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マイノリティと美的問題:光枝初郎 

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――私たちは、何についてはじめよう。何が開始されるだろう。有益な議論か、そもそも行き来はするけれども各々に正しく到達しているかは分からない曖昧な対話か、そのどちらだろう?

 

――確実に後者の方だろう。それでは私たちは、人間の生存様式をあるとき「美しい」と感じることについて言を繰り広げよう……。

 

――人間の生存様式……。「美」とは人間の生存様式のカテゴリであるとみなすこと、それでいいだろう……。酒とタバコの美学、栄光と退廃、人間らしさ、そういったものはカント的な「崇高」からはたちまち区別される……。そこでこう問いを立てよう。私たちはある場面において、心の苦痛を感じつつ「美」だと感じる(判断する)ことがある。美に到達するにはこの苦痛は避けられないのだろうか?

 

――ある場面というのは例えばどういうことであるか。

 

――題材は何でもいいが……ジャン・ジュネの『花のノートルダム』[1]は、この小説全体が甘美で苦々しい体温のような密なあたたかさに包まれているようだ。ヴィジーヌとミニョンの二人の生活は愛で囲まれている。「眠るミニョンの体は温かく、ディヴィーヌの体に密着している。ディヴィーヌが目を閉じると、二つの瞼が合わさり、暁から生まれる世界から彼女を切り離す。雨が降りはじめ、彼女のなかに突然の幸福を作りだす。その幸福があまりにも完璧なので、彼女は深いため息をつきながら、大きな声で、「幸せだわ」と口に出してしまった」[2]……。

 

――しかし、私たちはそのとき、同時に彼らが追いやられている社会的な立ち位置というものを、小説内で発見し確認するわけだ。彼らがお気楽な青春恋愛――という言葉、ジャンルも眉唾物ではあるが――をやっていたらこの物語はほとんど意味をなさないだろうから。

 

――そこで、しかしジュネが描く 文の果てに垣間見られるような「美しさ」が在るわけである……。これはいったい何であろうか? というのは、もはや作品内を超えて、私たち鑑賞者の問題ともなっている気がするのだ。

 

――そう、それは確かに。そもそも、彼らの生き方について「美しい」などと形容するのはあまりにも馬鹿げたことかもしれないのだ。いや、それは実に危険な行為なのだ。もし私たちがジュネの『花のノートルダム』を読んで、ただ単にヴィジーヌとミニョンの関係は美しいとだけ言ったら、それは遣る瀬無いオリエンタリズム的態度以外の何ものでもない(敢えてオリエンタリズムという言葉をこのように使うなら)。

 

――ヴィジーヌとミニョンは彼ら固有のものを抱えている。これは、覚悟の問題だ。鑑賞者の覚悟だ。真摯さだ。鑑賞者は一度彼らの身体に「生成()」なければならない。内在を生きるのだ。

 

――事実、鑑賞者の立場から見たヴィジーヌとミニョンは、美なのである。それは動かしがたい。しかし今度は私たちが彼らに「生成()」るのだ。そのとき、私たちは美と形容されるものの中にいて、鑑賞者的立場の判断を下せないのであろう。しかし、それで良いのだ。

 

――大切なのは鑑賞者的立場を絶対化しないこと……。

 

――まさにそれ、それだ。超越的な立場は善きものをうみはしないということ。

 

――他の作品についても何かいえるだろうか?

 

――江国香織の『きらきらひかる』[3]では、三人の男女が中心に描かれる……。情緒不安定をもつ笑子と睦月は婚姻関係にあり、しかし睦月と紺くんは性的な関係にある。この三角関係をぐるぐる廻るのだ……。

 

――例えばこういうシーンはどうだろう……(最もラストのシーンであるが)。「『SHES GOT A WAY だね、これ』。僕の気持ちをみすかしたように紺が言った。あしたもあさってもその次も、僕たちはこうやって暮らしていくのだ。僕はもう一杯シャンパンをついで飲む。『記念日のプレゼントは、来年二回分くれればいいわ』笑子が言い、目の前でセザンヌが、いかにも楽しそうに微笑んでいた。」[4] 笑子だって睦月だって、ひょうきん者の紺くんでさえ、問題と苦しみを抱えている。だからだろうか、彼らの生活は、廻りは、彼らがなす円環は、きらめいている。タイトルが示す様に。

 

――しかし、苦しみとその美しさは、直接結びつくものではないのだろう……。やはりそこに直接的なつながりはない。そこに直接的なつながりを求める姿勢こそ私たちのオリエンタリズム的効果の故であり、私たちはそれを強く批判し自らを戒めるという意味において初めてそのような問いが許されるのであろう。

 

――しかし、誰が許すのだろうか。

 

――いや、誰も。

 

――最後にマイノリティについて話をしよう。ジル・ドゥルーズはこう言っている。「マイノリティとマジョリティは数の大小で区別されるものではありません。マイノリティのほうがマジョリティより数が大きいこともあるからです。マジョリティを規定するのは、遵守せざるをえないひとつのモデルです。たとえば平均的ヨーロッパ人の成人男性で都市の住民……。これにたいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。」[5]こういうことは、私たちの話にも通じるだろうか?

 

――マイノリティとマジョリティは数の大小の問題ではない、それから「マイノリティとはプロセスである」。誰でもないしかし、人々の性愛(セクシュアリティ)については〈男―女〉の対がなす異性愛がモデルとされ、(それは誰でもないのにもかかわらず)反射的に他の性愛の形が周縁に位置付けられる。しかしそのような運動は本質的なことがらではなく、ドゥルーズは反対にマイノリティの潜在的な力を見ようとしている。私たちが見てきた人間関係の美しさは、そのような力を持つのだ……。

 

――あるいは、モデルをもたないプロセスとしての性愛は、文学という特異な機能によってその筆致の痕跡を大小にとどめるのかもしれない。激しい闘いが行われているのだ。性愛とはすなわち生存である。生存を賭けた闘いである……。

 

――私たちは、そのことを思考する。性愛=生存を、ようやく思考する。そのような性愛関係が美しいとか悪いとかの判断するのではなく、私たちは絶えず思考を繰り広げる者にならなければならない。

 

――判断はいつも性急なものだから。それに対して思考や郵便的な対話は終わることのないバトルである。

 

――この冗長なおしゃべりもそろそろ閉じよう。

 

(了)



[1] ジャン・ジュネ『花のノートルダム』中条省平訳、2010、光文社。

[2] ジャン・ジュネ『花のノートルダム』87pp

[3] (文庫)新潮社、1994

[4] 前掲脚注3 201pp

[5] ジル・ドウルーズ『記号と事件』(宮林寛訳、河合書房新社、2007)、pp.347-8