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「ファイナルファンタジー」 うさぎ

 

 仕事から帰ってくると妻の笑顔がいつも以上にわずらわしかった。

「今日は、とんかつを揚げてみたの」

 家に入るなり油くさいのは、妻の料理のせいだと理解した。食べる前から胃もたれをしているような感覚になった。私の本音はレトルトでいいから早く食べて寝たかった。仕事で疲れたからなにがなんでも寝たかった。日本の経済や政治、世界情勢を淡々と語るニュースキャスターが深刻そうな意見を言うコメンテーターに相づちをうっている。「自分は安全なところにいるくせに」と毒づきたくなる。キッチンからは、カラカラと揚げている音がきこえてくる。夜の十時にとんかつを食べてはたしてすっきり眠れるのだろうかと考えてしまう。

 ふと、私は妻のいる方をみる。妻の笑顔はいまもなお健在で、私は恐怖を覚えるしかなかった。

「もうすこしで出来上がるから待っててね」

 不気味なことをしている妻の原動力はなんなのか私にはまったくわからない。

 結婚して丸四年経って、妻も私も段々とお互いから気持ちが離れていくばかりだったはずだった。それなのに今日は結婚したときのような振る舞いで、妻の意図がまったく読めない。三度目に妻をみたときには、妻と目が合って恥ずかしかった。妻はもりつけが終わったらしく、「よし」と調子をつけて「できたよ」といって料理を運んできた。それから、右に味噌汁、左にご飯をおいた。そんな細かいことまで妻が気遣うはずがないと思いつつ、現実で起こっていることを素直に受け止める努力をした。

「いただきます」

 私も普段はいわない言葉を発して妻の料理を食した。つけっぱなしのテレビでは、今日のプロ野球の結果が流れていた。私は黙って、目の前の衣をまとった肉塊を食らうことだけに集中した。私が料理を食している姿を妻は微笑ましくみている。しかし、私の内心は、こんな食事はとっとと終わらせて、風呂に入り、ベッドで寝たいという欲求が一番に来ている。

「あのさ」と妻が口を開いた。

「裕子っているじゃない、私の高校からの友達の」

「あぁ」

「裕子がね、子供できたの。さっき電話があってね、四ヶ月だって。安定期に入るまでは黙ってたんだって」

「ふうん」

 私の薄い反応で妻の顔が少し曇った。しかし、すぐに妻の顔は元に戻り、話を続けた。

「今度、みんなでお祝いするの。何がいいかな? やっぱりベビー服かな」

 少しは妻に知恵を貸そうと同僚で同じケースを思い出してみたが、みんなで飲んで、子供ができたヤツは数回タダということがあっただけだ。男と女では考えることが違う。ましてや、夫は妻に寄り添うことしかできないで出産まで迎えることになる。子供を実際には孕んでいないので、当事者意識が薄くなる。

「それでいいんじゃない。たくさんあって、邪魔になるものではないし」

「今度の休みにデパートに付き合ってくれない?」

「あぁ、いいよ」

 妻は本当に嬉しそうに喜んでいた。私の気持ちはその反対に、肉塊を残したくてそれをどうやって伝えようと憂いていた。自分の中でルールを作る。四分の一まで食べたら、妻にギブアップのサインを送ろうと。それまではひたすら我慢して肉塊に食らいつく。明日の体調をベストなものにしたいがための悲惨な忍耐。寝たい。ベッドに寝転がりたい。夢を期待しているわけではない、ましてや明日なんて待ち遠しくない。ただ、仕事に支障がないようにしたい。他人に迷惑をかけたくない。ウスターソースを多めにかけて、キャベツを間に食べてアクセントをつける。そして、ニュースキャスターが「また、明日」と頭を下げた時に、私は意を決して妻に「もういいや、風呂に入る」といった。私が思っていたのとは反対に、妻は気分を害した様子はなかった。

 私は安心して、風呂に入り一日の疲れをとった。

 風呂から出ると、妻はバラエティ番組をみていた。私は「明日もあるから、もう寝るよ」と声をかけた。「はい、おやすみぃ」と返ってきた。

 寝室に入るとベッドに倒れ込んだ。ただ、それが仕事からくる疲れなのか、さっきの惨めな戦いからきたものなのか、はたまた、どっちもなのか。さっきの妻の笑顔とトンカツの記憶がよみがえる。違うことを考えるように努力をする。明日、朝一番にやらないといけない仕事が出てくる。取引先に電話をして、明後日の打ち合わせの資料を作成しなきゃいけない。いや、その前に総務に電話して先日なくしたデスクの引き出しの鍵の弁済代金についてやりとりしないと、データが入ったディスクがそのままだからそれを取り出さないと。同僚でデータを渡した人間がいるから、そいつに借りればいいか。

 明日の仕事のことを考えていたら、眠れない気がしてきた。寝返りをうつ。鏡台が数歩先にあって、妻の化粧品が全部キャップをして乱雑に置いてある。几帳面なのかめんどくさがりなのか判別がつかない。

 笑顔でいる妻。なんか今日は変だ。何があったんだろう。何か悪いものでも食べたのか? たとえば、隣に住んでる私の母に何か悪いことでも吹き込まれたのか? まさか。そんなはずはない。母と妻は結婚以来仲が良くない。でも。何かをきっかけに二人が雪解けして、今日がその日にあたるのでは。たとえば、妻の溜まった私へのストレスを母に話したとか。とんかつは話が弾んで、その流れで作ってしまったとか。ない。ありえない。悪いことを考えていると段々と目が冴えてしまう。

 寝返りをうつ。ドアがあって、そのむこうの光が隙間から漏れている。反対側をむくと気になって眠れなくなる。

 反対側を向いてもう一度寝る体勢を作る。気になって、目覚まし時計をみる。ぼんやりとした黄緑色の光が長針と短針で一二と一を指し示している。もう本当に寝なくては、まずい。でも、胃のあたりが重い。さっき、ゲップが出た時に逆流しそうになった。やっぱり、夕飯をあんな時間に食べるんではなかったと後悔してしまう。

 ドアのむこうで明かりを消す音がきこえる。妻も寝るんだと思って、これで寝れると安心できる気持ちと隣に妻が寝るんだという不安が半々である。妻の足音はかすかにきこえる。私が寝ていると思って気を遣っているんだと思う。しかし、ベッドに入ると思っていたら、妻は布団をはいできた。

「眠れないんでしょ?」

 私は驚いて言葉を発することができなかった。暗闇の中で妻の表情はわからない。それが私の恐怖心をさらに増長させる。

「まぁ、そうだよね。寝る前にあんなもの食べさせられたら、だれだって眠れないよね」

 そう言ったあとに少し笑った声がきこえた。

「ど、どうしたんだよ?」

 やっと出た私の台詞は間抜けなものだった。妻は私の上に跨がった。そして、妻の手を私の胸から顔の方へ滑らせた。妻は私の顔をしっかりと両手で掴むと耳元で囁いた。

「私ね、裕子がうらやましいの。私も子供欲しいの。わかる、この気持ち? 嫉妬じゃないの。私もね、欲しいの。欲しくてたまらないの」

「でも、今すぐじゃなくても」

「いやなの、そんなの。早ければ早い方がいいじゃない。それに、私、あなたのお母さんに言われた。孫が早くみたいって。その時は腹が立ったけど、今の私は納得しちゃったもん。ねぇ、いいじゃない。ちょうだい。ほしいの。ちょうだい」

 ここまで積極的な妻を今までみたことがない。妻は私の全身を「ほしい」と「ちょうだい」を言いながら撫で回す。私の頭は行為をしたいと思ってないのに、妻の言葉と愛撫で、下半身が反応をしめしている。しかし、仕事の疲れからか、十分な固さはない。妻はそこにさらに刺激を与えはじめた。それと同時に妻は、パジャマのズボンを自ら脱ぎ、自分の裂け目を触りだした。妻とこうしているのはいつ以来だろうなどと余計なことを考えた。からだが昂り出した。十分に愛撫をしたので妻に挿入できる程度になった。私は寝たままで、妻は私の上に馬乗りで乗っかる。妻はゆっくりと妻の中に入れる。そのときの妻の声はどこか苦痛を孕んでいた。数年ぶりの行為で妻も十分ではなかったのだろう。最初は緩慢な動きだったのに、次第に昔を思い出したように激しくなる。

「気持ちいいでしょ?」

 妻の言葉は、私のこころの中を知っているように、私をマインドコントロールしてくる。段々、腰の辺りに重い感覚があって、それを出したくなる欲求が高まっている。

 妻の微笑みは、帰宅してきた時と同じだった。その顔をした妻の口から怪しい笑い声がした。

「さっきよりも大きく固くなるけど、もしかしてもうすぐ出ちゃう? じゃあ、もっと激しくしちゃおうかなぁ」

 妻の動きが大きくなる。それとともに快感を増幅させられる。妻は私が果てるのをまっている。いや、それを望んでいるのは自分なのかもしれない。こんなくだらないことをさっさとおしまいにさせて、とっとと寝たい。自分の気持ちが二分してきた。この状況は悪くないと思いながら、仕事のことを考えている。そして、目の前には裸の妻が乱れているし、時間はもう二時近いように思う。妻の動きが収まる。先に妻が絶頂を迎えたらしい。呼吸が荒くて、肌にうっすら汗をかいている。しかし、妻は少しのインターバルで私を絶頂に導こうとした。私も快楽の方が思考を支配しはじめた。そして、頭がはじけてすべてが考えられなくなるように妻の中で爆ぜた。

 しばらくの沈黙。闇の中に私と妻は動かずにとけ込んでしまっている。

 妻はなにもなかったように服を着て部屋を出て行った。蛇口をひねる音がした。一連の運動でのどがかわいたのだろう。

 私も昼間の疲労感とは違うものを感じていて、神経は興奮していて、眠気がどっか行ってしまったようだった。

 妻が帰ってくると私の隣に寝転がった。妻はくすくすと笑い出した。子供が欲しいのはわかるが、私に選択権がなく一方的に子づくりをしている感じがした。妻が顔を上げるとこう呟いた。

「今度から、とんかつが合図ね」

 その言葉が、死刑宣告のようで私は絶望にまみれるようだった。こんな日がしばらく続くと思うと昼も夜も何かに縛られているようで窮屈な気持ちになる。さっきまで想像していた明日からの仕事の予定が崩れていく音がきこえた。

 

 次の日、目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴る音で目が覚めた。しかし、アラームを止めるボタンを押すとまた眠ろうとした。もうあと数十秒あったら本当に寝ていたかもしれない。

「朝だよ。起きて」

 妻が、昨夜とは全く違う声色で私を起こしに来た。昨夜のことは、あまり思い出したくない。でも、トラウマっていうほどのものでもない。だけど、後味が悪い。テンションが眠る前から変わっていないから、そんなことを思うのかもしれない。

 寝室を出ると朝食がテーブルに並んでいた。簡単なグリーンサラダとハムエッグ、普段はあんまりみかけないイチゴジャムの入ったヨーグルトが朝食の献立だった。

 白いヨーグルトの真ん中に真っ赤で粒の残ったジャムがあった。私は少し吐き気をもよおした。生命を感じる色合いで今の精神状態だと食欲がそがれる気がした。

 それでも食べないとしかたがないと思いそれらを食べる。私たちの間に会話はなかった。妻のむこうは朝のニュース番組がやっていた。円安になると世の中がどうなるかを大学教授が淡々と説明していた。私にとっては、朝食を完食するほうが重要だった。

「ごちそうさま」

 なんとか食べきった私は満腹感から軽い睡魔に襲われた。このままソファに倒れ込んだらさぞかし気持ちよく寝れるだろうと思えた。気分も悪いし、意識もはっきりしていないのでシャワーを浴びて着替ることにした。

 そんな気分転換も単なる悪あがきで、けだるさには勝てなかった。

 昨夜寝る前に頭の中に渦巻いていたことなんてどうでもよくて、その日一日を波風立てずに過ごすことにした。自分の神経を周囲三メートルにばらまいて降り掛かってくる仕事は回避した。それでも、じっと椅子に座ってモニターを眺めていても飽きてしまうし、営業という仕事上の気まずさを感じたので、外回りに行ってそのまま直帰してしまおうと決めた。しかし、自分が働いている会社はそんな甘いものではなかった。夕方に電話で、明日行く取引先に配布する資料の修正がかかったからだ。「残業か」なんて心の中で何回か呟いていると、案外そっちの方が悪くない。「災い転じて福と成す」と長い半紙に綺麗な行書体で書かれたものが頭に浮かんだ。

 外回りからオフィスに帰ってくる途中に、駅前の歩道を歩いていると、どこかでみたことがある男が立ってビラを配っていた。反射的に立ち止まるが、彼と会わないように反対側の道に行こうとした。だが、オフィス街から来る雑踏と横断禁止の鎖が塞いでいたので、しかたなくこのまま歩くことにした。

 案の定、彼は私に気づき声をかけてきた。

「よう、久しぶりじゃないか」

「久しぶりだな」

「なんだよ、その返事は。せっかく、大学の時の友人に再会したのに。感動はないのかよ」

「なんか久しぶりじゃない気がするだけだよ」

「そうか? こんな都会の真ん中で俺たちが偶然出会うなんて『奇跡』じゃないか」

「……そうかもな。ビラ配りなんかして、まだちゃんとしてないかよ」

「バーカ。そこで俺の個展やってるんだよ。ほら」

 渡されたチラシには彼の名前と個展の題名と簡単な紹介文があった。

「なぁ、お前来ないか? 無料でいいから。サクラとしてあそこに入ってくれないか?」

「お前、まだ仕事中なんだぞ」と言葉にする前に、一旦落ち着いて吟味する。どうせ会社に戻ったら仕事をして、それが終わったら帰るだけなんだからここで時間をつぶしてもいいんじゃないか。

「それも悪くないな」

 思わず口からこぼれ出た。

「ずいぶんと上からだな」

 とかなんとか言いながら、私をギャラリーに連れて行く彼。彼はこれから私をどこか不思議の国に連れて行くみたいに個展の説明を楽しそうにした。その話は私にしているようでいて、通り過ぎる人達をターゲットにしている。そのことが、当事者からみたら甚だ迷惑であった。

 彼は、目的地に着くと話すことをやめて受付の女性に引き継ぎを頼んでまた外に出て行った。受付の女性は営業スマイルで「ご自由にご覧ください。もし、気になるものがあったらお声をかけていただければ私が伺いにまいります」と言った。

 私には彼女の発言の意味が分からなかった。絵を観ていたら下に値段が書いてあるのでここが即売会もあわせて行っているのだとわかった。思わず叫びたくなる、「なんて人間なんだ」と。

 実際に発狂するなんて到底出来ない。最初は適当に眺める程度だった。しかし、実際にお金が取れるのではないかという説得力が絵から発せられている。彼の描いているものは主に風景画である。机に置いてある果物や花があったりする。水彩画だったり、油絵だったりした。水彩画は絵に繊細さがあり、緻密に描かれていた。油絵では大胆な色合いと力強いタッチでみているだけでエネルギーを感じた。

 彼の絵のバリエーションに自分が圧倒されると同時にアイツは絵が好きだったなと学生時代を懐かしむ気持ちが生じた。「継続は力」という言葉が浮かんだ。

 不真面目だった私の態度もギャラリーの奥へ進むほど真剣になっていた。そして、一枚の絵に出会った。今までみてきたものとは別のものがそこにはあった。そこに描かれているのは人であった。その人は服装から推理するに女性だった。しかし、服は所々破れている。その隙間から下着らしきものが垣間みえる。また、服や地面や後ろの壁らしきところに紅いものが点在している。私が一番驚いたのは、描かれている女性の頭部に黒い渦があることであった。それは、安いたとえをするならムンクの『叫び』のように歪んがんでいた。その思いつきはただの直感的なものであって、人の顔があるべき箇所に黒の強い灰色の渦巻きがあった。私は戸惑った。インパクトが大き過ぎて途中でふらつくことがあった。今まで観てきたものとは明らかに別物で、悪いものに取り憑かれたようなものだった。段々、気分が悪くなる。絵の螺旋に魂が吸い込まれるような気がした。椅子に座りたい衝動に駆られる。歩いて来た順路を逆走した。私の視界はモノクロで色を認識することができなかった。できることなら眼球を取ってしまいたい。そんな悪い妄想に祟られていた。救いを求めて叫びだしたかった。もう目の前は真っ暗になった。私は感覚だけで歩いていた。

 突然、私は何かにぶつかり倒れた。倒れた私は床に頭をぶつけた。

「なんだよ、大丈夫かよ」

 その声で目を覚ますと目の前には友人である彼が立っていた。

「なんでもない。なんでもない」

 それは彼に言っているのではなく、自分に言い聞かせていた。

「お前、面白いな」

「あぁ」

 私の返事をきいた彼はけらけらと笑った。

「これから飲みに行かないか? 近くに安くてうまい店があるんだ」

 私は腕時計をみて考えるフリをしながら、用意していた答えを発する。

「わかった、終電まで平気だ。明日も仕事だから」

 私に憑いた悪いものを彼の手で払ってもらうために了解した。

「二十分ぐらいしたらもう一度ここに来てくれ」

 彼はギャラリーで片付けみたいなのがあって、私は近くのデパートの本屋で時間をつぶした。

 

 彼を待っている間に会社に電話して、直帰する旨を同僚にいった。電話に出た彼は「明日は大丈夫なんですか?」といたずらとも心配ともとれることをいった。私は「明日、早く出社するから平気だ」と冗談とも本気ともきこえる言葉を返した。「平気ならいいんですけどね、へへっ」と彼は笑った。喋っている様子から察するに、今日は会社で何事もなかったんだと思った。会社には厄介な上司がいて、数字の映し出されたモニターを毎日みている。しかも、数字が悪かったり仕事上のミスがあったりすると当事者だけでなく周囲の人間も怒鳴り散らす。だから、会社に一日いることは、だれも来ないで雪山で遭難して助けを待つみたいに厳しいものである。でも、電話からの声で私は安堵した。そして、適当な言い訳をして電話を切った。

 電話を切って顔を上げると本屋にいた客の数人が私のことをみていた。その瞳にはうるさいから端っこでやれという恨めしい念が込められていた。私はその場にいづらくなり、同じフロアを彷徨った。大きいデパートで区画を「番地」で示していた。本屋のあったのが一二番地で、今いる場所が三番地である。そして、そこはマタニティドレスやベビーカーなどを売っていた。すぐ近くにお腹を大きくしたマネキンがポーズを決めて立っている。私はうんざりして時計をみる。待ち合わせの十分前という中途半端な時間だった。しかし、私はこの場にいることよりギャラリーの前で彼を待ったほうがだいぶましであると思った。私はすぐ近くのエスカレーターで一階に戻り、待ち合わせ場所まで行った。

 ギャラリーはカーテンが閉められていて外から中が伺えなかった。私は通りを行く人達をぼんやり眺めることしか出来なかった。周りの人は私がどうみえているのだろうか。寂しい男が立っていると思われたくない。私は携帯電話を取り出して、自分の居場所を確立しようと努力した。

「おぉ、なんだ、ここに居たのか。いえよ」

 笑った彼の顔が子供みたいだった。その笑顔で許される年ではなくなっていると私は改めて感じる。

「じゃあ行くか、ついて来いよ」

 彼は勇ましいことをいってに歩き出した。私も別に普段から知っている場所なので迷うことはなかったが、彼の早歩きにおいてかれてはたまらないと思った。

 歩くこと五分。駅を中心に考えると南口から北口へと歩いてきた。ギャラリーのある場所はオフィス街と駅前の境目にあって、スーツ姿の人が多かった。また、近くに予備校があるので制服を着た生や野暮ったい服を着た浪人生がいた。北口は、数年でチャイナタウンとなっていて、漢字だけが書かれた看板が周りをみわたすとあちこちでみえる。店員と客の会話も早口で何をいってるかわからない。

 彼が「ここだ」とさっきの笑みを浮かべた。

 外見からすると築三十年以上は経っているようだった。もしかしたらそれ以上かもしれない。お店の看板は日に焼けていて、お店の名前も「若大」まではあるが、その後の一文字が剥げている。

 彼は私がよそみをしている間に中に入っていて、席に着いていた。

 店内もこの店の独特の雰囲気を醸し出していて、壁のポスターは色が褪せていて、メニューも手書きとプリントしたものが混在している。そして、何よりも私が驚いたのは店内がすべてカウンターであることだ。昔ながらの一杯飲み屋の雰囲気が店全体にある。まるでこの店だけが現代から取り残されているようだった。

 彼は店の一番奥に座っていた。

「とりあえず、ビールでいいか?」

「あぁ」

「すいません」と彼が言うと中国人の店員が応対した。

「ビールを二つと鶏の唐揚げとモツ煮といか刺しと鯨の刺身。とりあえず、以上で」

「かしこまりました」と店員は発音したつもりだが、「し」がうまく発音できていなかかった。彼はタバコに火をつける。一吸いするとビールが来た。

「じゃあ、俺たちの奇跡に乾杯だ」

 彼は私の持っていたジョッキに勢い良く自分のジョッキをぶつけてきた。その時に少しビールが私の手にかかった。私はそれを気にしたが、彼は気にせず半分くらいまでビールを飲んでいた。彼が気持ち良さそうな声を出す。発した言葉はもう酔っぱらっているのか滑舌が悪く私の頭で日本語に変換が出来なかった。彼は胸ポケットから新しいセブンスターを取り出しながら喋り出した。

「お前さ、仕事どうなの? 忙しいの? 大変なの? もう俺たち年じゃん? いい年齢じゃん。もう俺は無理だわ、組織の一員になって社会に奉公するのはさ。ダメ。年齢がアウトだし、ひとりの方が気楽だわ」

「まぁ、なぁ、会社に勤めてるとお前が楽でいいなぁとは思うけど、その反面大変なんだろうなぁとも思うよ」

「いやいや、会社員は偉いよ。持ち上げてるわけじゃなくて、本心で。俺は生活が大変だもん。どうにか絵を売ってさ、その月の分の金を稼いでるんだよ」

「絵を売ってるって、夢に生きてるなって思うよ。学生の頃からそうだったじゃないか」

「それがいばらの道なんだよ」

「鶏の唐揚げとモツ煮お待ちしましたぁ」

「いやな、自分の描きたい絵を描けているなら俺だって満足するよ。そうじゃないんだよ、例えば地方のデパートが主催する人があんまり来ない美術展に出したり、それが良かったらデパートのあるだろ? ロゴの隣に絵みたいなの。そんな自分の書きたい物とは違うの描かされて嬉しいかっていう話」

「でた、学生の頃語ってたプロとはっていう講釈。変わらないな」

「変わるわけないだろ、そんな簡単に自分の精神を曲げられるわけないだろ? ってか、お前まだ俺のこと子供だと思ってるだろ?」

「そうかも」

「腹立つなぁ。すんません、黒ビール一つ」

「はいー」

「だって、変わってないんだろ? 良い意味でだ。外見もまだ二〇代で通るよ。会社員のおっさんからみればうらやましい」

「ふざけてるようにしかきこえないな」

「黒ビールとイカ刺しです」

「若いということはいいことだ」

「気持ちの話だろ?」

「それもそうだけど、全体的に」

「同い年だろ」

「そうかもな」

「鯨の刺身です」

 目の前に出された赤黒い肉片をみて私はめまいを起こしそうになった。その肉は魚とは違って光がなかった。生のまま出された牛肉や豚肉の様に思えた。肉片の不気味な色は人の肉体を想起させる。もうしばらくは抱きたくない妻の肉体。年のせいか肉体がだらしなくなった腹や尻。薄暗い中で上下に動く妻。思い出したくもない。昨夜の出来事なんて……。

「なぁ」私が声を出す。

「お前、結婚しないの?」

「結婚? こんな身分の俺が結婚なんて輝かしい未来を手に入れられるか? 今は自分で手がいっぱいさ」

「付き合っている女性はいないのか?」

「あぁ、さっぱり。こんなこと言いたくないけど、大学の時に真紀のこと好きになって以来、次の相手はみつからないよ」

「いたな、真紀ちゃん。今何してんだろうな」

「そうだな、結婚してるといいな」

 彼はそういうと鯨の刺身を一切れ食べた。私もそれをまねて一口食べてみようと思った。

「それ、いい男がいう台詞だな」私が言った。

「俺はいい男だ」

「まぁ、まぁ、まぁ、ここで議論するのは野暮だからやめよう」

「なんだよ? お前いちいち突っ掛かってくるな」

 私はそのままふざけた笑いをして、店員を呼んでサワーを頼む。

 真紀の名前を出した時、彼は素面のような顔だった。まるで今までが茶番だったかのように。彼と真紀の間に学生時代に何があったのか思い出せない。おぼろげな記憶では、彼女は三年生の時に大学を中退したような気がした。何が原因かはきかなかった。四年生になった彼はしばらく大学に来なかったことは覚えている。

 もう一度、鯨を食べた。割り箸の先が赤くなっていた。私が嫌いな血だった。

 店を出る前に彼は私にこういった。

「お前に次やる個展をまたみに来てもらいたい。そのためのダイレクトメールを送りたいから住所をここに書いてくれ」

「わかった」と言って私は彼の差し出した手帳に住所を書いた。それから店を出て駅まで二人で歩いて、彼とは反対方向の電車に乗った。

 家に着くと妻が昨日の笑顔で待っていた。店でも食べた揚げ物がテーブルに並んでいた。私の逃げ場は何処にもないと覚悟を決める。

「わかったから、これは明日に回してくれ。カツ丼でもなんでもいいから弁当でもたせてくれ」

 妻は喜んだ。その姿をみないままシャワーを浴びた。このまま眠れたらいいのにと切望した。

 寝室には先に妻がいて、私は搾取をされた。

 行為の途中に運動をやめて妻は急いで部屋を出て行った。

「生理になったみたい」と暗い部屋で黒い影がいった

 私の嫌いな血だった。

 

 彼女が生理になってから間をおいたが、終わるとまた私と妻は毎日一つになった。日課みたいに毎日に組み込まれてくるとだんだんと私が能動的になる必要がないことがわかってきた。ここ数日は私はただただ仰向けに寝ているだけだった。妻もこれがシステマチックなことに薄々気づいているようだった。だが、妻はあきらめなかった。目的と手段がわからなくなっても、私を求めた。子供を望んでいた。言葉には出さない妻の強い意志が働いているのだろうと私は思った。

 要領がわかってきた私は仕事のペースを落とすことはなかった。仕事にいきがいを感じているわけではない。そうしないと食べていけないし妻を養えないのだ。

 ある晩帰ってくると、油のにおいはしなかった。煮込みハンバーグと簡単なサラダと左右逆においてある茶碗とお椀があった。妻はソファでテレビをつけたまま寝ていた。顔は少し赤かった。三五〇のビール缶の空き缶が危険物のところに捨ててあった。

 こんな日もあるのかと身構えて帰ってきた自分の心が解かれる。準備された料理を食べながら、最初はつけっぱなしのテレビをみていた。それがCMになると自分の座っている近くに目をやった。市の広報があったり、電気料金の明細などがあったりした。その中に私の名前が書かれた封筒をみつけた。差出人は先日会った絵描きの彼だった。ダイレクトメールにしてはちゃんとしているなと思った。

 急いで食べて、妻から逃げるように寝室に入り封筒を開けた。そこには便せんで五枚の手紙が入っていた。

 

                      ※

 

 私と彼と真紀は大学一年生のときに同じ第二外国語だった。私と彼は初回の授業で隣になり、お互いが同じタイミングで授業に飽きてそれ以来友人になった。数回の授業を経て、教室の座席が決められていないのに固定され始めた頃に真紀は私たち二人の前に座っていた。彼女も授業がつまらないらしく、休み時間や昼休みに四人で話すようになった。このもうひとりの女性はささいな諍いで我々のグループから一年後いなくなった。彼女の名前を今は覚えていない。彼女は真紀と同じような身長で、まるで姉妹のようだった。でも、性格がお互いまったく違った。真紀の好きなものを彼女は嫌い。彼女がいいと思ったものを真紀は嫌がった。彼女が離れていった原因は私についてだった。

 彼は真紀と段々仲良くなった。しかし、二人が結ばれることはなかった。残された私と彼女はほどほどに仲良くはなった。二人きりで会うこともしばしばあった。一年生が終わって、二年になって一月経たないくらいのころだった。四人の中では一番先に教室に来ていた彼女が二番目に来た私にむかってヒステリックに真紀のことをののしった。鬼気迫る勢いというのは彼女のそれだけだった。私は彼女のマシンガンのように出てくる言葉を黙ってきくしかなかった。彼女は言いたいことを言い切ると何もなかったように教壇の方を向いた。もう二度と私と視線を交わすことはなかった。

 彼女がいなくなって、男二人と女一人といういびつなグループが出来上がった。周りからはどう思われていたのだろうか。私にとってはアンバランスだと思った。そのアンバランスも数の問題ではない。彼が抱えていた真紀への思いのせいで私の存在がいらないように感じられた。

「ねぇ、昨日の比較文化論の授業のノート貸して」

 狭いキャンパスの隅の唯一ベンチのある喫煙所で私と彼が時間を潰していた。それをみつけて真紀は私たちにいった私たちはお互いの顔を見合わせた。

「ごめん、俺たちも出てないんだよね」

 彼が私の代わりに昨日のことを話した。私と彼は大学の喫茶店でだらだら漫画を読んでいた。それはちょうど午前中の講義が終わってから昼食を食べに行った時のことだった。そうしているうちに講義に出るのがめんどくさくなったから、夕方までコーヒーとクリームソーダで粘っていた。

「そうなんだ。サボリかぁ」

「なんだよ、真紀も出てないからおんなじだよ」

 彼は真紀に子供のように反抗した。「ほかの人に頼ってみたら?」私は真紀に尋ねたがその言葉が真紀に届くことはなかった。

「私はバイトしてたの。サボリとは違います」

 この時すでに悲劇は始まっていた。真紀には付き合っている年上の男がいた。年齢が二十五、六で働いていなかった。実際には真紀と付き合うまでは働いていたらしい。いや、収入があったみたいだというほうが正確なのかもしれない。しかし、その収入がなくなると男は真紀に働くように迫った。私はなんとなくだが、真紀の態度から彼氏がいることを前から薄々感じていた。実際にその話をきくのはもっと後になってからだった。彼は真紀に彼氏がいることを知っていた。以前から相談を受けていた。真紀が男に惚れているのは一過性のものでいつかは彼のもとにくることを信じていた。それとともに真紀の自由を奪うことで真紀が不幸になることはさけたかった。

 真紀がバイトをしていたときいて彼は不安に思った。実際に真紀は男のために働いていたのだから。でも、彼にとって唯一の救いは真紀が笑顔で大学に来ていることだった。彼はそれだけで嬉しかった。

 私は「何か食べ物買ってくる。なんかいる?」ときいた。真紀がオレンジジュースで彼はコーラと答えた。私は「代金は後でいいから」といってその場を後にした。

「バイト忙しいの?」と彼は私が生協に行くのを見届けると真紀に尋ねた。

「まぁね、接客業だから決まった時間にラッシュがくるよ」

「彼と会えてんの?」

「それは大丈夫だよ、会えてるから」

「そう、よかった」

 彼は手持ち無沙汰になり、タバコを一本取り出して火をつけようとする。強い風が吹く。なんどやってもつかないので彼はタバコをくしゃくしゃにして灰皿に捨ててしまった。

「なんか、怒ってるの?」

「怒ってないよ。しいていえばタバコが吸えないことかな」

「吸えなくていいじゃん。私、彼がタバコ吸うのは嫌なんだ」

「タバコを吸う人間に悪い人はいないよ」

「屁理屈だよ。自己を正当化してるよね」

 二人は笑った。もしその光景を他人からみたら仲のいいカップルにみえるだろう。私もそうであってほしかった。そっちのほうがこれから起こる複雑な事態もなかったと思う。

 二年生の間は、真紀はなんとか大学に来て居眠りしてでも授業に出席した。彼はそんな真紀を段々とサポートするようになっていく。それは私の見えないところで最初は行われていた。しかし、彼の真紀を思う気持ちが私に打ち明けさせた。

「真紀のことが好きで狂いそうだ」

 彼の行動を側でみていた私はもうわかっていた。彼の言葉で確認がとれた。

「正直にいって真紀のことが出会ってからずっと気になっていたんだ。それが好きかどうかということはわからなかった。でも、毎日いるようになってわかった。でも、その時にはもう遅かったんだ」

 彼は素面で吐露しているようには思えなかった。真紀が幸せになるのは彼自身が本心から望んでいることだった。でも、真紀は男に不当に働かされている。あいつは男にだまされているんだともいっていた。その目にはうっすらと涙を浮かんでいた。私は彼を慰める言葉を多く持たなかった。しかし、それでも彼は充分だったらしく、その日は朝までファミリーレストランで語り合った。

 彼の家は裕福であった。どれくらい裕福かといえば、広い敷地内にアトリエと称している建物があるくらいだ。私はその建物をみたこともないが、彼から話はきいていた。彼はもともとは美大に入れる知識や技術を持っていたが、美大の教育が気に食わないのと自分の力がそこでは発揮できないと思って、私や真紀の通う普通の私立大学に入学したらしい。彼は酔っぱらうと「美大は教育の場所であって、発表の場ではない」とか語っていた。彼は真紀と出会ってから彼が持ったイメージを実像化させようともがいていた。そのイメージを丁寧になぞるために、思い通りに描けない場合は一から描き直した。そして、そのイメージは常に流動的なので想像している彼でさえ描けない日があった。たまに真紀のイメージを確かめるために彼は電話をした。

「もしもし、真紀?」

「なに?」

「今、大丈夫?」

「次のバイト先に移動中だよ。でも、平気。」

「お金そんなに必要なのか? もうたくさん稼いでるだろ?」

「まぁねぇ。でも、足りないの」

「なんで? どうしてだよ?」

「彼が立派に社会に出るためには、お金がたくさん必要なの。それに、私は彼に成功して欲しいの」

 真紀はだまされている。彼氏はみたこともない男だがきっとギャンブルに使ってしまったり、お酒に使ったりしているんだと彼は思った。でも、それを正直に真紀に伝えることが出来なかった。

 以前、一回真紀を説得したことがあった。彼の気持ちは隠したまま、真紀の男に対する行動が異常であるという論理で真紀に説明をした。真紀は何も反論をしないまま目に涙を浮かべた。その表情をみて彼は少し言い過ぎたとも思った。大学に来て疲れた顔をしている真紀をみたくなかった。真紀と彼の間に重い沈黙が流れる。時間が止まったように二人は動かなかった。彼は真紀の言葉をききたかった。しかし、それをきくための次の言葉を考えるとそれは真紀への正直な思いを伝えることになってしまう。彼も黙るしかなかった。大学のだれもいない昼下がりの教室。外では生徒の楽しそうな声がきこえてくる。二人の姿を廊下から眺めて過ぎ去る者もいた。二人だけの世界がそこには構築されていた。だれもはいることのできない領域だった。真紀の視線が下のほうを向いていた。

「彼の笑顔がみられれば私は幸せだから……かな」

 彼は真紀を傷つけていたことを察知する。真紀から幸せを奪う権利が自分にはないと思った。しかし、真紀も自分と男の関係に半信半疑なのだろう。だから終わりが疑問のようなニュアンスになったんだと彼は思い込んだ。それから彼は真紀に干渉することをやめた。

 それでも彼は真紀のことを考えて絵を描いた。しかし、どうしても不安になると彼は真紀に電話をした。サポートはするが二人の間に割って入ることはなくなった。

「今度、飲もうよ。おごるから。大丈夫、三人だから。浮気じゃないだろ?」

「えぇ、悪いよ」

「気にすんなって、あとでメールするから返してくれよな。じゃあ、また」

 彼は真紀をどうすることもできないもどかしさに苛まれ電話を切った。描いていたページを破り捨てて、新しいページに新しい絵を描き出す。彼の気持ちはそれで平衡を保っていた。

 大学に入学してから二回目の冬が終わった。

 私は彼に講義が終わったら時間が欲しいといわれて、たまり場にしている喫煙所で彼と会った。彼は少しイライラした様子で、タバコを吸って吐いてを繰り返していた。顔もどこか怒っているようだった。私は何かを悪いものを感じ取っていた。それを彼の口からきくまでは、どうせいつもの真紀についての気持ちを私に告白するのだろうと楽観的に考えていた。彼の甘くて熱い言葉をきいている間は、私は心を無にすることでその場をやりすごしていた。今日なんか外は少し暖かくて風にそよいでる木々の枝をみながら彼の話をきこうなんて思っていた。

「やぁ、すまんな。このあとなんかあったか?」

 この後に講義なんてとってないし、アルバイトも夜なので大丈夫だと応えた。

「真紀がさぁ……」

 今まで吹いていた風が止んだ。いつものパターンが始まったと私は安心していた。

「真紀が、風俗で働く、らしい」

 満開ではないはずの桜の花びらが私と彼の間を通り抜けた。

 彼の発言は今までのものとは違った。いつもなら冗談まじりに彼は男のことをけなしたり、冗談とも思えないことを言ってみせたりしたが、今日の彼は違う感情が入っていた。それは鋭く尖った剣のようだった。それと一緒にどこかやりきれない思いや言葉で表現するにはあまりにも非情ことを考えていたのかもしれない。いや、考えていた。彼の絵の目的が変わった。表現するものを真紀への片思いから、男への怨念へと変化していた。しかし、そのことに彼は気づいていない。彼がアトリエに入って描く女性は真紀だった。自分のイメージをうまくトレースしても、描いた真紀には何か異物が入っていた。それを取り除くことはできなかった。彼からみたらわたしは驚いているようにはみえなかったかもしれない。それでも気持ちをぶつける人間がいないよりは良かったのかもしれない。私は少し後悔している。このときもっと的確に彼にアドバイスができたら彼は間違った方向に行かなかったかもしれない。その時の私には心残りだった。彼は私の前からいなくなった。彼はアトリエにこもってひたすら絵を描くことに集中した。

 秋が始まって大学の銀杏がぱらぱらと道路に落ちている季節だった。

 彼の絵に完成がみえてきた。全体像ができているがまだ心に迷いがあって描ききれていなかった。その間彼は真紀にメールをするだけだった。

『今、バイト中?』

『最近、調子どう?』

『気がついたらでいいから、メールちょうだい』

 その言葉に返信が来ることに期待をしていなかった。しかし、彼は時間がある時に真紀をねぎらいたいと思ってメールを送った。自分が献身的に真紀を支えていて、いつかは報われることを彼は願った。彼は何枚ものキャンバスを無駄にしようが今描いている絵は完成させようと努めた。そう決めて彼は絵と対峙した。

 ある晩のことであった。その日に彼の絵が完成することになる。真紀から電話があった。彼は慌てて電話に出た。

「もしもし?」

「久しぶり」

「久しぶりじゃん、どうしたの?」

「あのさ……、私さ……」

「どうしたんだよ? もしかして久しぶりに話すから緊張してる? やめてくれよ、俺と真紀との仲だぜ?」

 彼は道化になろうとしていた。このあと、真紀が深刻なことを話し出すことを必死に遅らせようとしていた。それを悔い止めるためなら、自分の真紀への好意を無視することなんて容易いことだった。からだはその反対で椅子にしっかり座っているのに、膝が笑ってしまっているように上下運動が止まらなかった。空いている手では筆を弄んでいた。彼は真紀の次の言葉を待った。あの干渉した日とは違う状況になっていることはわかっていた。

「あのさ、私さ、赤ちゃん妊娠してたんだ」

 彼は真っ暗な闇のそこへ突き落とされたようだった。膝の震えは止まり、片手に持っていた筆は折れていた。それを認識するまでの神経は彼のからだにはなかった。しかし頭では彼の冷静な意識は現実にとどまっていて、言葉の不和が気になっていた。

「えっ? どういうことだよ? 『してたんだって』」

「だからね、赤ちゃんがね、死んじゃったの」

「それって、なんで? あいつに何かやられたの?」

 真紀はその言葉をきいて、負の感情が流れ出すように泣き出した。その時に彼の描いている絵が完成した。あとはキャンバスに描くだけだった。彼は電話を切ってアトリエを出た。終電間際の電車に乗って真紀の住んでいるアパートに向かった。今まで乗っていて気づかなかったが、電車がこんなに遅いものだとは思わなかった。彼の心はもう真紀のアパートの前にいるのに、身体は動く箱に閉じ込められている。駅に着くなり、彼は大学生なって初めて全力で走った。次の十字路を曲がった左手が目的地だと思って最後の力を振り絞った。玄関の前で急停止してインターホンを鳴らす。返事がないので、ドアを叩く。「真紀、真紀」と呼ぶ。しかし、もうここに真紀は住んでいなかった。真紀は実家に戻って親に守られていた。彼は途方にくれながらアトリエに帰ってきた。真紀を不幸にさせた男に復讐したいと思った。その気持ちが渦巻きの女性の絵を完成に導いた。

 絵が完成すると彼は、男をうまく真紀から引きはがした。その方法については何も知らない。しかし、もう絶対に見つからないようにしたらしい。

 年末にあった彼は今までにない晴れやかな顔をしていた。彼は「合コンをしよう」と純粋無垢にいった。そのとき、私はまだ知らない。彼が人の道を踏み外したことを。ゼミ生やバイト先なんかの女性を集めて彼は楽しそうにお酒を飲んでいた。私はそのとき彼に何があったのかわからないが、楽観的に人間が成長したのだろうとか真紀のことは諦めたと思っていた。

 手紙の最後に彼は、俺はお前が友人だからこの告白をしたと書いてあった。

 次の個展をやる時は奥さんと来てくれとも追伸にあった。

   

                                ※

 

 手紙を読んだ私は今まで知らなかった事実が出てくるたびに驚いた。妻が寝ていると思っていても、もしかしたらみられるかもしれない不安にかき立てられた。想像を絶する物語があったことを読んで初めて知った。私の中の曖昧だったものが、これを読んでいて具体的にくっきりとした気がする。

 私の知らなかったことを理解すると同時に私は行動に移した。

 ソファでは妻が寝ていた。長い時間を一緒にいたのに、妻がこんなにも愛おしく感じことはなかった。よく見ると妻は髪の色が昔とは変わっているではないか。そんな変化にも気づかないで生活していたなんて私は旦那として失格だと思っていた。

 私は妻を揺さぶって起こした。もしかしたら、妻がこのまま意識が戻らなくなるかもしれないと思った。しばらくして妻は「なぁにぃ」とけだるそうに目覚めた。

「なぁ、今度デパートに行こう」

「はぁ?」

 妻が素っ頓狂な声をだした。たまにデパートに妻が行っているのはわかっている。もしかしたら、メランコリックな気持ちで「あれ」をみていたかもしれない。妻を拒むなんてひどいことをしてきた。私の心は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「一緒にみたいものがある」

 その晩、私たちは心もからだも一つになった気がした。私の感じた快楽は今までとは比べ物にならないものだった。何回も交わり、朝を迎えた。しかし、私の昂りは収まらなかった。

 二ヶ月後、妻の中に新しい生命が誕生したと妻がいった。

                                    (了)