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  酒茶漬けの味                  

 

 劉という自称財閥の息子が何やら騒いでいるというのでマジシャンとクリスタルと示し合わせて食堂に行ってみた。ふたりとも食事を未だとっていない。

 寮監が喚きたてる劉をなだめている。私たちは寮監に対して大きな声で挨拶する。一年生同士で挨拶する必要はないが、先輩には必ずしなければならない。寮監にしなくてはならないかは定かではない。

「だから俺はね。ここにナップを置いていたんだよ。中には財布が入っていて、三万円はあったね。それで、棚からコメを出してみると、これがもう日本酒のスープに浮かんでいるのよ。食べられたものじゃないね。匂いがきつくてね。臭い。臭い。まあ、でもこれ、初めてじゃないし、よくあることだし。日本酒を飲まなきゃいけないルールは特にないし、俺の部屋の先輩がしたわけじゃないから棄ててやろって思ったんだよ」

「え、酒茶漬けかよ」泣きそうな声をマジシャンはあげた。食器棚を確認すると二十ばかり残っている夕食が発酵を始めているかのように匂いたっていた。

「晩飯を抜くしかないな。棄てたらまずいよ」

「食ってるやつもたまにいるよね」

「いや、ほとんどの奴が食ってる。酒の好きな奴は平気なようだ」

 劉は私たちに気が付いたのか犯人捜しをするかのようにじろじろと見てくる。

「それで、俺がシンクに酒入りの飯を持って行ってじゃあじゃあ流したんだよ。食えないからね。戻ってみるとナップがない。何人か、いや十人くらいかな、寮生がいたんだ。ほとんど一年だよ。俺はそこにいたひとりひとりに訊いて回ったんだ。お前か? お前か? 俺のナップを持って行ったのは? それとも他に誰か来てナップを持って行ったんか? とね。ところが誰も答えないじゃないか。知らないってさ。それで俺は頑張ってあちこち捜したんだよ。すると出てきた。残飯を捨てるゴミ箱から。上からキャベツやコロッケを捨てるものだからナップも汚れてしまったよ。だけど洗ってる暇もなく俺はナップの中身を確認したよ。三万円は大金だから。台湾ではこれだけ働いて稼ごうと思ったら死ぬほど働かねばならないことを知らないだろう。お前らは、よう。で、臭いの我慢してナップを開けて中の財布を確認すると、やられたよ。札だけが抜き取られていた。俺は泣きたくなったね。日本人は嘘をつかないし日本はまともな国だと信じていた。でもそれは間違いだった。だいたい俺がここに留学する時、学校は外国人留学専用の寮だと説明したのに入ってみたら日本人とまあ在日のコリアンはいるみたいだけど外国人なんかひとりもいないじゃないか。それも何故か俺だけ」

「残念だけどここは自治寮だから警察に訴えることも大学当局に相談することもできないんだよ。もちろん私に言うこと自体が間違いなんだ。君は自治会の役員に相談すべきなんだね」禿頭の定年退職した老人の寮監は言う。確かに彼に何を言っても無意味だった。彼はただただ給食の寮母の管理や食事の買い出しをしているだけであった。そしてそれだけでも二百人もいる寮の中では大変な仕事だった。だいたい彼は寮の体制をつくり出した張本人であるという噂だった。ただの老いぼれではない。そして顔のある唯一の大人だった。寮母たちはいつのまにかやってきて三度の食事を作ると風のように消えていく。もう三カ月にもなるのにただの一度も見たことがない。彼女たちはのっぺらぼうだ。

「劉くん、いや劉さん。あと一年我慢してくれないかな。二年になれば今の君の立場は解消されるんだ。君は三十歳だ。だから国際交流センターになるまで留学しているかどうかは保証できないけれども。君はさまざまな国から留学してきた学生の中では選ばれた存在なんだ。私たちはほとんどの学生を断った。彼らは日本語を話せないんだ。日本人とコミュニケーションを取らなくて何が交流センターだって私が反対したんだよ。近いうちにこの建物は自然に壊れて消滅してしまうに違いない。その時は私もこの仕事が勤まらなくなるくらい高齢になる。寮のシステムもすでに古ぼけていて自治の精神も必要なくなるだろう。だが警察や時の権力が誤っていた時代に私たちが勝ち取り守り続けてきたものなんだ」

 そうきくと寮は左翼の巣窟なのかと早合点するかもしれない。実のところは右翼というか、体育会系の幹部と応援団が支配し民主的とはとうてい言えない言論の抹殺された空間だった。そして無秩序でアナーキーなカオスでもあった。もうひとつある鉄筋コンクリート三階建ての「志学寮」がサヨク革命家に満ちているという噂だった。同じ学部の友人がいたから最近になって行ってみた。だが麻雀をしているとごく普通の学生にしか出逢わなかった。屋上から建物の側面には過激派○○の垂れ幕がなびいていた。不気味な旗もあったのだ。そういう知識はこの寮の支配層から教わった。彼らの夢は「志学寮」と戦い彼らを粉砕することに尽きる。はっきりした日時は教えられていなかったがいつかはやるだろうと私たちは思っていた。私が劉を見かけたのは初めてではないことを思い出した。小太りで眼鏡を掛けて自分の家は台湾では相当なブルジョアの部類に入ると吹聴していた。けれども彼の見た目は富裕な印象からは、かけはなれていた。

「あいつ、オリエンテーションの時も金を取られたって騒いでいたなあ」マジシャンがのんびりした口調で言う。

「だいたい目星はついているけどな。吉野か葛原かあのあたりじゃないか」とクリスタル。

「意外に先輩が後輩の金を盗るってことはやらないよな」私が同調する。

「そうそう。それはしない。吉野たちは性質が悪いから」

「悪すぎる」

「金を盗るってことは別にして吉野のように毎晩ディスコでナンパするって羨ましい」クリスタルは言った。

「お前らは垢抜けないな」それは私とマジシャンに向けられた言葉だった。私たちは同郷だった。毛高校や毛町を知っているのはマジシャンだけだ。県内でも私の出身校について知っている者は僅かだった。クリスタルは広島出身で都会に憧れてここに来た。吉野や葛原は東京から都落ちしていた。新宿高校だの九段高校だの言われても私たちにはどういう学校かわからない。けれども東京出身者は酒を呑むと自慢しあっていた。私の部屋の能面もそうだった。彼は私立の麻布高校とかいう学校である。もし名門校なら彼は高校始まって以来の落伍者だろう。

「金があったら俺だって」クリスタルは悔しそうだ。

「毎日クラブで踊ってナンパするんだけどな」

「吉野たちみたいにか?」

「ああ」

「俺は能面と若原の使い走りを毎日やっているから無理だよ。身分は奴隷だ」私は言う。

「僕もそうだよ。宇佐美さんの奴隷なんだ」マジシャンが言う。

「それが普通だよな。クリスタルの部屋はどうなっているんだ?」

「ううん。あんまりしゃべらない。いつも自分のベッドで勉強してるな。二人とも。司法試験でも目指してるんじゃないのかな。だからお前らの部屋に行くんだけど。宇佐美さんは怖いし。能面は俺も嫌いだよ」そういえばクリスタルは宇佐美の部屋に来たことはない。私の部屋には毎日来るけれども。一緒に風呂に行くだけであった。クリスタルは清潔であろうと心がけていた。風呂は浴槽に辿り着くまでに数十人の先輩と顔を合わせるのでそのたびに大声で挨拶しなければならず、面倒であった。ようやく辿り着いてもドブ川のような濁ったぬるい水に少し浸かるくらいのことであった。

「宇佐美さんはそんなに怖くない。能面も若原も君たちを嫌っているよ。もちろん俺の事も」

「俺たち、居場所がないなあ」私たちは近くの牛丼屋まで食べに行くことにした。遅くまで外出している連中は酒茶漬けを食うことになる。それは奴隷の職務を怠った罰なのかもしれない。

 

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