄い紙が挟まれているのを見つけました。それは、佐々野さんがお姉様の御本に挟まれた、

『我らが学舎の窓辺に白薔薇の帰還を祈りて T』

と書かれた便箋でした。

便箋からは、お姉様の菫の香水の香りが微かにしました。私は、そっと、その一葉を頁に戻しました。そして、聖書を、甲板から海に向かって静かに投げ落としました。強い海風が聖書をひらかせ、白鳥のように海面を、ほんの一瞬滑り、あっという間に見えなくなりました。

 

 

あわれ、永久に別るるとも、追憶の晩鐘を我が胸に鳴らし続けることを誓って―。

 

 

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