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電話にくたびれて

 

      今わたしが待っているのは一本の電話にすぎない

                            ――ロラン・バルト

 

 現代において誰もが恋人からの電話を待ち受けたことがあるだろう。そして思い切ってこちらからかけてしまおうかと逡巡したこともあるだろう。あるいは、恋人ではなくて、師であったりするかもしれない。とかく誰かとコンタクトを取りたいとき、私たちは電話という手段を一つ獲得している。そして、テレビドラマや映画の多くでも、恋人たちが長電話に興じたり、電話をかけあうシーンが散見される。だが私には、こうしたシーンに大きな違和を覚えるのだ。確かに今にもあなたの声を聴きたい、という心情が働くのであろうが、そういう希求にとって電話とは相応しいものであるのだろうか。

 そうした問の前に一つ別の問いを用意しよう。これは至って単純で、電話とはかけるものだろうか、かかってくるものだろうか、というものだ。そして人は電話を掛ける衝動から耐えるか、掛かってくるのを待つことに忍耐するのか、というものだ。しばしば私は一つの電話が、消えたり現れたりするのを目撃する。電話機が目の前に存在していても、殆ど機能性に特化したその道具は頻繁に目の前からその影が消失してしまう。一定の実在性を確保しているのも関わらず、普段においては大した存在を持つことはない。だからこんな発言が繰り返されることはないだろうか。

「私の携帯電話はどこへいっただろう? 誰か鳴らしてみてはくれないか?」

 そして先ほどまでどれだけ探しても見つからなかった鞄の中から着信音が聞こえてくるのだ。場合によってはポケットに入っていて、体と密着していてもあり得ることだ。また、固定電話が日常生活の中ですっかりその存在の影を消してしまっていることは誰もが気が付いている。電話はいつでも不如意に表れて、私たちに驚きをもたらす。急な表象は、曲がり角で突然自転車と出くわすことに等しい。それはともすれば身に危険を覚える感覚である。ところが、その電話がなる事をいまかいまかと待ち望むことがある。

 恋人や仕事相手、大きな災害に見舞われた時、家族や友人からの一報、等々。それほど待ち望んでいればそれは驚きではないかもしれない。だが、それでもかかってきた瞬間驚くのである。高校生が受験番号を確認し、あった時にこそ大きな驚きを覚えるのと同じように。または競馬で当てた時のように。予想が当たるからこそ、期待が叶うからこそ驚いてしまう。(私たちは期待や希望を抱かせるものに、少なからず「裏切り」の嫌疑を常に抱いているから、現実化されてしまうと肩透かしを食らうのである)

 しかしながら電話が急報をもたらすことによって私たちに引き起こす感情は、驚きにとどまらない。それは通路であることを忘れてはいけない。正しく、四六時中邂逅が実演される。何よりも私たちが待つのは電話の相手の声であり、報せ自体である。そして重要な報せや声を待つときには、もはや私たちはただ待つというより待機、つまりかかってくるはずであることを予見し、いつでも出られる準備をしている。心待ちにして、かかってこない時間に従って不安でもなく焦燥感でもない、狂気じみた昂奮が訪れる。この状態に至って、電話の持つ存在は膨れ上がっていく。見逃すことはできまい。とにかく待たされることに耐え続けなければならない。

 次の一節はロラン・バルトが待つことについて書いたものだ。

 

『舞台はとあるカフェの中。ここで会う約束なのだ。わたしは待つ。「プロローグ」では、ただひとりの役者であるわたし(当然のことである)が、相手の遅参を確認し、記録している。この段階ではまだ、それは、数学的で計測可能な遅れでしかない(わたしは幾度となく時計を見る)。「プロローグ」はひとつの衝動で終る。つまり、わたしが「気をもむ」ことにきめ、待機にまつわる苦悩を始動するのである。そこで第一幕が始まる。この幕が始まる。この幕はさまざまな推測にみちている。ひょっとして時間を、場所を、間違えたのではないか。約束を交したときのこと、おたがいに確認しあったことなど、思い返してみる。どうしたらよかろう(行為の苦悩)。別のカフェへ行くか。電話するか。でも、席を立っている間にあの人が来たら…… わたしの姿がなければ帰ってしまうかもしれない、等々。』[ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳・みすず書房、p.59]

 

 この劇の役者は、現代にとっては少なからず滑稽に映るだろう。ところが内心はさほど変わりはしない。とにかく待つ人は気をもむのだ。気をもむ、あるいは手をもむ、は緊張感や注意力の散漫を表している。何事に集中できない状態であり、それは未だそこにない状態のものへと注意力を注いでいるからである。視線をあちこちへと走らせ、待つ人の顔を探すだろうし、先に注文しておいたコーヒーは、始めの数口を最後に冷めたまま残されている。多少の待ち時間を潰すために持ってきた文庫本も、実際は最初の三ページを読んだ(それも何度も同じ行を読み返し、揚句今となっては何も覚えていない)きりである。周囲の雑音が原因ではなく、私は未来に訪れるであろう人に気を取られているのだ。私も同時に既にここにはいない。想像力の世界での出会いを先んじて楽しむ余裕もないのだ。

 ここでこの一節を少々現代風に書き換えてみたいと思う。

 

 舞台はとあるカフェの中。ここで会う約束なのだ。わたしは待つ。「プロローグ」では、ただひとりの役者であるわたし(当然のことである)が、相手の遅参を確認し、記録している。(…中略…)そこで第一幕が始まる。この幕が始まる。この幕はさまざまな推測にみちている。ひょっとして時間を、場所を、間違えたのではないか。約束を交したときのこと、おたがいに確認しあったことなど、思い返してみる。そこでわたしは相手と交わした電子メールを開いて読んでみる。すると確かに正しい時間が互いに了解されているようだった。(ならばなぜ相手は遅れてくるのだろうか)。わたしは当然の権利のように、遅参する理由を連絡してくることを要求している。それが果たされていないことに不満を抱く。「なぜ連絡一本よこさないのか」それを相手に伝えることもあれば、心の内にしまっておくこともある。(だが現代においてここで何も言わずにおける人は、よほど気が長いか、呑気か、自分自身時間感覚に疎い人であるだろう。それとも相手のことがどうでもいいのだろうか?)どうしたらよかろう(行為の苦悩)。別のカフェへ行くか。電話するか。でも、席を立っている間にあの人が来たら…… わたしの姿がなければ帰ってしまうかもしれない、等々。それに電話をよこさないということは、相手が電話を利用できない状況にあるのかもしれない。ならば電話をすることも無駄であるかもしれない…… やはり私はなにもできはしない。確かなのは、待ち合わせは正確に約束されており、今、それが果たされていないということである

 

 だがとりもなおさず、人というのは急な報せには不吉なものを感じることが多いのか、電話という常に「突然」であるものには、看過しえない緊張感が漂っている。あのけたたましい着信音にしつこいほどのバイブレーション。早く受話器を取りなさい、なにをしていてもとにかくその手を止めて、一刻も早く出なさい、と口うるさく喚き続ける。慌てて電話に出ようとして、様々なへまをする人を見たことがある。揚げ物を焦がしたり、カップ一杯のコーヒーをこぼしたり、終バスから飛び降りてしまったりという、まるで電話機が発している「さもなければ」という警告に逆らえない人たち。あるいは講義中や会議中に着信があり、慌てて切ったり、切るに切れない相手からかかってきているのを確認して顔面を青く赤くする人。なにしろ伝わってくる報せの正体は出てみるまで明かされないため、出ない=耳を傾けない、という決断をすることが非常に困難である。また一昔前、誰から掛かってきているのかわからなかった時には、声の正体すら掴めない。これでは出ないで見逃すわけにはいかないだろうという強迫観念が付きまとう。

 だから私は時に電話機を壊してしまいたいという衝動に駆られることがある。だがそうはいかないことも明白である。それは現代では欠かすことのできない連絡手段であるのだから、電話機を持たない気楽さを認めるほど社会は寛容ではない。ところがこの社会の不寛容の原因は、この電話という不気味な代物であるに違いないが、だとすれば、他人の電話機に対しては、正体の知れない気持ちの悪さを感じている人は少なからずいるに違いない。電車で隣の人が携帯電話をいじっているとき、不図何をしているのか気にはなるが、覗いてはいけないという抑制が働く。それは新聞や書物よりもより強く感じる葛藤である。あるいは他人が電話をしているのを横で聞いていられる人は、よほど想像力がないのか、ある人かもしれない。私はこのことを考えた時、安部公房の『箱男』を髣髴として仕舞う。(実際「よほど想像力がないのか、ある人かもしれない。」という言い回しは彼の『箱男』講演会で使われたものだ)また、ころころと継ぎ目なく「携帯電話」という機械を通して入れ替わる主体への、不信感というものが付きまとう。それは私の中でしばしば存在しているのが判っておきながら、実在感がなく、目を背けてしまいたくなることがある。電話は常に「切る」という行動、終末へと向かうべく話が運ばれる。いつまでも話していようなどとは誰も考えない。そんなに電話というのは気のおけない通路ではない。

 しかもその声は非常に虚偽に満ちていることを私たちは知っている。そこで語られるコミュニケーションの不全は全く顔や身振りがないことに尽きるのかもしれない。また実際に電子的に一度変換された音声は、実際に聞く声と、明言できぬほど些細であっても異なるのである。そしてとりわけ異なるのは、トーンである。そしてこの語調ほど言葉の意味合いを決定づけるものはないから、電話によってなされたコミュニケーションには常に――それは普段以上に――なにも伝えられていないし、嘘を伝えることになりかねない。揚句、私とあなたの間にはこれほどの断裂があります、そして言葉と言葉は剥離していきます、と示さなければならなくなる時がやってくる。

 

『おそらくフロイトは、電話が常に不協和音であること、そこから伝わってくるのが悪しき声、偽りのコミュニケーションであることを、感じ、予見していたのである。電話をかけるわたしは、おそらく、離別を否認しようとしているのである。(……)電話線には、結合ではなく隔たりという意味が充電されているのだ。』[ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』p.172、みすず書房]

 

 殊に、電話越しの沈黙ほど誤解を招くものはない。相手がなぜ「わざわざ話すため」に電話をしているにもかかわらず、黙り込んでいるのか、その理由が理解されることは永遠にありえないだろう。むしろそこは相手の想像力によって占領されてしまう空間となる。怒っているのか、何か別のことに気を取られているのか、無視をしているのか。とにかくネガティブな想像が付きまとう。それも当然である。電話越しでの沈黙というものは、そもそも電話をするという行為への否認的行為に他ならないからだ。

 そしてこの隔たりは伝達可能性という点においてのみならず、心的隔たりへ直結していく。

 

『電話に出ているある人は、常に出発をひかえた状態にある。その声によって、その沈黙によって、あの人は二度立ち去るのだ。どちらが話す番だったか。二人ともどもにだまりこむ。二つの空虚のせめぎ合い。お別れします、電話の声は一秒毎にそう言っているのである。』[同上、p.173]

 

 私はこのバルトの一節を読んだ時に、映画「パブリック・エネミーズ」で、ジョニー・デップ演じるジョン・デリンジャーが、離ればれとなった恋人ビリーへと、公衆電話から隠密裏に電話をするシーンが思い出された。これは確かに会う約束をする約束であった。しかしながらそれは同時に分かれを覚悟するための電話だった。彼らの会話が聴かれていないはずがないのだ。当時FBIは特定地区の電話交換機を占拠して、デリンジャー一味の動向を探るために傍受を続けた。しかもビリーは監視されていた。彼らは会うことは無論、電話すらできる状態ではなかった。このような極端な例を持ち出すまでもなく、いかなる関係の二人においても、電話というのは、「今切ります」「今別れます」という瞬間が付きまとい、僅かな間が、それを可能としてしまう。

 人は電話では過剰にしゃべることがある。長話よりも長電話の方が問題視されるのには理由がある。一つは電話料金。一つは他の利用ができなくなる。だが、もう一つは話し過ぎるという点に尽きる。そこでは二人きりの通路があり、囁きがあり、誰にも聞かれないメッセージがあるように思われる。話すべきでない秘密も簡単に暴露され、重大な告白、神経性の告白、全てがそこでなされる。個人的な秘め事が形成される段階では、人は夢中となる。電話という一対一の関係(あるいは、特定の規模での密室的談話[ディスクール])は一つの特権的な文化圏で、デリダが大仰に、かつ無内容に言い表した夢世界に反抗する陶酔感を形成するのかもしれない。

 

『出版やジャーナリズムやアカデミズムの集中体制を通して、コントロールし画一化することによって、言説や芸術的実践を一つの可能性の格子、哲学的・美学的規範に、効率的で直接的なコミュニケーションの水路に、視聴率や商業利益の追求に従属させる。実際このような規格化は、移動可能で偏在的かつきわめて迅速なメディアの網の目を通しててっとり早く「売りものになる」衆愚的コンセンサスの場をも再構成し、あっというまにすべての境界=国境を越え、あらゆる場所、あらゆる瞬間に、文化的首都、覇権的中心、新しい帝国=統治[imperium]のメディア・センターないし中央処理施設を作り上げるのである。』[デリダ『他の岬――ヨーロッパと民主主義』高橋哲哉・鵜飼哲訳・みすず書房、p.31]

 

 この夢世界を見て、私が思い浮かべる作品はやはりジョージ・オーウェル『一九八四年』、である。その中のテレスクリーンは今でいえば電話に非常に近いものであるのだが、私が言ったような個人的な営みがそこでなされることはない。主人公はテレスクリーンから隠れる場所・盲点を常に探している。一方で彼はテレスクリーンもない場所で、メモ書きという手法を用い、顔と顔を合わせ、恋愛を謳歌しようとする。抑圧された世界での青春時代は随分とロマンチックなものだった。つまりそれは現実を忘れているに過ぎない夢であったと、彼は思い知ることになるわけだ。

 IT革新により、スカイプを筆頭としたビデオ電話が可能になっている現在、新種のウィルスによるウェブカメラやネット電話の傍受が問題となっているが、そうしたプライバシーの局所的な崩壊が取りざたされる以前に、私たちは一つの事実を忘れている。つまり、アメリカでは同時多発テロ以降、一切の通信が傍受されているということである。この超法規的状況は今現在も変わらないでいる。確かに恋人同士の睦言、あるいは友情間での約束、そして多くの小物活動家や政治家の密約ごっこなどには彼らは何の関心も示すことはないかもしれない。だが、通信傍受がなお行われ続け、彼らが必死に恐怖(テロ)のタネを探し求め、糾弾すべき正義の敵を、鋭敏な嗅覚をもって探し回っているのは事実である。電話という手段が、あくまで庶民にとっては個人間の通路を開設するものに違いないが、そこには既に警察的な監視があるのだ。

 かつて地下活動を行うものによるラジオもあったが、電話という手段を超えて、SNSを用いた革命がアラブ諸国で起きたことは記憶に新しい。それだけ政治活動というのは公然たるものであるということが、昨今「公共圏」という言葉の乱用の由縁かもしれない。だがデリンジャーの件にしても、オーウェルの件にしても、「公共」は「建設」でもなく、あくまで監視でしかない。

 通信傍受という諜報活動が現在でも当然行われていることを認識したうえで、改めて私は考え直したい。電話はかけるものか、かかってくるのを待つものか、改めて問う。拙速にメッセージを伝えるわけにはいかない。しかしながら待っていると、永遠に届かないものがあるだろう。結局のところ待ちきれないことがある。監視人に聴かれていると思えば、電話はかけることでしか有効ではないのだ。電話は会話の場ではない。一方通行では酷く寂しく思うかもしれないが、それはメディアと思ってあきらめるしかない。ここには「これを伝えたら、すぐに切る」という了解があり、返事は不要であるのだ。そして沈黙も、応答も、ありえない。ともすれば、私はますます電話というものに嫌気がさしてくる。電話という機会を通すと、あらゆる言葉が実在感を喪失して、虚偽感に満ちてくる。ましてや現実を語り得るかどうか(それは「言説」といわれるような言語学的問いを想定するのではなく、自警団的に可能であるかどうか)が疑わしいのだ。電話という機会は果たして存在するのか。エジソンが霊界と交信することを試みたように、私たちは時に誰でもない相手と電話をしているのではないか。夜な夜なテレクラやチャットレディーといった性風俗サービスを利用するものは、いったい誰と通信しているのか。電話という存在に疲れ切って、電話の電源を切ったり、電話を叩き割る人間が出てきたとき、私たちはどちらの道へ進んでいるのか。アナログな世界か、デジタルな世界か。こうした問いかけはもう古いだろうか。ならば、私は別の問いをしたい。私たちは恋人と、電話をするのと直接会うのと、選べと言われたらどちらを選択するか。これでは答えが決まりきっているかもしれない。

 最後に一つ添えておきたいことがある。かつてドイツにはヘーベルという作家がいて、この人は仲の良かった妻と生涯別居していた。そして彼は手紙にこう記す。「あなたがいないからこそ、近くに感じる」全くこれは恋するものには正しい言葉である。つまり、電話というのは、手紙という少しでも相手の痕跡を感じとれ、物象化されるものであり、それ自体が恋人からの贈り物であるかのようなものとは対極に、何も残らず、空虚な残響だけが、そして相手の声を聴いている最中に味わった甘美な感覚だけを遺して、消え去ってしまう。相手の存在感はつゆほども残らない。記憶も蓄積されることがない。となれば、電話という手段は、不在という観点から、さも相手との近さを刹那的に極度まで引き上げることができるものであるかもしれないが、同時にそれは瞬間瞬間の離別によって演出された幻想であり、記憶がないために、恋人たちの恋愛感情は常に解除され、そぎ落とされていくのである。だからこそ、電話程恋人たちに似つかわしくないものはないのだ。そういえばフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』では電話が愛、そして命を崩壊させるものだった。警察から逃れるための、デリンジャーの不可能な電話と、一九八四年での電話を使わない恋愛、虚構の世界を見渡せば、その本質がまざまざとえぐり出されている。

 

(七月十日 一部改訂)