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編集後記

全く関係ない話なんだけれども、最近ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を読み返した。多分最初に読んだのは高校生の頃だっただろうか、その時はまだ「情熱」が「夢」から乖離していくなんてことを体験したことがなかった、幸せな青春時代だった。

改めて『キリマンジャロの雪』を読んで、甚く感動してしまった。それはとても悲しいことなのかも知れない、とも思った。

 

ヘミングウェイの短編小説にはおよそ共感というものが無い、と思っている。もし私がヘミングウェイであり、あのような着想を得たとしたら、きっと、主人公の性格や容貌、心の葛藤、時代性などを織り交ぜて、もっと読者に共感を強いるような、そんなものにするだろうと思う。

 

けれどこんなことを考えていた。文学という複雑な混交物から、登場人物への自己投影や、精緻な情景描写、心を舐めるような心理描写を、できうる限りなくしていった果てに、私たちは五感や心ではない、「純文学器官」によってその物語を受け取ることができるのではないか、と。

 

今回のテーマは「文学的虚構を求めて」だった。文学的虚構とはいったいなんだろう、いまだによくわからない。でもおよそ純文学というものは虚構であるような気がしている、当たり前のことだが。

 

部屋の窓から顔を出して煙草を吸おうとすると向かいにマンションが見える。マンションはコンクリートと鉄筋とガラスと煉瓦で出来ている。けれどそのリアルな物質の群れが果たしてマンションなのだろうか、とか考えている。そのマンションが私に向かって、自分はマンションである、と伝えるから、それはマンションなのではないか、とか。ベンヤミンも同じことを言っていた。

ある物事から「リアル」を削ぎ落としていくと、虚構が残る、とか。

 

純文学もまた、余計な贅肉(リアル)をたくさん蓄えている。いや、贅肉が美味だということのほうが多いと思うけれど、その根底には虚構が流れている。

 

そんなことを考えていた。

 

話は変わるけど、twitter文芸部は今「キリマンジャロの凍豹」になっているような気がした。いや、別にそんなことはないか。

 

秋号編集長、る