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力強く暴力的な愚か者によるフォリア

 答案にはちゃんとdanceと書いたつもりだったのに、aの上の部分がつながってくれなくて、dunceと読まれてしまったらしい。もともと大した結果じゃないから一点や二点失ったところで気にも留めないが、他でもない俺に対してdanceの採点を厳しくするというのは当てつけだろうか。これくらいで減点するのはおかしい、とカジに詰め寄ったところ、dunceの意味を調べてこい、と言われた。
「dunce 音節 dunce 発音記号 [dˈʌns]
 【名詞】【可算名詞】 のろま、覚えの悪い生徒、劣等生」
 兄貴によればこれもダンスと読むのだそうだ。もっとも、danceはダェンスとでも書くべき発音だから厳密には違う。
「お前はダンス、ダンス、って発音してるよな。正しい発音さえ出来ない、まさにdunceってやつだよ」
 英語の答案は破り捨てて川に溶かしてやった。これでaをuと書いてしまった事実は、きっとプランクトンが分解してくれる。もしくは太平洋を渡る大魚の腹の中におさまって、カリフォルニアのスシ屋のネタとして並べばいい。有名なダンサーの腹の中におさまってしまえばいい。そしてaをuと発音させるように仕向けるんだ。ヤツがそういうのならば、これからはdanceをdunceと発音することにしよう、そんなムーヴメントがやってくれば、俺は予言者となれる。
 いや、そんなまどろっこしい回り道なんて歩かなくても、俺がdunceを正式な発音にすればいいだけだよな、と河川敷を離れてゲーセンへと向かうと、ニッタがすでに筺体の前で踊っていた。
「よぉ、ドゥンス」
 目の端で俺を捉えながら軽やかな足取りを見せるコイツの目の前ではハイスコアが計測され、今も加算を続けている。英語の答案はクラス中に広まって、俺のあだ名はドゥンスとなりつつあった。どんな経緯があったのかはしらないが、確かにダンスと呼ぶよりもドゥンスと呼んだ方がわかりやすいし呼びやすい。それなら何一つ構いやしない。
「明日の試合も見ねえの? 本田も長友も来てるんだぜ?」
 ミスがカウントされない画面を横目に見つつ、ニッタはサッカー観戦に誘ってくる。この間は、確かチャンピオンズリーグとかいう試合を見ようと言ってきたのだったか。
「どうせワールドカップには行けるんだろ。なら来年から見るよ」
 もったいねえ、と画面から目を離さずに言うのに対し、それはお前だって同じだろう、と言いかけてやめた。俺がサッカーを見ないことでメリットを得ているのと同様、こいつにとってもサッカー部をすっぽかしてゲーセンに入り浸っていることが後々役に立ってくるのだろう。それどころかいつだってサッカーをやっているつもりでいる可能性だってある。この軽やかなステップがドリブルの役に立つかもしれないし、ゲーセンの雑音が歓声に聞こえているのかもしれない。
「ていうか、来年は絶対見てくれるのか。ならいいや」
 最終スコアをまるで気にも留めず、こちらを振り返ってくるニッタの姿は、交代でフィールドに入ってくる俺を待ち構えているように見える。
「さぁな。今は見るつもりだけど、来年になったらその時はその時だ」
 なんだよそれ、と言ってニッタはパッドから降りて順番を譲った。明日の日本代表の試合さえ見る気がないのだから、来年になったら忘れているのが普通だ。第一、一年すればこいつはまた誘ってくる。こいつが誘ってくれるんだから、いちいち俺が心に留めている必要なんてない。
 一年しても結局観戦する気にならないかもしれない。ひょっとしたら、ニッタがサッカー部に戻っていて応援を頼んでくるかもしれない。そしてまた断る。次は四年後のワールドカップ、その次は八年後、ピッチにこいつはいるんだろうか、もしかしたら今書いているサッカー選手にまつわる小論文のおかげでライターになれていたりして……どの道こいつはいつまでも、どこにいようと、スパイクをはいていなかろうと、ボールを蹴っていなかろうと、サッカーをしているのだろう。サッカーの楽しさがわかっているから、こうして誘ってくるのだろう。俺がいつもダンスをしているのと同じなのだ。いつもダンスをしているのが楽しいから、こいつがダンスを教えてくれと言ってくるのを受け入れたのと同じなのだ。もっとも、だからといって俺がサッカーを見るとは限らない。

                    *

 二〇〇二年の日韓ワールドカップは日本サッカーにとってメルクマールとなる出来事だった。九三年のJリーグ創設にともなって、サッカーにはバブル的な人気が寄せられたが、同時期の経済状況の後を追うように、熱狂は長く続かなかった。観客動員数の平均を見ればわかるように 、九四年の二万人弱をピークに客足は遠のく一方で、日本が初めてワールドカップに出場した九十八年でさえ多少の上がり幅を示した程度、その上がり幅も継続的な成果の土壌にはなれなかった。
 様々な原因が挙げられるが、つまるところ世間はレベルの高いものを見せてくれなければ飽きてしまうのだ。当時の日本代表はワールドカップに出場したところで予選敗退が関の山、サッカーが盛んなヨーロッパとは決定的な差がある。しかし、トップクラスのプレイを見るには時差の問題をクリアしなければいけない。いかにレベルが高かろうと、日本時間の深夜に開催されるヨーロッパの試合を見ようと思う不眠症の患者は多くなかった。
 そんなレベルの高いサッカーが、〇二年になってようやく日本に上陸したのである。チケットの争奪戦を制せずとも、テレビを点ければサッカーにまつわる話題一色、あわよくば練習場に足を運んで選手を肉眼で見ることだって出来る。何よりこれらは普段の生活に溶け込んでおり、会社帰りであろうが休日であろうが(場合によっては職場であろうが)、気が向けば手軽に楽しめるものだった。いわば一か月のお試し期間が与えられたようなものだ。そんな事情を知ってか知らずか、トッププレイヤー達は世間の目を惹くプレイを披露してくれたし、日本代表も予選突破を果たして成長株として売り込むことに成功した。以降、Jリーグの観客動員は爆発的な増加を遂げる。
 もっとも、日本人だけが旨味を吸い上げたわけではない。大した成績を残せなかったにもかかわらず、憧れの眼差しを向けられ続けた選手が存在する。デイヴィッド・ベッカム。あれから十年近く経ったとはいえ、その名前を忘れている日本人は少ないはずだ。十年前に比べ記憶力が衰えている老人だって、ゆるやかなトサカを立てている金髪を見かければ、あんたサッカーやっとったね、と言ってくれるだろう。第一この男は、ファッションブランドのイメージキャラクターも務めているのである。子供だってサッカー選手とはわからずとも、ハリウッドスターか何かとして認識しているかもしれない。
 ともかく、ベッカムは規格外の人間だった。フットボーラーとしてではなく、広告塔として。彼の代わりになる選手はいくらでもいるだろうが 、彼以上に話題を振りまける選手は今後一切現れないだろう。なにより、フットボーラーが広告塔になれるのだということを証明した選手として語られ続けていくだろう。何も初めてCMに出演したフットボーラーというわけではない。言っておきたいのは、それ以前のプレイヤーに比べて桁違いの知名度を誇ったという事、そしてサッカーのビジネス化に拍車をかけたという事だ。
 たとえば、彼がかつて所属したマンチェスター・ユナイテッドは、強豪であると同時に現在一番稼いでいるクラブとされているが、それはベッカムがいた頃から変わりない。それどころか、土台を作り上げたのはベッカムなのかもしれない。要するに、カッコいい選手をフィールドに出し続けたことでスポンサー収入は増え、補強費にあてることによってチームはより強くなっていった、というわけだ。
 そうしたビジネスモデルにあやかって、多くの富豪はサッカークラブを買収し、商業のための広告塔に据えた。資本家だけではない、選手も収入が増えるのならばCMに出るしセミヌードだって買って出るようになった。そんな、フットボーラーがフィールドの外にあっても鍛錬を積まなければならなくなった時代における、最高の成功者がベッカムにほかならないのだ 。
 無論ベッカムだって、自身が商売の対象として見られていることを十分に自覚していた。フィールドの外ではいわずもがな、ボールを蹴る時も左手を大きく振り上げ、まるでマントを翻す貴族であるかのようなポーズを取る。これから蹴りあげられるのは、民へと分け与えられる黄金であるのだと誇示するように。ゴールを決めれば喜びを爆発させるが、自らを売り出すことも忘れない。ユニフォームを両手でつかんで自らの代名詞である「7」の番号がしっかりと見えるようにし、デイヴィッド・ベッカムが決めたんだ、という周知の事実を濃厚に印象付けるために、重ね重ねアピールし続ける。彼の一挙一動はそういう具合に計算されているのである。
 〇二年のワールドカップにおいて、他の選手はともかく、ベッカムは間違いなく自分の名前を売り出すためにプレイしていた。あるいは、いつも自分をコーディネートしながらプレイしている様子を目の当たりにしやすかったのが、日本人だったというだけのことかもしれない。ともあれ、大会を通じて一ゴールしか決めておらず、チームも優勝出来なかったのに、なぜあんな熱狂が生まれたのか、という問いには、そういう背景があったのだとの答えを与えるだけで十分だろう。
 そんなベッカムが、今シーズンをもって引退した。自らの価値を証明出来る格好の手段であるフットボールに別れを告げ、これから彼はどこに向かうというのだろう。ハリウッドスターにでもなるのか、それとも実業家としての一歩を踏み出すのか、はたまた監督になってフットボールへの情熱を絶やさないつもりか――しかしその場合、彼は守られる存在ではなくなる。これまではスポンサーもいたし、監督もいた。その下で好き勝手に振舞っているだけでよかった人間がフットボーラーを辞めた以上、これからは自分で責任をもって出資しなくてはならなくなるし、時には選手を守る必要だって出てくる。それがベッカムに出来るのだろうか? 妻に髪型やファッションを決めてもらっている人間に――ロサンゼルスに移籍した時も妻の意向を受け入れたような選手に――一人で歩いていくための道は伸びているのだろうか?

                     *

 プリントの説明通りにエクセルのファイルを作りこんでいたはずが、気付くとマス目は全て真っ白になってしまった。ヨシノに事情を説明したところ、今日の授業はやり直せる所まで、残りは時間を作って完成させて次回の授業までに提出しろと言われたので、遠慮なくグーグルを立ち上げた。と言っても、学校のパソコンで検索出来る範囲なんてたかが知れている。エロ動画も見られないインターネットなんて、何の役にも立たないじゃないか。
 ふと、「ドゥンス」という単語で検索してみてはどうかと思いつき、入力してみたところ聞き覚えのない外国人の名前が先頭に来た。わかってはいたが、俺のページは一つとしてない。仕方なく「ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス―Wikipedia」を開いてみるものの記述も簡素だし、業績も今一つわからない。しかし、「備考」の項目にはこう書いてある。
「英語で『のろま、劣等生』を意味するdunceという普通名詞は、スコトゥス学派に対して反対派が蔑称としてDunsesと呼びかけたことに由来すると言われている」
 自分の先祖を知った気分だ。もしかしてこいつも有名なダンサーだったのではないか、と思ってしっかりと調べようとしたのだが、ヨシノもこの謎の人物に興味があるのか、後ろから画面を覗きこんでいた。哲学をやってるんですよ、れっきとした学問でしょ、と見かけたばかりの言葉を頼りに弁解をしたのだが、どうやら学校では学問をやっていけないらしい。

 スマホの接続速度は遅い上に、スコトゥスにまつわるサイトはPC用のページしかないから見づらいばかりで腹立たしく、結局図書室の分厚い人名事典をめくっていたところ、
「ゴトー君、もう授業はじまってるよ」
 とレイカが声をかけてきた。まだドゥンスと呼ばないつもりのようだ。ここで返事をしてしまったら俺はスコトゥスとは何の関係もない日本人になり、彼の生涯を追えなくなってしまうような気がしたので、返事をしなかったのだが、
「ゴトー君の好きな生物だよ、行かなくていいの?」
 レイカは隣に座ってページをめくりづらくしてきた。本読んでるなんて珍しいね、と事典を覗きこんでくることでどの項目を見ているかもわからなくする。別に生物を放っておいて本を読んでいたって構わないだろう。勉強が嫌いでも生物だけは好きなのと同じことだ。
「今は生物が嫌いで本が好きなんだよ」
「私だって生物嫌いだよ、キャラ被せてこないで」
 ふざけた言葉だ。県内十位以内に入れる学力の持ち主が言うべきセリフじゃない。そう言いかけたが、かといって勉強が好きとは限らないとしっぺ返しを食らわされると予測し、事典を閉じることにした。まぁ、これでレイカもサボれなくなったから、おあいこだろう。
「俺の授業で不真面目になったらいよいよ救いようがなくなるぞ、お前」
 遅刻の謝罪は形式どおりに済ませたが、ババ先生の言い分はごもっともだ。とはいえ、冗談めかしてなだめてくれる上に、俺の置かれている状況を的確に言い当ててくれる先生の許を離れるなんて考えもしないが。一方レイカは、問題児を捕まえてきたことを褒められていた。
 スコトゥスにまつわる情報は兄貴のパソコンから仕入れる他なかったのだが、運悪くデートにかちあってしまった。今日はおっぱいの小さいバイト先の同僚だ。ドアの音を消してくれた声を分析しつつ、冷凍庫を開くと業務用のバニラアイスが仕入れられていたので、マグカップでパフェを作る気が湧いてきた。フレークを底につめてアイスをかぶせ、これまた業務用のホイップを重ねてバナナを敷き詰めチョコレートシロップをかければ出来上がり。スプーンでほぐしている分にはウマくて仕方ないが、赤いカップを眺めながらベッドのきしむ音を聴いていると、やっぱりパフェは透明のグラスで作るべきだと認識は確かになる。様々な具材が折り重なっている姿を目でも楽しめるから美味しいのであって、舌だけで楽しんでいてはパフェではない。家にはそんな演出を助けてくれる適当なグラスは存在しないから、口の方から覗いてデコレーションの一部を眺めるしかないのだが、それがいかにもさもしくて一気に空にしてしまった。とはいえ、中身が空になった赤いマグカップの断面を見つめているのも寂しい。寂しさの中でおっぱいの小さい女の子が精いっぱい張り上げた声だけが響く。彼女だって、自分が兄貴の本命だと思っている。サークルの仲間も、高校の同級生も、院生の先輩も。この家で鳴り響いた声を兄貴に当てつけるようにもう一度反響させていても、天井越しにいるドン・ファンには届いていかない。ひょっとして、兄貴自身も誰を本当に愛しているかわからないんじゃないか……寂しさが募るのに耐えきれなくなってダンスホールへと向かうことにした。
 時間が経つ中でスコトゥスにまつわる認識は不安定になっていく。ともかく名前だけでも覚えやすいようにしなければ調べる余地もない。だから、経歴を勝手に作り上げていく。
 有名なダンサーである彼が四十二歳という若さで亡くなったのは、独自に編み出したダンススタイルを披露したところ、あまりの革新性に観客が興奮しすぎて乱闘騒ぎが起こってしまいスコトゥスまで巻き込まれてしまったせいだった。ダンスに対する探究心が強すぎたために「精妙博士」と呼ばれるほどだったが、自由奔放なスタイルを求める派閥と対立しており、乱闘騒ぎに巻き込まれ死亡に至ったのもドサクサにまぎれて暗殺されたのではないかという見方がもっぱらである。dunceが「のろま」を意味するのもひとえに、一つ一つの動作を重視するがあまりリハーサルで一曲踊りとおすのに何十分もかかってしまうからだ。彼は人間がダンスを操るとは全く考えておらず、その逆に、ダンスが人間を操ると考えており、あたかも神の啓示を聴くかのごとくダンスの方からふさわしい動きを教えてくれるのを待ち続けていた。だからこそ、自由奔放なスタイルを奉ずる連中の言い分には耐えきれなかった。ヤツらはダンスのおかげで食っていけると考えてはいない、あたかも犬を散歩させるかのごとくダンスを扱っている、逆だ、犬だって人間を散歩へと心を向けさせるように従順なフリをしているだけにすぎないんだ……。
「よう、今日は調子悪いな」
 パフェをつついていると、シーさんが声をかけてきた。どのあたりが、と訊いても詳しくは言えないようだったが、なんでも楽しそうにダンスをしていないらしい。少なくとも今はダンスに比べてスコトゥスについて考える方が楽しい。
「シーさんはさ、ダンスしながら神を考えたことってある?」
「ハハッ、ふざけたこと言い出すな。神様が見てたら罰しか与えないんじゃないか?」
 シーさんが指さす先では、シャツのボタンを開けてブラジャーをさらけ出した女が店長を立たせてポールダンスといわんばかりに全身をくねらせている。
「でもあれって、元をただせば男の体を見立ててるわけだから……」
「コピーの上にコピーを重ねてるわけだ」
 ブラジャーは肩ヒモが外れて今にもおっぱいが露わになってしまいそうだ。パッドのおかげでズレたところで問題はないのだけど。
「あるべき姿に戻った、とは言わないんだね」
「宗教によっちゃ姦淫も罪になりかねんからな」
 スコトゥスは紊乱を極めたダンスフロアに入り浸りながらも聖書を読むことは忘れなかった。人間の体は神の被造物である、聖書の記述は曲げられない。その可能性を最大限に引き出そうと努める行為はすなわち、神への敬虔を示す祈りと同義なのである。
「本物も偽物もひっくるめて愛してくれる神様なら信仰するんだけど」
「だったらこの世にいる人間はみんな神を信じてるってことになるな」
 今日のところは「Dunceについて教えてくれ」とメッセージボードに書きとめて引き上げた。aとuが間違えていると抜かすヤツはその時点で相手にするまでもない。

                    *

 フットボーラーがファンから愛され続けるには、なにより鮮烈な第一印象を残さなければいけない。人間は一目惚れから抜け出せない生き物なのだ。これまで見てきたプレイとは一味違うパフォーマンスに出会った時、人は情報を処理しきれずに思考停止に陥ってしまうだろう。だからこそ、人々はスタジアムに足を運び続ける。あの時見せてくれた衝撃的なプレイの意味を明らかにするために、あるいは、再び我々の理解からはかけ離れたプレイを見せてくれる瞬間を見逃さないために。
 その意味において、ベッカムは過不足ない“デビュー”を飾った。九六年のリーグ開幕戦にて、ハーフラインでボールを受けると、ベッカムは突如左腕を大きく振りかざした。どうやら、相手ゴールめがけてボールを蹴りあげるらしい。とはいえ、ハーフラインからゴールまでは五〇メートルあるのだ。よしんばボールが枠内を捉えたにしても、キーパーが反応するには十分な滞空時間が掛かってしまう。この細身にして金髪をなでつけている、バッキンガムに住んでいそうな坊ちゃんの企ては、無謀に他ならないというわけだ。蹴りあげた瞬間、キーパーもこの愚行をたしなめんとばかりに後ろへと下がっていった。しかし、思いのほかボールには勢いがある、おいおい、スピードの割にはしっかりとゴールマウスを捉えているじゃないか――あわてて手を伸ばして飛び込んだキーパーは、ボールと一緒にゴールネットへと突き刺さっていった。
 もっとも、こうしたプレイ自体は(技術が必要とはいえ)キーパーが蝶々にたぶらかされでもすれば一年に一回は見られるものだ。この貴公子が平民と違っていたのは、ボールを受け取ったと同時に、背筋を伸ばして悠然とゴールを見据えた点である。普通ならば功を焦って猫背になってでも蹴りだすところだが、ベッカムはキックしてからも姿勢を保ち、ボールが描く放物線を見守っていた。誇張すれば、彼にとってゴール出来るかどうかは問題ではないのであろう。終始均整の取れた態度を取り続けていられるかどうかが、最大の関心事だった。
 ファンはファッションとフットボールを両立させる新星に愛を寄せたが、それはチームメイトとて同様だった。キャプテンのエリック・カントナは、このゴールが決まる前からベッカムを練習のパートナーとしている。若き有望株から放たれる正確なパスは、エースによって豪快にゴールへと叩き込まれる。そんな光景を象徴とするように、二人は対照的な特徴をもっていた。育ちの良さそうなベッカムに対して、カントナはギャングそのものであり、一メーター九〇の巨躯を持つ上に坊主頭でヒゲまでたくわえている。カントナのファンサービスといえば罵声を浴びせてきた観客にカンフーキックをお見舞いするといったものだし、引退してからは俳優業に精を出しているものの、ベッカムの垢抜けた佇まいに比べてイロモノの感はぬぐえない。
 もっとも、「チームなんてどうでもいい、俺が目立てばいいんだ!」と思っている点では、彼らは間違いなく似た者同士だった。自分の信念を遠慮なく言葉にしたカントナと、韜晦を続ければファンから愛され続けるとわかっていたベッカムという違いがあるだけで。
 同じユニフォームをまといながら、ベッカムはカントナを参考にライフ・プランニングを進めていた。破天荒なギャングの跡を継いだのが愛想の良い美男子となれば、上手い具合にコントラストを作り出せるから人気は高まっていくだろう――そんな出世のための目論見を知ってか知らずか、キャプテンは正確なボールを蹴れと要求し続けた。どういう態度を取るにせよ、目立つことを考えるのならば努力だけは忘れないでおけとアドバイスするかのように。
 ベッカムがイングランド代表にも招集されるようになると、カントナは伝統あるエースナンバー「7」を明け渡すためにピッチから去った。少なくとも実力において、ベッカムはナンバー「7」にふさわしい選手となっていた。問題は、精神面において卓越したプレイヤーになっているかどうかだった。カントナなら、ブーイングを浴びせられても相手をタコ殴りにしてしまえば勲章として語られるだろう。だがベッカムは、苦境にあってもヤケになってはいけないと自分を律さなければならなかった。こうして彼は初めての大舞台である、フランスワールドカップに臨むこととなる。
 決勝トーナメント初戦の対アルゼンチン戦、ベッカムは予選リーグでゴールを決め、意気揚々とこの日を迎えていた。ファンに愛されている上に、容姿もよく、実力も確か。そんな若造に嫉妬を向ける人間がいてもおかしくはない。アルゼンチン代表のキャプテン、ディエゴ・シメオネはその中でも最も狡猾な選手だったろう。この選手は相手の性格を見抜く力があった。なんでも田舎生まれの成り上がりだそうだ、きっと自分一人で自信を支えているに違いない、ちょっと上手くいかないことがあればすぐにボロを出すだろう……試合開始から反則スレスレのボディコンタクトがベッカムを襲った。全ては審判の見えないところで行われ、違法を訴える声は証拠不十分として棄却される。膝で背中を蹴られても、ほかならぬ被害を受けた身体が一部始終を隠してしまう。倒れた際に圧し掛かられても、勢い余っての事だからやむなしと情状を酌まれる始末。いよいよ耐えきれなくなって、義憤に燃える青年は倒れ伏しながら卑怯者を蹴りあげた。きっとこれも起き上がった拍子の事故とみなしてくれるだろうと、ヘボ審判への当てつけを見込んで。しかし、彼の演技はあまりに下手糞だった。レッドカードを掲げられ退場を命じられたのはシメオネではなく、ベッカムの方だった。
 アルゼンチンに敗れた翌日、イギリスのメディアは一斉にこの大根役者を罵倒する。カントナには観客にカンフーキックを浴びせたシーンこそ人生のハイライトだと言うだけのふてぶてしさがあったが、ベッカムはこの時引退を考えたという。狡猾な選手やヘボ審判に対する復讐心はあったが、ファンを見返してやろうという反骨心はなかったらしい。
 これに見かねて手を差し伸べたのが、マンチェスター・ユナイテッドの監督である、アレックス・ファーガソンだった。ベッカムをスターダムに押し上げた恩師にしてみれば、やれやれ、と言った心境だった。田舎町から“養子”として預かって以来、この子供には手を煩わされっぱなしだったのだ。カントナが暴挙によって出場停止になっていた間、若い選手を中心に据えたチームは苦戦を強いられ、メディアからもユースチームで戦おうなんて笑わせる、と言われたものだが、きっとお前ならやれると声をかけ続けた末に、リーグ優勝を成し遂げた。ヴィクトリアとかいう売女のようなポップスターを嫁に迎えた時も、性病を疑う声に苦しむ“息子”に対して、こう声をかけたものだ、お前は観客とサッカーをするわけじゃなかろう……何も変わっちゃいない、いつもと同じ事が繰り返されるばかりだ、きっとこれからもそうに違いない、なにより全ては初めからわかっていたことである、この程度の苦労なら買ってでも引き受けよう。

(続きはPDFをダウンロードして、9ページからご覧下さい。(総計25ページ))

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