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かたうでがり:日居月諸

 椅子に座った女はさっき受け取ったばかりの片腕を胸に抱き寄せ、掌で肘のあたりを撫で、頬に付け根を当て、愛おしむように見入っていた。薄明るい部屋の中で明るさを目いっぱいに取りこんだ白い肌に包まれては、黄色く毛の生え揃った片腕は生気を失って一通り腐ってしまったかのように見え、今まで私の左肩にぶらさがっていたものというよりも、女がかつて失った左腕を今もなお大切に保管しているといった方がふさわしい。腐乱しているからといって必ずしも愛想が尽きるわけではなく、変わらず艶やかであり続ける白い肌が外された腕によって引き立つのであるから、ひとしお愛着は増す。二度と時間を刻まない形見と、今なお時間を刻み続ける自らの体、本来ならば美しくあり続けるのは前者だろうに、実際に美しいのは後者である。所詮錯覚に等しい転倒ではあるが、それでもわずかばかり永遠を我が物と出来るのならば、それを余すことなく堪能しようではないか……そうした忖度はこちらの邪推にしか過ぎないが、いずれにせよ邪な思いを抱いているのでなければ、お世辞にも美しいとはいえない片腕に愛しさは湧かないはずだろう。

「代わりが務まるのかい、そんな汚い腕が」

 やわらかい弧を描いた顎が上がって、青みをおびた瞳がのぞく。

「務まりますよ、十分に」

 そう言いながら右手は掌のあたりを撫ではじめる。さっきまでその手が撫でていた肘が、まだ残像が残っているのだろうか、白くきらめいているように見えた。しかし、まもなく掌も輪郭をくっきりと浮かばせはじめ、中途半端に太かった指も、女の腹の上でほっそりと伸びはじめた。そこで私は、先程までの邪推が自らの汚れた心の投影に過ぎなかったとわかった。

「そうだったね、君は物をやさしく扱ってくれるんだった」

 左肩にはまだ重さとともに、細い手の暖かい感触が残っている。女は迎え入れてまもなく、裸になった私の左肩を撫で、首のあたりから二の腕のあたりまで数回往復させると、痛みもないままあっという間に腕を引き取ってしまった。

 その時と同じ仕草が今度はこちらの左肩ではなく、女の胸の中で繰り返されている。そして醜かった腕はすっかり肌へと溶けこみ、いよいよ空っぽだった左肩にあてがわれた。やや右肩が持ち上がってから、黒く長い髪が揺れるとともに均等に戻る。

「いかがでしょうか?」

 立ち上がってから、左に首をかしげこちらをのぞきこんでくる。緑の血管が浮き上がった首筋から香水の粘つく匂いを発してまもなく、これまでの自分の癖が現在の恰好には似つかわしくないと気付いたのか、改めて右に首をかしげ、接合したばかりの左腕を見せてきた。その拍子に、乳房が少し揺れる。

「綺麗だよ、とてもじゃないが自分の左腕だったものとは思えない」

 思わず右手を伸ばして肘のあたりをさすると、胸が少しふるえたので、ひっこめざるを得なかった。見上げてくる顔が、つらそうに微笑んだ。

「ごめんなさい、まだ馴染んでいないから……」

「どれくらいかかるの?」

「二三日あれば。ただ、馴染んだ頃にはお返ししなければならないでしょうけれど」

「しばらく君のものにすればいい。なんなら、永遠に」

 永遠、という我ながら突拍子もない言葉を使うと、苦笑された。とはいえ、半分くらいは真剣な思いからくる言葉だ。女の助けになるというのもさることながら、自らの分身が美しく生まれ変わるというのは悪い思いはしない。いっそ、このまま腕が永遠に女のものであり続けたとして、いつかは美しさの覆いが剥がれて、かつての黄色く醜かった腕へと戻らないかどうかが心配なくらいだった。

「実際のところ、帰ってこなかった人もいるんだろう?」

「いましたけれど、結局腕は元の所に戻ってしまうんです。借り物は借り物ですから」

 ということは、この腕とて永遠に女のものであるわけではないのだ。残念な思いがした。

「まあ、こっちの気が変わるまでは自由にするといいさ」

「駄目ですよ、あなたのものなのですから大切にしなければいけません」

 そう咎めて左の二の腕のあたりをさすったかと思うと、女は脱いでいた服に手をかけ着替えはじめる。薄い青のドルマンニットをかぶり、その上から深い青のショールを羽織り、紫のロングスカートであらゆる肌を覆う様子は、左腕のなかった時と何ら変わりなかった。背筋を伸ばしてすらりと立っている姿からはふくらみがかくれ、未だ直らない右手で左腰にかかるショールをつまむ癖もあいまって肉体を細く細く切り詰めているように見え、夜の草原にひっそりと咲くヴェロニカを思わせた。

 ヴェロニカ、静かで淫らな女。貞淑にふるまうのはあくまでも寄りつく男を振り払うためであって、想い人を見つめる際は少しの拒絶も見せないどころか相手の拒絶を許さないほど獰猛になり、その手に持ったヴェールで自らの胸の中に取り込んで二度と離さない、孤独を物ともせず、それでいて寂しさをかかえこむ女。

「左肩が重いんだか軽いんだかわからない感覚も、じきに直るのかな?」

 着替えるのを手伝ってもらいながら言った。ワイシャツの袖を肩にひっかける時、わかっていても思わず体をかたむけて腕を通そうとしてしまうので、苦労させた。

「人それぞれですけれど、じきに直ります」

 一通りの着替えを済ませてから、女はまた暖かい手を左肩に寄せてくれた。何度も往復される手はこれまでほとんど意識することのなかった左肩の在り方を告げてくれるとともに、そこから下へとぽっかりと広がっている空白まで自分のものとするかのように感じられた。

「他人にバレてしまったらどうしよう?」

「私と同じように背筋を伸ばしていてください。そうすれば、きっと皆気にも留めないでいてくれますから。それに、どこかしら後ろめたいことがあれば、それを隠そうとする勢いで、背筋は伸びる。むしろ、後ろめたいことがないほうが、あちこちに散らばっている欠落の予兆に気を取られて、背筋はだらしなくなります」

 そういうものかな、とのぞきこんでみたら、左右に分かれた前髪が表情を確かにさせている顔がこちらを見上げていて、その拍子に垂れ下がったような瞼が目を細めた拍子にまた垂れ下がり――こちらの疑いをその瞳に沈ませて和ませるような仕草は、最終的に微笑みとなって現れた。

「そういうものですよ」

 

 ただでさえ道が縦横に入り組んでいるこの街に建てこめられたビルの合間合間には小さな店が無数に軒をつらねている。冬の夜の細い雨に降りこめられて濡れたコンクリートは所々から発せられる照明で色とりどりに照らされ、顔を下げて歩く分には表通りよりもにぎやかに映り、時折行きかう通行人の足もまた白く照らされて実体よりもくっきりと水たまりの中を歩いていた。

 そこに左腕を失ったばかりの男が映りこむ。傘を差すとやはり空白が目立つので捨てさせた。改めて映りこんだ黒い外套を羽織る姿は、背中から差す光りによって輪郭だけが描きとられ、濃い霧がただよっているように見えるから、左腕の空白は目立っていない。女は自らの身を細く細く切り詰めながら歩いていたが、こちらは肩をいからせて実際よりも体を太く見せることで空白を補っているようだ。

 その空白を一対の男女がかすめていく。振りかえったところでは向こうは進んでいく方を向いているだけなので、こちらの姿には気に留めなかったらしい。というよりも、女の右腰へ男の右手が回り、二人の間から傘がのぞく様子からすれば、すっかり暗い部屋に入っている気分になっているか、あるいはその名残を引きずっているといったところだろう。赤いコートをまとった女の左腕は灰色のコートの影に隠れてしまってうかがえず、男の左腕も、存在をひけらかしている右腕に比べればその所在は一見したところではわからない。それどころか雨の降りこむ中では二つの人間の頭やら足やらの輪郭は定かでなくなり、事細かな物は何もかもが洗い流されてしまって、ただ単に赤と灰の塊がくっつきあって歩いているかのようだった。

 それらに比べれば、と表通りを歩きながら、私はさっきまで歩いていた路地の眺めを思い出していた。人の腕はなんと恥を投げ出したようにだらりと垂れ下がっていることだろう。

 黄白い明かりに照らされて靄がかかったような道を無数の人が渡り歩いており、その横を通りすがっていく分には腕がないことはむしろ有利に働いた。いつもなら身を右に左に寄せながら進む必要があるが、今日はただ真っ直ぐに歩くだけで済み、その分だけ向こうからやってきてこちらの方を通り抜けていく人々の姿を仔細に見られる。

 ひとところに固まった目からすれば、一人で首をうつむかせて歩く姿だったり、仲間内で顔を見合わせながら歩く姿だったりは特別目を惹くものではない。それよりも、皆が皆一様に示している自分の内にふけりこむような姿に似合わず、誰もが腕を持て余して他人の目の前に投げ出している様子が目についた。

 たとえば一人で傘を差し歩いている男の右手は、やるべきことがはっきりしている左手にひきかえ、ポケットに入ったり外に出たりを繰りかえして所在なさそうにしている。並んで歩いている男女にしても、二人をつないでいる手の睦び合いに似つかわしくなく、もう片方は途方に暮れたように浮かんでいるだけだ。

 そういう風に余っている腕達は、自分のために余すところなく使われているもう一方の腕に比べれば、行きかう人々に見せるためだけにある物のように思われた。一人で歩くにせよ、誰かと歩くにせよ、道というのはただ単に行き過ごすためにある、いっそなくしたいくらいの邪魔なものに過ぎない。だからこそ人は道を歩いているとふけりこむような様子を見せ、時間をやり過ごすために安全な自分の内側に逃げ込む。が、一方で道は誰もが使うものであるから人は衆目に晒されなければいけない。もちろん誰もが自らの内側にふけりこんでいるのだから常に注目されるようなことはないが、あまりにも淫らに自己をひけらかすような態度――それこそさっき路地で行き交った抱き合って歩くあの男女のような態度――を取ってはならない。自己にふけりこみつつ、一方で他人を意識していると知らせなければならない、そんな時に腕が投げ出される。公的な場所にあって自己にふけりこむ代償として自分はそれなりの分別を持ち合わせた者であるとの証明を差し出さなくてはならない、だからこそ持て余された腕は一様に恥らったような落ち着かない態度を取るのだろう。

 暗い、初めからふけりこむことを許されている場所である路地ではそんな様子は見られない。皆が皆、何をしないでも恥を分かち合っているのだから。

 傘を捨てた右腕をだらりと投げ出して歩きながら、振り向かれもせず自己にふけりこむことを許された私は、心おきなく左側にできた空白を愛おしんだ。女が左肩に残してくれたぬくもりは寒い外気に当てられて消え失せようとしてしまっている。しかしそのもどかしさが、かつて左腕があったのに今はないという違和感とまじりあった時、存在と消失の間を揺れ動く感覚が空白をすっかり埋めてしまう。そうした微妙な感覚はおそらく女がずっとかかえ続けてきた物に似ているだろう。

 他人の腕を自らの腕に付け替えることのできる女は、しかしながら他人とすべて通わせられるわけではない。左腕がなかったら、誰かに抱かれてもその体を自らの胸の中へ完全に引き寄せることは許されない。左腕があったら、誰かを抱きしめてもその体の胸の中に完全に迎え入れられることは叶わない。

 私はその心のありったけを受け止めようと思った。しかし、同じ立場におかれたところで、女がこれまで過ごしてきた時間の積み重ねとの差は埋めがたい。そのもどかしさがまた空白の上に積み重なっていく。そんな風に私は感じられる限りの焦燥感を備給し続けることで、出来る限り女の心に近づこうとした。

 そのためには、どうかこの空白が人目に触れないように、と願った。人と違った部分が衆目に晒されて恥を押し付けられることを恐れたのではない。誰かの目にこの空白が晒されることで同情されるのを厭ったのだ。誰かの同情が乗り移った時、私と女の間の秘密の関係は崩れてしまう。何より、誰彼となく同情を向けられ続けてきただろうに、それでいて寂しさをかかえ続けてきた女を知るには、私もまたその奥底にある寂しさを感じなければいけない。

 とはいえ、人中をかきわけて歩くことをやめてはならない。なぜならば女もまたこうして人中を歩くことで片腕を貸してくれる人を、そして空白を受け取ってくれる人を求め続けていたのだから。半端な孤独と半端な合一があふれる流れに揉まれて歩くことで、本当の孤独を知り、その上で本当の合一を求め続けていたのだから。

 だから私は地下鉄の入り口に立った時、まだ家路をたどる人の流れが絶えていなかったことに安心した。構内を縦横に行き来する人々はいずれも雨に降られていたさっきまでの様子をだらりと垂れ下げた腕でもって改めて表現しており、そうした情景はいっそ心地よささえ感じさせた。これでまた、女への共感を果たすための時間が延びてくれる。

 鼻の奥を抜けていったかと思うと、後になって粘りが残る水気の臭いをかすめていく間に、私は今や自分が一人で歩いていない事を知った。かといって誰と歩いているわけでもなかった。湿った伏し目がちの顔が通りすがっていくだけで、それに合わせて右腕を下ろしていれば誰もこちらを注視しないから、人中を歩いていようと実際は一人で歩いているような快ささえある。そんな全能に近い充足感を覚えつつも、その片隅にひっかかっては違和感を増し続けている空白に付きまとわれながら私は改札へと向かっていた。この歩行は片腕を貸してくれる人を求めていた足跡をなぞるために為されているに過ぎないが、だからといってその隣にならぶ事は叶わない。それどころか、足跡をなぞるにも後から誰かに背中を押してもらう必要を感じている。歩いているのは私だ。しかし、歩かせてくれているのは女である。

 前方にはあの細く細く切り詰められている、人々の視線を負いながらそれでいて一切の憐憫を跳ね除けるためにすらりと伸ばされた背中が見えていて、それに追いすがろうと前のめりになると、それではいけないと襟をついと抑えてくれる温かな手が後ろから延びてくる。そうした具合に前にも後にも気配を感じているのに、その顔が明らかになることはない。せめて隣を歩いてくれて横顔だけでも見せてくれればいいのだが、左肩の先には空白が広がっている。

 砂漠ではかえって盲目の方が迷わないんだよ、と友人が教えてくれたことがあった。太陽や星を頼りにしているようではいけない、砂漠に浮かぶ足跡が風と共に去ってしまうのと同様に、遊牧民は太陽や星さえも砂が生み出した一抹の夢だと知っている、ならば何を信じるかって、自分のはずはない、自分ひとりしか頼るものがないとしたら自分の周りをぐるりぐるりと回るだけだ、砂漠を渡るには自分さえも砂とともに流さなければいけない、嵐とともに太陽が溶かされ白夜が訪れあらゆるものが褐色に染め上げられ、とうとう何も見えなくなって心さえも切り詰められてしまった時、想い人の姿が映るんだ、単に四方を愛する人が囲んでくれるだけになるんだよ、そして砂とともに塵と化し空へとまぎれては、唯一見える愛する人の許へと向かい、その呼吸とともに体の中へ吸いこまれていくのさ。

 ホームの片隅に行きついて束の間の孤立に落ちついた私は、先程までとは違い誰にも支えられていない、自分一人で運びきらなければいけない体の重みを感じざるを得なかった。夜の地下鉄のホームはいかに照明を設えていようとぬぐいきれない煤のような暗さがあちこちにくすぶっており、電車を待つ人を覆い、彼らの視線を隠してしまう。陰に隠れてしまった視線はこちらが隠している影と同調するので、立ち止まってしまっては目立つことになり、ここからは人目を避けなければならない。そういう風に孤立を選び取ったら尚更自分というものの邪魔っ気が意識されてきて、同時に、片腕を預けたところで私という存在まで預けきれるわけではないのだと知った。

 改めて右手で左肩を撫でた。底冷えのする地下にあってはもう温もりは一片たりとて残っておらず、骨の突っ張ったごつごつした感触だけが味わえる。女もまたこうして自らの左肩を抱き寄せていたことだろう。暗い部屋で一人きりになって、空白と存在を分かつ境目に触れながら、たとえかりそめの仕草に過ぎぬとはいえ、悲しみをまるごとかかえこむように自らの肩を抱いている夜があっただろう。

 しかし、あのような丸みをおびた柔らかい肩ならばまだしも、このような骨ばったそっけない肩を愛おしむことができるだろうか?

 そうした疑問にかられていると、肩の下に広がっている闇が白く照らされ、ついで風が押し込まれるような轟音が聞こえ、そしてホームに電車が駆けこんできた。人の少ない最後尾に乗りこみ隅の壁に肩を押しつけながら、この時ばかりは早く電車が目的地に着くのを願った。人目が気になるのもさることながら、私の肩はあまりに固く冷たく、孤独を押しつけてくる感触だった。

 自らの肉体から迫ってくる圧力を感じながら、きっと女にもまたこういう思いをした夜があったはずだ、と認識は転換された。自らの肉体を愛おしむ時間が積み重なった末にその愛に応えなければならないという強迫観念が生まれ、その圧迫に負けてしまった場合に待っているのは、肉体が大きく映り細部の一点一点まで見せつけられ普段隠れていたはずの醜ささえも露わになるという瞬間であって、その時途端に愛しさは反転し、憎しみへと変わる。そんな経験が女にもまた訪れたことがあったはずだ。自らの肉体を愛おしむという行為は、同時に肉体の醜さを見つめるという行為でもある。そういう風に、女をまるごと知るには、女の過ごした時間の一つ一つをくまなく味わわなければならないのだ。

 思えば今年は一年が長い。夏があっさりと終わってしまって、涼しい秋が訪れたかと思えば、その秋があまりにも長く、雨が降るたびに寒さが訪れたかと思うとまもなく晴れ渡った空が訪れて暖かさは戻ってきてしまう。例年ならば長引いた夏が秋を押し詰めてしまって一気に一年を終わらせるのであって、そうした時間とのズレに苦しんでいるのかもしれないが、一年の重みに見合うだけの出来事は浮かんで来ず心のどこかに何かを置き残しているような忘却感が付きまとっていた。

 そんな長い秋の何度目かに降った雨とともにあの女は現れて、出くわしたばかりの男に対し、片腕を貸してくれる気になったら、こちらまでおいでください、と低く心の底に澱となって残るような声でもってすれ違ってきて、ポケットに部屋の住所を書いた紙を忍びこませてきたのだった。

 以来、長い一年は一層長くなったが、しかし釣り合いが取れたような平衡感もまた訪れた。普段から漠然と感じていた時間の重みは、女という実体をもった存在となって具現化し、観念的に過ぎなかったかつての在り様に比べればはるかにつかみどころを備えた姿となった。その時点ですでに片腕を預けているようなものだったのかもしれない。日を経るたびに私が抱えている重みは女が抱えている重みと和みあって幾分か背負い込むには楽になっているのを感じた。しかしながら、それにも限度はある。女がずっと味わってきた、誰とも完全には分かち合えない寂しさは彼女自身にしかかかえこめないのであって、こちらが出来る世話といえばせめて隣に添ってその重みをやわらげてやるくらいのものだ。それと同様に、私が感じている重みも自分でしか背負えないのであって、女に助けられるのはわずかであり、それからは自分ひとりで歩かなければならない。

 電車が目的駅へとつくと、扉が開いた先に人はおらず、乗りこんだ駅と変わりない暗さがホームを覆っていた。私はこれからの残り少ない年明けまでの時間を、女が少しでも軽くしてくれた体でもって一歩一歩なしくずしにしながら過ごしていかなければならない。女の過ごしてきた時間を追体験するように、まずは自分の体の重みを時間をかけてじっくりと知らなければならない。そして自分の重みを残りなく受け止めることができた時、初めて私は女の重みを受け止めるための腕を手に入れることができるだろう。

 

 家までの道に雨は降っておらず、車を使わず歩いてたどることにした。ゆるやかな上り坂と下り坂が繰り返される郊外の道にあっては、平坦な街中を歩くのに比べ、自由にならぬ体の重みがのしかかってくるとともに、左腕の不在もまた強く意識されてきた。

 店の明かりは落ち、車通りの賑やかさも失せてしまっていて、あるものと言えばほんのりと露のように宿っている街灯の薄明りくらいだ。暗がりの中で道行の険しさと易しさを測るために焦がれるように見やっていると、さっき薄明るい部屋の中で見たばかりの女の白い肌が思い出されてくる。

 今頃女はあの部屋の明かりを落として眠りについているのだろうか。暗闇の中で自らの肌が放つ仄明るさを眺めつつ、いつもよりその白さが濃いことを見取って、久しぶりに身についた重みを感じながら横になっているのだろうか。だとしたら、その重みがきっかけとなって夢を見るに違いない。見るのはまだ自らの左腕が失われていなかった頃の思い出だろうか、それとも、左腕を貸してくれた男の……。

 ようやくの心地で坂を上りきり街灯の下にたどりつくと、黒い体は暗がりにいた時よりもことに濃く映り、私は預けたばかりの腕が醜いまま女の体に接合してしまわなかったことを恨んだ。醜いままならばきっと、女とともに夢を見ることが叶ったかもしれないのだから。

 女は夢を見る。遠い日の夢を見る。すでに左腕は失っている頃で、体は幼く、残った体の重みを持ちこたえられずに、かといってそれを支えてくれる人を探すという考えも浮かんでいなかった日のこと。背を伸ばすどころかいっそ右腕さえ落ちてくれないかと恨みを表すようにうなだれて歩いていると長い道はますます先に伸びていって、元から見渡そうとする気さえ起こらなかったのが、一層目を見上げるのが億劫になるほどに眺めが尽きなくなっていく。そのうち奥行というものが失せて遠近さえなくなり、風景がただのっぺりと浮かんでいるように見えて、力を出しきった末の徒労の心地にさえ至れなかった。ただ平板な直線と平板な眺めだけがあり、それがこれまでの苦労さえも嗤うような光景だったので、もうずっと脱力していたような、そもそも力など自分にはなかったような心地になる。そして、とうとう立ち止まって足元に目を落とすと、腕が落ちていた。

 関節になりきらなかった骨のつっぱりと、折れ曲がらずに伸びている肘と手首、そして五つに分かれている指、それだけを認めるとすぐさま拾って抱き寄せた。鎖骨のでっぱりに腕の関節のくぼみを合わせ、肘と肋骨がかち合い、指が腹を撫でる。そこでこれまで邪魔にしか思ってこなかった自らの体の重みが途端になくなった。あるのは抱きしめている腕の重みだけ、これからずっと大切にしていこうと決意した重みだけだ。

 右腕で左脇をにぎりしめ、首が胸につくまでうつむき、唇が固くむすばれる、もうじき涙が出るだろうと思われるほど全身のあちこちを絞りきった様子を、見ている者がいた。見上げると視線が合っていない男が立っていて、同じように左腕を失っていた。盗みをしたという意識が初めて上ってくる。奪い取ってしまったという意識さえ現れてきて、近づいてくるその姿が実際よりも大きく見えてきて、左半身の空白さえ圧迫感をもって映ってきて、そのままのしかかってくるあまり幼い右腕はもぎ取られてしまって空白を埋める代償になるかもしれないと思われたら、後を向いて走るしかなくなった。かといって走っているのは心だけで、荷物をかかえている体はもどかしげに動くだけで、むしろ実際の荷物よりも体の方が改めて荷物に感じられるくらいで、やがて転んでしまって抱き寄せていた腕はふたたび地面へと投げ出されてしまった。覚悟の決まっていない、哀願するような目が後へと向けられる。

 けれど、そこには遠ざかる背中だけがあって、逃げる方角とは逆向きにはるかに広がっている直線の先を目指して歩いていた。温情も冷酷もうかがえない、ただ自らの重みだけを支えるために伸びている背中だけが見えた。

 それこそがあなただった。左腕を預けてくれたあなたは、すでに遠い日に同じ腕を行きずりの少女に預けていた。といっても当初は預けたという意識はさらさらなくて、投げやりに置き捨ててしまったけれど結局名残惜しくなったので戻っていったところ、すでに新たな持ち主のもとに落ち着いていたから、取り戻すことをあきらめてしまっただけの話だった。

 あなたはそれからずっと一人で歩き続けていた。背後に先程の少女の姿は見えなくなっていたが、振りかえりもしなかった。あなたはそういう風にかつての恋人とも別れてきた。置き捨てた末に振りかえりもしないで、一方で奥行を伸ばしに伸ばしながらはるけく広がる眺めを作り出し、気付けば後には見えないところまでたどりついてしまい、一体何があったのだったかと思い起こそうとしても徒労に終わり、また前方を向き直して果ての見えなさに嘆息しつつ、この遠大さを前にしては来し方をかえりみるどころではない、と歩き出していく。そうして前と後の距離を等しくし、未来と過去を消してしまって、ひたすら平坦に伸びていく現在を創り出す。

 たとえ片腕を借りようともあなたの過去が見えるわけではない。見えるのは、老若男女の区別を失うどころか、これ以上過ごすべき未来もなくなり、遡行すべき過去さえなくなり、そういう風にあらゆるものから切りはなされてぽつんと転がっている腕だけ。その腕はとても軽く、けれど私の体の釣り合いを取るには十分な重さを持っていた。他人から腕を奪ったという後ろめたさは、くじけるばかりの背筋をまっすぐ引き上げてくれて、やがて助けを借りずとも片腕で過ごせるだけの力を与えてくれた。

 のみならず、かつては広がっていくばかりだった前方の視界も、少しく狭まっていった。あなたの背中が、いつかは追いついて借り物を返さなくてはならない右半身がすこしふくらんだ背中が、とりあえずの区切りではあるが、それでも幾分か気を楽にしてくれる区切りとして立っている。後には腕があり、前には背中があり、私はあなたに方角を定められながらここまで歩いてきた。

 たとえ追いつこうともその背中を振りかえらせてはいけない。私が自らの体の重みを支えられるようになるまでの時間が必要だったのと同様、あなたもまたかつて置き捨てた自らの過去の重みを向き合えるまでの時間が必要なのだから。その時が来るまで私はこの片腕を愛おしみ続ける。愛おしみ、愛おしみ、腕が輝くまで愛おしみ、その煌めきにあなたが引き寄せられて振りかえった時、その顔に何もかもを洗い流した清々しさが宿るようになるまで、私はこの片腕を愛おしみ続ける。

〈了〉