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僕と職場仲間の話:緑川

   一、納品日和

 

 僕は仏壇販売会社の契約社員で、仏壇の納品が僕の主な仕事だ。ちょっと変わっているといえば、変わっていると思うが、他人の仕事なんてそんなものだ。人はふつう表面だけ見て、あの人は銀行員だとか学校の教師だとか、トラックの運転手だとかのラベルを貼って理解した気になる。だが、その仕事の内実までは窺い知ることはできない。他人の仕事を羨望や軽視の念をもって眺め、その挙句、あれはあれで苦労があるものだろうなあ、などと小さな感想を付け加え、分かったような顔をするだけのことだ。

 僕は、ごく当たり前の職業のひとつとして、今の仕事をしている。そこには、それ以上の意味もなければ、それ以下の意味もない。さまざまな起伏を飲み込みつつ毎日は淡々と過ぎる。

 その日、僕は一人で納品に出た。仏壇の納品は基本的に二人一組で行うことが多いのだが、今朝の仕事は一人で持ち運びのできる小型の、現代調の仏壇の納品だった。

 冬の初めの穏やかな天気だった。僕は会社のサービスカーを停め、納品先とおぼしき家の表札を確認し、チャイムを鳴らした。インターホン越しに返事はすぐにあり、僕は門前で、気持ち髪をなでつけネクタイが曲がっていないか確かめる。そして、ややかしこまった姿勢を取りながら、今の声から神経質そうな中年の女性を想像しつつ、ドアが開けられるのを待つ。

 ドアが開く。

「お世話になります。○○仏壇店です」と僕は頭を下げる。

 彼女―五十歳代半ばくらいと思われる女性が挨拶を返してくる。「ちょうど時間に来てくれたんですね」

 なにか、時間に正確でなければいけなかったような響きがある。

 午前十時。配達の時間は約束していたより、いくらか前後することが多いのだが、偶然今はほぼ正確といってよい。僕は、当たり前のような顔をして、「はい」と返事をして、「それでは作業に移らせていただきます」と、もう何百回となく繰り返している言葉を告げる。

 そして、軽バンから工具箱と仏具類の入ったコンテナボックスを取り出す。

「えっと、ご安置場所は?」僕は彼女に訊ねる。

「あ、いえ、ここで、」と彼女は応える。

 意外なことに彼女が指示したのは玄関だった。「あの、でも大丈夫ですか? 小型といってもそれなりに重いし、お部屋までお運びした方が……はあ、そうですか……、あ、それとお飾りの方はいかがいたしましょう?」

 とりあえずここで飾ってみてくれというのが彼女の返事だった。

 要望に従い仕事に取り掛かろうとすると、彼女がまた、ちょっとひっかかることを言い出す。

「あの……、車の鍵はかけられた方がいいですよ。それから、こちらに戻ってくるときに、門扉をちゃんと閉めて下さいね」

 僕はそのようにした。

 そして、なんとなく落ち着かない気分になりながら、僕は上がり框に毛布を敷いて仏壇を開梱する。そして仏具箱から仏像や仏飯器、高坏、火立、花立、香炉などを取り出して仏壇に飾った。

「やっぱり、お部屋にお持ちした方が……、」

「いいんです」彼女はきっぱりと言う。この家には男手はあるんだろうか? と僕は気になる。直接訊ねるにはためらわれるが、どうもこのお客さんは主婦のような感じがしない。ばさばさの髪に化粧っ気のない青白い顔、グレー系の地味な服。事務的な口調、あまり動きのない表情。

 いろんな家庭に訪問を続けるうちに、僕はある程度のポイントが見えるようになった。玄関に置かれた靴―ここには男物がない、玄関脇には子供がいること―あるいは、いたことを示すような玩具とかが何ひとつない。

 ともあれ飾り―荘厳(しょうごん)という―を終えた僕は、明細を片手に、今度は仏具一つひとつについての説明に移る。そしてまた、彼女に驚かされる。

 ちなみに、こちらの宗派は浄土宗であったのだが、本尊である阿弥陀如来から中国で始まった浄土宗の開祖、善導大師、日本の法然上人、それぞれの来歴についてとにかく詳しい説明を求めてくる。

 さらに仏具類それぞれについての意味、使い方についても同様で、明細の項目を一つずつチェックしながら、どう考えても一般のお客さんには必要のない知識を披露させられる。なにょり、この奥さんは人の話を上の空で聞いている気がしてならない。説明の合間にちょっと冗談を入れても反応がない。

 ともあれ僕は隙を見せないように説明を続け、受領の印鑑をもらい集金もなんとかこなした。慣れた仕事であるにもかかわらず帰り際まで気が抜けない。なにしろお客さんに笑顔がない上に、言葉を重ねて説明はしても、会話をしている気分になれない。仕事を終え、車に戻ったときに僕はようやく安堵の溜息をついた。

 後日、店にお礼の電話があったと伝えられた。なんでも、宅配員としての僕をずいぶんと褒めてくれていたそうだ。ちょっと複雑な気分だが、嬉しくないこともない。稀にこんなこともある。

 

 

 

   二、早朝出勤

 

 僕は、帰宅後はなるべく早く寝るようにしている。食事をして入浴して、少しビールを飲むとすぐにベッドに入る。もう習慣になっているので寝つきはよい。そして、だいたい午前の三時ごろに目が覚める。

 出勤時間には、当たり前だがかなり間がある。僕はその間、まるで思春期の頃のように、PCに張り付いたり本を読んだり、したいことをして過ごす。静かでたっぷりした時間がある。

 ラッシュを避けて早めに部屋を出る。街がまだ動き出す前の、清潔な時間帯のドライブ。当然、まだ暗いうちに店につく。

 店では、来客用のソファーでもう一度寝直したり、誰か置いていったスポーツ新聞を読んだりして、皆の出勤を待つ。朝礼で使う、社歌の伴奏を流したりするためのCDラジカセに、好きなCDを入れて楽しむこともある。これも習慣だった。それは僕だけの時間のはずだった。だが。今朝は意外なことに、がら空きのはずの駐車場にすでに車が一台入っていた。僕が、今のような生活スタイルをとるようになってから、こんなことは初めてだった。時間はまだ六時前である。

 車は、浅田支店長の自家用車だった。店内には、やはり支店長が出勤してきていた。本来なら、早くても八時過ぎ頃が皆の出勤時間である。

「どうしたんですか? ずいぶん早いじゃないですか。それとも泊りですか?」と、僕は浅田さんに訊いた。「いやいや、」と浅田さんは曖昧に応えて首を振る。それ以上は訊いてくれるなという感じだった。僕の、今朝の自由時間の価値は半減した。なにしろ浅田さんは、こんな時間から机に向かっている。

 こんなこともあるんだろうなと僕は思った。仕事をしている支店長と一緒に、店の事務所にいるのも少々具合が悪いので、僕はもう一度外に出て、自分の車に戻った。携帯の、ブックマークの巡回でもするつもりだった。だけど、リクライニングを倒す間もなく、駐車場に、さらにもう一台車が入ってきた。どうやら、僕の直接の上司である山本主任の車のようだった。おかしい、と僕は思った。山本さんが、こんなに早く出勤してくるはずはない。近隣店舗の物流全般をみている山本さんと、その部下で宅配専従の僕は販売には携わってはない。常駐しているのはたしかにこの店だが、ここには間借りをしている形になっているだけだ。だから、売り上げが足りなかろうと、繁忙期の真っ最中であろうと、山本さんと僕は、店内のスケジュールとはあまり関係がない。物流部門には、また販売店とは別なペースがある。

 だけど車から降りてきた横幅の広い輪郭は、やはり山本主任だった。「おはようございます」と、僕は自分の車のドアを半分ほどあけ、少し身を乗り出して上司に声をかけた。「おはよう」と、山本主任は眠そうに僕に挨拶を返した。

「どうしたんですか? こんなに早く」僕は訊いてみたが、山本さんは大儀そうに手を振り、店内に入ってしまった。どういうわけだ? と僕が思っていると、彼はすぐにまた表に出てきた。両手には、それぞれバケツとホースを持っている。山本さんは、どうやら自分の車を洗うらしい……。朝が近づいているとはいえ、この季節はまだ外は薄暗い。それでも山本さんは大真面目だった。

 しかたがないので、僕は山本主任の洗車を手伝った。ときどきは店内に戻り、くわえ煙草でPCのキーを叩いている支店長にお茶を淹れてやったりした。

 二台の車が相次いでやって来たのは、それから間もなくのことだった。

 この二台は、若い営業コンビの小川と高橋だった。二人は僕と主任に挨拶をすると、店内に入っていた。僕はもう、これがどういうことなのか訊かなかった。ただ、やはり気にはなった。僕の知らないところで、何か取り決めがあったのかも知れない。そう思うと不安にもなった。

 事務所を覗いてみると、小川と高橋は額を寄せ合ってミーティングをしている。いつもなら、朝礼の後、九時過ぎ頃にやっているようなことだ。時間はまだ午前六時を過ぎたばかりだ。二人は、僕が近づいたのを見て、口をそろえて言った。

「先輩には負けませんよ」

 どういうことだ? と、また僕は思う。僕は、たしかに彼らより二年ないし三年先輩だが社内での立場も違うし、職種も違う。二人は正社員の営業職で、僕は宅配専従の契約社員だ。そもそも張り合う土俵が違う。このとき、浅田支店長が、僕の方をちらっと見たのも意外だった。

 ほどなく、ベテラン営業の小松さんがやって来た。小松さんは、そのまま売場へ直行し、受注した商品の納品準備をしている様子だった。

 主婦パートで店頭販売員の天野さんがやって来たときは、今度こそ僕は本当に驚いた。不安はますます増大した。それに、ご主人や子供の世話はいいのだろうか? だけど僕がそう訊ねる前に、天野さんが口を開いた。

「君だけに、いい恰好はさせないわよ」

 天野さんは売場の掃除を始めた。

 僕はようやく気付いた。

 やはりパート販売員の吉岡恵ちゃんまでが、この異常現象に仲間入りしてこようとは思わなかったが、それでも僕の予想の範囲内だった。

「早いね」と僕は彼女に声をかけたが、彼女は、もうすでに車が何台も入っているのを、意外そうに、そして残念そうにみつめるだけだった。

 この調子だと、やがてもう一人の主婦パートである三木さんもやってくるだろう。だからといって、それは僕の責任だろうか?

 このところの朝の一番出社は決まって僕だ。僕は、(たぶん)ちょっと特殊な時間割で生活しているので、これは当たり前のことだった。だが、それは僕の知らない間に皆の対抗心に火をつけてしまっていたらしい。そういえば、これまでにもその兆候はあった。今朝はそれがはっきりと表面にあらわれたのだ。

 まだ外は薄暗い。山本主任は、まだ自家用車を洗っている。さっきまでは洗車後のワックスをかけていたが、今は車内をせっせと拭き上げている。そのすぐそばで、小松さんが店の駐車スペース―来客用と従業員用を兼ねている―を丁寧に掃いている。他の皆も店内で仕事をしたり、やはり仕事に関係のあるおしゃべりをしたり、なにかしらごそごそやっている。僕はしばらくの間、早朝出勤と、朝の自由時間を諦めようと思う。

 

 

 

   三、一枚の絵

 

 売場に絵を飾る。最近、仏壇の売り上げが少ない。それで僕の仕事が少ない。

 僕の仕事は仏壇の宅配だ。外回りの営業や、店頭員の販売した仏壇を、運搬・納品するのが僕の仕事だ。仏壇の販売基数が少ないと、当然、僕の仕事は暇になる。

 そんなときには、気まぐれに店の仕事を手伝ったりもする。

 今日の午後のこと、浅田支店長が店内のディスプレイをいきなり始めだした。誰かの思いつきで突然残業が始まるなんてことは、この会社ではごくありふれた光景だ。浅田さんは、腕を組んで店内を歩き回る。しきりにぶつぶつと何か独り言を呟いている。僕にも声がかかる。

「君、時間あるみたいだから、ちょっと手伝ってよ」

 社内の指示系統からいえば、少し斜め上からではあるが、僕はあっさりと請け負い、支店長に指示されるまま買い出しに飛び出す。

 近所のホーム・センターで、僕は観葉植物を物色し、ガラス細工の置物を選び、ついでに予備の蛍光灯を数本と一枚の小さな額縁入りの絵を買う。

 この絵を売場の壁に飾ったときの皆の反応が面白い。

 支店長は、これを鷹揚に眺めながら「こういうのが、君の趣味?」と、僕に訊いてくる。

「ええ、そうです。描き手の意図がはっきり出過ぎていて少し俗っぽいですが、まあ分かりやすくもありますし、全体としては良い雰囲気が醸し出されています」と、僕は説明する。

「そうか。君がそう言うなら、これはこのままにしておこう」

 しかし支店長は、この絵を見るたびに、なぜかしきりにため息をつく。

 主婦パートの三木さんは、この絵をまじまじと見つめて何か言いたそうに唇を動かしかけたが、何も言わなかった。それ以後、彼女はつとめて、この絵を視界から外そうと努力している様子だ。

 営業活動から帰ってきた小川と高橋は、いきなりこの絵を凝視し、しばし後、「いや、まいったなあ」と口をそろえて感想を漏らした。「どういう意味?」と僕は訊いてみたが、「いや、なぜって……」と言いつつ口ごもる。

「そうかい。それならもっとこんな絵を持ってきてやる」と僕は試しに言ってみた。

 皆は僕に向かって、「いや、それは……」とか、「勘弁……」だとか、はっきりしない口調で僕に訴える。僕に向かって手を振ったり、首を振ったり、中には両手を合わせている人もいる。

 それで結局、売場には一枚だけ僕の選んだ絵が飾ってある。

 

 

 

   四、白い子猫

 

 今朝はちょっと変わったことがあった。僕は、ことを好まない。なるべくなら平穏に毎日が過ぎて欲しいタイプだ。だけど、いつもそういうわけにはいかないらしい。朝礼前の日課として、毎朝僕たちは店内及びその周辺の掃除をする。どういうわけだかは分からないが、うちの会社は掃除にやたらと熱を入れる方針で、毎朝、たっぷり三十分は掃除に時間をかける。

 僕はそのとき植え込みの中のごみを拾っていた。そこに小さな白い猫がいた。野良のようだが、比較的きれいで元気だった。そして、人懐っこかった。

「おい、猫だぞ」と僕が言うと、店舗の玄関に水をまいて、デッキブラシをかけていた高橋がやってきた。

「ああ、猫ですね」

「うん。猫だ」

 僕は猫を抱き上げた。思った以上に軽くて、湿った土の匂いがした。僕は子猫を自分の肩に乗せてみた。子猫はじっと、僕の襟首のあたりにしがみついている。

 窓ガラスを拭いていた小川が、こちらを見て「襟巻のようだ」と、僕と子猫を指差した。僕は少し得意になって、そのまま辺りを練り歩いた。僕の上司の山本主任が、「ほほう」と感想を漏らした。子猫は、僕の両肩の上に手足を伸ばし眠っているようにじっとしていた。

 僕は、さらにそれを皆に見せてまわった。台所周りを掃除していた吉岡さんは「あら、かわいい」と言った。トイレ掃除の係の、支店長の浅田さんは、何も言わなかったが、うらやましそうに僕を見た。ベテラン営業の小松さんは、このとき掃除機をかけていたが、子猫にさわろうとしたので、僕は「だめです」と言ってやった。

 だけど、そんな気分も長くは続かなかった。何が気に障ったのか、子猫は不意に爪を立てて僕の耳の後ろをひっかいた。がりっと嫌な音がした。思わずそこに手をやると、今度はその手の甲に猫の爪が食い込んだ。そして、それと同時に子猫は、僕の首筋に噛みついてきた。それで、僕もちょっと本気になった。いや、最初のうちは、いたずらをした子猫を軽くたしなめるくらいのつもりだった。だけど子猫は、ますますむきになって僕の首の周りで暴れだす。いつの間にか、僕と子猫は真剣に格闘していた。

 やがて僕は、その小さくて白い塊をやっとの思いで押さえつけた。子猫はぐったりと動かない。皆、驚いて僕を見つめている。

 そしてこれから一日の仕事が始まる。

 

 

 

   五、楽しい宴会

 

 支店長の浅田さんが転勤することになった。十一月下旬という中途半端な時期だが、うちの会社ではこんなことは珍しくない。それまで一線で業績を上げていた社員があっさりと退職してしまったり、とにかく頻繁に顔ぶれが変わる。僕は物流部門の従業員としてこの店に出勤するようになって、もう三年経つが、これは専従職の契約社員としてであって、やや例外に属する。

 ともあれ、例によって月並みな宴席が設けられる。

 場所は、店から最寄りの駅近くに位置する居酒屋チェーンの一室で、そこで今、支店長と僕の上司である山本さんの二人によって、非常に説教くさい宴会となりつつある。

 二人が並んで座り、その正面に若手の不振営業マンである小川と高橋が座っていたため、仕方のない成り行きだとは言える。二人とも二十歳代前半の、それもそろって人の好い、およそ営業には向かないような青年だった。彼らはおとなしく年長者二人の話しを聞いていた。

 浅田支店長と山本主任は五十歳代半ばの、苦労をしているだけあって、やや癖のあるオヤジたちだった。二人は得意げに、全員に聞えよがしの説教をしている。

 僕は隅っこの席で、主婦パートの三木さんと適当に言葉を交わしていた。反対の端では、副店長格のベテラン外商小松さんと吉岡恵ちゃんと、もう一人の主婦パートである天野さんが、やはり何かのことで盛り上がっていた。この五人は強いてそうしていたとも言える。

 しかしついには、その場にいた全員が、オヤジ二人の説教に巻き込まれることになった。張り切っている二人を除いて、その場に疲労感が濃く漂った。

 やがて、どういう弾みでか全員が「自分の秘密」とやらを発表しなければいけないはめにまでなった。なんでも、自分が隠しておきたい「言いにくいこと」を皆の前で口にすることに意味があるのだそうだ。

 酒の影響もあるとは思うが、それにしても、営業の体質の強い会社はこれだからよくない。

 最初の発表者は高橋だった。彼は、その場に起立し、なんとも奇妙なことを言い出した。

「今まで黙ってましたが、私はじつは日本人ではありません」

 皆が動きを止め、高橋を見上げた。

「私はバイキングの直系の子孫であり……」もちろん皆は首をかしげる。「そして、騎馬民族の血も濃厚に受け継いでます」

 一瞬、場が静まる。

「いや……、何がなんだか」と、かろうじて僕が発言する。

 やや間をおいて、「つまり、セルフ・アイデンティティってことだろ」と、小松さん。

「えっと、セルフなんとかっていうのはよく分かりませんが、とにかく私の言ってることは事実です」

 どうにも腑に落ちない顔つきをしている皆を尻目に、彼は五号徳利をラッパ吞みして豪快に笑った。たしかに、今までとは顔つきも雰囲気もがらりと変わっている。

「では、私も本当のことを言いますが、」続いて小川が立ち上がった。「私は副業で某探偵社に勤めています」

「いや、君! うちは副業は禁止されてるはずだが」と、浅田支店長が詰問口調になる。

「もちろん知ってますけど、ただ、まあ、こういう場ではありますし……、こういうのも一興ではないですか」そして小川は、この場にいる全員の生年月日、生い立ち、略歴からその人だけしか知らないようなエピソードまで、おそらく思いつくまであろう、口にし始めた。「ですからね、店長、私、店長のこともいろいろ……」

「いや、もういいい。もういい!」浅田さんは必死にさえぎる。

 しかし皆の視線はすでに天野さんの方に向かっている。

「天野さん、その……、ダンサーっていったい……」誰かが訊ねるでもなく呟くように言った。

 天野さんは開き直ったように、「ええ、そう。私、こう見えても、昔はけっこう人気あったのよ」と言い放った。「あちこちの劇場にも行ったわね。小川君が知ってるとは思わなかったけど」

 そして彼女は、青春の思い出だと言って、二十年以上も昔の彼女自身のヌード・グラビアをハンドバッグから取り出して、皆に見せてくれた。たしかに面影があった。五十一歳、主婦、天野美恵子の意外といえば、あまりに意外な過去だった。

「しようがねえな」小松さんがワイシャツのボタンを外し始めた。「俺も、皆に本当の俺の姿を知ってもらうときがきたようだな」

 小松さんは、上半身裸になってしまうと、くるりと皆に背を向けた。そこには目の覚めるような刺青が彫り込んであった。小松さんは四十歳前後の、細身で紳士的な物腰の人なだけに、その普段とのギャップはあまりに激しかった。「ま、昔のいたずらだけどよ」そう言って、小松さんは頬をゆがめて渋く笑った。そんな笑い方をする小松さんを、これまで誰も見たことがなかった。

「次は私ね」吉岡さんが立ち上がった。吉岡恵ちゃんは美人とは言えないにせよ、この店では唯一の若い女性だ。「私ね、こう見えても本当は十六歳なの」そう言って彼女は原付バイクの免許証を差し出した。皆が覗き込んだ。たしかに、その生年月日によると、どう計算してみても十六歳にしかならない。

「君、ここにきたときは二十三歳だって、履歴書にもたしか……」浅田支店長が絶句した。「ごめんなさい。嘘ついてて。でも私、働きたかったの。会社には黙っててね」彼女はえくぼを浮かべてかわいらしく笑った。

 ここに至ってようやく僕も決心を固めた。三木さんを見ると、彼女はじっと僕を見つめている。そして小さくうなずいた。僕は独身で今年で二十七歳になる。三木さんは三十九歳のパートの主婦だ。中学生の娘もいる。僕は、三木さんの傍に寄り添い、その肩を抱いた。彼女は黙ったまま僕を見上げた。

 そして僕たちは濃厚なキスを交わした。「私たち、こういう関係だったんです」あぜんとしている皆を尻目に三木さんが言った。

「さあ、お次は誰ですかね」と、僕はわざとらしく言った。「楽しみだわ」と吉岡恵ちゃんが言った。皆、浅田さんと山本さんを好奇心に満ちた目で見つめていた。

「ええ、ちょっと、私は……」と浅田支店長が言った。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」と山本主任が言った。

「では、待ちましょう」皆を代表して小松さんが言った。そして僕たちは、もはや会場の置物になった二人を置き去りに、楽しい夜の宴へと突入した。

 

 

 

   六、信長を読む

 

 休日。

 休日は退屈だ。もっとも、僕は人にはこう言う。「自分の時間が大切だ」と。

 そう言わねば、何か自分がつまらない人生を送っているような気がして、よくない。だけどやっぱり退屈だ。

 ベッドに寝転んで、ある評論家による信長論を読む。これは、会社の後輩の高橋と小川から薦められた。彼ら二人は歴史物が好きらしく、よく二人で何か読んだり話したりしている。僕にしてみると、退屈だからこんな読書をするわけだが、しばらくの間、退屈を忘れる。

 感想はといえば、最近の小説にはない大袈裟なところが、けっこう面白い。最近の小説家ときたら、男と女がくっついただの別れただの、そんなことばかり書いていて面白くない。この本には、そんなちまちましたことは少しも書かれていない。こうでなくちゃいけない。

 ところが、これを薦めてくれた二人は、「これがビジネスマンとして勉強になる」などと言う。こんな面白い本を薦めてくれたのはありがたいが、「勉強になる」とは、いったいどういうことだ? たとえば僕は、信長が父親の葬儀の場で、その位牌に抹香を投げつけるところが好きだ。理由はよく分からないが、男の子ならありそうなことのように思う。他に、比叡山の焼き討ちや、一向一揆の弾圧も、事実としてみるなら残酷の一語につきるけど、物語として考えると、すごい。嘘でもこんなことはなかなか書けない。

 僕がこう言うと、小川も高橋も面白いと言う。だけど二人とも、僕の言うことを半分冗談だと思っている。

 

 

 

   七、新任の支店長

 

 新任の岸田支店長は無口な人だ。この人が赴任してきて、もう一週間近く経つが、僕はこの人がしゃべってるところをあまり見たことがない。もっとも、僕は店にいることよりも、宅配のために外に出ていることが多いのだが、それにしても、あまりにしゃべらなさすぎる。岸田さんは、年齢は四十歳代前半で顔の表情はあまりない。店の人たちは、岸田さんのことを「暗い人だ」と評している。小松さんは、「まあ、でも必要最低限のことはちゃんと話すからいいじゃないか」と言う。岸田支店長と小松さんは世代が近くて社内でのつきあいも古いらしい。小松さんがそう言うからには、悪い人でもないのだろう。

 唯一、岸田さんを嫌っているのが、僕の上司の山本主任である。山本さんが言うには、岸田さんは「威張っている」らしい。僕から見ると、岸田さんはちょっと機械のようにも見える。

 その岸田さんの特技が霊視であり、趣味がヨガだと聞いても、店のメンバーはもう誰も驚かない。たとえば岸田さんは、その特技をいきなりこんなふうに始める。

「三木さん」

「はい。なんでしょうか? 支店長」主婦パートの三木さんは快活に返事をする。岸田さんは妙に据わった目で、こう言う。

「白髪で、長髪のおじいさんに心当たりはありませんか?」

「いえ、どういうことでしょうか」

 三木さんはまっすぐに支店長を見る。それでも自信たっぷりに支店長は言う。「君の肩越しに、たしかに見えるんだが」

「はあ?」

 岸田支店長は黙り込んでしまう。

 そんなやり取りの後、ためしに僕も訊いてみた。「僕の後ろにも誰か見えますか?」岸田さんは、しばらくの間、目を細めて僕の後ろの空間を見据えていた。やがて何かを感知したらしく、彼は口を開いた。

「見えるよ」

「では、その特徴をおっしゃって下さい。僕、それを絵にしてみますから」

 僕はコピー機のそばにストックされたロス紙を用意し、岸田さんを促した。

 岸田さんは僕に説明を始めた。ときどき彼は、その描きかけの絵を覗き込んでは修正を要求した。僕の手によって、描き上げられつつあるその似顔絵は、僕の心に動揺を誘った。いや、まさにその絵が仕上がったとき、僕は内心愕然としていた。それは紛れもなく五年前に亡くなった僕の祖父の顔だった。「どう?」と、岸田支店長は得意気に鼻をうごめかした。

「いや、ちょっと僕には分かりませんね、これが誰だか」と僕は応えた。岸田さんは、なんだかがっかりしていたようだった。

 後でこっそり三木さんに訊いてみたところ、「白髪で長髪のおじいさん」とは、ずいぶん前に亡くなった彼女の大叔父だったとのことだ。「ちょっとびっくりしたけど、とぼけてみせたの」と三木さんは言った。また、吉岡さんも、岸田さんに霊視してもらったことがあり、たしかに覚えのある顔を指摘されたと言う。

「それで、どう応えたの?」と、僕は彼女に訊いてみた。「全然知らないって言ったわ」と恵ちゃんはすまし顔で言った。

 それからというもの、僕たちは折をみては、新任の支店長に霊視してもらい(見える顔はときによって違うようだ)、内心どっきりしながら、「いや、知りませんねえ」などと応えて遊ぶ。

 

 

 

   八、由香とスナフキン

 

 美術館に行く。

 美術館など大学時代に一度、デートに利用したことがあるくらいで、もう何年もご無沙汰していたけど、今回、フィンランド・ファンタジー展が催されるとのことで、足を運ぶ。一人だと、ちょっと格好がつかないような気がしたので、昔の彼女に付き合ってもらう。彼女の名前は由香という。

 由香は一年前のある日、「別れましょう」と僕に告げた。僕にしてみれば、いきなりだった。「別に、誰か他の人を好きになったわけじゃないんだけど」と由香は言う。なお悪い。なんのフォローにもなっていない。僕は言葉を重ねた。別れたくはなかった。しかし彼女の気持ちは動かなかった。やがて、どういう感情の昂ぶりなのか由香は泣き出した。泣きたいのはこっちの方だ! と一瞬、突っ込みたくなったが、さすがにそれはやめておいた。

 それ以後も、僕たちはときどきこうやって会う。

 僕の一番の目的は、トーベ・ヤンソン描くムーミン・シリーズの原画だった。

 ひととおり見終わった後、僕たちは表の芝生で休憩することにした。

「やっぱり、あなた変わってるわよ」と由香は言う。「いい年してさ」

「由香だっていい年だろ」

「それは、そうだけど。でもムーミンなんて興味ないわ」

「でも、さっきスナフキンのTシャツ買ったじゃないか」

「スナフキンは好きなのよ」

「そういえば、そうだったよな。それで俺、古いギターなんか持ち出したりして」

「私、無理に頼んだわけじゃないし」

「そうだったか? だけど聴きたいって言い出したのは由香の方だったろ? たしか」

「それはそうだけど。結局、あなたの方が入れ込んでたじゃない。違う?」

「そうだったかな。でも、ほら俺がいっときパイプで刻み煙草やってたのも、由香のせいだし」

「たしかに、あなたの誕生日にパイプをプレゼントしたのは私だけど、まさか、それがほんとに習慣になるなんて思わなかったし。あの頃、私、煙草はやめてって言ってたと思う」

「でも普通、パイプなんか誕生日のプレゼントにするか?」

「ちょっとした、しゃれだったのよ」

「そりゃ、しゃれなんていうもんじゃない」

「そうかな。ねえ、まだギター弾いてる?」僕たちの会話はこんなふうに取りとめもなく続く。あたりさわりのない話題が多い。

 由香は看護師で、僕と同じで今年で二十七歳になる。僕は由香と、本当にしたい話はしない。

 

 

 

   九、口論

 

 岸田支店長と山本主任が事務所で口喧嘩を始める。口火を切ったのは、普段は無口な岸田さんの方だった。僕はそのとき横で一部始終を見ていたが、その理由はほんの些細なことだった。些細過ぎて微妙だった。

 それまで二人は普通に会話をしていたように見えた。それが突然、岸田支店長が山本主任に向かって声を荒げた。

「あんた、あんたって、おたくはいったい、私のことをなんだと思ってるんだ」

 山本さんの方でも、内心すでに戦闘準備ができていたようで、間髪を入れず切り返した。

「そうは言うけど、あんたこそ、おたく、おたくって私をいったいなんだと思ってるんだ」

「おたくのことを、おたくって言って何が悪い」

「悪いも何も、気に食わないものは気に食わない」

「私の方だって、なぜ私がおたくなんかに、あんた呼ばわりをされにゃならん」

「あんたのことを、あんたって言って何が悪い」

「悪いも何も、だいたいが私のことをあんただなんて、人を馬鹿にしている」

「馬鹿にしているのは、そっちの方じゃないか。私がいったい何をした。私はただ、あんたのことをあんたって言ってるだけじゃないか」

「それがいかんって言ってる。どうしておたくは、私のことをあんただなんて気安く呼ぶんだ」

「気安くだって? 冗談じゃない。こっちの方こそ、あんたなんかから、おたくだなんて言われたくはない」

「おたくのことを、おたくって言ってるだけじゃないか」

 二人はだんだん激昂してきた。僕は頭が混乱してきた。こんなやり取りを、どうやって止めればいいんだろうか。

「おい、お前!」と、山本さんは不意に僕に言った。「お前はさっきから黙っているが、お前は一体どっちの味方なんだ」

 冗談じゃない。僕を、巻き込むな。だが二人は真剣な目つきで僕を見つめている。困ったことに、その場には他には誰もいなかった。

「いや、その……、横で聞いててもよく分からないんですが、いったい何が原因なんでしょうか?」

「そんなの決まってるじゃないか!」山本さんがますます声を張り上げた。「こいつが俺のことを、おたく呼ばわりするんだ!」

「違う! そうじゃない。こいつが俺のことをあんた呼ばわりするからだ」岸田さんもますます興奮して僕に訴えた。返答に窮するなんて凝った言い方は、こんなときに使うものだと僕は初めて思った。

 僕が黙っているのを見て二人は再び向き直った。

「きさま! 俺のことをこいつ呼ばわりしやがって、一体、何様のつもりだ」と岸田さんが言った。山本主任の方が、岸田支店長より十歳くらい年上のはずだが、年齢差などすでにかなぐり捨てていた。山本さんもすかさず言い返した。

「てめえ! 俺のことをきさま呼ばわりしやがって、何様のつもりだ」

「てめえ、とは何だ! てめえとは。きさまからてめえなどと呼ばれる筋合いはねえ!」

「何がきさまか! てめえから、きさま呼ばわりされる覚えはねえ!」

「きさまのことを、きさまと言って何が悪い。文句があるか」

「何を偉そうに。何が、文句があるか、だ。てめえはてめえだよ。だいたいてめえ、俺のことをきさまだなんて言いやがって。後悔するなよ」

「何が、後悔するなよ、だ。大物振りやがって」

 僕はもう聞いてはいなかった。いいかげん目の回ってきた僕は、さりげなくその場を離れることにした。我を忘れているらしい二人は、僕などもう眼中にないようだったが、それでも逃げるに越したことはない。僕は売場へと向かった。そこからだと、少なくとも二人の怒声は聞こえてこない。

 売場のレジには吉岡さんが立っていた。「いやあ、まいった。まいった」と僕は言った。「あの二人が喧嘩を始めちゃって」

「またなの?」と吉岡さんは言った。「またって?」と僕は訊いた。「この間もすごかったんだから。なんか、よく分からないんだけど、おたくとか、あんたとか言い合ってて」

 僕は頭を抱えた。しかし吉岡恵ちゃんは「すぐ収まるわよ」と言った。「でも、今度のは、すぐ収まるって雰囲気じゃなかったけど」と僕は言った。

 そして僕たちはおしゃべりを始めた。どうせ客はめったに来ない。

 十分ほど経過した。外回りに出ていた小松さんが、事務所の方からなんとも言えない顔つきでやってきた。「いやあ、まいった。まいった」

「えっ、まだやってるんですか?」と僕は訊いた。

「まだ、あんたとかおたくとか言い合ってるんですか?」と吉岡さんが言った。

「いや、そんなふうじゃなかったかな。俺、裏口から直接、事務所に帰店報告に行ったんだけど、山本さんが口から火を噴いててさあ」

「ああ、あの人は怒り出すと激しいから」と僕は言った。僕は山本さんとはここ三年ほどの付き合いだ。だけど、小松さんは言った。「いや、そうじゃなくて、本当にさ、口から火を吹いててさ。支店長に対して、てめえにこんなことができるかって」僕は、山本主任がそんな奇術のようなことができるなんて、今まで知らなかった。

「それで、どうなったんですか?」と、今度は吉岡さんが訊いた。

「そしたら今度は支店長が、山本さんに対して、きさまにこんなことができるかって、包丁を喉に出し入れしてて。支店長は、俺の三年先輩だけど、あの人があんなことができるなんて知らなかったよ。しかし二人とも、妙なことで張り合っちゃって、あれ、どうやって止めたらいいのかなあ」

 しかし吉岡恵ちゃんは目を輝かせた。僕は好奇心で胸がうずいた。

「さあ、見物に行きましょう」僕と彼女は同時に言った。

 

 

 

   十、電話営業

 

 営業マンたちが渉外活動に出ると、店は急に静かになる。商店街にある大型店なら、客が向こうからやってくることも多いらしいが、この店はそうではない。最近の景気の影響もあるけど、郊外の小型店なのでフリーの来客は少ない。それで昼間、店に残る従業員は少ない。たいていは、まず支店長がいる。前任の浅田さんも、現任の岸田さんも、もとは営業で認められて今のポジションにいる。支店長になると、もう外回りにはあまり出ない。店に残り、営業マンたちの報告を待つ。

 あと、もう一人か二人、女性の販売員が売場に立つ。主婦パートの天野さんと三木さんと、フル・パートの吉岡さんだ。この三人がローテーションを組んで休みを調整している。

 今日は、岸田支店長と三木さんの二人が店にいて、そして、山本主任は公休なので、配送の運行管理代理として僕がいる。

 僕は店の仕事はあまりしない。きまぐれに手伝ってみることもあるが、仏壇の宅配、それに伴う車両の運行管理と、エリア内の数店舗ほどの各支店とのスケジュール調整が僕の仕事だ。

 もっとも、今日はそれもあまりしない。なにしろ仕事そのものが少ない。

 朝、三人の営業マンが出て行ってから、岸田さんは三木さんに「電話」をするように指示していた。その電話とは、ようするに店のテリトリー内の一般家庭に、手当たり次第に電話をかけ、もしそれで販売見込みが出ればしめたものという作業だった。

「漠然とした仕事だわねえ」と三木さんはこぼしながら電話帳を広げた。

 僕はそれを手伝うことにした。

 一軒目。いきなり「もしもし」と不機嫌そうなだみ声が返ってきたので、僕は反射的に電話を切った。

 二軒目。「もしもし」と迷惑そうな女性の声がした。僕が「○○仏壇店ですが」と言うと、ガチャンと受話器を置く音がした。

 三軒目。「もしもし」と真面目そうな若い男性の声がした。僕が「○○仏壇店ですが」と言うと、「いらん、いらん」とそっけなく言われたので、「そうですか、すいません」と頭を下げて、僕は電話を切った。

 四軒目。「……」僕が「○○仏壇店ですが」と言うと、ややあって「もしもし」と、妙にあどけない声が聞こえてくる。僕が「もしもし」と返すと、その小さな声は、またもや「もしもし」と言う。きゃっ、きゃっとかわいい含み笑いのような声も聞こえてくる。僕がもう一度「もしもし」と呼びかけると、電話の向こうで「何してるの!」と若い女性の声が聞こえ、そして電話は切れた。

 なんだか疲れてきたので、僕は電話をかけるのを中断して三木さんに話しかけた。

「どうですか? そちらは」

「さっぱりよ。反応悪いし。これで見込みが取れるなら、ほとんど奇跡だわ」

「まあ、百軒にかけてまともに話を聞いてくれるのは、一軒あるかないかってところですか」以前、そんなことを聞いた気がする。

「そうでしょうねえ」と、さも納得したような顔をして三木さんは言う。「ところで支店長は?」

「さあ。そういえば、さっきから見かけませんねえ」

「人に電話をさせておいて、自分はどこへ行ったのかしら」

 岸田支店長の姿は店内のどこにも見当たらなかった。車は置いてあったので、遠くに出ているわけではないようだったが、店周辺にも彼の姿は見えなかった。

「でも、電話はしなくっちゃね」三木さんはうんざりとしたように言った。

「こうしませんか?」僕は、ふと思いついて提案した。「電話をかけて、出た相手が男か女か、それを賭けるんです。いくら賭けるかはその度にお互いで決めて、留守だったらドローです。どうですか?」

「ふうん。面白そうね、それ」

 そして僕たちは、午前中いっぱいギャンブルを楽しんだ。「男女」の組み合わせ以外に、大雑把な年齢層、また、在宅か留守かも、結局は賭けの対象になった。僕は一番良いときで千五百円ほど儲けたが、最終的には二百円の負けになった。売り上げの見込みは出なかったけど、僕たちは満足だった。

「仕事は真剣に楽しみなさい」

 つい先日、岸田支店長は朝礼時にそんな訓示をしていた。たぶん社長の受け売りだが、たしかにそうなのかも知れない。真剣な楽しみも、たまには良い。

 

 

 

   十一、禁煙週間

 

 店の構成員である岸田支店長とベテラン営業マンの小松さん、若手営業の小川と高橋、物流担当の山本主任とその宅配要員の僕。以上六名の男性陣は、皆、喫煙者だ。それも一日ひと箱ですむ人は一人もいない。今どき珍しく、ヘビースモーカーばかりがそろったものだと思う。

 女性三名、主婦パートの天野さんと三木さん、それと吉岡恵ちゃんは煙草を吸わない。

「店内禁煙」

 その日の店内会議の議題がこれだった。提案者は岸田支店長である。岸田さんはまず、煙草の害悪について一席ぶった。まあ世間の風潮もあることだし、これには僕も反論できない。それにたしかに、煙草には百害あって一利もない。そもそも、煙草の煙や臭いそのものを嫌がる人も多い。しかし喫煙所も設けずに、店内および店敷地内の全面禁煙はちょっといただけない。この人は真面目なだけあって、ときどきこういう極端なことを言い出す。

 女性は三人とも大賛成の意を表明した。

 僕は周囲の出方を待った。

 しかし期待していた山本主任が、大声で「俺も賛成だ」と言い出したのは意外だった。この人こそ、喫煙派の最右翼だと僕は思っていたのだが。山本さんは言う。「俺も、常々考えてはいたが、煙草はたしかに体に悪い。まわりにも迷惑だ。俺は今まで何度も禁煙を試みては失敗してきた。いっそのこと、法律で煙草を禁止してくれないかと思ったことさえある。今日の岸田さんの提案は良いきっかけだ」

 岸田支店長は、思わぬところで強力な味方が出現したことに力を得たようだ。彼は、小松さんを見た。「君の意見は?」

「いや、皆さんがそうおっしゃるなら、私も異存はありません」

 ところで小川と高橋は、すでに岸田さんの根回しがすんでいたものらしい。しきりに、うんうんと頷いている。こうなると僕も言うしかなかった。言い出すと、つい調子に乗ってしまう。

「本来、煙草というものは、国家が国民に売りつける毒、と言ってもいいでしょう。そんな毒で体をむしばんでまで国家に奉仕するというのも、考えてみればおかしな話ですね。いいでしょう。僕はこれを機会に禁煙を宣言します」

「まあ素敵、男らしいわ」と吉岡さんが言った。僕は、しまったと思った。しかし、天野さんも三木さんも期待をこめた目つきで僕を見た。これを見て、山本主任があわてて言った。

「いや、もちろん私もそうするつもりだ」

「それは、本当ですの?」と天野さんが妙に真面目な顔で訊ねる。「そうとも、断固禁煙してやる」山本主任は固い決意を口にした。「素敵だわ」と、また吉岡さんが言った。

 そして男性陣六名は、皆、それぞれに禁煙を誓った。あまつさえ、皆その場で、持っていた煙草を水道の水に浸して捨てた。女性陣はその度に嬌声を上げた。この結果は、店メンバー全員に深い満足感をもたらした。

 やがて店内をすさんだ雰囲気が支配した。

 山本主任は僕のちょっとしたミスに目くじらを立てるようになった。営業三人の売上げは落ちた。岸田支店長の霊感は飛躍的に向上した。彼によると「急に霊が見えすぎるようになった。霊の声も聞こえすぎる」らしい。

 こんないたずらもあった。誰の仕業かは分からないが、僕の机の引き出しにマイルドセブンと百円ライターが入れてあった。僕は人気のないときを見計らって、それを小松さんの引き出しに放り込んだ。「禁煙宣言」より四日目の朝のことだった。

 それがその日の夕方、なぜか小川の営業カバンの中から発見された。告発者は吉岡恵ちゃんだった。

「あ、小川さん、それ……」

「いや、僕じゃない。僕は知らない」小川は赤い顔をして繰り返す。「本当に知らないんだ!」

 その場にいた男性全員が、なぜかうしろめたそうな顔をした。

「小川君、……見損なったわ」主婦パートの天野さんがふだんにない重々しい口調で独り言のようにつぶやいた。だが、男性陣は誰も小川のことを追求しなかった。山本主任が、妙に考え深げな顔つきで言った。

「まあ、天野さんも、そう言わないで。出来心ってこともある。なによりこの煙草はまだ封が切られていない」「本当に知らないんです!」と、また小川が訴えた。しかし山本主任は彼には耳を貸さずに、煙草とライターを事務所の神棚に置いた。これで、この一件は終了した。

 そんな事件から、さらに三日がすぎた。

 小松さんは一日中酔っぱらっている。飲酒も度を越すと、逆に体から酒の匂いがしなくなるということを僕は初めて知った。小川と高橋もいつもイラついている。かと思えば妙に落ち込む。会話がうまく通じないこともある。僕は薬屋と仲良くなった。精神安定剤や健康ドリンク、各種サプリメントなどが、今の僕の生活の必需品だ。山本主任は、口が寂しいと言ってはお菓子から手が離せなくなり、もとから太り気味だったのが、わずかの間にさらに太った。

 岸田支店長の霊感はとどまるところを知らないらしく、一日中、何かわけの分からない呪文を唱えている。これでは仕事が手につかないとこぼしているが、当たり前だ。

 神棚に置かれた煙草は、まだ封を切られずにそのままうっすらと埃を被っている。誰も、それを片付けようとはしない。

 

 

 

   十二、賞与について

 

 どういうわけか寝坊をして会社に遅れる。大急ぎで部屋を飛び出し、車中から携帯で遅れる旨を告げる。僕の直接の上司である山本主任は、他のことについてはどうあれ、仕事には慎重な人だ。彼は、たとえ事故が未然に防げた場合であっても、人の仕事の過程に問題があったりすると、やかましく詰めてくる。

 責任者としてもっともなことではあるが、ときにその論理は、若い僕からすると飛躍がすぎると思われることもある。客からのクレームはたしかに恐い。納品や運送を請け負っている各支店から信用を失うこともできる限り避けたい。だけど、そういつも客が性質の悪い連中だったり、他部署の人間がこちらの足をひっぱろうとしているわけでもないと思う。まあ、そんなことは、僕は主任に向かっては言わないが。

 その彼が、おだやかに言う。「あんまり焦って、車を飛ばし過ぎるなよ。客に謝って済むところが、交通事故でも起こした日には、そっちの方が大変だ」

 僕は上司の言葉に甘えて、のんびりと、むしろ普段よりもゆっくりと車を走らせた。

 一日の間、僕の仕事にはミスが多かった。

 浮ついた調子でやっているので仕方がない。

 しかしそれは、どこの支店でも同じだった。一日中トラブルが絶えなかったようである。

 僕のメインの仕事である宅配に関して言えば、道を何度も間違え、顧客宅に忘れ物をし、予定していた給油を忘れてあやうくガソリンを切らしかけたりもした。店サイドでも、販売担当者が客に納品時間を連絡するのを忘れていたり、納品すべき仏壇や仏具を用意し忘れていたり、はなはだしいのになると、ある営業マンなど、自分の客の納品日が今日であることを忘れていたにもかかわらず、どこの支店でも笑顔があふれていて、僕は一日楽しく仕事をした。

 夕方、仕事を終えて、僕が常駐する店に戻ってからも、そんな雰囲気に変わりはなかった。山本主任は、僕に「ご苦労さん」と言ってくれた。こんなことは、そうあるものではない。その山本さんは、見るからに値の張りそうな和菓子を幸せそうに頬張っていた。僕が、一日の仕事で使った住宅地図や工具類を片付けて、自分の机に戻って一服していると、主婦パートの天野さんが紅茶とケーキを出してくれた。

「今日はサービスがいいですね」と僕が言うと、天野さんは「他にもいろいろあるから遠慮しないでね」と優しく微笑んだ。そういえば営業の三人も、いつもよりずいぶん早く帰店していて、彼らは三人で談笑しながら、大振りに切り分けられたメロンを食べていた。その談笑の内容はというと、いつもの彼らに似合わぬ、ちょっときわどい、ようするに金のかかる遊びについての計画だったわけだが、天野さんもまた、今日は寛大な気分でいるらしく、それを聞きとがめようとはしなかった。

 岸田支店長は、皆から離れて一人で座り、口元をほころばせたままたまま目を半白にして瞑想していた。

 売場の方を覗いてみると、吉岡さんと三木さんが、来店客にサービスの限りをつくしていた。客である喪服姿のおばあさん三人組は、僕の見るところ、あまりの値引きと二人の店員の愛想の良さに戸惑い半分といったところだったが、それでもうれしさを隠しきれない様子で、完全に二人の売り子のテンションに巻き込まれていた。

 総じて皆うきうきと浮ついた気分に浸っていて、会話の端々に冗談が飛び交い、それがたとえきわめて下らないものであっても、僕たちは笑い転げた。

 そんな場所へ、なぜかいきなり営業部長が、彼の腹心のエリア長を引き連れて現れた。皆にとって全く不意の臨店だった。

 どうしたわけなのか二人は頬を赤く腫らし、あるいは髪の毛がぐしゃぐしゃに乱れていて、その背広のどこかしらが破れていた。 

 それはともかく、彼らの来訪は明らかに予期されてはいないことであった。皆は大急ぎで表情を締め直そうとして失敗し、岸田支店長は部長を出迎えようとして躓いて転んだ。営業部長は、そんな彼に向かって出迎えは無用だとばかりに片手を振り、そして、「明日に予定されていたボーナスは、全て現物で支給されることになりました。契約社員、パートの方への半期功労金も同様です」と、皆に爆弾のような言葉を投げつけた。

 そして言い終えるや否や、二人は呆気ににとられている皆を尻目に、こそこそと背をそむけ、挨拶もないまま務所の裏口から退出した。

 三十分が経過した。

 今、店には支店長と僕、吉岡恵ちゃんの三人だけが残っている。

 山本主任と小松さんは、しばし呆然とした後、自分を取り戻し、一台の車に同乗して部長とエリア長の追跡を始めたようだ。すぐに続いて天野さんと三木さんも店を飛び出して行った。追いかけて、どうするものかは僕には分からない。ただ、気持ちは痛いくらいに分かる。

 若い営業コンビの小川と高橋も連れ立って外出したが、この二人の目的は年長者四人とは違っていた。性格的におとなしく、また会社に強いことを言える立場でもない彼らは、しかし、もっと罰当たりなことを考えていた。二人は鉈やのこぎりと、可燃性の何か燃料を買い出しに出かけた。それでもって、支給された仏壇を腹いせに解体し、店の裏手で盛大にキャンプファイヤーをしようというのが、二人の計画だった。

 岸田支店長もまた、彼なりの計画を練り始めたようで、先ほどから熱心に仏壇のカタログをめくっている。ときおり、「どれがいいだろうか?」と僕に意見を求めてくる。

 吉岡恵ちゃんは、衝撃の事実を知った瞬間から、まだ立ち直れていない。頬を紅潮させ涙ぐみながら、夢と消え去った楽しかるべき明日のことを誰に聞かせるでもなく繰り返している。

「……に遊びに行って、……を彼に買ってあげて、…………」

 その姿はあまりに痛ましい。

 僕は電話帳を繰り、ネットで検索をかけながら、近場の主な古物商、リサイクルショップに電話をかけまくっている。この仕事は急がねばならない。必ずライバルが出現する。ことによると、仏壇の相場そのものが市場で下落するおそれさえある。僕は電話をかけながら、大真面目にそんなことを考え続ける。

 

 

 

   十三、賞与その後

 

 結局のところ、仏壇の現物支給はあまりに従業員の反発を招いたため、ボーナスは平常通り金銭で支払われることになった。しかし、その支給額は平均して例年の半分以下にとどまった。

 その際の組合からの報告はおおむね次のようなものだった。

 

『会社は、今、非常に厳しい状況下に置かれています。私たちはこのことをまず念頭に置かなければなりません。

 組合というものは、本来、会社と対立する存在ではなく、むしろ会社の事情を理解し、会社のために、つまりは会社で働く私たち自身のために積極的に活動すべきものです。

 今回、経営陣との話し合いによって、本来ならば現物支給であるところを、金銭支給の結果を頂きました。これは会社の温情と、来期に向けての私たちの活動に対する期待をこめた評価です。

 会社と協調し、明るい明日を創造するために頑張りましょう!』

 

「俺を組合の委員長にしろ!」山本主任が吠えた。「今の委員長は、専務の子飼いじゃないか。副委員長も、組合の役員連中のほとんどは出世主義者だ。偉くなりたがってるやつらに組合を任せてはおけない」

「そうです」小松さんが意気込んで応じた。「これから、まだまだ上に行く可能性のある人たちが組合をやっても、会社に追従するばかりです。そんなものは本当の組合じゃない。ここはひとつ、山本さんが立候補すべきです」

 山本主任は一瞬いやな顔をしたが、そんなことは気にもかけずに小松さんは続けて論じた。

「本来、組合と会社とは対立しあうべきものなのです。そうでないと、本当の我々の意見は骨抜きにされてしまいます。もし協調を、というのなら、それは相互の意見をぶつけあった後に期待すべきものなのです」

「そ、そうだ」山本さんが口をはさむ。「その通りだ」

「それで、具体的にどうすればいいんでしょうか」と僕は訊いてみた。

「第二組合を作ろう」小松さんは言う。

「そうだ」と山本さんが賛同した。「だいたい、この会社は待遇が悪すぎる。おい、小川に高橋、お前たちは毎日何時頃に家に帰っている?」

「夜の九時半くらいです。日によっては、もっと遅くなります」二人は言いにくそうに応えた。

「そうだな。しかもそれで、残業手当はほとんど出ない。売り上げ次第では、休みなんてろくに取れない。そうだろ?」

「はい」

「俺たち営業は皆そうです」小松さんが付け加えた。「だからといって、売り上げが多くても、そうたいして手取りが増えるわけじゃない。はっきり言おう。俺たちは搾取されている」

「そうよ、そうよ。私だったら、この会社の男の人とは結婚できない」主婦パートの天野さんが言った。

「さくしゅ、ってなんですか?」と、吉岡さんが訊いた。

「搾取っていうのは、……ええと、つまり、企業が我々労働者の労働の成果を盗んでいくということだ。俺たちがいくら稼いでも、結局会社が儲かるだけで俺たちには還元されない。しかし、それでは本当に良い世の中は実現されない」小松さんはやたらと興奮していた。

「世の中……」僕は思わずそう言って絶句した。だけど、なんとなく面白そうに思えた。

「我々って言うと……、私も労働者なの?」と吉岡恵ちゃんが言った。

「当たり前じゃないか」小松さんが髪の毛をかきむしりながら言った。「ここにいる皆は、立派に労働者階級の一員なんだ。そうだろ? 岸田さん」

 岸田支店長はうろたえ気味に、「うむ」と応えた。

「そうか、俺たちは搾取されていたのか」小川が言った。

「なんだか、無性に腹が立ってきたな」高橋が言った。

「世の中が悪いんだ、世の中が」ふと思いついて僕は言った。

「そうだとも、今こそ、俺たちの怒りを役員連中に向けてぶつけるべきだ。そして、俺たちの労働を正当に評価させるべきだ」小松さんが言った。

「そうだ。その通りだ!」皆が口をそろえて言った。

「では、我々の団結を確認し、ますますの士気高揚のためシュプレヒコールを上げたいと思う」と、山本主任が言った。

 そして僕たちはシュプレヒコールを上げた。

 翌日―、もう誰もなにも言わない。いつもと変わりなく仕事をしている。

 

 

 

   十四、年末の行事

 

 業績不振のため、S支店やI支店では、今年は忘年会は自粛だという。他には、B支店のように吞みごとは遠慮して食事のみという店舗もある。

 もっとも例年通り宴会を決行する店舗もあるようだ。

 僕は、そんな難しい時期、忘年会の幹事をやることになった。僕が適任らしいことは自分でも認める。店のメンバーの中では、僕がもっとも忙しくはなくて責任も軽い、身軽に動ける立場でもある。

 だがなんとなく決まってしまったということが問題だった。

 数日前、岸田支店長は「今年は忘年会は中止だ」と宣言した。だが、そのシチュエーション自体がそもそも本当にそうなのかどうか、はっきりしないところがあった。いかにも岸田さんらしいともいえるのだが、皆はそれを、少なくとも正式な決定事項とは受け取ってはいなかった。

 その翌日だったか、二日後だったか、小松さんが僕に言った。

「やっぱり、忘年会はやった方がいいんじゃないだろうか。岸田さんはやらないって言ったけど、やはりなんといっても、一年のけじめだろ。それに最近、店全体の雰囲気が沈滞してるし、忘年会もやれないなんてことになったら、よけいに皆の気分が沈み込んでしまう」

 その場にいた三木さんが賛成した。

「そうねえ。たしかにそれが筋だわ。宴会が駄目っていうのなら、食事会でもいいじゃない。そういう場を設けた方がいいわよ」

「うん。皆の意見によってはそういうかたちでもいいな」小松さんが言った。

「分かりました。では、僕、奔走してみましょう」これで僕が幹事ということになった。少なくとも周りからはそうみなされるようになった。まあ、それでもいいやと僕はこの時点では思っていた。

「じゃあ、俺も皆に訊いてみよう」と、小松さんは言った。

 その日、外回りから帰ってきた若い営業二人をつかまえて僕は訊いてみた。

「やらない方がいいんじゃないですか」小川は僕に言う。「ほら、こんなときでしょう。売り上げの数字も上がってないし、他の支店だって、そりゃ忘年会をするとこもあるんでしょうけど、大半はやらないみたいだし」

 小川の相棒の高橋も言う。「やるにはやっても、後になっても、いろいろ言われてもうるさいし」

「いろいろってなんだよ」

「いろいろって、いろいろですよ。売り上げもないくせにどんちゃん騒ぎをすることは何事か、とか。いや、直接には言われなくても、感情論として面白くない思いをする人たちもいるかも知れませんし」

「いや、食事会にしようかっていう案もあるんだけど」

 しかし二人は、「うーん」と言ったきりで、はかばかしい応えは返ってこなかった。

 この二人は、飲み会そのものが嫌いなのだ。

 僕は、次に山本主任に訊いてみた。

「忘年会をやるか、やらないかだって? やるに決まってるじゃないか。岸田さんはあんなふうに言ったが、あれはたんなる言葉のあやだ」

「はあ」

 そうだったんだろうか? と僕は思った。

「だいたいな、忘年会もやらないなんて会社がどこにある。これじゃ、よっぽど業績が悪いと宣伝しているようなものじゃないか」

「はあ、そうですね。小松さんが持ちかけてきたんですが、やはり忘年会は一年のけじめだからって言ってました」

「そりゃ、そうだ。けじめはやっぱりつけないと」

「それで、もし宴会そのものが無理なら、せめて食事会のようなかたちでもとろうかって……」

「なに?」山本さんが即座に反応した。「遠慮しながら忘年会をやるんじゃ意味がない。やって当たり前のことじゃないか。そんな会なら俺は参加せんぞ」

 山本さんは、飲み会そのものが大好きなのだ。それとカラオケも。

 吉岡恵ちゃんは、「やるなら、やりましょう。まあ、どっちでもいいけど」と言った。だけどその顔には忘年会がしたいと書いてあった。

 天野さんは、「あなたに任せるわ」と言った。だけどその顔には、せっかく中止になったはずの話題をなぜこの人は蒸し返すのかしら、と書いてあった。

 僕は小松さんに、岸田支店長の意向はどうなのか訊いてみた。小松さんは僕にこう応えた。

「あの人は、やっぱりやりたくないみたいだよ。断固中止だとは言わないけど。俺もいろいろと話してみたんだけど、結局、宴会そのものが嫌いなんだろうなあ」

「でも山本さんはやる気ですよ。こうなったら有志だけでやることにしませんか?」

「そうなると、誰が来て、誰が来ないのか色分けすることになるから、それはまずいだろ。それに岸田さんがやっぱり支店長なわけだし」

「そうですね」僕は頭が痛くなった。「これはもう一度、皆がいるところで今年は忘年会をやるべきか、中止するべきか会議をする必要がありますね」これはもちろん冗談だった。

「まさか、今さらそんなことはできないだろう。どうやら俺の見たところ、やりたい人はもうすっかりその気になってるし、やりたくない人は口実をもうけて、逃げを打つことを考えてる」

 僕は結局、店の近くの焼肉屋に忘年会の予約をとった。もう年末も迫ってきてるし、説得やらなんやらで来年に繰り返すようなことになると、それはもう新年会になってしまう。二時間で一人あたり三千五百円。セット料理プラス飲み放題。定員は九名。結果がどうなるか僕は知らない。

〈了〉