twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

夏と花火とラブロマンス:牧村 拓

 今年も夏が来た。形而上学的な夏でも空想科学的な夏でも御伽噺的な夏でもない。このうえなく現実的で実際的な夏が、我々の上に降り注ぐ時が来たのだ。夏の下で、我々はたくさんのことを思うだろう。休みの予定だとか、帰省の用事だとか、ささやかな思い出作りだとか。そのどれもが、僕からすれば作り物みたいに見えてしまう。作り物的な夏。それは僕がずっと思っていることで、真夏の陽射しと温度の前では、すべてが余すところなく白日の下に晒されてしまう。どうにも胡散臭い。物事とはもっと難解で、複雑で、奇妙なものではないのだろうか。夏の前で僕は無力だ。あまりに単純化され、漂白され、剥きだしにされてしまう。だから僕はけっして短くない間夏のことが嫌いだった。むしろ冬を好んだ。閉鎖的で、陰鬱な重苦しい季節。そこでは僕自身までもが覆い隠され、色を失い、許されているようだった。とりわけ物事に悲観的であった時期に、僕は冬が好きだった。冬が自分に寄り添って、そっと肩を抱いてくれている気がしたのだ。けれど、今は夏も好きだと屈託なく言える。安っぽい、作り物的な夏の中で僕は自身を天日干しにしてやる。秋から冬を通って春に至るまでに自分の中に積り固まった鬱屈としたものを、陽射しの下に取り出し並べ、順々に点検していくのだ。そうしていくと、これは要らないな、これはいいものだったな、これは大事にしなきゃな、といくぶん現実的な視線をもって見つめることができるのだ。冬の陶酔・鬱屈・思考。夏の自戒・高揚・行動。バランスをとって、僕は僕をより確かな地平へと立脚させてやる。そうすることで、随分と生きやすく感じられるようになったし、物事がうまく進んでいる実感みたいなものも掴むことができるようになった。

 

 夏について思うところはこんなところだ。次は夏の思い出について語ろう。僕の記憶の中で夏と深く結びついているのは、高校での文化祭と恋だ。恋については今更あらたまるまでもないかもしれない。ひと夏の恋なんて言葉もあるくらいだ。文化祭は、僕の中でいまだに大きな比重をもっている。高校で生徒会組織に所属していた僕は、本当に一生懸命に活動をしていたと思う。僕が人生の中で必死になったことといえば、生徒会活動と恋くらいだ。そのうちのひとつが夏という季節に結びついてくれているのは素敵なことだと思う。夏の暑さや光の中でこそ、あの体験は輝いていられるように思うから。それについて語っていくうえで、今回は二人の友人の力を借りよう。彼らと僕は同じ生徒会において確かに同じ時期に存在していて、お互いを認め合いながら、それぞれに活動していた。そんな彼らと今も付き合っていられるというのは幸福だ。だからその幸福を余さないように、ここに記す意味もこめて、そして何より僕だけでは見られなかった景色を見るために、彼らの言葉を拝借しよう。

 

牧村:えーとね、今回「夏」についてお聞きしているわけなんですけれども夏の思い出!なんかありますか?こうね、祭に気になるあの子と行ったとか海に気になるあの子と行ったとかそういうキラキラした体験談でなくてもいいんですけれども夏!とバン!と聞いて思い浮かぶこと

種:キラキラしたものは主に高校から大学1~4年。キラキラしてないものは大学56年にありますね

牧村:どんなキラメいた思い出があります?

種:高校はまぁ学園祭だよねやっぱ。学園祭作ってたからね

牧村:その組織の長なんかやっちゃってね()

 

(僕の高校では、生徒会総務・生徒会行事企画委員会という組織が並列しており、僕らが所属していたのは後者だ。前者は主に実務的な面を、後者は3大行事と呼ばれる文化祭・運動会・学級対抗球技大会を取り仕切っていた。そしてここで出てくる相手は、僕のひとつ上の学年で、その代の委員長を務めていた)

 

種:でも実は行企長になる前の年のも結構楽しかったよ

牧村:僕が一年生のときになりますね

種:そうそう。上の代が気合入ってたし。徹夜してナンボみたいな部分は少なからずあったよね() おれの代はでも、もうちょっとまったりしてたからさ。『定時で帰ろう』みたいな。生徒だけじゃなくて教師とガチの喧嘩したりさ……若かったわ

牧村:教職員・一般生徒、そして僕ら組織の人間の兼ね合いはありましたからね。その中で大変なことも辛いこともたくさんあった

種:でも受験時代を乗り切れたのは間違いなくあそこで頑張ったからだと思うわ。仕事でも役に立ってるよ。ほんとに

牧村: 僕もあそこで培われた精神的土壌は今に活きてますね

種:なんだかんだで体育会系なノリも強かったしね

牧村:中身はおもっくそ文化系のくせにね() でもあの無理してる感。今思うと嫌いじゃないですよ、僕は

種:(文化系か体育会系か)どっちかだけじゃダメなんだよね。どっちもあるから楽しかったし、学べた

牧村:そうそう、あの多岐に渡る活動の強度みたいなものは凄かった

 

 彼は当時から凄まじい人間だった。まずもって僕のような人間が近寄りがたいほどに優等生然としていたし、静かな面持ちのなかに熱い情感を秘めているようなところが大いにあったからだ。それでも今こうして軽口を叩き合える仲でいられるというのは、やはり夏という季節と委員会がくれた贈り物なのだろう。

 

 続いて、もう一人の友人に登場を願おう。彼にはさきほどとは少し違った視点から語ってもらった。

 

牧村:夏といえばね、やはり恋だと思うんだよね。ひと夏の恋というかアバンチュールというか。そういうのに憧れであったりとかは感じる?

三浦:そうだね、自分がしたいってのとはちょっと違うけれど、好きなマンガのモチーフになってたりするね

牧村:ほうほう、ちょっと作品名とかあげられる?

三浦:割と前から好きな作家さんなんだけど、『夏のカケラ』っていう作品だね。でさ、ひと夏の恋っていうと、割と一回きりそれっきりっていう感じじゃない。避暑地に行った女の子が地元の子と出会ったり、入院している病弱な少年と出会ったりとか。この作品はまさに今の後者のパターンなんだけど。「あのヒマワリを君と見たかった」みたいなね

牧村:サナトリウム系とでもいうのかな、僕の好きな「ノルウェイの森」なんかも広義でいくとそれだけどね。そういうのって一つの様式美みたいなところはあるから安心して見ていられる

三浦:いい意味で先がわかるから読んでいけるんだよね

牧村:夏のどういったところがそういう切なさと相性がいいのかな

三浦:やっぱりさ、夏って盛り上がるけどそれって終わっちゃうものじゃん。秋っていう季節に向かって、静かになっていくっていうかね。花火が本当に象徴的だよね。

牧村:花火といえばね、僕らの共通の原点である文化祭においてね、グラフィですよ、秋高祭マジックですよ()

 

 (僕らの高校の文化祭は2日間に渡って行われる。その間に常時開催している展示物や校内発表と、限られた時間で行われる開祭・宵祭・夜祭・グランドフィナーレという催しがあり、グラフィは全体を締めるものとして盛大に行われ、そこでは花火も打ちあがる。そうしてその花火に願いをかけて告白すると叶うという伝説があったのだ)

 

三浦:あったねー、マジック。俺らの周りでも、結構その恩恵に預かっている人はいたね。

牧村:僕もね、実はそうだったんだよ。でもそういう君こそまさに告白してたよね()

三浦:あー……うん()

牧村:まあね、結果は結果だったけれどそれも今となってはひと夏の美しい思い出ということでね

三浦:それはそうだね、ああいうのって今思えば貴重だと思うし。かなり大規模に祭をやって大人ぶって、それでもそういうところに夢見ちゃう若さっていうか可愛さね。あれはよかった

牧村:そうだね、吊り橋効果でもないけれどね。一緒にギリギリのとこまで行事を突き詰めていってその結果できあがる結束ね。

三浦:まあ俺らもそんな感じだね

 

 ひと夏の恋と文化祭。それが僕の中においても繋がったものとして存在しうるわけである。これはもう本当に素晴らしいことだ。そうしてそれについて語り合える友人がいるということも。

 

 さて、ここまで羅列に近い形で触れてきた事柄をいったん整理しよう。僕はひと夏の恋を委員会活動の中で得たし、それは作り物みたいだった。そうなのだ、ここでいう恋とは本当に綺麗すぎて純情にすぎて、僕にはまるで作り物みたいに見えた。実感できる肌触りや温度がなく、自分という映写機を通してみるムービーのように感じられていたのだ。それはもしかすると委員会活動というある点においてひどく実際的な活動との対比から来ているのかもしれないし、夏という季節のもつ魔法にかかっていたからなのかもしれない。いずれにせよ、僕は確かにあの時に恋をしていたし、今はもう終わってしまった。どんな祭だって終わるときは来るし、その呪縛からはたとえ僕のように発信者側だったとしても逃れられない。夏だってまるで打ち上げ花火みたいに勢いづいて上がっては、あっという間に消えていく。恋だって、同じだ。けれど僕はあの夏に得た恋心の欠片を今も大切に持っているし、それはやがて来る厳しい冬にあっても僕を暖めてくれるだろう。そういった輝かしく暖かな、大切な記憶をひとつひとつ自分の中に作っていくことができたら、きっとどんな夏だって僕らのための季節ということになるだろう。今年の夏も、僕にとって大切な季節となることを願っている。

 〈了〉