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もう二度と帰らない音:Franz Hilbert

 ピアノを弾いている時、私の視線は白い壁をつたい、やがて空中に投げ出される。視界には鍵盤も楽譜もない。自身の手さえ映らない。視線は壁の染みに阻まれながらも、やがて確実に空中に身を投げ出すような形になる。

 勿論、楽譜を見なくても(あるいは手元を見なくても)弾けるくらいに習熟した曲に限られる現象であるが、このような状況になった時、私は「音だなぁ」という自覚を持つことができる。

「音に埋没する」とかいうこととは別だ。私自身が「音」を「制御」しているという感覚は失わない。「埋没」してしまえば、ただ無数の「音」に流されてしまうだけになる。

 子供の頃から「音」というものに敏感だった。車の音が嫌いだった、工事現場の騒音も、ゲームセンターの機械音も、何もかも嫌いだった。母親に聞いたところによると、赤ん坊の私は自動車に乗せただけでよく泣き、音のなるおもちゃであやすとさらに泣いたそうである。記憶にあるもので他に嫌いだった音は、お寺や仏間にある「鈴」(かね、とも言う)の音、オルゴール、巨大なスピーカーを持った我が家の黒いCDプレイヤー……挙げればキリのないほど嫌いな音で満ち溢れていた。

 確かに、工事現場の音やゲームセンターなどの音は、苦手とする人が多いだろう。しかし。二十歳を過ぎ、振り返ってみても何故嫌いだったのか上手く説明できないものも多い。だが、改めてよく考えてみると嫌いだった音には一つの共通点があるということがわかった。それは、自分で「制御」できない音だ。工事現場もゲームセンターもその存在を自力でどうにかできるものではない。お寺では坊さんがこちらの意思とは関係なく「チーン」と鳴らすし、オルゴールは一度巻いたら終わるまで止まらない。CDプレイヤーは……当時私自身が機械音痴すぎて、止める方法を知らなかったのだ。

 自分で「制御」できるか否か、という話をしていると、私が支配的な性格に見えるかもしれないが、断じてそんなことはない。山や海で聞こえてくる音には特に抵抗はなかったし、そういう自然音はむしろ好きだった。「制御できない人工音」が嫌いだった、と言えば一応の筋は通ると思うが、それにしてもまだ私の音に対する感覚の説明は足りないだろう。

 とにかく、空中に吐き出された自分のピアノの音を目で追う。それは止めようと思えば簡単に止められる一つ一つの「音」の羅列であり、深い意味はないように思う。連続させ続けることによってのみ、何らかの意味を帯びるのがメロディーであり一つの「音楽」である。

 五線譜の川を泳ぐオタマジャクシが飛び跳ね、紙を超えていく。やがてピアノという物体からも飛び出して、私が作り出していく「意味」という流れに乗って空中を横切る。オタマジャクシはもう二度と戻ってこない。蛙になることもない。黒い頭部が内部から爆発して飛び散る。そうして「制御」から解放されていくのだろう。だが解放された時に、そこにオタマジャクシはいない。

 

 Poetiques et Religiouses No.3: "Benediction de Dieu dans la Solitude". S.173

 

 白い鍵盤に残された血の跡を知る者もいない。

 (了)