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「鈍行にて」:新嶋樹

 

 電池は心許なくなっている。彼女は夫への返信を終えて顔を上げる。夜が近い。窓に白い虫の卵のような車内の灯りがうつり、その下には彼女自身の疲れた顔が浮かんでいる。電車は海から遠くなった。さっきまでは海と隣り合い、あつい雲の奥からはまだ太陽の光が見えた。破れて噴き出した動脈血のような色にそめられていた海はスマートフォンをいじっているうちに消え、あたりの生き物は深く、濃い静けさのうちに潜りこむ。そばを通った民家のベランダにくすんだシャツが一枚かかっている。彼女はそれを自分の顔の奥に見つける。昨日も一昨日もシャツはそこにあり、暗がりで風になびいていた。彼女は首のうしろを強くおさえて長い息を吐いた。気がかりなことがいくつもあった。それが首のうしろのしこりになってたまっているような気がしていた。

 柵をこえるとたちまち動物になってしまう奇病が流行った村にいて、村人たちの半分以上は、一週間のうちに柵をこえてしまった。ぴょんぴょんと軽快な動きで、ぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんとこえてしまう。最初はかれらの判断をそしった者も、次の日には柵の内側でのんびりとした声をあげている。柵の外側にいて動物化した友人や恋人への未練を断ち切ることのできないわずかな者たちは斧をふりかぶり柵を壊したが、動物たちは出ようとしなかった。翌朝に村人が柵の前にやってくると、誰かの手によって柵が直されており、かれらの愁いはいっそう深くなった。

 電車は無人駅から無人駅へ走っていく。暗い駅に着くと数人が降り、数人が乗りこんだ。一時間に一本きりの電車は混んでおり、みな黙っている。三つ先の大きな駅までは混雑が続く。彼女はボックス席に座っている。隣の窓側には背広の男、向かいには制服の違う女子高校生が二人ならんでおり、三人とも使い慣れた顔で沈黙している。電車が暗い駅に停まると真向かいの高校生が降り、席がひとつ空いた。彼女は高校生の座っていた部分がわずかにくぼんで皺が寄っているのを何も考えずに見ていたが、両手に握りしめていたスマートフォンが汗で濡れているのに気がつくと、それをバッグにしまい、かわりに読みかけていた文庫本を取り出した。電車が背骨の折れているのをごまかすような音を立ててゆっくりと動き始める。

 狩猟民族としてかつては勇敢に戦った民族も、柵を作り、食糧となる獣を育てることに旨味をおぼえてしまった今では、もう一度戦闘のための長い槍をこしらえる力はなかった。九十をこえた老婆が下履きをひらひらと風に舞わせながら軽い跳躍を見せ、毛むくじゃらの羊に姿を変えて降り立つのを見ていた村人の一人は、羊の肉を食い羊の毛を刈ることは老婆の皮を剥ぐことだと言った。一人はそれに反対して動物になってしまったからにはもはや理性はなく、人間的に扱う必要はないのだと力説した。お前は目の前にいる獣が母親だったとしても黙って見過ごせるのかという反駁を聞き、もうおれはどの獣が母親だったのかも分からないんだと涙を流す者がいた。

「ここ、いいかしら。ごめんなさいね」女の声がした。早口の低い声だった。ボックス席に居座った二人が答えずにいると、彼女の視界の上端に女の生脚が入ってきた。「隣、座らせてもらうからね。ごめんね。ごめんね」「はい」窓際の女子高校生の声。電車は長いトンネルに入った。彼女はずっと同じページを読んでいた。次のページをめくるのだが、すぐに前のページの何行かを理解し損ねたような気がして戻るのだった。彼女は片手を離し、また首のうしろをもみこんだ。文字がすべっていくのを彼女は感じていた。視界の端に女の脚がのぞき続けている。すっかり盛りを過ぎた雨蛙の体色のようなかすれた緑色が見える。顎を引き目を落とすと女の履いているサンダルの色だった。ブランドは分からない。太くて短い十の足指がこちらを向いてぴったりそろえられている。彼女の目はもう文章には戻っていかない。女の脚を見ずにいられない。白地のワンピースの下は地肌だ。肌は太陽の熱をこびりつけた樹肌のような暗い色をしている。すねには黒く剛い毛が下を向いてまばらに生えており、足指の先には熟れきった南国の果物を思わせる色のマニキュアが雑に塗りつけられている。それらがサンダルの緑色とあいまってにおい立ってくるような雰囲気をそなえていた。女がサンダルの親指をつんと上に向ける。女の親指は人差し指の上に乗っかり、人差し指をぐいぐいと押すようにしていたかと思うと、ひゅっと元の場所に引っこんだ。女は反対の脚でも同じことをやった。彼女は自分のストッキングに包まれた脚を引っこめ、深く座り直した。トンネルを抜けると一面が畑になった。灯はなく、森の際がまだほの白かった。

 対立は深まり、その間にも柵の外側には飢餓が起こった。一人の村人が食糧を求めて外に出て行き、翌々晩に片脚を失い這うように戻って来ると、それを見た者たちは自分たちの去勢された姿を目の当たりにするような思いがした。その姿が村人たちの不安を煽ることをおそれた村長によって、片脚の男は村外れの廃屋につながれた。腹を減らした誰かの眠りに男の歯ぎしりとうめき声がしのびこんで夢を食い荒らすと次の日にはまた柵が壊された。その次の日にはまた柵が直されたが、今度は前よりもずさんな仕事で、誰かが押すとすぐにでも崩れそうな代物だった。

 ビニール袋から何かを取り出す音がしていた。女が「ああら」と大きな声をあげた。隣の男の動いた気配があり、彼女が少し顔をあげると、背広の男が鼻から息を吹き出しながら女に何かを渡したところだった。彼女がもう少し顔をあげると女の手に握られていたのは輪ゴムだった。「ごめんなさいね、あなた」「いえ」男はまた鼻から息を吹き出した。「わたしったら、やあね」酢のにおいが漂っている。木の割れる小気味よい音がひびき、彼女は見て確かめなくてもそれが割り箸であることや、女が食事を始めようとしていることが分かった。車内は先ほどからずっと沈黙していたが、女がものを食べる音が聞こえ出すと、あらためて彼女はその沈黙を意識させられるのだった。彼女は決して顔をあげようとしなかったが、音や空気のゆれが女の動きを伝えていた。やわらかいプラスチック容器の底に女の割り箸が押しつけられ、下で支えた手がその圧力をはねかえそうとする音、女がこころもち背を丸めて顔を前に出し、口を開けて食べ物を入れる様子、女の唇が閉じられ、歯と舌によってやわらかいものが咀嚼されていく音。女が割り箸で食べ物をつかむ。今度口に入れたのはさっきよりもかたく歯ごたえのあるもののようだ。繊維質のものを砕く、こり、こり、こり、という音がひびき続け、彼女はそれを全身でとらえていた。こり、こり、こり、という音が一つ増えるたびに、肌が女を拒否しようとしているのが分かったが、彼女は女の割り箸がどう動くのか、見なくても言い当てられるほどに女にはまりこんでいる自分から抜け出せなかった。

 遠くから来た屈強な旅人が後世に伝えた書物によると、村人は村の中央にある柵(牧草地は半径一キロ程度の円形で、村にはその柵一つしかない)につかまって、一日中、働きもせずに柵の内側に目をこらすばかりだったという。世話をする者がないからか、農作物は貧しく、つまむだけでかわいた砂のかたまりのように崩れ、食えたものではない。柵の内側には羊や牛その他の畜生がひしめいており、それらがめいめいの方向へ頭を動かして草を食もうとしているが、あちこちでのろまな胴体をぶつけてしまい小競り合いになっている。それを見る村人たちは顔を覆い、旅人に分からぬ言葉をつぶやいている。旅人は放棄された宿に一泊すると、呪われた村の復興を祈り多めの代価を帳場に置いて去り、後年村の行方を調べたが、知る者は誰もなく、風の便りもなかった。

 暗い駅に着き、数名が降りていった。彼女はボックス席の人間と目を合わせないように窓の奥を見る。電車がゆっくり動き出すと駅前の白熱灯の下を暗いかげを牽いて歩いてゆく人のすがたが点々と見える。彼女はまた視線を文庫本を握っている膝の上にもどした。「あら、あなた、多岐川裕美に似てるわね」彼女は黙っていた。「あなたよ」あなたというのが誰を指すのか分からずに彼女はまだしばらく本に目を落としていたが、後に続く熱を帯びた沈黙が自分とつながっているようにしか思われず、とうとう顔をあげた。女は目の前にいて唇をもちあげ笑っている。「やっぱり。ちゃんと見てもそうね。あなた、多岐川裕美に似てるって言われない?」「はあ」女は弁当を膝の上に置き、割り箸で御飯をつまみあげる。上に錦糸卵とイクラが乗っていて、今にもこぼれそうにふるえながら、しゃべり始めた女の口に運ばれていくのを待っている。女はじっと彼女を見ていた。彼女は目をそらした。「目がおっきくって、きりっとして。肌も白いし。いいわねえ」女は彼女に顔を近づけた。二人の目が合った。女の目は大きく、鼻に寄っていて、眼光がするどく瞳が動かない。「いや、ぜんぜん、違うと思いますよ。そんな、とんでもないです」「いやあ、ほんとに似てるわよ。うんうん、わたし、そうだと思う」うんうん、と言いながらも女はうなずかず、粉をはたいた顔をまっすぐ彼女の方に固定したままである。彼女はそれを強い圧迫のように感じて次の言葉が出せない。女はなおも言う。「わたし、多岐川裕美、好きなのよ。だから裕美さんに似ている人に会えてうれしい」錦糸卵とイクラが女の口の中へ運ばれていく。女は口元に手を持っていき、隠すようにしながら慎重に食べる。今さら、と彼女は思った。赤く塗られたぶあつい唇が指と指の間からのぞく。その唇の合わせ目がよどんだ沼に立つ波のようにくねる。魚卵が上の歯と下の歯に挟まれて、中身が口一杯にあふれ出しているのを彼女は想像する。どうしてこの人はよりによってちらし寿司を食べながら話しかけてくるのか。背広の男が窓を向いて自分を見つめようとしている気がした。この人は多岐川裕美を知っているのだろうと思い、彼女は顔が熱くなってくるのを感じた。彼女もまた子どもの頃にテレビでよく見た女優の強いまなざしや、こころもち傾けられた頭、意味ありげに伏せられた目を思い出す。錦糸卵がこぼれて女の胸元に乗った。女は「ふふふ」と言いながら拾い上げ、笑顔で食べる。女の胸には青い花が大きくプリントされている。ワンピースの白地に、空中を落下する青い花が今にも花粉を吐き出しそうな鮮やかさでいくつも咲いている。手持ちの小さな鞄もワンピースの地と同じ色で、こちらには柄はなかった。背広の男がふう、と息を吐いた。彼女は男の体内を通り抜けてあふれた空気や、寿司を食べる女の鼻から漏れた空気を吸いこんでいる自分を意識し、喉の奥に唾がたまっているのを感じた。

 モウアラソイハヤメヨウ、一頭がしゃべり始めたのを契機に、言葉が伝染するように柵を駆け巡っていった。ミンナデナカヨククサヲタベヨウジャナイカ、ココヲタベタイ、アソコモタベタイトミンナガイッテイタラ、ミンナナニモタベラレナイ。三メートルの体躯とねじれて絡まり上でつながった角をもつ羚羊が仕切って自治組織を作った。牧草地を等分し、水場への道を公道として、ブロックごとに計画的な食事を行うように決めたことによって、動物たちは互いの体をぶつけることなく草を食べられるようになり、少しの間はおとなしくなった。

 次の駅に着いた頃、もう食べ終えていた女はまた彼女に声をかけた。彼女は、今度は自分に話しかけられているのがすぐに分かった。「鳥取は風が強いかしら」彼女は周囲の意識がこちらに向けられているのを感じながら、わずかに微笑んでうなずく。「鳥取は風が強いのかしらねえ」と女はもう一度言った。「どうでしょうか、分かりません」「そうお? でも瀬戸内海とは違うわよねえ。やっぱり日本海っていうくらいだから、吹くわよねえ」彼女はまたあいまいにうなずいた。風? この女はこれから鳥取に行こうとしているのだろうか、この時間に鈍行で? 鳥取は東西に長く、これから鳥取に行くとしてまだ三時間はかかり、ずいぶん遅くなるはずだった。「はあ」と女がため息をついた。「ねえ」と言うので前を向くと、女は窓を向いていた。「わたしって芸能人だと誰に似てると思う?」「えっ」女は芝居がかったしぐさで前に向き直る。「わたしって誰に似てるのかしら」彼女は黙り、女の顔かたちを観察した。眉が太く、頬はこけている。目は大きく、まばたきをした後で眼球がぎゅっと飛び出る癖がある。髪は傷んで縮れ、浜に打ち上げられて何日も過ごした海草を思わせる。誰に似てる? 彼女は疲れがかぶさってくるのを感じていた。疲れて電車に乗って、どうして突然この見ず知らずのおばさんが誰に似てるかを考えなきゃいけないのか。窓の奥がいっそう暗くなっていく。「ねえ、わたしの肌って浅黒いでしょう。しかも目が飛び出してるでしょう。髪だってぼさぼさだし、汚いでしょう」「いえ、そんなこと。おきれいですよ」「お世辞はいいのよ、だってわたしはもうおそろしくおばさんなんだから。あなたみたいに若い頃からわたしはこんなおばさんだったのよ」「はあ」「お医者様に言われたのよ。あなたの肌が黒いのは男性に近いからでしょうって」女は続ける。「でもわたし前田敦子ちゃんに似てるってよく言われるのよ」何を言っているんだ、と思いながらもう一度見ると、確かにそのアイドルに近い特徴をもっているように見えなくもない。「ああ、そうかもしれませんね」精一杯のやさしい声をつくりながら彼女が言うと、「そうでしょう、やっぱり。でもこんな肌が黒いおばさんが前田敦子ちゃんに似てるなんて、おこがましいわよねえ。ねえ、あなたはどう思う? わたし肌黒いわよねえ」彼女はもう答えなかった。手元の文庫本に目をもどした。重たいものを通りすがりにぶつけられたような気分だった。黙りこんだ彼女の上に、女の声が降る。「ごめんなさいね、話につきあわせちゃって。いいのよ、つきあわなくって」女はふふっ、と笑った。女のサンダルの親指がまた動いていた。彼女は本のページをわざとめくり、女を断ち切ろうとしたが、親指の動きが頭から離れようとしなかった。そうだ、いやなら席をかえてしまえばいい。女は見る限り今日だけの乗客だろう。無言で去ってしまっても後に何かが残るわけじゃない。そう考えながらも、彼女はボックス席を離れない。

 問題は言葉だった。獲得してしまった言葉は区画に分けられた動物たちにはまったく不要なものだった。食べるための草はそこにあり、誰かと衝突する危険も回避されたのだから。動物たちは人間だった頃の記憶をもっていなかったが、持て余した言葉によってすぐに冷たい争いの空気が生まれ、指導者であった絡まり角の羚羊に対する不信・不満も地下を這う茎のように拡がって、柵内のどこに破綻の果実が実り出してきてもおかしくはない状態になった。そのうちにも新しい動物が柵の外からやってきて、羚羊は新たな区画整理に追われた。村人はすでに柵を作り直すことをやめ、入っていくに任せている。

 女はまた「あなた、それにしても似てるわね」と言い、ビニール袋からペットボトルの水を取り出して、しゃくるように飲んだ。それからまたしゃべりながら、窓の外に目をやり、ふう、ふうと息を立てて水を飲んだ。彼女は女の動きにあわせて周囲の人間の動きを観察した。背広の男は手で頬から下を覆っていた。彼女には男がどんなことを考えているか分かるような気がした。話しかけられているのが自分でなければ、自分も同じようにどうにかして顔を隠したくなっているだろうと思われた。女子高校生は鞄に顔をうずめたまま、スマートフォンを取り出して熱心に指を動かしている。それも分かる気がした。女は、ふふっ、と笑って水を飲んだ。女は気がつかないんだろう。

 虐殺は一瞬だった。地に足のつかない若者たちがやってきて動物へ次々に斧を振り下ろしたのだった。若者はそれまで何も知らされず丘の上の寮に隔離されていたのだが、主に食事の量が減り続けることから来る疑念と向こう見ずの熱情が沸点をこえた数人がついに錠を破った。若者はたちまち村になだれこみ、惨状を知った。かれらはすぐに行動を起こした。餓えてあちこちに転がった大人たちの骸をまたぎこすと、柵にもたれた無力な人間をなぎ倒し、動物たちへ向かったのだ。かれらの足はいずれもわずかに宙に浮き、かれらの眼球はいずれも血で真っ赤にそまっていた。かれらは暴れる獲物を集団でおさえつけ、胴にまっすぐ斧をつきたてて、噴き出た血を嘗めるようにして飲んだ。絡まり角の羚羊はしきりに叫んでいたが、言葉は誰にも伝わらず、喉元をすっぱり切られてあっさりと絶命した。角はもぎとられてかれらの暴力の象徴となった。動物たちは柵から逃げようとはせず、元が草食であるためにほとんど抵抗もできず、あっという間に柵の内側は壊滅してしまった。数百の動物を虐殺してもなお若者は血走りをおさえられず、仕事終わりに何杯かの麦酒をひっかけると、村の外へ濁流のように去っていき、二度と戻らなかった。

 電車は橋を渡り始めた。数日前の雨で増えた水が海に注いでいるが、すでに暗く、色も流れも乗客には見えず聞こえもしない。温泉地と断崖が近づいている。「これあげます」女の手がにゅっと突き出された。黒い飴の包みが女の手のひらにある。「あ、はい、いえ」彼女は下を向いたまま手を振って断ろうとしたが、「なあに、お礼よ。つきあってくれたお礼」女は引っこめようとしない。彼女は顔をあげる。女の小さな白い鞄の中から、袋から出された黒い飴がいくつも詰めこまれているのがのぞいている。「おばちゃんでしょう。ふふふ」「ありがとうございます」彼女は受け取るときに女のがさついた手に触れ、女に触れている自分を強く意識した。女はまた水を飲むと、「あなたはどこに行くの」と言った。嘘を言うか、ごまかしてもいいだろうと彼女は思ったが、彼女が頭の中で答えを考える前に、女は鼻の奥に言葉をためる、わざとらしい口調で言った。「鳥取はまだ遠いかしらね」彼女は疲れきっている自分を感じたが、小さく「鳥取ですか」と応えた。「そう。鳥取には泊まるところがあるかしら」「いえ、鳥取は、まだまだ時間がかかります。この電車で着くでしょうか。着くとしても鳥取まであと二時間、三時間?」「えっ」女の声は大きくなった。「そうなの。困ったわあ。鳥取方面に乗ったんだけど」「今、島根県を出たあたりなんですけど、鳥取は県の東部なので、今わたしたちが乗っている各停だと、たぶん鳥取までは行きませんよ」「あらあ、どうしたらいいかしら」「泊まる場所を鳥取に予約しておられますか」「そういうの、何もしてないのよ」「鳥取にお知り合いは」「いいえ、誰もいません」それは変だろう。何をしに鳥取へ? 女は鼻の上に皺を寄せ目に見えて困った顔をしている。今度はわざとらしいとは思われなかった。女子高校生が指を止め、会話を聞いているのが分かる。彼女は鳥取までいくつの駅が残っているかを考えた。唾がたまるように次から次へ疑問が湧き出した。女はなぜ鈍行にいるのか。なぜ鳥取へ行きたがっているのか。泊まるところを決めていないのはなぜか。そのとき彼女の頭にある予感が浮かんだが、女がまだ困った顔をしているのを見て、それをなんとか脇に押しやり、とりあえず現実的な解決策を提示してやるべきだろうと思った。電車は橋を抜けていた。軋み音を立てながら、市街地へ続く暗いカーブを走っていく。併走する自動車が後ろに消えていった。「そうですね。今の時間なら米子で泊まるところを探されるのがいいと思います。米子ならもうすぐ着きますし、駅の近くに泊まるところもたくさんあります。米子からなら、鳥取行きも出ていますよ」「そう」「ただ米子を過ぎてしまうと」背広の男の顔が窓にうつっている。これ以上話したくはなかったが女に見られているので彼女は続けざるを得なかった。「もう本当に、鳥取までほとんど大きな駅がないです。夜遅くに鳥取に着いて、それから探すのは難しいかもしれません」「あら、そうなの」「それか、特急券を買って、乗り換えると早いです、けど、だいぶ時間が遅いですから、この時間に出てるか分かりません」彼女はスマートフォンの電池が切れかかっているのを思い出していた。女は少しの間黙っていたが、「あらあ、それじゃあ、米子で降りてみようかしら」とつぶやいた。「そうですか、気をつけてくださいね」彼女は女の持ち物をあらためて見やりながら言った。女は小さな鞄以外には何も持っていなかった。どこかに泊まるための道具も、翌日の衣類も。「ありがとう、あなた、やさしいわね」と女は言った。

 何かが起こった現場を片づけるのはいつも残された者だ。大虐殺の後、村人がおそるおそる柵の内側に足を踏み入れても、もはや誰も動物には変わらなかった。器用に仕事を遂行するための二本の腕が、黙々と家族や友人や恋人の肉を拾い上げていった。血にそめられた肉の区別など村人にはつきようもなく、村長が拾ったものはすべて拾った者の所有物としてよいことにすると、その晩はどの家の煙突からも煙があがった。村人はよだれを垂らして肉を食い、酒を飲んだが、次の朝には全員、荷物をまとめて村から消えてしまった。まだしばらくは村外れの小屋からうめき声が聞こえてきたが、それもそのうち、消えてしまった。

 田園から住宅地へと景色がうつりかわり、灯りが増えていく。すぐに米子駅の薄明るい建物に電車はすべりこんだ。向かいのホームには島根方面の列車に乗ろうとする男女がまばらに立っている。車内の空気がにわかに動き出し、多くの乗客が扉に近づこうとする。女子高校生はまだ電車が停止しないうちから立った。赤ん坊を抱き上げるように鞄を持ち、目はスマートフォンからはずさなかった。女の脚と彼女の脚の間を通るとき、少し考えるようにして、横向きに通った。どちらにもぶつからなかった。「あなた、ありがとう」女は電車が停まって立ち上がるとき、また彼女に礼を述べた。「いえ、お気をつけて」寿司の入っていたビニール袋が鞄のふちからはみ出しているのが見える。女は背が高かった。ワンピースからはみ出した脚が長く、細く見えたのは彼女には意外だった。女は降りていく乗客にまざってふらふらと出て行った。ホームに立ち、しばらくの間、右左を確認するように頭だけ動かしていたが、そのうちに他の人間と同じ方向へ進み出した。そのとき女がふっと後ろを向き、こちらを見るような気がしたので、彼女は目をそらした。少ししてもう一度見ると女はいない。電車が動いた。米子を出るとずっと無人駅が続く。乗客はあっという間に減り、あたりは暗くなっていくばかりだった。米子から二つ目の駅で背広の男が降りた。ホームに出たときに彼女を振り返って、彼女のすがたを確かめようとしているのが分かった。やはりこの男は女優の顔を思い浮かべながら話を聞いていたんだろうと彼女は思い、また顔が熱くなってくるのを感じた。彼女はボックス席に一人だった。電車は日本海をのぞむ巨大な墓地群のそばを通っていく。スマートフォンを取り出し、女優の顔を調べる。「似てねえよ、どう見ても」そうつぶやくとスマートフォンの電池が切れた。彼女は黒い飴の包みを手の中で転がしながら、電車の走る音を聞いていた。(了)

鈍行にて.pdf
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