twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

偽日記:日居月諸

 顔を見交わした覚えのない女との約束を反故にした。あくまで夢の中の話である。
 地下鉄で電車を待ちつつ、あちこちを見回している男の背中が見える。これに乗らなければ所用に間に合わないという風でもなく、これに乗らなければ追手から逃れられないといった方が近いのではないかと思われるほど、前方ではなく背後ばかりを気にしている。
 ――あの女と会ってはならない。待っています、だか、来てください、だか、言葉はわからないがともかく乞い求めてくる声が縛るように反響し続けて、誘われてはならないという観念を立ち上がらせてくる。
 もうじき指定された時間を越える。時間を越えたところで一切が過ぎるというわけではないだろうが、相手から提示された段取り通りに事を済ませないというのは重要に思えた。ふたたび顔を合わせる地点から崩していけば、そもそもの始まりからの経緯そのものが怪しくなってくれるのではないかという淡い期待もそこには込められていた。
 左手には人の絶えた暗いホームの眺めが伸びており、片方には鉄柵が立ちはだかっている。追われているのに袋小路に陥ってどうすると揶揄されるかもしれないが、背を見せるだけが逃亡の手段ではない。こうして隅の方にやってきたのはあなたを迎え入れるためなのだ、とばかりに見つかってしまった時の非常口を作っておくのも策の一つなのだ。相手の目に走り去るためのポーズが留ってしまった時、趨勢は決してしまう。だからこそ暗い眺めの向こうからやってくる姿を早い内に見つけて、相手がこちらの態度に気付かない間に次の一手を考えておく必要があるのだ。限界に際してもなお自由を確保しようとする意志こそ、向こうの術中から逃れるための原動力となる。
 電車はまだやってこない。車両に乗り込めさえすればいいのだ。現状、この身はあの女の手中にある。たとえ約束を反故にしたところで今度は反故にしたという観念が頭を占めてくるだろう。せめて少しだけの間でも、我が身を別の何かに委ねなければならない。電車やバスといったものは他人に気を遣う上に、道行きは交通会社の都合に合わせなければいけないから、不自由な移動手段と言える。だからこそ望むところでもあるのだ。一方の不自由はもう一方の不自由を多少なりとも呑みこんでくれる。
 左手をチラと見た。真っ先に視線を与える左目は電車の到来を待ちわびている。これは女からすれば待望の色を表す目つきと映るだろう。だから何度横目を遣っても良いのだ。女からは隠れるであろう右目で様子をうかがい、あるいは電車の到来を保証出来さえすればいいのだ。何度でも左手を見る。一方で電車を幻視しつつ、一方で女の姿を幻視しつつ。右目を加えることによって幻視は醒め、暗い眺めが遥かに続くようになる。
 それにしてもこうして電車と女を交互に見ていると、失望と安堵が混ざり合うあまりあたかも女の方こそ待ちわびていて、電車の方こそ来てほしくないと思いかねない。失望と安堵は溜息をもらさせるという点で共通した感情であるため混同を助長する。しかし、ギリギリまで横目を遣わなくてはならない。真正面から向かい合ってはいけない。かといって横顔を無防備に差し出してもいけない。暗い眺めの向こうからやってくるものに左目の視線を伸ばしつつ、隠れている右目で視線の始点をしっかりと支えていなくてはならない。片目を向こうから伸びてくる視線に接合するフリをしつつ、片目ではそれを切り離す準備をしていなくてはならない。全てはあの女との関係を断ち切るためなのだ。今日まで伸び続けてきた線を切り離し、今日を始点とすることで新たな一歩を踏み出すのだ。
 そういった具合に何度も目線を動かしていると、闇に慣れてしまったのだか、あたりが白んできた。ホームの向こうに広がる眺めも明るくなって、その中に一点だけ、ぼんやりとした視界の一部分がくっきりとした輪郭で切り抜かれているのが見えた。あれが電車なのだか女なのだか。真っ白になっていく眺めに眩まされて、確めない内に瞼を閉じてしまった。すると今度は、声が聞こえてくる。またあなたはそうやって逃げてしまうのですね――そこで目が覚めた。確かな聞き覚えがあったはずの女の声は耳慣れないものとなり、あれは一体なんだったのだか、という訝りとともに、泣きはらしたような後味を感じていた。

コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    シロクマ (木曜日, 10 7月 2014 23:38)

    「失望と安堵は溜息をもらさせるという点で共通した感情であるため混同を助長する。」
    なるほど、これは安堵のため息というらしい。この表現は納得できておもしろかった。泣きはらしたのか、泣きはらしたかったことが、つまり夢として表れていた。それで、「偽日記」とあるから妄想か。一人で酔いしれていたのか。やたらと「自分の」視線を気にしている。